中華後宮夜話 落ちこぼれ妃嬪は皇帝陛下のお気に入り 1
瑞華帝国十一代皇帝、劉天禮の時代。
後宮に輿入れすることを命じられた夏蓮は、はじめて宮城に足を踏み入れた。
册封礼の儀式の場であった。
大明殿の大きな扉が開き、宦官たちが頭を下げる。
朱色の大きな柱が並んでいる。広間の天井に描かれているのは五爪の龍である。
うつむいた夏蓮の耳元で、結い上げた髪を飾る歩揺簪がしゃらしゃらと音を立てた。
白い肌に、整った柳眉。猫を思わせる勝ち気そうで大きなふたえの目に、ぽてりと赤い唇。目尻に赤い紅を載せ、額に真紅の花鈿を描いた自分の面差しの美しさを、夏蓮はちゃんと自覚している。
──私は、見た目だけは、いいのよ。
でもそこしか誇るべきところが、ない。
──実際は一族の落ちこぼれで、ひとりで生きていく未来しか見えないから、田舎で、畑を耕して、それを商人たちに売りさばいて、生活の算段をつけてたくましく暮らしていたっていうのに。
引きこもって淡々と日々を過ごしていたことを「秘蔵の娘ゆえ」と、いいように誤解され、そのままずるずる誤解が新たな誤解を生みだして──最終的に後宮に「妃嬪として」輿入れすることになってしまった。
夏蓮は、零れそうになる嘆息を押し止め、きりっと背筋をのばし足を進める。
足もとの陶板敷きの床に長く敷かれた赤い絹の布の先に、高台の玉座が見える。
とはいえ、顔のあたりまで下がる垂れ幕が皇帝陛下の顔を隠し、夏蓮に見えているのは、彼が着ている禁色の黄色に金の龍の刺繍をほどこした見事な袍と、その足もとだけであった。
夏蓮の進む長布の左右に、貴族と高官の男たちが壁のようになって並んでいる。
夏蓮が一歩足を進めるごとに、男たちが、順に、ゆっくりと頭を下げていく。
男たちは妃嬪として輿入れした夏蓮に、礼を尽くしている。
が、册封礼のために集った貴族の男たちは、一方で、夏蓮が通り過ぎたすぐ後に、互いに目配せをして、ささやきを交わすのであった。
「あんなに肌を露わにした花嫁衣装を着た女性が、妃嬪になるとはなあ」
夏蓮の花嫁衣装は、豊かな胸を際だたせる、西域の胡族の踊り子風のものである。上衣は、胸元をのみ覆う薄布一枚で、胸の下から下腹部の肌は露わになっている。裙は腰穿きで、動きやすい薄物なので太ももや足の形が光の加減で透けて見える。
「そこは、閨房術をなりわいにした欧楊家の妃嬪ってことだろう」
別な誰かが返した。
「そうなるな。はじめて後宮に招き入れる妃嬪は別な家の者がいいと進言したが、陛下が、どうしても欧楊家の女性を妃嬪にしたいと言い張ったと聞いている」
女性の身体の美しさが堪能できるこの衣装は、夏蓮の家──欧楊家の女たちの正装である。
欧楊家は代々、閨房術を極めることで、王家や高位の貴族たちを支えてきた家なのであった。
欧楊家の女たちは、性交と情愛の交歓で、相手の命を長らえさせ、健康を保つ術を教え込まれている。この衣装も、つきつめていくと男心をそそるためのもの。
「陛下がどうしてもと言って、後宮に招き入れた妃嬪が、あれか」
あれ呼ばわりはあんまりではと思うが──聞こえるように言っているのだろうから、あえて無視した。
閨房術というものに対する偏見で、欧楊家の女性を「目下」に見る年配の男性は多いのだ。仕方ない。
今回、夏蓮を娶るにあたり「彼女を妃嬪にしてよいのか」と貴族たちが激論を交わしたと事前に知らされている。
夏蓮がつんとして胸を張って歩くと、裙の腰に巻いた飾り石つきの細い帯が、しゃらしゃらと音をさせる。
「仕方ない。陛下は、か弱く、よく寝込まれるお方だ。欧楊家の妃嬪の夜伽で健やかになっていただいて、その後に別な、まっとうな妃嬪を娶ればいいのだ」
「そういうことだな。しかし、相手が彼女なのは少し羨ましい。今宵の龍床で陛下はさぞや……」
夏蓮は、男たちの下卑た感想も、自分に注がれる色のこもった視線も黙殺し、ゆっくりと進む。
──悪いけど、私は、皆さんのご期待に添えるような色っぽい技は、持ってないのよね。
この美貌も、衣装も、こけおどし。
貴族たちは夏蓮の見た目にだまされている。
──でも、天禮陛下はどうなのかしら?
さすがに国を統べる皇帝は、夏蓮の中身を見抜いてしまうのではないだろうか。
夏蓮が実は閨房術に長けていないことや、見た目だけで中身は「お子様」なことに気づかれたらどうなってしまうのだろう。
「かつて、皇帝陛下は、覚えがめでたい武将に、武将が望んだ妃嬪を賜ったという話が伝えられている。だったら、我らも覚えめでたい働きをした暁には、あれを下げ渡されることも……」
耳に飛び込んできた男の会話が、夏蓮の胸にぐさりと刺さる。
──こんなに色気のない妃嬪は不要だって、貴族や官僚の部下たちに「下げ渡し」をされる未来があるかもしれないわね。
まだ嫁いでもいないのに、いきなり、胃が痛くなってきた。
いっそこのまま逃げ帰ってしまいたいという弱気にとらわれつつも、夏蓮は足を進め、玉座に辿りついた。
垂れた布が宦官たちの手で捲られ、夏蓮はうつむいて拱手の姿勢をとった。
「頭を上げよ」
艶のある、心地のよい美声であった。
おそるおそる顔を上げ、やっと龍顔を仰ぎ見た夏蓮ははっと息を呑んだ。
玉座にいるのは、天上から降り立った神仙もかくやという端整で気品のある美貌の主である。
天禮帝は、手折ることをためらわせる、美しい白百合に似ていた。豪華で、凛としていて、香りの高い花。男性の見た目を花にたとえるのは、おかしな話なのだけれど。
濡れたようにひかる切れ長の双眸が、ひたと夏蓮を見つめている。
「……あ」
言葉を失ったのは──天禮が想像以上に美しかったからである。
──陛下はすごく美しいって話は、聞いていたわよ。
でも、と夏蓮は思った。
ここまで美しいとは、思っていなかった。
夏蓮は、いままで数多の美男美女を見てきた。なんなら自分だって相当に美形だと思っている。
が、天禮は、そんな夏蓮を、絶句して固まらせるくらい、麗しかったのだ。
「……うん?」
天禮が、わずかに首を傾げ、そうつぶやいた。
瞬間、夏蓮は、自分が不躾なことをしでかしたのに気づいた。
無言になって棒立ちになっている。ここは後宮に妃嬪として出仕したことについて挨拶を述べるべき場面である。
夏蓮は、慌てて、出仕の挨拶を述べる。
「欧楊家の娘、夏蓮にございます。この佳き日より陛下の後宮に迎えられ、陛下のご加護とご安寧を願い、末永くお仕え申し上げます」
天禮は無礼なふるまいをした夏蓮を咎めなかった。
そのかわりに、天禮は、ふわりと──はにかむように──微笑んだ。
夏蓮のことをずっと待ち望んでいたとでもいうように。
「我が側で安らぎと恩寵を受けることを許そう。末永く、側に、いておくれ」
言葉そのものは尊大で──でも語る様子はどことなくいじらしかった。特に「末永く、側に、いておくれ」と言ったときの、吐息混じりのささやきが、夏蓮の胸を直撃した。
頼られていると、思ったのだ。
末永く側にいなくては、と思ったのだ。
夏蓮は、天意に導かれ、天禮を支えるという使命を与えられたのだと思ってしまった。
天禮の顔があまりに美しすぎたので──というと、馬鹿げた話だと思うかもしれないが──雷に打たれたがごとく、全身に震えが走り抜けた。
人は、それを「ひと目惚れ」というのかもしれない。
──この美しい皇帝を、私の力で、支え、尽くしたい。
「嬉しく光栄なつとめをいただき、陛下のおそばにつかえる許しを得て光栄に存じます」
畏まって言い募った夏蓮に、天禮が柔らかく微笑み、うなずいた。
天禮帝は幼い頃からずっと病弱であったと聞いている。
天禮の父君である先代帝の健帝は、身体も心も頑健で、後宮に五十人を超える妃嬪を入内させ、妃嬪たちを充分に慈しんだ後、天にのぼっていった。健帝は、その生涯で、六十人の皇子と三十人の皇女を得たのだから、たいしたものである。
さらにいうと、その六十人もいた皇子たちのうちで生き延びて成人を迎えたのがたった五人だけというのも、たいしたことであった。
皇子たちは、妃嬪や貴族たちの内輪揉めと出世争いの道具となり、幼いうちに命を断たれた者も多かったようだ。
瑞華帝国も建国して百五十年──繁栄を極め文化も成熟した国に忍び寄るのは、腐乱と衰退である。
人びとは平和と贅沢に慣れ、貴族や官僚たちも国の行く末や民の生活に気を配るより、己の財を増やすことと権力を掴み取ることにのみ執心している。
そんな修羅の後宮で二十五歳まで育つことができて──しかも帝位を受け継ぐことができた天禮は、たぐいまれな叡智と幸運の持ち主だ。
たとえずっと病がちで、床に伏している時間のほうが、執務室の椅子に座っている時間より長いのだとしても。
虚弱ゆえに近いうちに倒れて儚くなるだろうと予測され、次の帝位は、天禮の母違いの弟である半年だけ年下の皓月が継ぐことになるのだろうと噂されているにしても。
現状、玉座に座っているのは天禮で──そして彼がつつがなく過ごし長命であることを望まれ「閨房術をもって尽くせ」と後宮に呼ばれたのが、今年、二十歳となった夏蓮であった。
というわけで──。
册封礼の儀式とその後の宴を経て、夏蓮は天禮の龍床の伽を命じられたのであった。
秋が深まる、夜である。
皇帝の私的空間である乾清宮の部屋に足を踏み入れると、天禮は夜着を羽織って、寝台の上に片肘をついて横向きに寝そべっていた。
鳳凰の飾りのついた香炉から淡い色の煙がふわりとたなびいて天井にのぼっていく。
くらくらするくらい、甘い香りが部屋に満ちている。
「夏蓮にございます」
拱手の姿勢で畏まった夏蓮に、天禮が「頭を上げよ」と声をかける。
夏蓮は儀式のために結い上げた髪をすべて解き、櫛や簪を外し、長い髪を後ろに流している。ただし衣装は册封礼のときと同じだ。
「はい」
顔を上げ、横たわる天禮を見つめる。
──まばゆいくらい、顔がいい。
册封礼の儀式用の長袍姿もきらきらしていて素敵だったが、紺地に金色の龍の刺繍模様の夜着姿もまた美麗である。帯をしておらず軽く羽織っただけなので、身動きをすると前のあわせがずれて、天禮の胸がちらりと覗くのが、なまめかしくて目に毒だ。
天禮は、どうやら下着をつけず、素肌に夜着一枚のようだった。
──部屋も寒いし、火の気がないわ。薄物を一枚羽織っただけって、なんてことなの。見ているぶんには眼福だけど、絶対にお身体が冷えてしまわれる。か弱い方だと聞いているのに、こんなに薄着なんて絶対にだめ。
夏蓮は眉をひそめ「畏れながら申し上げます」と、ひと言、述べる。
「陛下……下着をおつけになっていらっしゃらないようですが、それはよろしくありません。身体が冷えます。いますぐに宦官たちに申しつけて火の用意をさせましょう」
「火の用意を……?」
天禮が怪訝そうに聞き返してきたのに、強くうなずく。
「はい」
夏蓮はくるりと振り返り、いま入ってきた扉を開けて、廊下に控えていた宦官を呼び寄せた。
「そこの、あなた。この部屋は寒すぎます。炭火を入れた火盆を持ってきてくれないかしら。かんかんに炭を焚いてね。陛下があまりにも薄着でいらっしゃるのですもの、お風邪を召されては大変よ」
宦官はきょとんとした顔で聞いていたが、夏蓮の言葉にすぐに「はい。いますぐに」と拱手し急ぎ足で去っていった。
これで安心だと思って振り向くと──天禮はどこかおもしろがってでもいるような顔で、夏蓮を見ていた。
「それは閨房術の教えから導かれた忠告か?」
天禮に聞かれ、夏蓮は胸を張って「はい」と応じた。
厳密には、違う。寒い部屋に薄着だと風邪をひくかもしれないというのは、閨房と一切、関係はない。ただの、まっとうな、健康管理の常識である。
とはいえ閨房術は健康維持の秘策でもあるので、養生についての基礎の部分は病気治療と一緒なのだ。
「なるほど。なんというか──亡くなってしまった祖母が私に言っていたことと同じだな。部屋をあたため薄着になるなとよく叱られた」
年寄りの忠告と同じ程度のことしか言わないのかと、さりげない嫌みを言われたのかと内心で焦るが、顔には出さない。
「陛下の祖母君というと太皇太后さまでいらっしゃいますね。思慮深く素晴らしい女性でいらしたとうかがっております。陛下に、太皇太后さまと同じ願いを申し述べることができるのは、喜びでございます」
夏蓮がしれっとして応じると、天禮は難しい顔になり、
「想像していた閨房術と違うのだが……まあ、いい。私の身体を心配してくれているということは、伝わった」
と、つぶやいた。
夏蓮は「さようでございます」と重々しくうなずいた。
ちなみに天禮の母は、天禮を残し、早世している。
そもそもが天禮の母は病弱で、天禮を手元で育てることができなかったらしい。天禮は、太皇太后の殿舎に引き取られ、太皇太后の手で大事に育てられたのだとか。
「では、あなたの閨房術の技を、私に披露してもらおうか」
天禮が低く、言う。
「もちろんでございます。ですが部屋があたたまるまでしばしお待ちください」
夏蓮は微笑んで、即答した。
──閨房術と聞いて人びとが期待するのは、魅惑的で濃厚な性技術だっていうのはわかってるわ。
でも、性技術だけが閨房術ではないのである。
そもそもが、閨房術は、病気を治療することに重きを置くのではなく、病気になる前段階である「未病」を治すことに尽力する学問なのだ。
必要なのは養生だ。
自然と調和し、食物に気をつけて身体を整えること。
気功という「気」を意識し、身体でとらえ、一定の動作を極めて気と血の巡りを安定させて身体を整えること。
理にかなった性生活で、気の巡りを安定させて、精を無駄に浪費せず、心身を安定させて整えること。
この三本柱があってこその閨房術なのに──人びとがおもしろおかしく流布するのは、この三点目の「性生活にまつわる部分」のみだった。
おかげでみんなが閨房術と、その術を学んで受け継いできた欧楊家を誤解している。
なまじ欧楊家の一族郎党が、ほぼほぼ全員、美男美女であるのも災いした。妖艶な男女が揃っていて、露出度の高い衣装を着用して公の場に現れるので「これは、なんだかすごいかもしれない」という噂に拍車がかかり続けた。
あらゆる種類の美男美女が揃ってしまったのは、そもそもの先祖が美形であって、かつ、美形と添い遂げて子を成してきた結果である。おそらく夏蓮も含め、先祖代々、欧楊家は「面食い」かつ「惚れっぽい」質なのであった。夏蓮の両親も「ひと目惚れ」で相手を決めて、添い遂げたと聞いている。
さらに、欧楊家男女が儀式の度に着用する、露出度の高い衣装も、また、単に先祖たちの趣味である。先祖たちは、自分の容姿を誇って見せびらかしていた。
といっても、そのあたりは、いまとなっては仕方ない部分もあった。先祖たちは、自分たちの技術と学問が、己の容姿ときってもきれない関係であることを開き直ったのだ。
閨房術は学問なのだが、男女問わずで、その遣い手に対して、世間はなにかしらの意味と含みを期待した。
閨房術を究めた人間に、世間は「ひと目で納得するような見た目」を望んだのである。
美しい。あるいはその真逆。
どちらにしろ「普通ではない」容姿の持ち主。
世間は、欧楊家の者に「なんらかの異形である」ことを求めたのだ。
美も、つきつめるとひとつの異形である。
それに対応し、欧楊家は進化しつづけた。
また異形であることを示すために、露出度の高い、普通ではない衣装を身につけるようになった。
正直なところ昨今の若い欧楊家の者たちは、露出度の高い衣装で外に出ることに辟易しているし、そろそろ過剰に色香を振りまきがちな格好をやめたいと、内々で、年長者たちに食ってかかっているのが現状なのだが。
──でも、私の代では、まだ変わらない。まだまだ、儀式の度に、私は、こういう格好で外に出るのよ。
うんざりとするが、夏蓮ひとりでどうにかなる話ではないのであった。
しかし──。
「私はさておき、あなたのその衣装も身体が冷えると思うのだが……」
と、唐突かつ冷静に指摘され、夏蓮の顔がぴくりと引き攣る。
それを言われると、つらい。
「おっしゃる通りでございます」
好きでやっているわけではないので、よけいに、つらい。
夏蓮がしゅんとうなだれると、天禮が微笑み、
「ならば、こちらに来るといい。身体をあたためあおう。そのための夜である」
と夜着の前をさらにはだけて、手招きをした。
下着をつけない天禮の下腹の“龍”が──ちらりと見えた。
──うわ。
なにが「うわ」かは自分でもわからないが、夏蓮は内心だけで動揺した。どれだけ美しい相手であっても、男性なので──下腹部には“龍”がいる。
しかも思いがけず、天禮の“龍”は猛々しかったのだ。
夏蓮は、つい、あらぬ方向に顔を向け、話をそらす。
「そ……そうですね。そうですがっ。さきほども申し上げました通りに、陛下は御身を冷気にさらしてはなりません。前を……夜着の前を合わせてくださいませ」
言いながら早足で寝台に近づき、見ないようにして天禮の夜着のあわせを閉じた。
「……懐かしいな」
天禮が夏蓮の手をそっと握りしめ、つぶやいた。
手を取られ、夏蓮の胸がとくんと跳ねる。
絶妙な力加減であった。強くもないし、弱くもない。振りほどこうとしたらできるけれど、龍床の初夜で、手を握りしめられただけで振りほどいて逃げる花嫁は、不敬である。
──しかも私は閨房術を見込まれて、輿入れしたのよ。そんな初々しい仕草で逃げるなんて許されないわ。
「なにが……でございますか」
夏蓮が小声で聞くと、手を握ったまま、天禮が応じる。
「帯を締めるのが面倒で、はだけて寝ていると、おばあさまが、怒って、走ってきて上着の前を閉じてくれた。いまのあなたと同じだよ。おばあさまはまっすぐに私の目を見てくれていたけれど、夏蓮、あなたは私の顔を見つめてくれないの?」
からかう口調で言われ、
「み……見ますともっ」
と夏蓮は即答した。
武人が剣を交えるときのように、真っ向から天禮のまなざしを受け止めると、天禮が怪訝そうに眉を顰めた。
夏蓮の対応は天禮が望んでいた反応と違ったようである。
「だとしたら欧楊家の閨房術というのは……なんというか……おばあさまの知恵とか愛情に似ている……のかな?」
なんとなくいぶかしむような口調であった。
──おばあさまの知恵と愛情って、誉め言葉ではないよね? 絶対に、想定していた閨房術と違ってるって残念がってるわよね?
夏蓮の胸が、ずんっと重たく沈む。
これは──まずい。
天禮は、夏蓮を寝台に引き入れるでもなく──夏蓮もまた寝台に乗るというのでもなくその側に立って──ただ、手を握っている。
そして夏蓮はというと、天禮に近い距離で見つめられ、手を握られただけで慌てふためき、頬を染めて、がちがちに身体を固くして、力みまくっている。
天禮の「期待していた初夜のはじまりとなにかが違う」という心の声が聞こえてくるような気がした。
もしかしたら、これから初夜を迎えるのに「前を閉じて」とか「身体を冷やすな」とかがみがみと言われ、萎えたという抗議だろうか。
これではいけない、と夏蓮は思った。
閨房術の欧楊家の名にかけて、色っぽく誘って、甘美な夜を過ごしてもらわなくてはならない。同時に、とても健康的な性交でなくてはならないのだ。気功を用いて、気のやりとりもして、風邪をひかせることなく、今宵を過ごしてもらわなくては。
と思ったところで、はたと気づく。
そもそもが夏蓮は、まだ今宵の手順を決めていない。
──私、夜の主導権を握るつもりだったのよ。
だというのに天禮に手を握られて、ときめいてしまっている。