放置されたから離縁したのに、年下元夫がわかりにくく溺愛してくるのですが 1
「新郎シュローカ・ロワ・ヴァイス。あなたは、アシュネ・スフェアを妻として愛し、敬い、慈しむことを誓いますか?」
「……はい」
不承不承という響きが、彼の声の中に含まれているのを感じながら、アシュネはまっすぐ顔を上げて、司祭の方に向き直った。
「新婦アシュネ・スフェア。あなたはシュローカ・ロワ・ヴァイスを夫として愛し、敬い、慈しむことを誓いますか?」
司祭の告げる誓いの言葉は極限まで簡素化され、そっけないほどに短い。
誓ってもいいのだろうか。そんな逡巡が脳裏をかすめたが、この人の許で生きていくと決めたのだ。
「──はい」
「今、神の前で、また、この証人たちの前で、ふたりが夫婦として結ばれたことを宣言します。あなた方の上に神の祝福がありますように」
形式的に結婚指輪が交換され、誓いのキスを求められる。
シュローカの手が新婦のヴェールを上げたら、それまでふさがれていた視界が一気に広がった。
目の前に立つのは、たった今、アシュネの夫になった男。
短く整えられた銀色の髪、明るい夜空のような濃紺の瞳。でも、結婚の喜びはその目にはなく、ただただ現実の不条理を嘆いているようだった。
そして、ふたりの視線が交わることはない。
シュローカの大きな手がアシュネの頬に触れ、上からかぶさるように顔が近づいてきた。それを感じると、ひとりでに胸は高鳴る。
初めて出会った日から、この人に惹かれていたから。
ところが、彼の唇はアシュネに触れる直前で止まり、互いの吐息を感じたと思った瞬間には遠ざかっていた。
頬に当てた手で口許を隠していたから、傍から見れば、キスをしたようには見えただろう。でも、はっきりとした拒絶の意思がうかがえる。
悲しいが、これは政略結婚。
彼に愛してほしいと願える身の上ではないが、憎まれたくはない。
(このまま名目だけの夫婦になるのかな……。でも、それでよかったのかもしれない。もし求められたら──)
そもそもアシュネは戦犯の娘だし、その上、呪われた存在だ。
この結婚を後押ししたアルカロス大公は、アシュネが秘めている『呪いの力』がシュローカには効かないと言っていたが、過去を振り返ると不安が尽きない。それでも。
彼に忌避され、疎まれているのは仕方がないとしても、こうして夫婦になったのだから前向きに明るく生きていきたい。
──暗く沈んだ顔は絶対に見せない。
この結婚式は、アシュネ自身の決意を固めるための大切な儀式なのだ。
式が終わり、晩餐会をやり過ごし、入浴をして身支度を整えたアシュネは、緊張の面持ちで新婚夫婦の寝室に入った。
広々と華やかに設えられた室内には、この国の一般的な家具が揃えられているものの、シュローカの出身である『マギアス族』の雰囲気がそこかしこに滲んでいた。
すこし変わった匂いのする香が焚かれていて、青いベッドカバーに施された異国情緒のある刺繍は、星図をかたどったような不思議な模様をしている。
ベッド脇のテーブルには大きな水晶球が輝いているが、これは水晶自体が発光しているのであり、火が入っているわけではなかった。
「何度見ても不思議……」
不安を忘れるように、アシュネはそっと水晶球に触れてみた。すると光がひときわ強くなり、室内がまるで真昼のように明るくなる。
そのまばゆい光を受けた途端、アシュネのまとう薄いシュミーズドレスが透けて見えて、華奢な裸身を浮かび上がらせた。
このシュミーズドレスは、大公妃からの贈り物だ。きっと、新婚夫妻の仲を盛り上げるためにと考えてくれたのだろう。
艶めかしいドレスの下に透ける己の身体を見下ろしたら、いやでもこれから行われる夫婦の契りを連想してしまう。恐怖でしかなかった。
(どうなるんだろう……。大公閣下は大丈夫とおっしゃっていたけれど、信じていいのかしら……。またあのときみたいになったら……)
恐怖心を煽るその光を遮ろうと、アシュネはあわてて水晶球に触れた。
すると嘘のようにふっと光が消え、室内は窓から射し込む月明かりだけの世界になった。
もう一度指で触れてみると、今度は目にやさしい淡い光で満たされる。
これは、マギアス族の魔法だ。魔力を持つ者だけが操ることのできる不思議な現象。この穏やかな明かりを見ていると、不安がすこし紛れる気がした。
そのとき扉がノックされ、アシュネは飛び上がった。
「は、はい……!」
いよいよそのときがやってきたのだ。
胸がバクバクと音を立てるのを聞きながら、明かりの落ちた水晶球を置いて扉を振り返ったら、隙間から夫が無表情な顔を覗かせた。
呪いが彼に牙を剥きはしないだろうか。それが一番の不安事だったが、ガウンを羽織ったシュローカの手が、自分に触れることを考えたら──。
心臓が張り裂けてしまいそうなほど、鼓動が加速していく。
だが、シュローカはそれ以上入ってこようとはせず、開口一番、感情のない乾燥しきった声で言い放った。
「結婚式はしたが、寝室を一緒にする必要はない。この部屋はあんたが好きに使え」
初めて会ったときに好きになってしまった人の精悍な顔が、淡々と無感情に告げる。
彼はアシュネを嫌っているのだ。
返事をする間もなく扉は閉ざされ、突き放されたアシュネは、新婚の床にひとりぽつんと取り残された。
「スフェア前大公のご息女、アシュネ公女はこちらにおわすか」
ある晴れた平和な朝。
山村の外れで暮らすアシュネの許に、ふたり連れの男が訪れたことがすべてのはじまりだった。
鶏が歩き回る裏庭で、洗濯物を干しているアシュネの姿を見つけた彼らは、白いマントを翻しながら堂々と歩み寄り、アシュネの前でぴたりと足を止めた。
彼らのマントには細やかな刺繍が施され、その下には喉元できちっと閉じられたきらびやかな詰襟の制服が見えた。
「俺はアルカロス公国近衛騎士団長シュローカ・ロワ・ヴァイス。彼は同じく近衛騎士アルソー・ラヴァスだ。このたびアルカロス大公の命により、アシュネ公女を迎えに上がった。公女はご在宅だろうか。お取り次ぎ願いたい」
そう声をかけてきた騎士を見て、アシュネはあんぐり口を開けた。
同年代の男性が身近にいないから、物珍しかったのもあるが、息を呑むほど精悍な男性だったのだ。
春のやさしい木漏れ日を受けた銀髪は、まるで光の粒みたいな輝きを放っており、アシュネをまっすぐ見据える涼やかな瞳は、晴れ渡った夜空に似た濃紺色だ。
腰には使い込まれているのがうかがい知れる剣を佩いていて、見た目の若さとは相反し、堂々とした物腰から威厳を感じた。
連れの青年は部下のようだが、シュローカという騎士より年かさに見えた。それでもまだ三十歳前後くらいだろうか。
そんなふたりの姿は、空の高いのどかな山村の風景にまるでそぐわなくて、周囲から浮いていた。
アシュネが返答をしようと口を開きかけたときだった。
シュローカと名乗った青年の瞳が鋭く細められ、アシュネの身体をいきなりその腕に抱き寄せた。
反射的に悲鳴を上げそうになったが、ふたりの足元に数本の矢が落ちているのを見て目を丸くした。その間にも、バラバラと何本もの矢が新たに地面に降り注ぐ。
アシュネの背後から射かけられた矢だったのだ。──おそらく、アシュネに向けて。
でもそれらは、地面に突き刺さったというわけではなく、空中を飛んでいたところを叩き落とされでもしたように見える。
シュローカは両手にアシュネを抱えているから、矢を叩き落とすのは不可能なのに。
もうひとりの騎士も、突然の襲撃に今やっと気づき、剣の柄に手をかけたところだ。
「アルソー!」
「逃がしません!」
シュローカの短い指示で、アルソーという騎士が剣を抜き、庭の奥へと走っていく。
見ると、庭の囲いを越えて中に侵入してきた黒装束の男が数人、弓を構えたり剣を抜いたりと、殺意を明確にしながらこちらに向かってきたのだ。
シュローカはアシュネの身体を解放すると、黒装束たちから隠すように立ちふさがった。
(あ……)
そのときに見た頼もしい後ろ姿に、うるさいくらいに張り裂けそうな鼓動の高鳴りを感じていた。こんなふうに誰かに庇われた経験なんて、これまでに一度たりともないから。
──この瞬間、この背中に恋をした。
アシュネがうろたえている間に、襲撃者たちに向かってアルソーが飛び込んでいく。
「何者だ!」
彼は誰何しつつ、手前にいた黒装束に斬りかかった。
そのアルソーに次々と矢が射かけられるが、不思議なことが起きた。黒装束たちの手元から勢いよく飛び出した矢がいきなり失速し、そのまま地面にぽとりと落ちたのだ。
いったい何が起きているのだろう。
我が目を疑って凝視したところ、シュローカも剣を抜いて応戦態勢に入った。
「公女を殺せ」
黒装束の男が、命じる声が聞こえてくる。
それを受けた数人が剣を抜いてこちらに走ってくるが、シュローカの揺るぎない背中に守られているせいか、不思議と恐ろしくない。
暴風が吹き抜けたと感じたのは、彼が剣を薙いだ瞬間だった。
(すごい……)
人間の身体がこんなにも激しく動くものだったなんて、知らなかった。
シュローカは反射神経の塊のようだった。全身に目でもついているのか、どの方向から攻撃されてもすべて的確に弾き飛ばし、受け止め、逆に追い込んでいく。
そして不思議なことに、射かけられる矢は標的に届く前に全部が地面に落ちた。
ふたりの騎士は、多勢に無勢だったにもかかわらず、アシュネがぽかんとしている間に問答無用で次々に敵を斬り伏せていく。
そして、一分もかからず彼らを全員その場に沈めてしまった。
うめき声すら上がらないのは、男たちが全滅したからだろう。
抜けるような青空の下、生い茂った下草に血だまりができていて、アシュネは屍が折り重なる様子から目を逸らした。
暴力の現場には何度も居合わせたことがあるが、何度経験しようと慣れるものではない。
「怪我は?」
アシュネは首を左右に振って無言で答えた。喉がカラカラに渇いていて、咄嗟に声が出なかったのだ。
刀身の血のりを拭き取って鞘に納めたシュローカと、急ぎ足でこちらに戻ってきたアルソーがアシュネの前に並ぶが、ふたりとも一滴の返り血すら浴びていない。
「あなたが──アシュネ公女?」
咳ばらいをして声を取り戻し、うなずく。
「……はい。アシュネはわたくしです。アルカロス大公閣下が、敵将の娘であるわたくしにどのようなご用事でしょうか」
襲撃者から助けてくれたとはいえ、この公国騎士が味方であるとは限らない。それどころか、彼らもアシュネの罪を問うためにここへやってきたのかもしれない。
でも、自分に後ろ暗いところは何もない。どんな運命が待ち受けていようと、凛と顔を上げて堂々と生きていこうと決めていた。
たとえ行き先が、処刑場だったとしても。
アシュネは息をついて緊張を外に吐き出すと、為政者の娘らしく、まっすぐシュローカの顔を見上げた。
彼と目が合ったそのときだった。
まるであり得ないものでも見たかのように、シュローカが目を見開く。
物静かな雰囲気の青年だと思ったが、その驚きようはただごとではない。一瞬の動揺が彼の足をぐらつかせた。
「ヴァイス団長?」
アルソーも不思議そうに上官を見たが、シュローカはすぐに表情を戻して唇を引き結んだ。まるで、表情を変えたことを悔やむような顔だった。
「──理由は、首都ラザスに到着したら大公閣下から直接聞いてほしい。俺たちは、あなたを首都へ連れてくるよう命じられただけだ」
「そうでしたか……」
「違いますよ、団長。丁重にお招きせよとのことでした」
アルソーが不安を取り除くように言ってくれたが、あまり安心はできなかった。
アシュネはかつて、公女と呼ばれていた身の上だ。
しかし六年前から、山奥の村はずれにあるこの小屋でひとり、ひっそりと慎ましやかな生活を送っている。
戦火を逃れるための避難といえば聞こえはいいが、アシュネを疎んだ父、スフェア大公によって追放されたというのが真実だ。
その父は、二年近く前に戦で負けを喫し、敵の騎士に討たれたと風の便りに聞いている。
父の死後、後釜として新たに大公に任じられたのが、アルカロス大公という新興貴族だ。
新大公は驚くことに平民出身らしいが、敵将を斃した褒章として大公の地位を得たと風聞で知った。それにしても過分な出世だと思うが……。
アルカロス大公がアシュネの身を欲するとするなら、考えられる理由は主にふたつ。
旧体制の勢力を糾合できる危険な存在として、アシュネを処刑する。もしくは、政略結婚を命じて、旧体制派ともども新大公の軍門に下らせるか。
あの黒装束たちは、アルカロス大公とは敵対する旧体勢派の差し金と断定していいだろう。だからこそ、シュローカたちがためらいなく屠ってしまったのだ。
新大公とアシュネの間に婚姻関係でもできたら、新旧の勢力を結びつけることになる。最悪、そうなる前にアシュネを消してしまおうと、旧体制派は考えたはずだ。
以上のことから、政略結婚を命じられる可能性が濃厚と思われた。それ以外の理由だった場合は、想像に必要な材料が足りなすぎる。
「詳しいことは大公閣下に。同道願う」
シュローカという騎士はどこかそっけなく、そっぽを向いて冷たく告げた。むろん、アシュネに拒否権はない。
さっき彼の背中に庇われたときの胸の高鳴りは、今は不安な鼓動に変わっていた。
◇◇◇
こうして六年ぶりに山村を出たアシュネは、かつての住まいであり、主が交代した公国首都ラザスに向かうことになった。
山村の住民は少なく、年配や老人ばかりだったが、アシュネがこの村にやってきてから、ろくに生活力のなかった彼女に様々なことを教えてくれ、ひとりで生きていけるほどに育ててくれた恩人たちだ。
丁重に礼を言って飼っていた鶏を託し、別れを告げた。
「荷物はこれだけですか?」
「はい」
アシュネが手にしているのは小さな麻袋で、詰め込んだのは三着の普段着と下着類程度だ。持ち物の少なさにアルソーが目を丸くしていた。
前大公の娘ということで、命を狙われる可能性が高かった。いつ、自分という存在が世界から消えてしまうかわからない。
そんな思いから、物を所有することに意味を見出せなくて、生活必需品くらいしか所持していなかったのだ。
唯一大事にしているのは、アシュネがこの山村に事実上の追放となった際、同行してくれた乳母の形見の指輪くらいだ。
乳母は夫を早くに亡くし、子供も早世しているので、最後まで母親のようにアシュネの面倒を見てくれたが、一年ほど前に身罷っている。
ラザスに到着したら、この形見の指輪を彼女の夫の墓に入れてやりたい。アシュネの望みはそのくらいだった。
新しい統治者となったアルカロス大公がどのような人物かは知らないが、恩人の墓に参るくらいのことは許してくれるといいのだが……。
「お持ちします」
「ありがとうございます」
麻袋は軽くて、アルソーがわずかに眉をひそめたのが見えた。きっと風変わりな女だと思われていることだろう。
シュローカは黙ってこの様子を見ていたが、アシュネが彼を見ると、ふいっと目を逸らした。なぜか避けられている気がするのだが……。
(敵の娘だから?)
理由はわからないまでも、新大公の側近がアシュネに悪感情を抱くことは、別に不思議ではない。
それに、態度はともかく、アルソーともどもアシュネを戦犯の娘としてではなく、元公女として丁重に扱ってくれているのは感じた。
「アルカロス大公閣下はどのような方ですか?」
アシュネの前後を守るように歩くふたりに聞いてみたら、返事をしてくれたのは、後ろを歩くアルソーだった。
「若くて、とても気さくな方ですよ。今は大公妃さまにめろめろで、それはそれは目も当てられません。一年以上経っても新婚気分が抜けないようで」
くすくす笑いながらアルソーが教えてくれたが、それを聞いて唖然とした。
(政略結婚が目的ではない──?)
まさか側室になれとでも命じられるのだろうか。
でも、そんなに大公妃と仲睦まじいなら、未来はともかく、現時点で側室というのも考えにくいような……。
それに、若い大公が結婚して一、二年程度では、後継問題が浮上するにも早すぎる。
政略結婚を命じられると思ったのは、アシュネの勝手な分析だ。やはり首都についてから処刑されるのだろうか。
考えてもみれば、アシュネには不吉な呼び名がある。アルカロス大公がそれを知っていたら、あえてアシュネを傍に置こうとは考えないはずだ。
ちらっと前を行くシュローカの背中に目をやったが、彼は今の会話には興味も示さず、ひたすら山道を先導していた。
夕方に下山したところ、麓の町ではシュローカ以外に護衛の騎士が数人待機していたが、彼らもアシュネにとても親切だった。
今夜は宿で一泊し、翌朝、首都に向けて出立したのだが、アシュネをラザスまで運ぶ小さな馬車はとても快適で、やはり罪人仕様ではない。
でも、この先に何が待ち受けているかわからなくて、不安で胸が押し潰されそうだ。
車内の壁にもたれて窓から外の景色を眺めていると、かつて絶望を噛み締めながらこの道を通ったときの、恐怖心と孤独感がよみがえってくる。
ふと、馬車の周囲を警戒していたシュローカと目が合った。ただ、このときは目を逸らされず、彼が確かめるようにじっとこちらを見つめてくる。
「あの」
硝子窓に阻まれているので、声は届かない。でも、アシュネの唇が動いたのを見たからか、シュローカは我に返ったようにプイッと顔を背けた。
「…………」
父も含め、過去に冷たくアシュネを見下ろした男たちの目を思い出す。誰もがアシュネを邪魔者として睥睨し、切り捨てるのだ。
シュローカもまた、同じなのだろうか。
過去の風景を振り切るようにうつむき、そっと唇を噛んだ。
◇◇◇
父、スフェア大公は、ファブル帝国皇帝の実弟だ。
その父は、兄皇帝が病に臥した際、十六歳の皇太子アルベルが次期皇帝として帝冠を戴くことについて異を唱えた。
それどころか我こそはと次期皇帝に名乗り出て、帝国に対して反旗を翻したのだ。
しかし、アルベルは正式に定められた皇太子。スフェア大公の主張には何ら正当性がない。父はそれをわかっていながらも、この機会を虎視眈々と待ち受けていたようだ。
スフェア公国の兵力は、ファブル帝国本国のそれに匹敵し、帝国に属する三つの公国の中で最大規模を有している。
こうして皇帝位を巡る内戦へと突入していった。
アシュネの平凡な日常が戦禍一色に塗り替えられたのは、このとき。今から八年前、十五歳の頃のことだ。
帝国貴族たちは皇太子の正当性を認める一方で、アルベルの年齢、指揮官としての能力や経験といった面と、スフェア大公の戦力や立ち回りの狡猾さを考慮した結果、口出しはしない方が賢明と判断して、ほとんどが静観に回った。
きっとそれも、父が計算した上でのことだったのだろう。
主戦場はここから北東に位置する帝国本土との国境付近だったこともあって、首都にいたアシュネには戦の詳細が知らされていなかった。
ただ、戦をはじめたのが父であるという事実を、人の口から聞かされたのみだ。
戦がはじまって数ヶ月、スフェア公国の首都ラザスに多くの難民が流れ込んできたのは、この目で見た。また、街には孤児も増えた。
家も食べるものも、薬もない。日に日に治安は悪化し、毎日のようにそこかしこで争い事や悲劇が繰り返される。
美しかった街並みは、次第に荒廃の一途をたどった。
この様子を目の当たりにしたアシュネは、何かできることはないだろうかと考え、神殿の司祭や修道女たちの活動に加わることにした。
難民たちに食事を与えたり、仕事を紹介したり、傷病人の手当ての手伝いをしたりと、父の尻拭いをするように街を奔走したのだ。
ときには難民と街の住民の諍いに巻き込まれ、危険な目に遭ったこともある。
しかし、父からは難民の保護活動に難色を示され、余計なことをするなと叱責を受けた。
そもそもアシュネは、父から嫌われている。
まず、女では跡継ぎになれない。また、アシュネを産んだことにより母親が亡くなっているためか、その死をアシュネの責任と感じている節があり、憎まれている。『役立たず』と罵られるのは日常だった。
後妻は何人もいたが、子を生しても死産であったり早世したりと、結局、成長したのはアシュネひとりだけ。それゆえか、父の風当たりは強い。
その父の目がますます厳しくなっていったのは、戦がはじまって以降、アシュネの周囲でたびたび事件が起きるようになってからだ。
アシュネに近づこうとした相手が突然苦しみ出したり、何かに吹き飛ばされたり、ひどいときには重傷を負って生死をさまようような事件がまま起きるようになった。
その噂が広まると、アシュネは『呪われた公女』と呼ばれ、巻き込まれるのを恐れた人々から距離を置かれ、城に居場所がなくなっていった……。
──そんな苦い思い出のあるかつての居城が、目の前に迫ってきている。
山村を出発して三日後の昼前、アシュネを乗せた馬車は、アルカロス公国首都ラザスに到着した。国名は変わったが、地名はそのまま使用されているらしい。
街の中心の大通りを城に向かって進んでいるが、アシュネは目の前に広がる街の様相に驚き、窓から身を乗り出してきょろきょろした。
記憶にあるラザスの街は、難民であふれ、住民たちは疲弊しきり、荒んだ空気に包まれて治安は悪化の一途をたどっていた。
現在も復興途中の建物が多くあったが、概ね清潔感があり、道行く人々も穏やかな顔をしている。
アシュネが難民の保護で奔走していたときの荒廃ぶりとは、比べ物にならないほど豊かに見えた。
商店にはたくさんの品物が並び、子供たちもきちんとした服を着て、歓声を上げながら駆け回っている。
アルカロス公国が樹立したのは今から一年とすこし前と聞いているが、大公がよく統治している様子が一目でわかった。
(スフェア公国だった頃より、断然……)
自分の記憶との落差に目を回しているうちに、馬車は跳ね橋の向こうの城門をくぐって、正面の巨大な玄関前に止まった。
アシュネの生まれ育ったメーベルク城だ。
子供時代にあまりいい思い出がないため、居城は常にアシュネの目に暗く沈んで見えていたものだが、こうしてあらためて見上げると、陽の光が燦々と射し込んでいてまぶしく、ひどく明るく希望に満ちた場所のように映った。