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中華後宮夜話 落ちこぼれ妃嬪は皇帝陛下のお気に入り 2

第二話

 

 おそらく夏蓮はひどく険しい顔をしてしまったのだろう。
「すまない。──おばあさまの話など、初夜の話題としては興の乗るものではなかったね。そんなに難しい顔をしないでおくれ。私は、気の利かない男だ。こんなときにあなたをその気にさせる甘い言葉のひとつも言えないなんて」
 天禮が、そうささやいて、夏蓮の手を持ち上げ、手の甲にくちづけた。
「……っ」
 夏蓮は息を呑む。
 天禮は、そのまま握っていた手をくるりと返し、夏蓮の手首の、脈うつ部分を舌でちろりとなぞってから、軽く吸った。
 甘い感覚が腕を這い上り、夏蓮は小さく声をあげた。
「ひゃっ」
 なまめかしさもない、ひっくり返った声だった。自分が出した声があまりにも場に適さないものすぎて、びっくりしてしまう。
 ──ひゃ、はないわよね。
 天禮も同様のことを感じたのだろう。
「……ひゃ?」
 低く、そう言った。いま聞いた声を吟味している言い方だった。
 夏蓮は狼狽えて、うつむいた。
 夏蓮と天禮が手を握って話しているあいだに、宦官たちが炭火を入れた大きな火盆を運び、部屋の中央に据え置いた。
「火盆をお持ちいたしました」
 宦官たちを代表し、一番手前の宦官が拱手した。大きな目と、右目の下にある黒子が印象的な、子兎みたいな愛らしい宦官だった。
 夏蓮は「ありがとう」と声をかけ、宦官たちを下がらせる。
 暖気が湯気となって火盆のまわりで揺らいでいる。
 夏蓮は「これを待っていたから、さっさと寝台にのぼらなかったんですよ。わざと、のんびりしているんです。決して気後れしているわけではありませんよ」という演技をし、さりげなく天禮の手をほどいて、腕組みをして火盆の炭火を点検しに部屋の中央に戻った。
「炭火は部屋をあたためてくれますが、通気の悪い部屋で炭火を使うのはよくないのです。具合が悪くなってしまいます。くらくらとして、眠ったまま、場合によっては死に至ることもございます」
 物々しく言うと「そうらしいね」と天禮が返事をする。
 向き合ってみると──炭の量が想定したよりずっと多かった。
「ですから炭の量を見極めました。……ちょっと多すぎますね。この部屋の大きさで、この量を焚くなら換気を頻繁にしなくてはなりません。少しお待ちください」
 夏蓮はまたもや扉を開けて「誰か。火盆の炭を減らしてください」と声をあげた。
 控えていた宦官が小走りで寄ってきたので、部屋に招き入れ、自ら火箸を手にして、まだ燃えていない炭をより分け、一緒に置いていった炭壺の蓋を取ってそこに入れる。
「炭の量が多いので、これを下げてください」
 と指示をすると、宦官が慌てて炭壺を手にして「申し訳ございません」と謝罪した。
 夏蓮がなにかを言うより先に、天禮が「許す」と低く言う。
「わざとではないこと、わかっているよ。次からは気をおつけ。炭火の量は、場合によって、私の健康を害することがあるからね」
 天禮の言葉に宦官が「はっ」と声をあげ、炭壺を掲げて、じりじりと後に下がって、廊下に出た。
「あ……扉はちゃんと閉めていってね。私が換気に気をつけるから」
 夏蓮が宦官に声をかけると、天禮が「ふ……」と小さく声をあげて笑った。
「陛下、なんでお笑いになるのですか?」
「私のおばあさまも、ときおり、侍女や宦官たちの仕事ぶりを点検していた。祖母を思いだして、少し、愉快な気持ちになってね」
 夏蓮は、なんて返せばいいのかを考えたが、なにも言えなくなって、
「……そうですか」
 と頭を下げるに留めた。
 素敵な記憶を思いだしてくれているのは励みになった。
 が、このまま初夜に進んでも──大丈夫だろうか?
 祖母の愛情や知恵は、この後の営みに邪魔にならないだろうか。
 ──おばあさまと私が重なると、陛下は萎えてしまわれるかもしれない。そこの部分は、私が、がんばるしかないわね。
 夏蓮は、脳内で、これからの計画をあらためて練りだす。
 さすが欧楊家。さすが閨房術。できたらそうしみじみと噛みしめてもらうような夜を過ごしてもらいたい。
 きっと、天禮は、すごく濃厚な夜を待ち望んでいたのだろうから。
 ──だったらどういう態度で、陛下に迫るのが最適なのかしら。
 閨房術というのは、気を巡らせる方法は教えてくれるのだが、その前の段階の「仲睦まじくなるための雰囲気作り」とか「自然に殿方の側に近づく」方法は教えてくれないのであった。
 そのあたりは本人の資質頼みなのである。
 ここにきて夏蓮の経験不足が足を引っ張る。
 ──恋愛のひとつやふたつこなしてから嫁ぐべきだったのかしら。でも恋愛って、しようと思ってできるものでもないし、好きになる相手はいままでいなかったから仕方ないじゃない。
 ぐるぐると言い訳をこねあげつつ、黙って火盆の炭火を見つめていると、
「夏蓮……いつまで私を焦らすつもりなんだ」
 と天禮が聞いてきた。
「焦らしているわけでは……」
「待つ時間が長引くことで、期待が高まる。それもまた閨房術の教えというものか?」
 いいように受け取ってくれたので、すかさず肯定し、寝台の天禮を振り返る。思わせぶりに腕組みをして、顎に手をあてて、
「そうですね。……はい。もうしばし、陛下のお姿と気の様子を、見定めさせてくださいませ」
 と流し目をした。
 夏蓮の言葉と目つきに、天禮は、神妙な顔になった。
「定められるのか……少し怖いな」
「怖いことなどなにひとつございません。陛下はご存じかと思いますが……」
 夏蓮は、離れたところから、天禮の姿を眺め、話しだす。
「古来からある易経の“日である陽と月である陰、そのふたつを組みあわせることで万物が生まれる”という陰陽道の教えが、閨房術の基本でございます。男である陽と女である陰が交わるのは、陰陽の規律にのっとっております。自然の理にかなう行いです。その行いに適した環境を整え、適した形で交わるのが、閨房術にございますので」
 物々しく言ってみたら、天禮が「ふむ」と感心した顔でうなずいた。
 夏蓮の視線を受け止めて、天禮もまた夏蓮を見返している。
「難しい話をしながら、それでいて、あなたは……私のことを上から下まで舐めるように見るのだね。目で犯されているような気がする」
 天禮が小声でつぶやき、あえてなのか、自分の夜着の前をはらりとはだけてみせた。
 ──せっかく前をあわせて、冷えから守って差し上げたのに!
 とはいえ、片腕を寝台につけ、斜めに身体をずらしてこちらを見上げる天禮の様子は、男ながらに、艶めかしい。
 天禮の龍がまたもやちらりと覗く。
 今度はさすがに目を逸らすことはできず、直視してしまう。ここで目を逸らしたら、夏蓮が、男性に慣れていないことがばれてしまいそうで。
「いえ……いや、あ……はい」
 一回、否定しかけて──ここは肯定したほうが「巧みの技」みたいでいいのかと思い直した夏蓮であった。
 ついでに言われた通りに、もっとじっくりと「舐めまわすように」天禮の全身を眺めてみた。
 途端、耳の側で「ぼっ」と音がした気がした。間違いなく、ものすごい勢いで血が頭にのぼっていく音だった。
 ──陛下の龍が、龍すぎる。
 なにを考えているんだと思ったが、それ以外の感想が出てこなかった。閨房術の教科書に記載されている絵図の男性像よりずっと猛々しいそれを目にして、羞恥する。
 だというのに天禮は、
「さすが、閨房術で有名な欧楊家の、秘蔵の娘だ。さて──美しさゆえに数多の有力者たちに婚姻を望まれながら、すべての結婚の申し出を断ってきた欧楊家の秘宝は、この後、私をどうしてくれるつもりなの?」
 と言い出した。
「つもり……なのって……それは」
 天禮は、きらきらと輝く目で、夏蓮を見つめている。
 相当に、期待されている。
 夏蓮が、数多の有力者たちに結婚を望まれたのは、真実だ。夏蓮の美貌は、目立つ。美男美女だらけの欧楊家のなかでも抜きんでている。
 そのせいで、あちこちの権力者や資産家から「欧楊家の夏蓮を、うちの虚弱な跡取りの嫁に」と望む声があった。
 ──だけど、私は、欧楊家の閨房術のすべてを学んでいないのよ。
 正直なところ、夏蓮は、欧楊家の奥義を究めることなく途中で脱落した口なのだ。
 夏蓮は、閨房術の三本柱の「二本目」である「気功」の修行を途中で挫折した。
 それができないと閨房術は成り立たない。その肝心の実技の修行で落第しているのである。
 生娘なのは当然として──欧楊家であっても、皇帝や貴族のもとに嫁ぐ可能性があるので乙女の純潔は嫁ぐ日までは保っておくことになっている──そこに至るまでの気功の実技を学ばないまま、夏蓮は二十歳を迎えてしまった。
 修行をまっとうしていない夏蓮を嫁に出し、万が一にでも、夫君が早世したら欧楊家の家名に傷がつく。
 それゆえに、夏蓮は「単に美貌の嫁が欲しい」という求婚以外は断るしかなかったのだ。
 欧楊家の閨房術を望まれた婚姻に、学んでいない娘を出すわけにはいかない。
 ──まさか縁談を断り続けた話が巡り巡って「欧楊家の秘蔵の娘」とか「欧楊家の秘宝」と噂されることになるなんて、私たちは思いもよらなかった。
 しかしここはもう──夏蓮は覚悟を決めるしかないのであった。
 後宮に召されてしまった以上、あらゆる手段を使って、天禮の寿命を引き延ばすしかない。閨房術もそうだが、それ以外の知恵に道具、持っている人脈を駆使して、天禮に生きながらえてもらうのだ。
 ──とりあえず、まずは今夜よ。初夜で、陛下を満足させて、かつ、あたたかい部屋で、あたたかい格好で、安眠をしてもらいたい。
 とにかく陛下の側にいって、陛下の衣装を脱がせ……いや、もうあれは羽織ってるだけですぐに脱げてしまうからそこはいい。
 部屋はあたたかくなってきている。
 次なる算段は、閨房術の呼吸の技で──不得手ながら、夏蓮は、教わった通りに気功術を意識し、自分のなかにある気を取り込むべく、深呼吸をする。
 ──気を練るところまでは、できてるの。ただ時間がかかるだけなのよ!
 天禮を見つめたまま、すーはーすーはーと唐突に深く息をしはじめた夏蓮に、天禮が、きょとんと首を傾げてみせた。
 ──ああ、陛下は私を不審な目で見ていらっしゃる。でも、集中しないと気を感じ取れないのよ、私は。修行も半ばだったから。
 ままよ、と思った。
 このあたりは、身体と身体のぶつかりあいでなんとかしよう。
 ──触ってしまえばどうにかなる。ならないと困る。なってもらいたい。私の衣装を適当なところで脱いで……陛下の龍を私の手と口でお慰めして……。そのやり方は、教本の座学で図解で見たから大丈夫。
 よし、と自分の胸のなかでひとりごち、夏蓮は、横たわる天禮に向かってまず拱手して「陛下のおそばに侍る光栄を享受いたします」と声をかけ、寝台の上に乗る。
 ひとしきり深呼吸をくり返しているため、傍から見ると相当、不審者であることはわかっている。しかしどうしようもないのであった。
 すーはーすーはーと息をしつつ、寝そべる天禮の前にちょこんと正座で座り、自分の膝に手を置いて、
「天禮さま──よ、よろしくお願いいたします」
 と一礼も添える。
 どんなことでも礼儀と挨拶は大事だと書物にあった。そして心を込めて尽くせというのが所作の基礎。実技的にはどうかは知らないが、少なくとも書物にはそう書いてあったので。
 声が上ずったのは、緊張していたから仕方ない。
 なにせ、夏蓮にとって、実技は、今宵が、はじめてなのだ。
 欧楊家の女として手練れっぽくいろいろと行うつもりだが、はたして自分にできるかどうか不安でならない。心臓がことことと鳴っている。でも、この動揺を天禮に気づかれてはならない。
 なにも知らない無力の女を嫁に出したと悟られたら、欧楊家が怒られてしまう。それは避けたい。
 天禮は綺麗な目を瞬かせてじっと夏蓮を見つめ──思わずというように、小さく笑った。
「胸が高鳴る」
 天禮がつぶやく。
「私もです」
 夏蓮の実体はどうであれ、ここは百戦錬磨の女であるように見せねばならない。
「あなたが私のはじめての妃嬪である。私は女性の扱いについてなにも知らないようなものだ。指南を頼む。覚えの悪い弟子かもしれないが、お手柔らかに」
 素直にそんなふうに言われ、つい「私もはじめてです」と言い出しそうになって、慌てて口をつぐんだ。
「私もはじ……いえ、なんでもないです。私などでつとまるかどうか不安でなりませんが、努力したいと願っております」
 ゆったりと微笑んでみせてささやくと、「頼む」と天禮がはにかむように笑った。
 爽やかな笑顔すぎて、目にまぶしい。
 ──はじめてだから、女性である私は痛いらしいけど、そこはきちんと耐えよう。
 互いにとっての新床なのだ。良いものにしたい。
「そんなに、かしこまることはない。私たちは今宵から夫婦になるのだよ。もっと気楽にしてくれていい」
 深呼吸をしつつもがちがちに固まっている夏蓮を気にかけてくれたのか、天禮が告げる。
 甘い声だった。
 ──先に「気を楽にして」を言われてしまった!?
 たぶんこれは夏蓮が言うべき言葉だった。主導権を握る側の発言だ。それを天禮に言われてしまった。
 手順を整えて寝台に乗ったのだが、はやくも計画が崩れた。
 しかし臨機応変にやっていかねば。
「も、もちろんでございます。陛下も、どうぞ気を楽になさって……くださ……」
 と、夏蓮が鷹揚にうなずいてみせたら、天禮の手が、夏蓮の膝にのびた。
 正座した夏蓮の太ももを指が撫でていく。裙の布越しに柔らかく、下から上に滑る指の動きに肌がぞくっと粟立った。
 天禮は、夏蓮の腕を掴み、ぐいっと引いた。
 あっと思うまもなく姿勢が斜めに崩れる。そのまま、天禮の身体に倒れ込むと、天禮が夏蓮を抱きしめる。
 自分が上になって天禮を押しつぶすようなことがあっては大変だ。
 夏蓮は必死になって手を寝台についた。
 が──。
 天禮は夏蓮の身体を抱き寄せて、お互いの身体の位置をくるりと変えた。夏蓮が押し倒す位置だったのが、瞬時に、天禮が夏蓮を押し倒す形になってしまった。
 天禮が夏蓮の額にくちづける。それから目尻にも唇を寄せる。頬。さらに耳。濡れた舌が耳殻をなぞる、夏蓮の身体がびくんと震えた。
 夏蓮がいままで感じたことのない火照りが肌をじわじわと熱していく。天禮の唇と舌が触れた箇所が、甘く、疼く。
 ──これって全部、私が、陛下にしなくちゃって思っていたことよ。
 はっと我に返った夏蓮は、慌てて抵抗する。
「陛下、だめです」
「なにが、だめ?」
「だって私、まだ陛下のことを悦ばせてませんもの」
 欧楊家の名にかけて、夏蓮は、天禮の身体に尽くす意欲が満々だったのだ。
 いまさらだが夏蓮は天禮の羽織った夜着の下に手を差し入れる。滑らかな肌は、手のひらに吸いついてくるかのよう。着衣の姿は細身で、男性としては華奢と見えたが、触ってみると胸も腹も引き締まって、固い筋肉で覆われている。
 夏蓮は動転しつつも、天禮の下腹部に手を忍ばせる。
 行き着いた先に感じるのは熱くて固い屹立であった。
「もうすでに私は悦んでいるよ」
 天禮が微笑んで告げる。
「……そうですね」
 見て、知っていた。
 触って、さらに実感した。
 夏蓮の頭のなかに、いままで読み込んできたさまざまな知識が渦巻いている。けれど、想像と現実はまったく違った。
 欧楊家の女らしく、夏蓮は、天禮を翻弄しようと目論んでいたのだ。
 それなのに、完全に真逆の状態に陥っている。
 天禮に、いいように手のひらの上で転がされている。