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完全版 シンデレラ・クルーズ 極上溺愛婚のその先へ 3

第三話

 

 そうしてエディに連れられて来た船室は、寝室が三つもあるとても豪奢なものだった。
 広い室内の壁には青を基調に濃淡をつけスイカズラの模様をいれた壁紙が張られていて、白い天井は高く、四面に浮き彫りの装飾が施されている。
 大理石で造られた暖炉の上には、黄金の天使が抱く時計が置かれ、部屋の中央には赤い艶を帯びた重厚な木製の応接セットがあり、長椅子の背凭れのクッション部分には花々のタピスリを模した綴織の布が張られている。
 白いクロスが敷かれたテーブルセットの上には、金の紋章と取っ手のついたキラキラしたボヘミアン・ガラスの水差しとグラスが置かれていた。
 部屋の壁にある絵画は、大国ヴェルフェルトの有名な画家による狩猟の様子を描いた作品だ。その奥にはオーシャンビューのバルコニーがついていて、外を眺めるための白い透かし彫りの椅子とテーブルまで置かれている。
 こんな立派な船室を取るなんて、いったいこの人は何者なのだろうかと、考える間に真新しいドレスが手渡される。
「これはあなたのものにするといい」
 淡いクリーム色に金糸とリボンをあしらったモスリンのドレスだった。リリアの赤毛には映えるかもしれないが、まだ一度も袖を通されていなさそうな衣装を受け取るわけにはいかない。
「あの……、まだ誰も袖を通していない、こんなに綺麗なドレス、受け取れないわ」
 そう言って顔を横に振ってドレスを返そうとするが、リリアはエディに強引に奥の寝室に押し込まれてしまう。
「良いから着替えてくるんだ」
 扉越しにエディの声が聞こえてくる。リリアはドレスを手にしたまま、しばらく呆然としてしまった。
「着替えに手伝いがいるなら人を呼ぼう。遠慮は不要だ」
 扉の向こうから、そうエディの声が聞こえた。しかし手伝われなくても着替えは出来る。
 ドレスの縫製に合う細く括れたウエストラインを作るには、固くコルセットの紐を締めなければならない。しかし以前は女の子らしい丸みを帯びた身体をしていたのに、日々の家事ですっかり痩せてしまっていたリリアには必要のないものだった。
 恐る恐る袖を通してみると、細い首元にあしらわれたレースの重ねが白い頬を彩り、筋肉で固くなった二の腕を覆うパフスリーブが腕の形を可愛らしく隠してくれていた。
 まるでリリアのために用意されていたのかと錯覚するほど、ドレスは身体にぴったりだった。背中の紐を強く締めて、後ろ手にリボンを結ぶ。
 これほどまで豪奢なものではないが、屋敷ではいつもひとりで服を着ていたので手慣れたものだった。ふたつに結んだ幼い髪型がドレスに似合わない気がして、解こうとしてためらう。赤毛など、やはりこのままにしようと心に決め、そっと寝室を後にした。
「よく似合う。とても愛らしいな」
 微笑みと共に賛辞され、リリアは恥ずかしさにうつむいてしまう。婚約者がいる相手だというのに、どうしてこんなにもドキドキしてしまうのか解らなかった。
「あ、ありがとう……」
 白い頬を薔薇色に染めたリリアに近づいたエディは、滑らかな彼女の首筋に触れる。
 彼の指先の冷やりとした感触に、心臓が止まりそうなほど、身体がすくんだ。
「砂糖菓子のようだな。心も、赤く小さな唇も」
 そう言いながらエディはリリアがふたつに結んでいた髪を勝手に解いてしまう。
「え……」
 ふわりと柔らかな赤毛が、首元にかかった。
「こうした方が、ドレスが映える」
 耳元で低く囁かれ、リリアの身体がビクリと跳ねた。
 ゾクゾクするほどの震えが肌に走り、リリアが思わず後ろに退きそうになったとき、エディの口元が皮肉げに歪む。
「あなたはよほど、家族に大事にされて育ったのだろうな。……羨ましいことだ。いくら強引に誘われても、今後は見知らぬ男とふたりきりにならないよう気を付けた方がいい」
 冷水を浴びせ掛けられたように、心の奥底で育った暖かな感情が一瞬にして凍えていく。
 目が潤み泣きそうになるのをリリアは必死に堪えた。
 確かにリリアは愛情を持って育てられた。だがそれは父が亡くなる前までの話だ。それからはたったひとり、血の繋がらない家族たちと仲良く暮らしたくて、必死に尽くしてきたのだ。だが結果は、お金と引き替えに売られるようにして、ダルトン氏の元に送られてしまった。しかしなにも関係がないエディに話しても仕方のない話だ。
 きっとエディは童話を持ち歩いたり、見知らぬ男について来たりしたリリアが、世間知らずだということに気づいて、忠告してくれたつもりなのだろう。
 泣きそうだった顔をほころばせて、無理やり笑顔を浮かべる。リリアはいつもこうして笑ってきたのだ。大丈夫。まだ頑張れる……と。
「……っ。ご忠告ありがとう。これからは気をつけるので心配しないで……。濡れた服が乾いたら、ちゃんとドレスはお返しするわ」
 無理やり顔をほころばせたリリアを見つめながら、エディは神妙な顔で黙り込んでしまっていた。
「……」
 頭を下げて部屋を出ようとするが、彼の前を通り過ぎようとしたリリアの腕が掴まれる。
「あの……、どうかしたの?」
 無言のまま視線が絡む。しばらく見つめ合っていたが、はっと気づいた様子で彼はリリアの腕を離した。どうやらエディは無意識のうちに、リリアの腕を掴んだらしかった。
「少し早いが夕食でも一緒にどうかな」
 彼には婚約者がいるのに、どうしてリリアを誘うのか彼女には理解出来なかった。
「でも、お友達も婚約者もいらっしゃるのに。どうしてわたしを誘うの?」
 リリアがそう尋ねると、エディは肩をすくめてみせた。
「婚約者には臍を曲げられているんだ。それに男同士の食事は、ひとり以上にあじけないものだからな。一緒に行ってくれると、嬉しいのだが」
 朝からずっと食欲がなかったので、今日はまだミルクしか口にしていなかったリリアは、空腹を感じていた。しかし婚約者のいる男とふたりで食事を摂るのには抵抗があった。
「……」
 黙り込んだリリアに、エディは勝手に了承したと受け取ってしまう。
「着替える間、少し待っていてくれ」
 そう言って赤茶色の艶を帯びたチェストがある奥の寝室へと消えていく。
 このまま帰ってしまいたい衝動に駆られるが、親切にも助けて貰ったのに、それは不躾だとためらう。
 だがリリアは、ダルトン氏の婚約者という身の上だ。早く彼の元に行かねばならないのに、他の男と食事をしていていいものなのだろうか。しかしエディを前にすると、そんな思考も止まってしまって、なぜか彼の言う通りにしてしまいたくなる。
 心の中でエディに謝罪しながら、やはり彼のいない間に部屋を立ち去ろうと、扉に手を掛けるが、内側からも錠があり、鍵がなければ開かないようだった。
「……えっ」
 まるでリリアが逃げ出すことを予測していたかのように掛けられていた鍵に、息を呑む。
 暖炉の上にある置時計の針の音が、いやに耳に付く。
 そうして立ち去ることも出来ずリリアが待っていると予想よりも早くに、エディは黒いタキシードに着替え、ダークブロンドの髪を後ろに撫で付けきっちりと整えて姿を現した。
 彼の白いシャツとタイに隠された喉元が、酷く魅惑的に目に映る。
 リリアは小さな胸の奥をざわめかせてしまう。なんだか、さきほどよりもずっと彼の顔を見ることが出来ない。
「待たせてしまったな。すまない。……どうかしたのか? 顔色が悪いようだが」
 そうエディに尋ねられ、リリアは思わず正直に答えてしまう。
「内側から鍵を掛けてるの……?」
 ピクリとエディの眉根が上がる。リリアが勝手に部屋を出ようとしたことに気づかれてしまったのだろう。
「この部屋に泊まる者は用心深い人間が多いからな。……宝物は大事に鍵を掛けて閉じ込めておくものだ」
 リリアの腰に手を回したエディが薄く笑う。しかし彼の目は笑ってはいなかった。
 腹の奥がゾッとすくんで、やはり一緒に食事をすべきではないのだろうかという不安に駆られる。
「……さぁ、行こうか。お嬢さん」
 そのまま部屋の外へと連れ出される。細い腰に置かれたエディの手を意識してしまって、リリアは息苦しさを感じていた。
「あのやっぱり、わたしは遠慮した方がいいと思うの」
 食事の途中でエディの婚約者が現れればかなり気まずい状況になるのではないかと予測できた。エディとリリアが初対面でなんの関係もなくても、他の女性と食事をしているのを見れば、彼の婚約者は不愉快になるに違いない。
「食事を共にするぐらい、気にするようなことじゃない。言う通りにしないなら、反論する口を塞いでしまうことになるが?」
 告げられた言葉に、リリアは目を見開いて息を呑む。顔を向けると彼はリリアの赤い果実のような唇を凝視していた。
 みるみるうちにリリアの顔が朱に染まっていく。
「なっ!?」
 上擦った声を上げると、クスリと小さく笑われてしまう。
「単なる冗談だ。しかし、そんなに驚かれると傷付くな」
 男性と会話することすら、あまり経験がないリリアに、冗談など理解出来るはずがない。
 気恥ずかしそうにうつむきながら、リリアはもう反論することも出来ずにエドワルドに続いて歩いた。中央の大階段を下り、ブリッジデッキの方へと出ると、弦楽の華やかなメロディーが耳に届く。
 流れているのは身分違いの恋を描いたオペラの名曲だ。
 白い大理石の壁に金のランプをあしらい、床に薔薇を抽象化した濃赤の絨毯を敷き詰めたエレガントな応接室に着くと、ウェイターがリリアたちに飲み物を尋ねた。
「俺はアスティアの白を。あなたも同じでいいか? それとも甘いカクテルの方がいいのだろうか」
 リリアはアルコールを嗜まなかったので、ワインの銘柄など全く解らなかった。しかし先ほど子供扱いされたのを思い出し、ついエディと同じものを注文してしまう。
 すぐにウェイターがトレーにグラスを載せて現れた。
 リリアは浅い椀型にスズランの模様が刻まれたグラスに入った蜜色の微発泡の白ワインをためらいがちに口にした。すると強過ぎない細かな泡が喉元を滑り落ちていく。
 フルーティーな味わいは口の中を癒してくれたが、たったひとくちなのにクラリとした酩酊感が襲ってくる。喉越しはいいが、かなりアルコール度数の強いワインだ。これ以上は飲まない方が良さそうだった。
「あなたはひとりで船に乗っているのか」
 白ワインを飲むエディに不意に尋ねられ、思わずリリアは目を逸らしてしまう。
「……もしかして恋人と一緒だったのか? それなら強引に食事に誘ったのはすまなかったな」
 謝罪しているはずなのに、エディの声は酷く強張っている気がした。
 リリアがほろ酔いになってしまったせいで。そう感じるのだろうかと思い彼の目を見返すが、やはり笑っていないように見える。
「……恋人なんかじゃ……」
 恋人ではなくもうすぐ夫になる男だろうと、ガンガンとした耳鳴りと共に、酷く残虐な声が聞こえた気がした。
 リリアのグラスを持つ手が震え、渇いた唇を小さく舐めたとき、スタッフがふたりを階下へと誘う。飲みかけのワイングラスをテーブルに置くと、エディは優雅な足取りでリリアに近づき、右腕を差し出した。
 階下のレストランへは女性は男性にエスコートされて入室する決まりらしい。
 レストラン入り口の扉はクルミ材の羽目板が嵌められ、蔦と葡萄の浮き彫りに美しく金で彩色されている。左右には天井まである大きな楕円形のアーチになった石膏の柱が建てられ、その前にモーニングコートを着たスタッフが立っていて、うやうやしく頭を下げてふたりを出迎えた。
 室内はさらに贅沢を極めていた。毛足の長い濃緑の柔らかい色合いの絨毯の上には真っ白いクロスの敷かれたテーブルセットが並んでいる。各席の卓上には、ホワイトとピンクの二色の薔薇とクリスタルガラスの器に盛られたフルーツ、そして眩しいほどに輝く銀の燭台が置かれていた。
 白い天井からは金色のシャンデリアが下がり、艶やかな焦げ茶の木材が使われた壁には、大きな楕円の鏡が何面も填められていた。
 オレンジ色の夕日が沈み始めた海を見渡せる、窓際の一段高い席に通されると、エディは右側の椅子を引いて、リリアを座らせてくれた。
 完璧なエスコートだった。手慣れたエドワルドの態度に、リリアはなぜか落ち着かなくなってくる。
 チェロの低く響く弦の旋律が耳に届き、ふとそちらに目を向けると五人編成の楽団員たちは目配せして、甘い楽曲を奏で始めた。
 まだ夕食の時間には早いせいか、人はまばらだった。楽団員たちにエディとリリアは恋人同士だと勘違いされたのだろう。それでこのような選曲をされたのだ。
 テーブルの皿の上には、司教の冠のような型に折られたナプキンと、金箔があしらわれたメニューカードが置かれている。
 カードを手に取り、確認しようとするリリアに、エディは笑顔で声を掛けた。
「食べたいものがあるなら用意させよう。好物を言うといい」
 普段から贅沢な食事などしていないリリアには、カードに書かれているメニューだけでも充分過ぎるほどだった。
 リリアがこのままでいいと告げるとエディは食事のオーダーと共にワインを注文した。
 最初に運ばれて来たのはキャビアなどをあしらったオードブルだった。小海老を閉じ込めたコンソメのゼリー寄せは食べるのがもったいないほど美しい。
 皿を運ぶサーヴィス・スタッフの配膳を待ちながら、エディがおもむろに尋ねた。
「そういえば、まだ名前を聞いてはいなかったな」
 本名を言おうとしてためらう。豪華な部屋を取っているエディがダルトン氏の知り合いかもしれないと考えたからだ。
「……リリーよ」
 それは亡き父がリリアを呼んでいた愛称だった。長い間、誰にも呼ばれたことのない懐かしい名前だ。なぜか彼にそう呼ばれたくて、リリアは愛称を口にする。
「リリー……百合を表す名前か、可愛い名前だ。……そうだな、俺はエディと気軽に呼んでくれて構わない」
 姓を名乗らなかったリリアに合わせてか、エディもそれにならう。食事が終わりドレスを返せばもう出会うことのないふたりなのだから、それで充分なのかもしれない。
「エイリースには旅行に?」
 リリアにはエイリースの訛りは一切なかった。ヴェルフェルト特有の固い標準語だ。
 だから彼はそう尋ねたのだろう。
 見知らぬ男と結婚するためにエイリース行きの船に乗ったのだとは言い出せず、ためらいながらリリアは頷いた。
「……えぇ」
 そう答えたものの、旅行と言うよりは、大海の中で漂流しているような気分だった。
「あなたも?」
「いや俺は、仕事でヴェルフェルトに来ていたんだ」
 フロックコートとスーツを身に纏っていたエディは、出来る実業家という風格があった。
 彼が仕事を終えてやっと一息吐いたところに、リリアはぶつかってジュースを浴びせてしまったらしかった。
「お疲れだったのに、迷惑を掛けてしまったのね。本当にごめんなさい」
 申し訳なく思い、謝罪するとエディは苦笑いを浮かべた。
「あぁ、気にすることはない。仕事で気位の高い無能な奴らを相手にするたびに、鼻柱をへし折りたくなったが、あなたを不快だとは思っていない」
 ヴェルフェルトで事業を興しているのは、主に貴族などの富裕層だ。そのため相手を階級だけで見下し、高慢な態度を取る者が多かった。
 血統や階級だけで人間を量るのは愚かなことだ。しかしいくら貧窮しているとはいえ、侯爵家の娘であるリリアが、そう言っても説得力などないのだろう。
「腐敗した貴族の世界など長くは続かないだろう。……時代は移り変わっていくのだから」
 いまいましげにエディが呟く。腐敗した貴族たちの一員だと、エディに知られたら、嫌われるのだろうか。話を聞きながら、リリアはそんなことを考えてしまう。
 相手は婚約者のいる男だ。嫌われてもリリアには関係がない。解っているのに、なぜだかとても寂しく思えた。
「こんな話は女性のあなたにはつまらないだろう。すまない」
 黙り込んでしまったリリアに、エディが謝罪する。
「ちょっと考えごとをしてしまったの、……ごめんなさい」
 リリアは慌てて、そう言い訳した。
 二品目にはカリフラワーの白いポタージュが運ばれてきた。
 スプーンで口に運ぶと、滑らかで上品な味が口に広がる。しかしエディはポタージュに手をつけようとはせず、ワイングラスを片手に宝石のような蒼色の瞳で、静かにこちらを見つめていた。視線の強さに居たたまれず、どうしたのかリリアが尋ねようとしたとき、反対に声を掛けられる。
「あなたはどうして、あどけない顔でこの世の終わりみたいな表情をするのか、聞いてもいいだろうか」
 そんな表情をしていた覚えなどなかった。エディに告げられた言葉にリリアは驚いてしまう。
「別に、なにも……」
 平常心を装おうとするのに、声が震えてしまっていた。
「微笑んでいても、泣きそうな瞳をしている。自分では気づいてないのか?」
 リリアは笑って誤魔化そうとしたが、言葉が出なかった。
「……」
 結局エディの問いには答えられず、リリアはただ固く唇を結ぶ。
「俺には、言いたくないということか」
「そう、……なのかも」
 初めてあった相手だというのに、エディを前にすると胸がざわめく。相手は婚約者のいる男だ。それなのに自分が爵位を買われ、見ず知らずの男と結婚を前にしているのだということは知られたくなかった。
「濡れた瞳で、俺の気を惹いておいて、拒絶するなんて酷い人だな」
 自嘲気味に笑うエディにリリアは、驚いてしまう。
 彼の気など惹いたつもりはなかった。男性とほとんど会話すらしたことのないリリアにそんな真似が出来るはずがない。
「そんな……」
 睫毛を伏せてそう返すと、苦々しげにエディが呟く。
「無自覚だったと?」
「本当にそんなことを、したつもりはないの」
 なんだか責められている気持ちになってくる。リリアが不安げに目を泳がせていると、レストランのスタッフと話をしながら、こちらを眺めているひとりの男の姿が、目に入る。
「……っ!」
 ダルトン氏の執事クレメンスだった。
 乗船した後に行方をくらませたリリアを、ついに見つけたはずの彼は、なぜかこちらには来ようとはしなかった。結婚前だというのに、リリアが他の男と食事をしている状況を無言で責められている気がして、思わず席を立ってしまう。
「あの……わたしはこれで失礼するわ」
 食事を中断するなどマナーに反するのはわかっていたが、もう喉を通りそうになかった。
「あなた自身の話はもう尋ねないから、座ってくれないか」
 そう困惑した様子で告げるエディの言葉に逆らえず、リリアは座り直してしまう。
 クレメンスに顔を向けても、彼はやはりこちらに来るつもりはないようだった。
 それどころかリリアが気づかぬ間に、いなくなってしまっていた。食事を終えるまで待ってくれるつもりなのだろうか。
 カリフラワーのポタージュの皿が下げられ、香草をあしらった舌平目のクリーム煮が運ばれてくる。
 アルコールはもう飲まないつもりだったが、緊張のあまりリリアはついグラスに入った白ワインを呷る。飲み下してすぐに、胸の動悸がさらに激しくなった。このまま心臓が止まってくれればいいのにとリリアは願いたくなっていた。
 自分はここにいるべきではない。解っているのに、再び席を立つことが出来ない。
「今はすべて忘れて、食事にしよう。……あなたとの出会いに」
 そう言ってエディはワイングラスを掲げた。つられてリリアはまたひとくちワインを口にしてしまう。
 頭の中枢からグラグラと揺らされているような感覚に苛まれ、頬が熱く火照る。
 ふわふわとした気分のまま、エディとふたりで食事を続けた。
 四品目のアントレは、柔らかく焼かれた子羊のソテー。そのあと、舌休めに薔薇水とミントの爽やかなシャーベットが出された。
 普段から質素な食事しかしていないリリアは、食欲がなくなったこともあって、ほとんど手をつけられなかったが、コースは続いていく。
 六品目にほろほろ鳥の蒸し焼き、七品目に春野菜のレモンソースがけ、最後のアントルメであるフルーツサラダに辿りつく頃には、かなりの時間が経ってしまっていた。
 だが入り口辺りに顔を向けても、やはりクレメンスの姿はない。
「あなたはもう少し食べた方がいい。ダイエットでもしているのか?」
 以前は女の子らしい丸みを帯びた体型をしていたのだが、父が亡くなって三年の間に、病的なほどリリアは痩せてしまっていた。
「そうね、これからはもう少し食べることにするわ」
 どう答えていいのか解らず、笑顔を返すと、エディはなぜか黙り込んでしまう。
「……」
 なにか失敗したのだろうか。考えても理由が解らない。
 食事が終わると男性は喫煙室に行くものなのだが、彼は席を立とうとはしなかった。
「一緒に食事が出来て嬉しかったわ。ありがとう」
 そう言ってリリアが礼を言うと、不意に立ち上がったエディが隣に立つ。
「まだあなたの時間が許すなら、一曲だけ踊らないか」
 夜が更ければリリアはダルトン氏の部屋に行くしかなかった。そうすればもうエディとふたりで話をすることも出来なくなる。
 これを最後の思い出にしようと、リリアは静かにエディの誘いに頷いたのだった。

 * * *

 レストランを出たふたりは大階段の脇にある、エレベーターに向かった。
 入り口が黒い格子の檻のようになったエレベーターは三基並んでいたが、夕食の時間が近づいているせいか、着飾った貴婦人や紳士たちが、ぞくぞくと中から降り立ってくる。
 人波に逆らうようにリリアたちはエレベーターに乗り込み、階下の舞踏室へと向かう。
 室内は薄暗くムードのあるワルツのメロディーに満たされていた。
 フロアの中央は広く開かれていて、壁際には丸いテーブルを中心に茶色い革張りのひとりがけソファが並べられていた。
 赤を基調に金の幾何学模様の入った毛足の短い絨毯が床に敷き詰められ、奥には大国ヴェルフェルトの女王陛下の肖像画がかけられている。
 こうして豪華な内装を見ていると、リリアはやはりここが海の上だということを、すっかり忘れてしまいそうになってしまう。
「お手をどうぞ、お嬢さん」
 エディに手を引かれ、ホールの中央に進むと、そっと背中に片腕が回される。
 酒の酔いもあってか、気恥ずかしさに顔が熱くなっていた。リリアは室内が薄暗く、顔が赤らんでいることが隠せることに心から感謝していた。
 ワルツを踊るのは久しぶりだった。最後に踊ったのは三年前に父が亡くなる以前のことだ。久しぶりのワルツだったが、足を動かすことが出来る。エディのリードが上手いからだろう。
 彼に抱かれていると艶めかしく官能的なトワレの香りが鼻腔をくすぐった。洗練された大人の香りだ。リリアは頭の奥がいっそうクラクラしていた。
 心臓の鼓動が高鳴り、息が苦しくなってくる。それを誤魔化すように、リリアはエディに話し掛けた。
「ワルツが上手なのね」
「こんなものは数をこなせば、嫌でも覚えるものだ」
 辟易した様子で眉を上げるエディを意外に思ったリリアは、不思議に思いながら尋ねる。
「わたしを誘ってくれたのに、本当はお嫌いなの?」
「いや、……今は悪くない。可愛らしいあなたと踊れて、最高の気分だ」
 まるで口説かれているのではないかと錯覚するようなセリフに、リリアが顔を逸らそうとすると、腰を引き寄せられ、エディが大きくターンする。
「そんなことばかり言っていると、婚約者に不誠実な人だと怒られると思うの」
 だから臍を曲げられたのではないかと、リリアが非難すると、エディは喉元で笑いを噛み殺す。
「あなたも?」
「え?」
 なにを尋ねられているのか解らず、リリアは首を傾げる。
「……あなたも、俺のことを不誠実な男だと思ったのか」
 エディを不誠実だとは思わない。不誠実なのは、婚約者のいる彼の胸に抱かれて、心穏やかでいられない自分の方だ。
「そんなことはないわ……」
 口腔に溢れた唾を彼女がコクリと飲み込んだときだった。
 舞踏室の片隅に佇むクレメンスの姿を見つけた。レストランからいなくなったと思っていたのだが、やはりリリアを追ってきたのだろう。
 ちょうどワルツが終わる頃だった。
 時間切れだ。もうダルトン氏の元へ行かなければならない。しかし──。
 リリアはそっとエディから手を離し、スカートの端を持つと軽くお辞儀する。
「もう一曲だけ踊らないか?」
 そう誘われるがリリアは笑顔を浮かべて断った。
「ごめんなさい。……もう行かなくちゃ」
 クレメンスは後方の出口近くにいた。それを確認するとリリアは前方側の出口へと駆け出していく。
「リリー?」
 驚いた様子のエディが名前を呼び、追い掛けてくるのが解ったが、リリアは廊下に飛び出し、脱げそうなパンプスを手に掴んで、そのまま大階段を駆け上がっていく。
 ちょうどそのとき、扉の閉まったエレベーターがあったのでエディは、それにリリアが乗り込んだのだと勘違いしたらしい。目の端でエレベーターの前に呆然と佇む彼の姿を見つけた。
 ──リリアの腕には、まだ彼に触れていた温もりが残っていた。
 こんな状態でクレメンスに連れられ、ダルトン氏の元へ行きたくないばかりに、リリアは衝動的に逃げ出してしまったのだ。
 行く当てもなくプロムナードデッキに出ると、外はもうすっかり夜になってしまっていた。満天の星が降り注いで来そうなほど輝いている。
 海はもう深い沼のように黒くて、月明かりに照らされ白い波を立てていた。
 波を分けて、進む船の側面に当たる水音が聞こえてくる。
 冷え込んだ空気が肌をさす。ワインの酔いはすっかり醒めてしまった。夢のような時間はもう終わったのだ。
 リリアは脱いでいたパンプスを履き、デッキチェアに座ると自分の身体を抱き締めるようにしてうつむいた。
 このまま朝を迎えれば凍えて死んでしまうだろう。だがリリアには、死を願うのも許されない。貧窮するカーライル家の屋敷を手放さないためには、融資を受けたダルトン氏の元へ行かなければならないのだから。
 そう自分に言い聞かせたとき、エディの部屋に濡れたドレスと鞄を置いたままだったのを思い出す。
 あんな風に逃げ出したあとで、彼の前に姿を現すことはためらわれた。しかし母の形見である童話と写真を手放すわけにはいかない。それに今着ている高価そうなドレスも返さなければならなかった。
 リリアは深く溜息を吐いてプロムナードデッキから船内に戻り、エディの部屋へと向かったのだった。

 

 

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