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完全版 シンデレラ・クルーズ 極上溺愛婚のその先へ 2

第二話

 

「なんて綺麗なドレスなの……」
 リリアの口から思わず感嘆の溜息が洩れる。
 ダルトン家の執事クレメンスが屋敷を訪れた翌日、カーライル家の応接間には、花嫁となるリリアのために、淡いピンクの可愛らしいモスリンの衣装が届けられた。花とリボンで飾られた帽子と靴、ふわりとしたショール、レースの手袋、そして白い日傘も一緒だ。
 心地の良い手触り、ていねいな縫製。見るからに上質なドレスは、リリアが袖を通したことのないほど高価そうなものだった。
 ダルトン家の執事が迎えに来る日に、これを着て準備をしておけということらしかった。
 この他にもたくさんのドレスや花嫁が用意すべき下着などのトルソー一式も揃えているので、身ひとつで構わないと伝言されている。
 しかし昨夜から継母たちのリリアに対する風当たりはいっそう強くなっていた。
 ダルトン氏から届けられた衣装箱を悲痛な面持ちで受け取り、屋根裏部屋に戻ろうとしたリリアに、義姉のイザベルが美しい顔を歪ませ、辛辣な言葉を投げかける。
「あなたなんかが、ダルトン家の花嫁になっても恥をかくだけよ」
 継母たちの世話に明け暮れていたリリアは、年頃の娘がそなえるべき基礎教養を身につけてはいなかった。だから彼女の言葉はもっともだと、リリアも解っていた。
 富豪の花嫁に求められるのは、頻繁に行われる舞踏会や食事会などを統括する采配力と社交性、そして夫を貶めない気品と美貌だ。
 しかしリリアがダルトン氏の花嫁にならなければ、カーライルの屋敷は売却され、人手に渡ってしまうことになる。それだけは、どうしても避けたかったのだ。
 たとえ父と母の思い出が詰まった、この屋敷に自身が住むことが叶わないとしても……。
「……わたしにだって解ってるわ、だけど、こうするしかないもの」
 溜息交じりにそう言い返したリリアに、イザベルはいっそう激高した様子だった。
「精々追い出されないように気を付けることね」
 結婚が破談になればダルトン氏が申し出てくれた融資は受けられなくなってしまう。
 だが、どれだけ融資を受けたとしても、継母たちのような享楽的な暮らしをしていれば、すぐにお金は底をつくだろう。
 身の丈にあった生活をして欲しいと訴えても、彼女たちはリリアの話など聞き入れようとはしない。リリアが去ったあと、しばらくすればダルトン氏から融資されたお金を使い果たし、工面に困って、屋敷を売り渡そうとするのが、目に見えるようだった。

 * * *

 翌日リリアが目を覚ますと、いちばんに目に入ったのは切り刻まれた布だった。
 細かくハサミを入れられ、修復出来ないほど無残な形になった淡いピンクの衣装は、ダルトン氏から贈られたものだ。帽子や靴、ショール、レースの手袋、そして日傘も同じように切り刻まれてしまっている。
 今、この屋敷に住んでいるのは、継母たちとリリアの三人だけだった。泥棒が入ったとしてもリリアが追いやられた四階にある屋根裏の使用人部屋まで入り込むことは考えられない。しかし継母たちに追及してもリリアの味方になる者などいないのは予測出来た。
 部屋中に散らばった美しい布地の断片を拾い集めて、衣装の入っていた箱に収めると、冷たい水で顔を洗う。
 ──泣いていても、なにも始まらない。
 それは父が亡くなってからリリアが数えきれないほど思い知らされていたことだが、瞳の奥がジンと熱くなり、何度もかじかんだ指で顔を洗って、それを鎮めたのだった。

 * * *

 約束の日になり、朝早くにダルトン家の執事クレメンスがカーライルの屋敷を訪れた。
 しかしリリアは以前と同じ食器洗いをするメイドのようなエプロンドレスを着ていた。
 ダルトン氏に用意して貰ったドレスは切り刻まれ、彼女のチェストの中にはもう、外に着ていけるような服はなかったからだ。
 そんな見窄らしい恰好であるにもかかわらず、クレメンスはリリアにドレスのことを尋ねず、彼女をうやうやしく馬車へと連れていく。
「リリア様、こちらへどうぞ」
「……」
 誰も見送りの来ない屋敷を見上げて、リリアは溜息を吐いた。
 リリアが出発する時刻は解っているはずなのに、継母たちは自室に閉じこもったまま見送るどころか、応接間にすら出てこない。
 それほどリリアがイザベルの代わりに花嫁として迎え入れられるのを快く思っていないのだろう。せめて別れの挨拶だけでもしたくて、リリアが出発前に継母たちの部屋のドアを叩いたが、彼女たちは返事もしなかったのだった。
「それでは参りましょうか。荷物は手に持たれているものだけですか? 確かに着替えなどはこちらでご用意させていただきましたが……」
 神妙な面持ちでクレメンスはリリアの持つ四角く茶色い手提げ鞄を見つめる。
 中には下着と今着ているのと同じような服が一着、そして母の形見である写真を挟んだ童話が一冊だけだ。彼女にはもう、他にはなにもなかったからだ。
「これだけで充分なの」
 そう無理に笑いを浮かべながらリリアが答えると、クレメンスは立派な髭を生やした御者になにかを耳打ちする。
「クレメンスさん?」
 どうかしたのだろうかと首を傾げると、クレメンスは申し訳なさそうに頭を下げた。
「予定を変更して、船に向かう前に途中、街に寄らせていただきます」
 焦げ茶の柔らかな天鵞絨の背凭れのついた乗り心地の良い馬車に揺られ、向かった先は装飾品まで取りそろえた洋服店だった。
「仕立てる時間がないので申し訳ございませんが、ここで着替えて下さい」
 これから搭乗する船の一等客室にこの恰好のままでは浮いてしまう。ダルトン氏の婚約者として相応しい身なりを整えろということだろう。
「ごめんなさい、せっかくドレスを用意していただいていたのに」
 切り刻まれてしまったのだとは言えず、リリアはうつむくが、クレメンスはすべて見通しているかのようになにも追及しようとはしなかった。
 用意されていたドレスと似た洋服を探そうとしたが、華奢なリリアの身体に合うものがあまりなく、結局は金糸で薔薇をあしらったブロケード地の、濃いグリーン色をしたワンピースを選んだ。
 ふんわりした釣り鐘スカートとパフスリーブのドレスだったが、初めにダルトン氏に贈られた柔らかな色味のものの方がリリアに似合っていた気がする。しかし着られなくなってしまったものを惜しんでも仕方がない。
 店員に着替えを手伝って貰って、柔らかく癖のある赤毛を整える。両耳の辺りでふたつに緩く編んでいるのを、下ろすように店員に勧められたが、リリアは髪型を変えるのをためらい、結局そのままになってしまった。
 ドレスに合わせ、鍔の広い帽子を被る。オレンジの薔薇のコサージュとリボンがついたもので、とても可愛らしい帽子だった。
 そうして洋服店でリリアが着替えるとすぐに馬車に乗せられ、急ぎ港へと向かう。
 属国エイリースに向かう客船は、既に入港していた。
 馬車の小窓から外を見ていたリリアはダークブルーの船体の大きさに絶句する。後尾には大きく金の文字でヴェルフェルト王家の紋章が刻まれていた。
 これから搭乗する豪華客船『クイーン・アーネル』は、属国エイリースに開通した蒸気機関車の鉄道路線の開通を祝って、大国ヴェルフェルトで造船されたものだ。
 四万五千総トンもあり、一度に二千人以上の乗客を運ぶことが出来るらしい。
 姉妹船として『クイーン・ラミア』と『クイーン・アミリア』が周航していて、大国ヴェルフェルトと属国エイリースを結んでいる。
 姉妹船の中でも『クイーン・アーネル』は最後に造られた船で、ヴェルフェルトやエイリースの各地に住む富豪たちの出資を募り、内装は贅の限りを尽くしているのだと、リリアは処女航海の記事を新聞で読んだ記憶があった。
 これに乗り、リリアはヴェルフェルトの港ギニファから三泊四日ほどでエイリースに渡り、ダルトン氏に会うことになるのだ。
 馬車を降りて『クイーン・アーネル』の搭乗口に向かう途中、クレメンスが驚愕する一言を告げた。
「ヴェルフェルトでの仕事を終えたエドワルド様は船内でお待ちです。チケットにある部屋へ先に向かっていただけますか。所用を済ませてから、すぐに私もそちらへ向かいますので」
 ダルトン氏はエイリースにいるものだとばかり思っていたリリアは、ぞっと血の気を引かせてしまう。
 仕事に関して一切の情などなく、冷徹非道だと恐れられているダルトン氏の、従順な花嫁となるのだとリリアは自分に言い聞かせてきたはずなのに、それは単なる自己欺瞞だったのだと思い知る。
 覚悟など出来ていない。その証拠に、慣れない固い革製のパンプスを履いたリリアの足は、憐れなほどに震えてしまっていた。
「あ、あの……」
 リリアに背を向けようとしたクレメンスを衝動的に呼び止める。しかしこの状況を打破することは出来ない。彼は雇用主であるダルトン氏の味方なのだから。
「……なんでも……ないの……」
 長い睫毛を伏せて碧色の瞳を曇らせたリリアを、クレメンスは静かに見下ろした。
「大丈夫ですよ。エドワルド様は噂のような無慈悲な方ではありません」
 リリアの心の中を見通したようにクレメンスがそう告げる。しかし慰めにはならない。
 桟橋と船を繋ぐタラップを渡りながら、親と離れた幼子のようにリリアがクレメンスを振り返る。彼は用事を済ませると言っていたのに、離れた場所からリリアの搭乗を見守っていた。
 クレメンスはリリアが途中、船には乗らずに逃げ出すかもしれないと疑ったのだろう。
 見送りの人たちで混み合う港から上手く逃げ出したとしても、売られるようにここに来たリリアは屋敷に戻れない。彼女にはもう行く場所はなかった。
 赤くふっくらとした唇を噛んで、リリアはうつむきながら歩を進めるしかない。
「……」
 不安な面持ちで豪華客船『クイーン・アーネル』に乗船し、一等船客用の瀟洒なグランドロビーに向かうと、十人ほどのサーヴィス・スタッフたちが揃いの金ボタンが付いた黒い制服に身を包んで左右に並び、うやうやしく頭を下げリリアを出迎える。
 チケットにある部屋番号を確認したサーヴィス・スタッフは顔をほころばせて、リリアに手を差し出した。
「ロイヤルスイートルームですね。客室までお荷物を運ばせていただきます」
 この場に相応しくない貧相な鞄を、宝物のように大事に受け取ろうとするサーヴィス・スタッフに、リリアは慌てて断る。
「これは大事なものだから、自分で持っていくわ」
 他の乗客たちは既に荷物を船に送っているのか、手ぶらのままロビーに立っていた。
 スイートルームまで案内するというスタッフの申し出も断り、彼女は鏡のように磨かれた白亜の床に、毛足の短い濃赤の絨毯が敷き詰められた目映いロビーを歩いていく。
 階上へと続く大階段はドーム型の吹き抜けになっており、天井から眩しい光が射し込んでいた。
 磨き抜かれた艶やかな光沢を放つ階段の踊り場には、精緻な薔薇の浮き彫りがされた黄金の大時計と、葡萄と蔓草をモチーフにした額の王室の肖像画が飾られている。
『クイーン・アーネル』の内装はまるで洋上に建てられた宮殿を思わせた。
 それは幼い頃に父に連れられて一度だけ登城したことのある大国ヴェルフェルトの王宮を彷彿とさせる華やかさだった。
 光沢のある木製の手すりがついた階段を上り切った先は、黒い重厚な枠にガラスの填められた回転ドアになっている。その先の図書室と並行した長い廊下は左舷のプロムナードデッキへと続いていた。
 出航時間が近づいていたせいか、ほとんどの人は既に搭乗を終えていてロビーは静かだったが、潮風の吹き抜けるデッキに出ると人々の歓声が耳に届く。
 港に接岸しているのはリリアの立っている場所とは、ちょうど逆側になるらしかった。
 こちらはまだ人もまばらで、リリアの他にいるのは仲睦まじげに寄り添う老夫婦と、紺碧に輝く海の向こうに見える丘陵地や海鳥をスケッチする金髪の青年だけだった。
「……はぁ……」
 ダルトン氏の待つ部屋に行かなければならないのは解っていたが、リリアは頭の中が真っ白になってしまっていた。
 有能な実業家の男と、無知な自分とで、なにを話せばいいと言うのだろうか。ダルトン氏は顔も年齢も解らない相手だった。家族はなにも教えてくれなかったからだ。
 リリアが知っているのは、新聞で得た冷酷な人だという噂だけだ。
 冷たい鉄製の柵を握り締め何度も深い溜息を吐くが、いつまでもこうしているわけにはいかない。そう自分に言い聞かせても、どうしても足が動かなかった。
 無情なほどに、時間は刻々と過ぎていく。
 ──そうしてリリアが躊躇し続ける間にも、出航時間が訪れる。
 大きな汽笛を鳴らして豪華客船『クイーン・アーネル』が岸壁を離れ始めると、柵から手を離したリリアは、寝転がることが出来るほど大きな木製のデッキチェアに倒れ込むようにして腰を下ろした。
「お飲み物はいかがですか」
 黒い制服に『クイーン・アーネル』を表す金のスタッフ章をつけ、銀のトレーを片手に持ったサーヴィス・スタッフが、冷たいオレンジジュースをリリアに勧めた。
 気がつけば反対側にいた乗客たちも、こちら側のプロムナードデッキを散策し始めたのか、人が増えていた。楽しげな談笑が近くからも聞こえてくる。
「ありがとう。ちょうど喉が渇いていたの」
 飲み物を勧められて初めて、酷く喉が渇いていたことに気づき、リリアはジュースを受け取った。
『クイーン・アーネル』に一度乗船すれば、アルコールを除き、食事や飲み物、アフタヌーンティーのお菓子はすべて無償で給仕されることはクレメンスから聞いている。
 しかし一等と二等の上級客室を取っている乗客と、三等客室の乗客ではデッキもレストランも別になっているらしい。このプロムナードデッキにいる人たちは、高級そうな正装に身を包んだ貴族や富豪ばかりだった。
 その中でも最上の客室をリザーブしているダルトン氏は別格の扱いなのだろうことは、ロビーの受付にいたサーヴィス・スタッフの様子からもうかがい知ることが出来た。
 楽しげな笑い声に包まれながら、いっそう不安が増していく。
 時間だけが無情に過ぎていった。
 しばらくすると大きな破裂音が耳に届く。昼間だというのに出航を祝う花火が打ち上げられ、空中で小さな煙を上げて音を鳴らしたのだ。
 リリアが驚いて音のする方に顔を向けると、背広を着た背の高い男が、人を捜す様子で、ひとつ階上のデッキを歩いているのが見える。
「あ……っ」
 思わず声を上げそうになり、慌てて押し殺す。
 背の高い男は、ダルトン氏の執事クレメンスだった。どうやら船に乗り込んだまま行方をくらましたリリアを捜している様子だった。
 見つかれば、このままダルトン氏の待つ部屋に連れていかれるだろう。
 心の準備が出来ていないリリアは思わず、鞄を掴んで逆方向へと走り出す。すると、向かいから歩いて来た男に、小さな身体を体当たりさせてしまう。
「きゃっ」
 リリアが被っていた鍔の広い帽子が、デッキに落ちてしまい、片手に持ったままだったオレンジジュースが零れ、男のスーツと彼女の頭やドレスへとふりかかる。
「ご、ごめんなさい」
 男が身に纏っている漆黒のフランネルのフロックコートにオレンジジュースが染みていくことに気づいたリリアは、慌てて鞄から白いウサギの刺繍をしたハンカチを取りだして、拭き清める。
「いや、必要ない」
 そう小さく呟き立ち去ろうとする男をリリアは引き留めた。
「ダメ、このままじゃ染みになってしまうから」
 濡れたフロックコートを拭き続けていると、ぶつかった男は、引き締まった広い胸をしていることに気づいた。
「俺よりも、あなたの方がずぶ濡れのようだが?」
 クスリと小さな笑いを浮かべる男の声につられ、顔を上げたリリアは息を呑む。
 相手はリリアよりも頭ひとつ分以上に高い身長をしていたので気づかなかったが、今まで出会ったことのないほど整った容姿をしていたからだ。
 艶やかなダークブロンドの髪を整髪料でラフに整えた男の鼻梁は高く、精悍な顎をしていた。切れ長の涼やかな蒼色の瞳は吸い込まれそうなほど美しい。少し厚みのある唇は官能的で、皮肉げに口角が上げられている。理知的で洗練された男の風貌に、リリアは思わず目を奪われる。
「……俺の顔になにかついているのかな、お嬢さん」
 少し低めだが甘い男の声音に、リリアの胸の奥がざわめいた。
 首を傾げる姿さえ、まるでおとぎ話に出てくる王子を思わせるほど絵になっていた。
 そう、彼女の持っている童話の王子に、髪と瞳の色がそっくりなのだ。
「いえ、なにも……」
 惚けたまま不躾なほど彼の顔を凝視してしまっていたことに気づき、リリアは慌てて顎を引いて、フロックコートについたジュースを拭き取る。
 白いハンカチはオレンジ色になり、濡れそぼってしまっていた。これだけではすべて拭き取れない。どうすればいいだろうかと困惑したときだった。
 不意にリリアの華奢な身体が、宙に浮き上がる。
「え?」
「人のことよりも、あなたは自分を気にした方がいい。帽子や靴が脱げてしまっているのに気づいてないのか」
 そう言って男はリリアが先ほどまで座っていたデッキチェアに、彼女を運んで座らせると、ぶつかった拍子に脱げてしまった靴と、デッキに落ちた帽子、そして先ほどまで手に持っていた鞄を傍らに置いた。
 そして近くにいたサーヴィス・スタッフにジュースの入っていたグラスを渡して、タオルを持って来るようことづける。なにひとつ無駄のない動きだった。薄いハンカチだけで汚れを取ろうとした自分が、なんだか恥ずかしくなってくる。
「迷惑をかけてしまって……ごめんなさい」
 リリアがそう男に謝罪する間に、迅速にサーヴィス・スタッフが運んで来たタオルがふたりに手渡された。
「気にしなくてもいい。それよりもなにか急いでいるようだったが?」
 その言葉に顔を上げて、階上のデッキを見るが、クレメンスの姿は見当たらない。隠れようとしたのだと説明をするわけにもいかず、リリアは返事に困ってしまう。
「え、えぇ……、でももういいの」
 そう答えるが、ただでさえ舌足らずなリリアの声が、緊張にいっそう強張ってしまっていた。タオルで拭いても、染み込んでしまったジュースに濡れたワンピースが、リリアの肌に張り付いていく。ここで服を脱ぐわけにもいかず、着替えるには、もう観念してダルトン氏の待つ部屋に行かなければならない。
 青ざめた様子のリリアを見つめていた男だったが、不意に彼女の前に跪いた。
「あの……?」
 どうしたのだろうかと尋ねようとしたとき、男の長い指に、リリアの細い足首が掴まれ、うやうやしく足の甲にくちづけられる。
「きゃっ!」
 リリアは目を見開き、顔を朱に染めてしまう。
 父が亡くなったあと、こんなにも長く男性と会話したこともなかった彼女は、いきなりの事態にどうしていいか解らない。
「悪かったな。俺が急にあなたの前に現れたせいで、こんな目に遭わせてしまった」
 そう言ってリリアの脱げてしまった革のパンプスを、ていねいに履かせてくれる。
 うつむいた彼の相貌も、息を呑むほど美しかった。
「王子様みたい」
 リリアは夢見心地で思わず呟いてしまう。
「……俺が?」
 男は顔を上げると眉をひそめ、不思議そうに尋ねた。
 子供みたいな言葉を言ってしまったのだと気づいて、リリアはいっそう真っ赤になる。
「ご、ごめんなさい。……こ、この童話に出てくる王子様みたいだな……って思って」
 慌てて鞄から童話を取りだして開き、ちょうど今のリリアと男のように、お姫様の脱げた靴を履かせる王子の挿絵があるページを差し出す。
 何度も読み返している古く年季の入った本はページがくたびれてしまっていた。
「光栄だな。しかし残念だが俺は王子でもなければ、貴族でもない」
 苦笑いを浮かべる男を前に、挙動不審の限りを尽くしたリリアはいっそこのまま海にでも飛び込んでしまいたいほど、恥ずかしかった。
 見ず知らずの男の前に、童話を差し出すなどばかな真似をしてしまった自覚はあったが、焦り過ぎたせいで、リリアは混乱してしまったのだ。
「どうかしたのかい、エディ」
 話をするふたりに割って入るように、目映いほどのブロンドを肩口まで伸ばし、優しい琥珀色の瞳をした青年が、穏やかな笑みを浮かべて近づいてくる。
 彼には見覚えがあった。先ほどまで近くのデッキチェアに座り、風景をスケッチしていた青年だ。彼は脱いだスーツのジャケットを片腕に抱え、上質なシャツのボタンを開け腕捲りしている。一等船客にしては珍しい着崩した恰好をしていた。
 金髪の青年は絵を描くことに熱中していた様子だったが、騒ぎを聞きつけて近づいてきたらしかった。
 リリアがぶつかってしまった男と知り合いなのか親しげに話を始める。
「あぁ、サイラスか。さっきはチェスを中断してしまって悪かったな。仕事が終わったので、デッキで絵を描くと言っていたお前を捜していたら、このお嬢さんとぶつかってしまったんだ」
「へぇ、珍しいね」
 口笛を吹いてちゃかすように呟くと、サイラスと呼ばれた青年は肩をすくめる。
「俺にだって不慮の事故ぐらい起きることもある」
「そうじゃない。不慮の事故の相手に君がかいがいしく世話を焼いていることが珍しいんだよ。エディにそんな優しさがあったなんて、驚きだな」
 リリアは呆然とふたりを見上げていたが、濡れたワンピースを着ていたせいか、小さなくしゃみをしてしまう。
 ジュースに濡れたまま海風に当たり、身体が冷えてしまったのだろう。エディはサイラスとの話を中断して、リリアの顔を覗き込む。
「これを」
 そう言ってリリアの身体に、着ていたフロックコートを掛ける。ふわりと柑橘系の匂いに交じって、官能的なトワレの香りが鼻腔をくすぐった。リリアがすぐに拭き清めたので、もうほとんど濡れてはいなかったが、このままでは内側まで汚してしまう。
「わたしに構わないで、コートが汚れちゃうわ」
 慌ててフロックコートを返そうとするが、前を掻き合わせるようにして、エディの手に止められてしまった。
「コートの替えはいくらでもあるが、あなたの身体は世界にひとつしかないんだ。そんな些末なことは気にしなくていい」
 暖かいコートの温もりに海風に冷えた身体が包まれたせいか、なんだか顔が熱くなってくる。
「そのままでは風邪をひいてしまう。着替えた方が良いな」
「いえ、もうわたしのことは気にしないで」
 そう返したものの、鞄の中には薄汚れたエプロンドレスしか入っていなかった。他の着替えは用意されていたが、そのためにはダルトン氏の部屋に行かなければならないのだ。
 リリアは、まだ彼に会う勇気がなかった。
 先にどこかでエプロンドレスに着替えなければ……、そう考えているとエディが、リリアに声を掛ける。
「部屋にある服を提供しよう。……ちょうどあなたぐらいのサイズだったはずだ」
 なぜ男の部屋に女性用の服があるのだろうかと困惑するが、リリアはすぐにその理由を知ることになる。
「それってエディが婚約者のために買ったやつじゃないの?」
 サイラスが驚いた様子でそうエディに尋ねたからだ。
 こんなにもすてきな人なのだから、妻や婚約者がいてもおかしくはない。そう思うのにリリアはなぜかしゅんと落ち込んでしまう。
「構わない。臍を曲げた婚約者なら、使用人に任せている。それに服ならエイリースでいくらでも仕立てられるからな」
 婚約者のために買った服を受け取るわけにはいかない。リリアは慌てて拒絶する。
「本当に結構です。ジュースを掛けてしまって、ごめんなさい」
 再び謝罪し、そのまま立ち上がって去ろうとするリリアの腰が、エディの腕に掴まれ、引き戻された。思いもよらぬほど力強い腕だった。
 エディに触れられた場所を酷く意識してしまって、リリアの身体が硬直してしまう。
「遠慮しなくてもいい。こちらへ」
 優しい口調なのに、エディは頑として引かない。
「サイラス、チェスの続きはまた後にしてくれ」
 そう言ってサイラスに声を掛けると、強引にリリアを船内へと連れていく。
 もしかしたら本を彼の前に取りだしたときに、鞄の中に薄汚れたエプロンドレスしか入っていなかったのを、見られてしまったのかもしれなかった。
「へぇ、これは見物だね」
 楽しげな声を上げたサイラスをリリアが振り返ると、彼はヒラヒラと手を振ってふたりを見送っていたのだった。