放置されたから離縁したのに、年下元夫がわかりにくく溺愛してくるのですが 3
話がまとまり、大公の馬車でさっそくシュローカの邸に向かった。
彼との結婚の話だったなら、さっきまでここにいたシュローカ本人を帰らせる必要はなかったのではないかと疑問に思っていたのだが、これがその理由だった。
「は? 俺が結婚だと? メルフィス、寝言も大概にしろ」
シュローカの邸を訪ねたら開口一番、当の本人が結婚を承知していなかったことが判明したのだ。
彼の濃紺の瞳がちらりとアシュネを見て、目が合うとげんなりした様子で視線を逸らす。
好意を持たれる理由がないのはわかっているが、シュローカのあからさまな拒絶に出会った瞬間、胸に刺すような痛みを覚えてアシュネはひそかに嘆息した。
「そうは言うが、アシュネ嬢は皇帝陛下と俺の妻のいとこだ。立場が立場だし、おまえが一番適任だと思わないか?」
だが、シュローカはどこまでも納得していない。
「どこが適任なんだ」
「そりゃあ……」
じっとシュローカの顔を見つめて意味深ににやにやしたメルフィスだが、キリッと表情を切り替えて、しかつめらしく説教モードに入った。
「おまえはいずれ、俺の側近としてアルカロス公国の重責を担っていくことになる。旧公国と新公国の間に平和の礎を築くには、そんなおまえとアシュネ嬢の婚姻が最適なんだよ。彼女の相手が旧大公家に仕えていた貴族では意味がないし、俺たちの統治下になって初めてこの土地に来た貴族に、おまえに比肩する英雄はいない。アシュネ嬢の身を守るためにも、シュローカでないと」
ケチのつけようもない正論に口ごもったシュローカに、メルフィスはダメ押しをする。
「シュローカ、納得しろ」
「できるか!」
バンッと両手をテーブルに叩きつけたシュローカは、アシュネがびっくりして固まったのを見て、あわてて手を引っ込めた。
でも、その表情は憮然としていて、とても納得しそうにない。
「なぜおまえが拒否するのか、俺にはわからないよ」
「なんで俺が承諾すると思ったのか、そっちの方がわからないな」
「するだろう、ふつう」
「……俺は結婚なんぞする気はない!」
ずっとこの調子なので、このあと何時間話し合おうと、結論が出るとは思えない。
しかしアシュネの立場では、何も言うことはできないのだ。
「なあシュローカ。ご本人を目の前にしてその言い草、失礼だとは思わないのか?」
「なら、なんで連れてくるんだ。おまえはいつもそうだ、相手の逃げ場を失わせてから事後承諾をゴリ押ししてくる」
言いながら彼はまたチラッとアシュネを見たが、その濃紺の目には殺気のような気配が含まれていた。心の底から迷惑がられている。
いたたまれなくなって、うつむいた。
でも、ここまでくると、なんだかシュローカがかわいそうになってきた。おまけに、これでは埒が明かない。
そう結論づけ、アシュネは意を決して口を挟むことにした。
「大公閣下、ここまで嫌がっていらっしゃるのですから、無理強いは」
アシュネとて、いい加減にこの堂々巡りの場から解放してもらいたいのだ。ここまで拒否する人と結婚して、うまくいくとは思えない。
「いえ、アシュネ嬢。彼のは嫌がっているわけではなく、照れ隠しです」
絶対そうは見えない。断言してもいいくらいだ。
「おい、メルフィス……」
まったく納得していない顔でシュローカはメルフィスをにらむが、大公は意に介した様子もない。
「シュローカは最終的には断りませんよ、ご心配なく。では私はこれで失礼します」
なるほど、これがゴリ押しというやつだ。シュローカの反対など、はなから聞く耳持たないという姿勢がよく表れていた。
「ちょっと待てよ」
立ち上がったメルフィスを引き留めようとシュローカが立ち上がったとき、ノックがあり、執事が顔を出した。
「お話し中失礼いたします、大公閣下。シュローカさま、お帰りなさいませ。お役目ご苦労さまでした。ただいまお荷物を受け取ってまいりましたので、ご指示どおりアシュネさまのお部屋に運んでおきました。これより荷解きをいたします」
怪訝な顔をしているシュローカをよそに、メルフィスは満面の笑みだ。
「そうかそうか、ありがとう。これで問題ないね」
そう言い残してメルフィスはひとりでスタスタと部屋を出て行ってしまったが、シュローカは目を点にしている。
「荷物ってなんだ。それに、部屋って──」
次にシュローカの冷ややかな視線を浴びたのは、執事と思われる若い男性だ。
「シュローカさまがご不在の間、大公閣下よりアシュネさまのお部屋を調えておくよう指示をいただきました。その、シュローカさまへの報告は、お荷物を運び込んでからと事前にうかがっておりましたので、今のご報告になったのですが……。大公閣下から、何もお聞きになっていらっしゃらないのでしょうか……」
どうやらシュローカがアシュネを迎えに行っている数日の間に、メルフィスが勝手に段取りを組んでいたらしい。
「何を運び入れたんだ」
「アシュネさまのお衣装類やアクセサリーなどでございます。すべて大公妃さまがお選びくださったものなので、気兼ねなく使うようにとの伝言を承っております」
嵌められた。
あからさまにそういう表情をしたシュローカは、アシュネがその様子を見つめていることに気づいて、不機嫌そうに背を向けて扉に向かって歩き出した。
「ラヴェル、部屋に案内してやれ」
不承不承、仕方なく。彼の背中にそう書いてあるのが見えたので、アシュネは申し訳なくなって頭を下げた。
シュローカには悪いと思うが、大公命令だし、ここを出てもアシュネには行くところがないのだから。
「シュローカさま。申し訳ありません」
「──あんたが謝る必要はない」
振り返った彼は、その言葉以上に何か言いたそうな顔をしていたが、目を逸らし、背中を向けて部屋を出て行った。
初めて出会った日はその背中に安堵を覚えたのに、今のそっけない後ろ姿は、アシュネに胸の痛みをもたらす。
それから結婚式までは爆速だった。
半月後には大公夫妻が計画した結婚式が厳かに執り行われ、アシュネは追放された大公令嬢という身分から、新大公の懐刀である騎士の花嫁へと転身を遂げたのだ。
まさに急転直下。
しかし、実際には何ひとつ終わっておらず、むしろアシュネの苦難の人生の新章が開幕しただけの話だった。
結婚式の後、初夜をすっぽかして寝室を立ち去ったシュローカだったが、実はその後、ほどなくしてメルフィスに首根っこをつかまれて連れ戻されてきた。
「夫としての義務を果たさずに新妻に恥をかかせる気なのか? 邸の主に蔑ろにされる妻は、使用人たちからも馬鹿にされ、粗末な扱いを受けることになるんだ。彼女をそんな目に遭わせるつもりか? 何を逃げ回ってるのか知らないが、いい加減、腹を括れ!」
そう一喝して脅しつけ、その上で、窓も扉も朝になるまで絶対に開けられない、超強力魔法を部屋に施した。
「いいな、朝になるまで絶対に開かないからな。務めを果たせ」
そう言って、メルフィスはアシュネにウインクして立ち去った。そんなことをされては、アシュネも困るのだが……。
「メルフィス! おいっ、この野郎……!」
開かない扉に向かって悲痛な叫びを上げるシュローカの背中は、アシュネを守ってくれたあの背中とはまるで別人のようだ。
言うなれば、途方に暮れた少年とでも言うべきか……。
「あの……大公閣下が魔法をかけていかれたのですか?」
「──ああ」
不貞腐れてシュローカは言い、扉に額を当てた。
「開けられないのですか?」
「──奴の魔力は格段に上で、俺が解こうとしても一晩はかかる……」
シュローカは能力の高い魔法師だと聞いているが、メルフィスはさらにその上を行く実力者なのだとか。
ゆえに、メルフィスが本気でかけた魔法を解くのは、かんたんなことではないらしい。
力なくうなだれるシュローカを見ていたら、なんだかかわいそうになってしまった。
「私はソファで大丈夫ですので、どうぞベッドを使ってください。シュローカさまがお嫌なことを強要するつもりはないので、心配しないでください。それに、大公閣下がおっしゃるような不利益は私にはないので、大丈夫です」
メルフィスの言う『邸の主に蔑ろにされた妻が受ける扱い』は、由緒ある古い貴族の家柄なら起こり得たかもしれない。
だが、ヴァイス家は新興の侯爵家であり、使用人たちは集められたばかりの新参者揃いで、そもそも貴族出身者が少ない。旧来の貴族とはまるで毛色が違う。
しかも、結婚式までの半月ほど、アシュネはシュローカの婚約者としてヴァイス侯爵邸に滞在していて、執事や侍女、使用人たちと良好な関係を築いていたのだ。
六年もあの不便な山村で暮らしてきただけあって、アシュネの家事能力は侍女やメイドに劣らない。むしろ彼らより器用で、知識も豊富だ。
洗濯や掃除もメイドたちと談笑しながらこなすし、台所に入れば、料理人たちに交じって料理やお菓子作りもした。
山にいた頃より多くの材料が手に入るので、今の方が楽しく料理ができる。
さらに菜園を作ったり、養鶏の知識まである貴族女性はそうそういないだろう。
はじめの頃はアシュネが家事を手伝うことに恐縮しきっていた使用人たちも、一緒に働くことを楽しみにしてくれている。
こうしてこの邸の中での居場所を確立していったのだ。
以上のことから、シュローカが初夜をすっぽかしたとしても、アシュネが家人から馬鹿にされたり粗末な扱いを受けることにはならない。
でも、大公は一般論でシュローカの拒絶を封じてくれたのだ。ありがたいと思うべきかもしれない。
脱出を諦めたシュローカは、極力アシュネを視界に入れないよう、なぜか壁際をそろそろと歩いてソファにたどり着くと、そのまま横になってしまった。
「シュローカさま、ベッドを……」
「俺はここでいい」
ベッドを譲ってくれたのだと思うが、シュローカは長身なので、ソファから足がはみ出てしまっている。
「シュローカさまにそのソファは小さすぎます。私ならちょうど収まりますし──」
「いいと言ってる!」
頑なにアシュネの方を見ようとせず、シュローカは声を荒らげた。
その声にアシュネが驚いて沈黙したら、バツが悪そうにちらりと肩越しにこちらを見る。
「いいからベッドはあんたが使え」
「はい。では、遠慮なく……」
不毛な押し問答を打ち切り、ベッドに入って水晶球の明かりを小さく落とした。横を向いてソファを見たが、彼はずっとこちらに背中を向けたままだ。
「シュローカさま、ごめんなさい──」
小さくささやいたから聞こえなかったのか、もう眠ってしまったのか、シュローカから返事はない。
そのまま眠れたかどうかもわからない、浅いまどろみを朝まで繰り返していた。
◆◆◆
背後で、何度もアシュネが寝返りを打つ気配がしていた。
結婚式で朝からバタバタしていたから疲れているだろうに、気が張って寝つけないのだ。
しかし、緊張しているのは自分も同じだ。アシュネの存在を背中に感じ取り、全身が強張っている。
一回目に自分の足で寝室を訪れたときは、頑としてアシュネから目を逸らしていたのに、メルフィスに連れ戻されたとき、薄物のシュミーズドレス姿のアシュネを思いっきり視界に入れてしまった。
おかげで、たちまち全身の血液が逆流するような錯覚に陥った。
華奢な身体にまとった薄いシュミーズドレスがあまりに艶めかしくて、おまけに水晶球の明かりが透かしている様子は刺激が強すぎた。
その光景は、シュローカの何かに対する許容量を軽く突破していて、頭が爆発してしまうかと思ったほどだ。
もし、あんなのにこの手で触れてしまったら──。
(無理。死ぬ)
今日の結婚式だって、花嫁のドレス姿が神々しいほどに美しく、まともに視界に入れることすらできなかった。
ヴェールを上げたときに現れた小さな顔。堂々と目を逸らすわけにいかず、目を泳がせながらその様子を見ていたが、長い睫毛は伏せられ、その下に隠れていた黄金色に輝く瞳が、物憂いに煙っているのを認識したら、心臓が痛くなった。
瑞々しく輝く唇がいやに生々しくて手に変な汗をかき、そこにくちづけるためにおずおずと顔を寄せると、頬にふんわりとあたたかな空気が触れた。
アシュネの体温を感じるほどの近距離だ。
緊張が最高潮を極めたとき、トドメのように、懐かしくやさしい香りが鼻孔をくすぐった。
「────っ!」
思い出した途端に下腹部が反応して勃ち上がり、下衣の布がピンと張った。
背後にいるアシュネに対し、なんとも気まずい状態だ。
(忘れろ、別のことを考えるんだ、おい、鎮まれ……っ!)
起きていることを知られたくないがために、狭いソファの上で身じろぎすることもできず、眠ったふりをして悶々と過ごさなければならなかった。
ふと、ベッドに入ったアシュネが、自分に向かって謝罪する声が小さく聞こえてくる。
(え……? なんで──)
アシュネが謝ることなど、何ひとつないのに。
でも、自分の態度がそう思わせているのだと思い至り、頭を抱えそうになった。
彼女を傷つけるつもりは毛頭ない。でも、あんなにやわらかで華奢な女性をどう扱うべきなのか……。
あの山小屋の庭で、敵の矢から守るためとはいえアシュネの身体を抱きしめた。
その感触はあまりに無防備で頼りなくて、もうちょっとシュローカが力を入れていたら、全身が粉々になっていたのではないかと思い、怖くなった。
本来、自分のような荒っぽい男が、彼女に触れるなどあってはならないことなのだから。
──彼女は覚えていないだろうが、シュローカとアシュネが初めて出会ったのは、迎えに行った山村ではない。
もっと昔、一族の森が襲撃された直後──今からおよそ八年前のことだ。
スフェア大公が帝国に戦を仕掛けたすこし後、突如として森へやってきた騎士たちが、無防備な一族の民に手をかけ、森に火を放った。
それを命じたのはスフェア大公。すなわちアシュネの父だ。
静寂に満ちた森は一瞬にして炎上し、悲鳴と叫喚、怒号の響く地獄に取って代わった。
その混乱の中、族長とその弟の手引きで、メルフィスとシュローカは燃え盛る森の中から命からがら逃げ出した。
族長はメルフィスの父、その弟はシュローカの父だった。
その後、ラザスの街に流れ着いたふたりだったが、街は難民であふれ、今では考えられないほど荒んだ光景が広がっていた。
街は薄汚れ、犯罪者と傷病人が隣り合って生きており、子供も大人も問わずに飢えに苦しんでいる。
毎日どこかで何かが盗まれ、人が殺され、罵声と悲鳴が飛び交っていた。
そんな中、難民たちを助けようと奔走していたのが、十五歳のアシュネだ。
怪我人の手当てをし、わずかな食料を配給し、諍いがあれば仲裁に回っていた。
出会った頃は、名前も聞いていないあの美しい少女が、スフェア大公の娘だとは知らなかった。シュローカもまだ子供だったので、彼女が仲裁に入ると、横柄な役人が大人しく引き下がる理由もよくわからなかった。
ある日、シュローカが役人から「食料を盗んだ」と犯人扱いされ、街の真ん中を流れる川に投げ落とされたとき、シュローカの命を救ってくれたのが彼女だ。
メルフィスと彼女がふたりで濁流から引き上げ、溺れて意識を失っていたシュローカにアシュネが口移しに空気を送り込んでくれたから、命がつながった。
うっすらと意識を取り戻したシュローカは、無意識のうちに彼女に魔法をかけていた。
この人が戦乱に巻き込まれないように。常に平和であるように。それだけを願う心からの魔法だった。
住処を追われ、親を喪い、泥棒扱いされて逃げ惑うしかなかったあの頃、シュローカの目には何もかもが薄汚れ、くすんで見えていた。
そんな中、あの少女だけは、まるで掃き溜めに舞い降りた天使のようにまばゆく、幼いシュローカの心をまっすぐ射貫いてしまったのだ。
活動の邪魔にならないように括っていた黄金色の髪はいい香りがしたし、同じ色の瞳が長い睫毛の下で微笑むのを見たら、心臓がバクバクした。
生まれて初めて、女性というものを意識した瞬間だ。たぶん、初恋とかいうやつである。
しかし、日々の騒乱に紛れるうちに彼女の名を知る機会もなく、再会も叶わなかった。 彼女を捜したい気持ちはあったものの、ラザスは怨敵スフェア大公の拠点で、のんびり腰を据えるべき場所ではない。
一族の仇を討つため、大公を暗殺するという手立てを考えないでもなかったが、これまで森の中だけで暮らしてきたふたりは世情に疎く、その方法はとても現実的ではない。
そこで、自分たちの身の安全を図るためにも、大公の敵である皇帝軍に身を投じるべきと結論づけ、早々にラザスを離れた。
以降、ふたりのマギアス族の少年は立派な騎士となり、悲願だったスフェア大公打倒を果たし、ついには一公国を預かるほどの身になった。
スフェア大公に娘がいたことを知ったのは、メルフィスが大公に叙されたときだ。
皇帝アルベルから、スフェア大公のひとり娘アシュネが山村に追放されていることを聞いた。実の娘なのに、父大公から疎まれていたというのだ。
アルベル皇帝からは、落ち着いてからでいいので、できれば従妹を探し出して保護してやってほしいと頼まれていた。
いくら怨敵であるスフェア大公の娘だろうと、彼女と父親の罪は関係のないこと。皇帝はむしろ、父の所業に翻弄されるしかなかった従妹の身を案じていたのだ。
ただ、そのアシュネという娘は呪われていて、これまで幾人もの男を血祭りに上げているという馬鹿馬鹿しい噂も聞かされた。
魔法師として超常的な力に親しんでいるシュローカにすれば、呪いだなんて鼻で笑い飛ばす類の話だ。まるで信じなかった。
アルカロス公国が樹立して一年半が経過した頃、メルフィスに命じられて、大公の娘であるアシュネ公女を迎えに行くことになった。
だが、シュローカは彼女の父を殺した張本人である。
「俺に迎えに行かせるのは、趣味が悪いとしか言いようがない」
メルフィスにそう言い、一度は断った。自分は気にしないが、向こうはそういうわけにはいかないだろう。
「大丈夫さ、彼女が住む山村はかなり僻地にあって、首都の状況がどこまで正確に伝わっているかはわからない。おまえが大公を斃したなんて細かいこと、きっと彼女は知らないよ。それに、旧公国に仕えていた貴族に迎えに行かせたら、公女を担ぎ上げて旧体制派が台頭することになりかねないだろ? 俺が一番信頼するシュローカに、確実に彼女をここまで連れてきてほしいんだ」
そう言われてシュローカも断ることができず、渋々迎えに行くことになった。
──そして、再会してしまった。
八年経っても、まだ鮮明に覚えていた。掃き溜めに舞い降りた天使──いや、女神の顔。
面影は当時のまま、ずっと大人びて、物静かな美しい女性になっていた。
そして瞬時に、彼女が『呪われた公女』と呼ばれていた理由を知り、戦慄したわけだ。
なにしろそれは、シュローカ自身が彼女にかけた魔法のせいだったから──。
あの山村で彼女の顔を見た途端、すべてを理解した。同時に、その無表情とは裏腹に、頭の中が大混乱に陥ってしまった。
初恋の少女と再会した喜びと恥じらいだけではない。
呪いの原因もそうだし、彼女の父親を仇と狙い、自分のこの手で討ったこと。様々な理由から、シュローカは彼女の前に立てる人間ではないのだ。
内心で動揺しながら首都に連れて戻ったら、今度は彼女との結婚を命じられ、シュローカは混乱のあまりに後日、メルフィスの胸倉をつかんで締め上げたものだ。
「おまえ、彼女があの子だと知っていたな!? 知っていて俺を迎えに行かせたんだろ。なんで黙ってた!」
「なんの話だ、あの子って誰のこと」
「とぼけるな。ラザスの川で溺れた俺を助けたあの子だ。おまえ絶対知ってたろ!」
「人聞きの悪い。まあ、おまえの命を救ってくれた恩人が、役人どもから『アシュネさま』と呼ばれていたのは、たまたま聞いたけどな」
「やっぱり知ってたじゃないか!」
「偶然、同じ名前だっただけかもしれないし、アシュネ公女が彼女だったなんて、知らなかったんだから」
と言いつつもにやにや笑っていたので、彼女がアシュネ公女だと知っていたはずだ。
「それにシュローカだって、命の恩人の名前を俺に聞かなかったし、確かめようともしなかったじゃないか」
確かに、命を救ってもらったあの日以降、シュローカは命の恩人について一切言及したことはない。
彼女に対して抱いた感情を、十三歳の自分は理解できていなかったし、口にすべきではない気がして、メルフィスにも言えなかった。
そして現在に至る。
お互いに仇同士という事実もそうだが、自分がアシュネに対して抱いている感情は、邪なものであると感じ、ひた隠しにしなければいけないと考えている。
結果、様々な後ろめたさから、未だにアシュネの顔をまともに見られないでいるのだ。
憎まれるのは構わない。ただ、この邪な感情が暴走してしまいそうで恐ろしい……。
魔法師に求められるのは、いつでもどんなときでも己を制御する冷静さだ。感情という脆いものに揺さぶられてはならない。
自分たち夫婦が、救いのない関係であることはわかっている。すべてわかった上で、アシュネを妻にと押し付けてきたメルフィスが恨めしい。
せめて、彼女にかけた『魔法』を解いてやりたいのだが、その方法がわからずに右往左往している昨今だ。
魔法の師たる父も伯父も亡くなっている。森にあったたくさんの魔法書も大部分が焼けてしまったため、手掛かりは何もない状態なのだ。
この魔法を解くことができたら、アシュネへの罪悪感を消すことができるだろうか。
逆を言えば、『呪い』としてアシュネを苦しめた魔法を消さない限り、彼女に顔向けできる日など永遠にこないかもしれない。
緊張しすぎて強張った身体から小さく息を吐き出し、目を閉じた。
ただ、眠れそうにはない。
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