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完全版 シンデレラ・クルーズ 極上溺愛婚のその先へ 1

第一話

 

 船上のプロムナードデッキに佇み、悲嘆に暮れた表情を浮かべたリリア・カーライルの滑らかな頬を、暖かな潮風が撫でていた。目の前に映るのは、眩しいほどに輝く青い海とそこに解け合いそうな雲ひとつない空。
 しかし彼女の心は表情と同じく暗く沈んだままだった。
「もう行かないと……」
 顔も知らない婚約者の待つ、階上のロイヤルスイートルームは、すぐ近くのはずだった。
 早く行かなければならないのは解っていたが、リリアは足がすくんで動けない。
 鍔の広い薔薇のコサージュとリボンがついた帽子が風に飛ばされそうになっても、手で押さえる余裕すら今の彼女にはなかった。
 ──そのとき。客船に三つある高い煙突から黒い煙が激しく噴き上がる。
 贅の限りを尽くした豪華客船の出港を知らせる汽笛が鳴り響き、リリアのいる場所から反対側にあたる、右舷のプロムナードデッキで港に向かって手を振る乗客と、桟橋に立つ見送りに来た人たちの歓声が交じり耳に届く。
 絶望と共にリリアが長い睫毛を伏せたとき、船はゆっくりと大国ヴェルフェルトの首都からほど近いギニファの港を離れ始めた。
 冷たい手すりにしがみつきながら、熱く潤んだ碧色の瞳から溢れそうな涙を堪える。
 ──もう元には戻れない。逃げ出すことは出来ないのだ。
 こうするしかないのだと諦めて来たつもりだったが、不安が胸を突き上げ、逃げ出したい衝動に駆られていた。
 リリアはまだ十六歳を迎えたばかりだというのに、顔も知らない年の離れた義姉の婚約者と結婚することになるのだ。
 深く溜息を吐きながら、リリアは数日前のことを思い返していた。

 

 

 

 陽の当たらない薄暗い階下に、呼び鈴の音が響く。
 各部屋の紐を引けば、地下の廊下に呼び鈴が音を分けて鳴り響く仕組みなのだが、この音は継母グレイスからの呼び出しだ。
 厨房の洗い場にいるリリアは、音の鳴っている廊下を振り返るが、あと少しで積み上がっていた鍋と食器がすべて洗い終わる。
 少しだけ待って貰おうと思い作業を続け、リリアが最後の皿を洗い終わったときだった。
 ヒステリックな声を上げながら、激高した継母が姿を現した。
「リリアッ、呼んでいるのが聞こえないの? それとも私を困らせたくて、わざと聞こえないふりをしているのっ!?」
 継母を困らせるつもりなどなかった。ただいつ終わるか解らない継母の言いつけを聞く前に、あと少しで終わる皿洗いを終わらせたかっただけだ。しかし反論などすれば、継母はますます怒りを募らせてしまうだろう。
「ごめんなさい。次からは気をつけるわ」
 うつむきながら謝罪したとき、間を置かず義姉イザベルの部屋の呼び鈴が鳴る。
 この時間だと、朝の入浴の準備に違いない。
 どちらを手伝っていいのか解らず、オロオロと困惑するリリアに、目の前の継母が苛立った様子で言い放つ。
「あなたが愚図だから、私たちが迷惑するのだわ。解っているの? イザベルは結婚前の大事な身体なのよ、早くなさいっ!」
「ごめんなさい。お義姉様の用事を済ませて、すぐにお継母様のお部屋に行くわ」
 リリアは継母に軽く頭を下げると、慌てて義姉の部屋へと駆けていったのだった。
 侯爵だった父の生前、カーライル家は大国ヴェルフェルト王家に古くから仕える五家のひとつとして名を馳せていた。血統から王妃を輩出したことも数知れずあり、国王の信頼も厚く、広大な農地を治める領主でもあった。
 幼い頃に事故で実母を亡くし、再婚した父と継母そして義姉の四人で生活していた彼女だったが、穏やかな生活は長くは続かなかった。
 三年前に唯一リリアの味方をしてくれていた父が心臓発作で病死したからだ。
 父の没後、女手だけでは治めることの出来ないカーライル家の領地は一時没収され、収入は途絶えてしまった。それでも慎ましやかに生活すれば、以前と同じぐらいの生活は維持出来るはずだった。しかし四十歳を越えても年齢を感じさせないほど美しい継母のグレイスは、二年半は喪に服すのが通例にもかかわらず、半年も経たぬ間に喪服を脱ぎ、以前よりも華やかな生活を送り始めたのだ。
「今夜の晩餐会は公爵夫人が主催で、豪勢で華やかなものになるわ。新しいドレスを買ったから、それに相応しい宝石も用意しないといけないわね」
 朝から出入りの業者が、ドレスや帽子などをひっきりなしに屋敷へ届けていた。
 その対応に追われていたリリアは、屋敷のロングギャラリーにあった高名な絵画が消えているのに気づいて、継母に尋ねる。
「カーライルに代々伝わっている絵画まで売ってしまったの? あれはお父様やお祖父様たちが大事にしていたものなのに……」
「それがどうしたと言うの。あんな辛気臭い絵、私はずっと気に入らなかったのよ。なくなって清々したわ。それよりも、早く宝石商を呼んでちょうだい」
「そんな……」
 もはやカーライル家には、新しい宝石を買うようなお金など、ないはずだった。
 それでも贅沢な生活を止めない継母は、いつもの小言を口にする。
「私は、どうしてもと望まれてカーライル家に嫁いできたのよ。それなのに自分の子供を押し付け、私を置いてあの人は先に逝ってしまった。これぐらいの贅沢をして、なにがいけないと言うの。いい加減にしてちょうだい」
「でも、うちにはお金も売るものも、もうなにもないの。解っているはずよ」
 先日は、亡くなったリリアの実母の遺品が勝手に処分されていたのだ。悲しみに暮れるリリアに継母は追い打ちを掛けるように言った。
「前妻の遺品なんて、不愉快でしかないわ。あなたは私に嫌がらせがしたくて、そんなに酷いことを言うのね。なんて恐ろしい子なのかしら」
 継母のグレイスを困らせるつもりなどリリアにはなかった。ただ思い出の品を無くしたくなかっただけだ。しかし彼女はリリアのそんな心情を察するつもりなどないのだろう。
 そうしてリリアが幼い頃から屋敷に仕えてくれていた使用人たちも、賃金を払えなくなったカーライル家に見切りを付けて、ひとり、またひとりと去ってしまっていた。
 侯爵家という身分にありながらも貧窮し、使用人を雇うことの出来なくなったカーライル家で、リリアはすべての家事をこなすこととなった。
 日当たりの良かった部屋は義姉が気に入ったからと言う理由だけで奪われた。そして他に部屋がたくさんあるのにもかかわらず、昔メイドたちが住んでいた薄暗い屋根裏部屋に追いやられてしまったのだった。
 家族の着替えの手伝い、料理、リネンや衣服の洗濯、炊事場の食器や鍋洗い、広い屋敷の掃除、たったひとりでは出来るはずのない仕事を、家族に愚図だと蔑まれながら早朝から深夜までやり続け、泥のように眠る日々。
 恋などしたこともなく、外の世界も遮断された、まるで修道女のような生活をリリアは送り続けていたのだった。
 ──そんなある日、転機が訪れたのだ。
 十九歳になる義姉イザベルを妻にしたいと、大国ヴェルフェルトの属国であるエイリースで事業を成功させた富豪エドワルド・アーネスト・ダルトンが求婚してきたのだ。
 男は貴族ではないものの、属国エイリースから遠い、大国ヴェルフェルトで発行される新聞の紙面ですら名前を見掛けるほど大金持ちだった。
 ダルトン氏の父は、属国エイリース一帯の葡萄畑がカビの一種に冒され、数多くのワイナリーが経営難に陥った際、貴腐ワインの醸造方法を用い危機を脱することで起業し、一代で富豪へとのし上がった男だ。
 糖度が高く、甘美なる雫と呼ばれる貴腐ワインは、王族や貴族たちの間でも人気が高く、その希少性から、高値で取引されている。大国ヴェルフェルトで貴腐ワイン一本あれば、貧困層の家庭が一年近く生活出来ると言われているぐらいだ。
 後継者のエドワルドは白ワインや赤ワインも手広く扱い、今では大国ヴェルフェルトと属国エイリースの葡萄畑の半分以上は、彼の持ち物だと言われている。
 表立った場所に出ない主義らしく、リリアは彼の写真を見たことがなかったが、きっと厳めしい人物に違いないと考えていた。しかしそんな恐ろしげな富豪との結婚に歓喜した継母たちは、念入りに義姉の嫁入り支度をひと月も前から始めたのだ。
 義姉は大喜びで新しいドレスを作り、一日に何度も入浴しては、美しさに磨きをかけていった。ただでさえ忙しいリリアの毎日は、さらに過酷なものとなったのだが、それでも彼女は花嫁となる義姉の幸せを祈らずにはいられなかった。
 ──しかし。花嫁となるイザベルを迎えに来たダルトン氏の執事が屋敷を訪れ、信じられない言葉を告げたのだ。
「失礼ながらこちらで調べさせていただきましたが、イザベル様はカーライル侯爵の実子ではないため、後継者の資格はないのですね」
 来客に紅茶を運ぶために、応接間を訪れていたリリアは、真っ青になった継母と無表情のまま淡々と語るダルトン氏の執事の顔を不安げに見つめるしか出来なかった。
 黒髪をきっちりと整え、焦げ茶色の怜悧な瞳をしたダルトン家の執事の硬質な声は、継母グレイスを非難していると知るに充分なほどだ。
「エドワルド様がこちらに多大な融資をなさるのは、生まれてくる嫡子に侯爵の地位を与えるためだとご存じのはずです。こちらを謀ったまま神に誓いをたて、イザベル様を妻の座に据えるおつもりでしたか」
 継母のほっそりとした手はドレスの端を掴み、わなないている。
 これほどまでに怒りを露わにした姿をリリアが見たのは初めてだった。来客が去った後、八つ当たりされるのではないかと、リリアは戦きながら、そっと唇を噛んでしまう。
「そんなつもりはありませんでしたわ、わたしはただダルトン家に相応しいのは、美しいイザベルしかいないと思いまして……」
 歯切れの悪い継母の物言いは、ダルトン氏の執事の言葉を肯定しているのも同然だった。
 どうやら彼女たちは、ダルトン氏の妻の座を得てから、侯爵の後継者ではないという真実を告白するつもりだったらしい。
 ひと月も前から義姉のイザベルは念入りに花嫁になる準備をしていたのに、これで結婚は白紙に戻るのだろうかと悲しく思いながら、リリアがお客である執事に一礼してから部屋を出ようとしたときだった。
 彼女の今後を決定付ける、信じられない言葉が告げられる。
「侯爵家を継ぐ権利のあるカーライル侯爵の実子リリア様を、既にお渡しした融資の代わりに、約束通り花嫁に戴きたいとエドワルド様からの伝言です」
 部屋の中の空気が凍りつき、継母のグレイスが鬼のような形相で、リリアを睨み付けてくる。
 ──運命の輪が大きく回り始めた瞬間だった。

 * * *

「ご冗談でしょう? リリアはそこにいる見窄らしい赤毛の娘ですのよ。裕福なダルトン家の花嫁に相応しいとは思えませんわ」
 不意に呼ばれた名前にリリアは身体をすくめ、うつむきながら唇を噛む。
 父が生きていたときには、今のような汚れた服ではなく、侯爵令嬢らしいそれなりの身なりをしていたのだ。今の恰好が見窄らしく、自分の赤毛がみっともないのは解っていたが、継母に声に出して言われると、心の中まで蔑まれたような気分だった。
 さきほどまでリリアに一瞥も与えず背中を向けていた執事は、継母グレイスの言葉に反応し、彼女を振り返る。
 硬質な焦げ茶色の瞳がリリアの頭の先から爪先までを見つめていた。
 身につけたエプロンを握り締めながら、リリアは思わず荒れた手を隠してしまう。
「あなたがリリア様でしたか。ご挨拶もなく失礼致しました。私はダルトン家の筆頭執事のクレメンス・フレイザーです、以後お見知りおきを」
 上品な深紫のラウンジ・ジャケットを着た彼は立ち上がるとそう言って一礼し、もう一度検分するように見つめながらリリアをその場で回らせ、静かに頷いた。
「健康も容姿にも問題はなさそうですね。少々覇気に欠けるご様子ですが、エドワルド様の花嫁としての自覚が芽生えれば改善されるでしょう」
「……っ」
 いまいましげに継母がリリアを睨み付ける。
 思いがけず結婚が決まってしまったリリアはクレメンスにどう答えていいのか解らなかった。
「三日後、改めてお迎えに参ります。急なことですから婚礼衣装、トルソーなどすべてこちらで揃えさせていただきますので、ご安心下さい。……私はこれで失礼します」
 うやうやしく一礼すると、ダルトン氏の執事クレメンスは応接間を退出していく。
 リリアが戸惑いながら義姉イザベルを振り返るが、彼女は呆然と目を見開いたまま、ソファから立ち上がろうとはしない。
 今のカーライル家に使用人はいないため、リリアは慌ててクレメンスを見送りに廊下へと出た。昔は飾られていた甲冑や絵画、そして彫刻などが消え、装飾品の一切なくなった物悲しい廊下をふたりして歩いていく。
 さきほどの話はなにかの間違いだったのではないかと、リリアは隣のクレメンスの顔色をうかがうが彼は無表情のままだった。
「あの……」
 勇気を振り絞って、リリアがクレメンスに声を掛ける。
「なにか?」
 姿勢正しく隣を歩いていたクレメンスが足を止めて、彼女を見下ろした。
「わたしなんかが花嫁として現れたら、ダルトン様はがっかりなさると思うの」
 義姉のイザベルは美しい金髪碧眼の蠱惑的な美女だった。そんな彼女の代わりになど、赤い猫毛の貧相な娘がなれるはずもない。途方もない話だ。
「私から見れば、リリア様の方が美しいと思いますが?」
「いいえっ、そんなことないのは、自分で解っているもの」
 社交辞令にしても行き過ぎだと、リリアは否定する。
「それに大事なのは容姿ではなく、あなたがカーライル侯爵の唯一の跡継ぎだということです。イザベル様ではエドワルド様の目的を果たせませんから」
 告げられる言葉に、リリアは血の気が引いていく気がした。
 ダルトン氏がカーライル家から花嫁を欲している理由は、ただひとつ。侯爵としての地位を得たいということだけなのだろう。
 大国ヴェルフェルトと属国エイリースに住む貴族たちは皆、血統や階級を重んじる風習がある。そして爵位を持つ貴族同士でしか婚姻が結ばれることはなかった。
 いくら事業に成功し富豪となっても、名ばかりの貴族である準男爵以上の地位を得ることは出来ない。
 だからこそ貧窮するカーライル家にダルトン氏は狙いを定めたのだろう。この家はもう屋敷を手放すか、ダルトン氏の庇護を受けるかしか、生きるすべはないのだから。
 亡くなった父と母の思い出の品が、すべて売却されてしまった今、リリアの宝物は、この屋敷と母の残してくれた一冊の童話、そして一枚の写真だけだ。
 写真は若い頃の父と母が肩を寄せあい微笑んでいるものだった。父が再婚する際、母の他の写真はすべて継母に焼かれてしまった。他にはもうなにもない。
 リリアが残された大切なものを守るには、ダルトン氏に逆らうわけにはいかないのだ。
 そうして執事クレメンスを馬車の待つ玄関まで見送ると、日が陰り冷え込んだ空気が肌を刺す。
 正面玄関のすぐ傍で、うっそうと生い茂った木々が、風に揺れてざわめいていた。
 リリアはたったひとりで家事をこなしているので手が回らず、庭は荒れたままだったが、敷地は高い塀で囲まれているので、外からはうかがい知ることは出来ない。
 昔の屋敷を知っている者たちには、今の惨状など推し量れないだろう。
 クレメンスの乗る馬車が去ったあと、すっかり煤けてしまったレンガ造りの屋敷を見上げながら、リリアは零れ落ちそうな涙を必死に堪えたのだった。