放置されたから離縁したのに、年下元夫がわかりにくく溺愛してくるのですが 2
「ではアシュネ公女、自分の役目はここまでになりますので、これにて失礼いたします」
馬車を降りると、アルソーがそう言って頭を下げてきた。
「こちらこそ、道中はよくしてくださってありがとうございました。感謝しています」
シュローカからはなぜか避けられていたが、アルソーは上官の不機嫌を補って余りあるほど親切に接してくれた。
アルソーが丁重に頭を下げ、護衛の騎士たちと一緒に立ち去るのを見届けると、残ったシュローカが大公の待つ応接室へアシュネを連れて行ったのだが、ふたりきりになった瞬間、空気に刺々しさを感じた。
郷愁と不安が入り混じった複雑な心持ちだ。
しかも、ドレスを持っていないので、服装は普段着のまま。すれ違うメイドたちの方が、よほど立派な服装をしている。
「ヴァイス団長。私の服装は、大公閣下に会うのにふさわしくありませんが……」
身なりをどうこうする暇も与えられないのでシュローカに問いかけたのだが、彼は肩越しにちらりと振り返って「構わない」とだけ言って歩き続ける。
もっとも、ドレスの持ち合わせはなく、これ以上に整えようがない。恥じ入りつつ、拒絶の壁みたいなシュローカの背中を見ながら進んだ。
目的地に到着すると、扉の前の近衛騎士がシュローカに深々と頭を下げ、室内の大公に来客を告げる。
「アシュネ公女をお連れした」
「どうぞ」
シュローカが慇懃な口調で告げると、扉の向こうの大公が中に入るよう促した。
「失礼する」
扉が開いた瞬間、すこし怖かった。
アシュネにとっての『大公』はもちろん、厳格で、笑顔ひとつ見せることのなかった父親の姿だ。声は大きく雷のように轟き、アシュネの行いを否定しては、険しい目で彼女を見下ろす。
──しかし。
「はじめまして、アシュネ公女」
アルカロス大公の第一声を聞いた途端、下向きの視線は自然と彼の顔に向けられた。
「は、はじめまして……」
席を立ち、大きな窓から入る陽光を背負ってにこやかな顔を見せたのは、まだ若々しい青年だった。
「長旅でお疲れのところ、ご足労いただき感謝します、公女」
アルソーから若いとは聞いていたが、ここまでとは。どう見たって三十歳を超えてはいない。下手すれば、アシュネとそういくつも変わらないはずだ。
ぱっと目についたのは、その顔立ちの美しさ。男性なのは間違いないが、線は優美で、恐ろしいほどに造形の整った顔かたちをしている。
銀色の髪は長く、後ろでゆるくひとつに縛っていて、微笑むやさしい目許は濃紺。
髪の色も瞳の色も、シュローカとそっくり同じだ。
(面差しも……すこし似ている?)
シュローカはこの三日間、常にムスッとして無愛想だったし、じっくり顔を見る機会はなかったものの、ぱっと見の印象に重なるものがあるから、血縁関係にあるのだろう。
「では、俺はこれで」
「ご苦労だったね、シュローカ。ゆっくり休んで」
退出したシュローカを見送った大公は、アシュネに手を差し出しながら言った。
「私はメルフィス・ロワ・アルカロスです。一昨年、皇帝陛下の命により、このアルカロス公国の大公に任じられております」
以前この城は、スフェア大公の居城だった。メルフィスはアシュネの父を退けた後釜に座っているので、こちらに気を使っているらしく、とても丁重な態度だ。
アシュネは意識して明るい声を出して、萎縮しそうになる気持ちに活を入れた。
「アルカロス大公閣下。私はもう公女ではありませんので、どうぞアシュネとお呼びください」
スフェア大公家はすでに地上から抹消されている。アシュネに残されたのは唯一この名前だけなので、そう名乗るしかなかった。
ところで、名乗った後も大公の手はずっと差し出されたままで、アシュネを待っている。
握手をするという慣習がスフェア公国にはなかったので、メルフィスの手を見て逡巡する。おずおずと手を伸ばすと、軽く握られ、笑顔のメルフィスにソファを勧められた。
「どうぞおかけください。突然お呼び立てして申し訳ありません、アシュネ嬢。自己紹介は済ませたかと存じますが、先ほどの騎士は私の従弟で、シュローカ・ロワ・ヴァイス。皇帝陛下より侯爵位を授かっています」
「従弟。どうりで似ていらっしゃると……」
メイドがお茶を淹れる間、アシュネは居心地悪くソファに浅く腰かけて唇を結んでいた。
この端整な顔でアシュネを断罪するのだろうかと思うと、ひどく気分が悪い。
「この紅茶の茶葉は、私の出身であるマギアス族の人間が栽培しているのです。お口に合うといいのですが」
アシュネは恐縮しながら芳香の立つ紅茶を口に運んだ。
「とてもおいしいです。ですが、マギアス族というのは……」
アシュネが問いかけると、メルフィスは優雅な手つきでカップを持ち上げ、長い睫毛を伏せてその香りを楽しみながら、視線だけを上げてアシュネを見た。
「公国の南に、巨大な森があるのはご存じかと思いますが」
「人が立ち入ることの許されない、神の森のことですか?」
古くからファブル帝国全域に言い伝えられる伝承で、南の広大な森は人間が立ち入ることが許されず、もし足を踏み入れたら最後、二度と生きては戻れないと言われている。
「そうです。私とシュローカは、その森に住む魔法師一族マギアスの人間でした」
「魔法師一族……」
森に人が住んでいたというのも驚きだったが、魔法師一族という耳慣れない言葉が強烈に印象に残った。
魔法という超常的な力がこの世界に存在していたことは、伝承やおとぎ話で聞いたことがある。でも、現実のものと認識したことはない。
「私たちマギアスは、はるか昔から連綿と続く魔法師の一族です。過去、ひどい迫害に遭った一族は森の中に逃げ込み、外の人間が入ってこられないよう、封印の結界を張って中に閉じこもりました。もう二百年も昔のことになりますが、それきり、外部との交渉は一切なくなったんです」
突然はじまった魔法師一族の話に、アシュネは意表を突かれて目を丸くした。
「ところが、このたびの戦禍に我々の森も巻き込まれ、一族は散り散りになりました。多くの者は亡くなりましたが、私とシュローカはほうほうの体で炎の上がる森から逃げ延び、手っ取り早く日々の糧を得るために、皇帝軍に身を寄せたのです」
「…………」
アシュネの父の起こした戦により、彼らは住処や一族の人間を喪った。その責は、スフェア大公亡き今、アシュネが背負うものなのかもしれない。
しかし、戦場となった帝国本土はスフェア公国の北西部にあり、神の森は公国の南部で、ほぼ真逆に位置している。アシュネが知らないうちにそんな方まで戦禍が広がっていたのだろうかと驚いた。
「ああ、そんなお顔をなさらないでください。アシュネ嬢に責任があるとは、私たちは考えていません。あれは誰にとっても等しく不幸な戦でした。アシュネ嬢も大変な苦労をなさったと聞き及んでいます」
「苦労だなんて……。ひとり安全な場所で、安穏な生活を送っていただけです」
父から嫌われて、ついには山奥に追放されたが、結局は平和な山村で静かな暮らしをしていたのだから。
物思いに耽りそうになって、アシュネはあわてて意識を目の前の大公に向けた。
「一族が森から出ても悪いことばかりではありませんでした。日陰の存在として隠れ潜みながら生きていた我々が、外に出る契機にもなったのですから。一族の生き残りは少ないですが、彼らは森で培った生活の知恵でそれぞれ穏やかな暮らしをしています。まるで邪悪な術のように言われていた魔法も、現在ではすこしずつ日の目を見るようになりました。まだまだ公国の民に浸透するまではいっていませんが」
メルフィスがカップを置き、指を鳴らした。すると、テーブルに活けてあった花瓶の花が一輪、宙に浮かんで、アシュネに向かってゆっくり飛んでくる。
驚いて腰を浮かしたら、その花がアシュネの黄金色の髪を飾った。
「え──」
耳にかけられた花に触れて、アシュネは茫然とメルフィスの顔を見つめる。驚きのあまり声も出なかった。
「その花は、ほんの友好の印に。とてもお似合いです」
微笑みながらメルフィスは長い脚を組み、アシュネに腰を下ろすよう合図した。
「これが、魔法なのですか……?」
「今のはお遊びみたいなものですが」
ふと、山村で襲撃されたときのことを思い出した。アシュネに向かって射かけられた矢が、世界の理を無視して次々に地面に落ちるという不思議な現象のことだ。
「あれは、魔法の力だったんですか?」
村での出来事をメルフィスに聞かせてみたら、あっさり認めた。
「ああ、それは防御魔法の一種ですね。目に見えない障壁を築いて、防御する魔法です。我々魔法師に、飛び道具はほぼ効果がありません」
「では、ヴァイス団長も魔法師?」
「そうですよ。あいつは私と同等の魔力を有する、かなり優秀な魔法師です。剣も達者なので形として近衛騎士団長を任せていますが、いずれは公国魔法師として任命したいと考えています。時期尚早ですがね」
「なぜですか?」
「魔法の存在自体が、世間にそれほど認知されていないからですよ。我々マギアスが長いこと森に引きこもっていたのは、魔法師への迫害があったからですが、そのことによってますます世間から存在が爪はじきにされてしまいました。現在ではおとぎ話とか伝説の類です。ともに戦った騎士たちの間では認知されてきていますが、まだまだ馴染みのないものです。今、アシュネ嬢が驚いたように」
確かに、今の今まで伝承に近いと考えていた。
「今後、我々魔法師という存在が後ろ指さされることなく世間に馴染めるよう、この力を平和利用しようと考えています。不思議な力なので、命を奪われるのではないかと恐れる人もいますが、マギアスの鉄の掟の中に『魔法を以て人命にかかわってはならぬ』というものがあり、人の殺生や蘇生といった、生命の根幹にかかわる使用は固く禁じられているのです。だからこそ、一族は戦禍を避けることができず散り散りになってしまったんです」
初めて聞く話ばかりで、言葉が出なかったのだが、わざわざ山村からアシュネを呼び出してまで聞かせる必要があるのだろうか。
「なぜそんな話を? という顔をなさっていますね。今お話しした魔法の平和利用というのは、今のところ私ひとりの理想です。現実を見れば、まだまだ魔法に懐疑的な人々は多く、公国でも魔法を受け入れられているわけではない。そこであなたの出番です」
メルフィスが身を乗り出し、笑みを浮かべる。
「私に、何かお役に立てることがありますか?」
「ええ。気を悪くされたら申し訳ありませんが、お父上のスフェア大公閣下は、それほど人望のある御仁ではなかったようですね。戦によって治安が底抜けに悪くなったこともあり、ラザスの住人に大公閣下をよく言う人はほとんどいない」
皮肉っぽく笑ったメルフィスは、まっすぐアシュネを見て表情をあらため、微笑んだ。
「でも、そのひとり娘であるアシュネ公女は、すこぶる評判がよかった。あなたが認めてくだされば、魔法にも一定の理解を得られるのではないかと思ったのですよ。そこで──」
前のめりになっていた身体をソファに戻し、メルフィスは言った。
「どうですか。魔法師の……我が従弟シュローカの妻になってみませんか?」
処刑ではなく、やはり政略結婚の提案だった。
大公が既婚者と聞いていたので、その線はないかもしれないと考えていたが、彼の側近と、というのは理解できた。
でも、その提案をされた瞬間、ぽっと胸の奥にあたたかみが灯ったことに気づき、アシュネは戸惑いつつ胸元に手を当てていた。
「ヴァイス団長、ですか?」
「ええ。私が独身でしたら、間違いなく求婚していたのですが、私は皇帝陛下の妹君フィアナさまと結婚しておりますので」
「フィアナさまと──」
現皇帝の妹、つまりアシュネの従妹だ。年齢はひとつしか変わらないはずだが、幼い頃に数回会ったことがあるくらいで、特別親しい間柄ではない。
しかし、それで納得した。
いくら戦の英雄だからとて、長年森の中で過ごしていた謎の一族の平民が、いきなり大公に叙されるなんて考えにくいと思っていたが、皇帝の妹を娶ったというのなら納得できる。
(フィアナさまをこの美貌で篭絡したのかしら。とんでもない野心家か、希代の女たらしのどちらかね)
温和そうな顔をしているメルフィスだが、見かけに騙されてはいけない。
とはいえ、ここに来るまでに見た街の風景は、彼の統治が行き届いている証拠とも言えるし、能力はある人物なのだろう。
でもメルフィスは、格下の男を宛がわれたアシュネが、この話を不満に思っていると考えたらしい。
「シュローカはこの国の英雄ですから、アシュネ嬢にとっても悪い話ではありません」
そう言って明るく笑うメルフィスだが、彼に対し、何かを秘めているような腹黒さを敏感に感じ取っていた。
「ですが、皇帝陛下がお許しにならないのでは? 陛下から見れば、私は反逆者の娘です。大公閣下の大事なお身内に、反逆者の娘を宛がうのを是とするとは……」
「その点は心配無用です。陛下はアシュネ嬢のことを大変心配なさっておいででした。それに、もう終わったことです。あなたにこんなことを言うのは酷ですが、戦をはじめた当人はもう存在しませんし、残った我々がいがみ合う理由はありません。そもそも父と子は別の人格です。不幸な過去を蒸し返すのは、誰にとっても益がないと思いませんか?」
大公のこの言葉を、額面どおり受け取っていいのだろうか。逡巡したが、返事をためらう理由は他にもあった。
「ですが、私に関するよくない噂があるのを、閣下やヴァイス団長はご存じでしょうか」
結婚話を断れないのはわかっているが、自分と結婚することの不利益をずらずら並べ立ててしまう。
予防線を張っておかなければ、後でどんな目に遭うかわからないのだ。
「よくない噂──『呪われた公女』というあれですか?」
明朗快闊にメルフィスは言って、けらけらと笑った。
「そんなもの信じてはいませんよ。シュローカも同様です。むしろ呪いを恐れているなんて言われたら、あいつはきっと激昂するでしょうね」
「ご存じだったのですね。でも、それだけではないんです。私には結婚歴があります。十七歳の当時、戦況が拡大していく中で、大兵力を持つ有力貴族を味方につけるために、父は私に政略結婚を命じました。三十歳近くも年上の、アドニス侯爵に……」
あの頃を思い返し、アシュネは金色の瞳を遠くに煙らせた。
*
「公女殿下をいただけるのでしたら、スフェア大公閣下にお味方しましょう」
そう提案してきたアドニス侯爵は、四十五歳で父よりも年上の厳つい男性だった。
アドニス侯爵も当初、他の貴族と同様に、戦には我関せずで中立を謳っていたが、アシュネの美しさに目をつけた。
そんな相手に嫁ぐなんて考えたくもなかったが、父にとってのアシュネは、自我を持つ人間ではない。邪魔な駒は、せいぜい有効活用したかったのだろう。
結局、反抗できるわけもなく、言われるがままにアドニス侯爵に嫁いだが、その新婚の閨で事件が起きた。
夫婦の契りを交わそうと、ベッドでアシュネの上に馬乗りになった侯爵が、突然何かに殴られたように床に吹っ飛ばされたのだ。
侯爵は全裸のまま、しばし床の上に仰向けになって目を回していた。
何が起こったのか、当のアドニス侯爵どころか、アシュネにもわからなかったが、もしかして……という心当たりはあった。
(呪いの力……?)
アドニス侯爵は豪胆な人物で、アシュネが不吉な二つ名を背負っていることは知っていたが、『呪い』とやらについては、メルフィスと同様に鼻で笑い飛ばしていた。
だからはじめは、この不可解な状況をアシュネのよからぬ企みだと思ったようだ。
「きさま──この小娘! いったい何をしおった!」
そう怒鳴った侯爵は裸のまま、部屋の壁に飾ってあった剣を手に取ると、ベッドの上で震えているアシュネに向けて刃を振りかざしてきた。
でもその剣は、顔を伏せたアシュネには届かなかった。
アドニス侯爵の悲鳴に驚いて顔を上げたら、彼自身が胸に傷を負い、真っ赤な血がベッドに散っていたのだ。
「衛兵っ! この小娘を斬れ!!」
負傷した侯爵の叫びに、忠実な衛兵たちは剣を携えて飛び込んできたのだが、彼らは困惑していた。
新婚の床で怯えている、十七歳の無力な花嫁を殺せと言われたのだから。
しかし主の命令を無視できず、アシュネの上に剣を下ろし──。
結果、彼らはアシュネに傷ひとつ負わせることはできなかった。
なぜなら、剣を振り下ろした衛兵が全員、自身の剣で己の身を貫き、事切れてしまったからだ。
この騒動で『呪われた公女』の名を確たるものとしてしまい、翌朝には父大公の許へ送り返された。
この顛末を受け、当てにしていた戦力を得られなかった父の怒りは尋常ではなかった。自ら剣を抜き、アシュネを成敗しようとしたほどだ。
しかし、呪われたと噂される娘に攻撃をすると、自分が手痛い目に遭うかもしれない。
そう考えた父は、大事な娘を戦禍から守ると取り繕って、彼女を山奥の村に追放してしまった……。
*
「──やはり、ご苦労なさってきたのですね」
身に起きたことを正直に話したら、メルフィスは同情的に両手を握り合わせていた。でも、アシュネは首を横に振る。
「私、そんな自分の境遇を嘆き悲しむことはありましたが、あらためて客観視してみると、それほど苦労のある人生ではなかったかもしれないと思っています。だって、怪我ひとつすることなく、最後は戦の混乱に巻き込まれることもなく、平和な山村で自由に暮らしていたのですから」
「アシュネ嬢は前向きなんですね、とても」
「でも、それが事実なんです。呪いの力だって、私自身を傷つけるものではありませんでしたから。それよりも私の懸念は、たった一夜限りとはいえ結婚歴がありますし、こんな醜聞まみれの私を娶ることになるヴァイス団長が不憫でならないことなんです」
すると、メルフィスは立ち上がって微笑んだ。
「いろいろご心配はあるかと思いますが、すべて承知の上で提案させていただいています。そしてあなたの話を聞いていたら、私の提案は間違っていないと確信が持てました。お願いします、アシュネ嬢。我が従弟、シュローカの結婚相手になってください。敵対する人々の懸け橋になれるのは、やはりあなたしかいない」
「……私に選択肢があるのですか?」
微笑しつつ、そう尋ねてみた。
「強制はしませんよ。彼はあなたより二歳年下で無愛想ですが、実力は確かです。魔法師としても、騎士としても。いい先物買いだと思いますが」
強制はしないと言いつつ、メルフィスの笑顔には絶対に断れない圧があった。