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君と初恋をもう一度 情熱の騎士は再会した令嬢と我が子を一生甘やかしたい 3

第三話

 

 そして、とうとう帝国騎士入団試験のため、キースが領地を旅立つ日がやって来た。
 前日貰った手紙には、ぜひ見送りに来てほしいと書いてあったが、イルヴァは当日の朝まで迷っていた。
 少しだけでも会って、触れ合いたい。
 けれど、会ってしまったら、泣かない自信はない。
 もしかしたら、衝動的にキースにお腹の子のことを打ち明けてしまうかもしれない。
 前夜からぐるぐると悩んでいるうちに、あっという間に時間は過ぎ、今から家を出ても間に合わない時刻になってしまってようやく、イルヴァは決断した。
「このまま会わないほうが、きっと傷つかなくて済むわ」
 これからは、キースとの思い出の中で生きていく。
 はあ、とため息をつき、二階の自室の窓から外を眺める。目を細めて見つめるのは、ラインフェルト領の方角だ。
「イルヴァお嬢様、お身体が冷えますよ」
 仕事モードのヴァイスが言い、そっとショールをイルヴァの肩にかけた。
「ええ、ありがとう」
 腹をさすり、静かに窓を閉じる。
 しかし、そのときだ。
「イルヴァ!」
 たった今閉じた窓の外から、会いたいと希っていた愛しい人の声がした。
「キース……っ、どうして」
 窓を開けて下を見れば、庭の木の陰に彼がいた。
 ──忙しい身なのに、わざわざ私に会いに来てくれたんだ……っ。
 胸に溢れる喜びに、イルヴァは衝動的に彼のもとへ走りだそうとした。
 が、それをヴァイスの冷静な声が止めた。
「イルヴァお嬢様、走ってはお子に障りがありますよ」
「あ、そ、そうね」
 ふう、と息をつき、部屋を出るため、イルヴァはゆっくりと一歩踏みだす。ドアノブを握り、それを捻ろうとしたところで、ふと考える。
 ──キースに会って、何を言えばいいの?
 もし何も言わないままイルヴァが失踪すれば、それを聞いたキースはなんとしてでもイルヴァを探し出そうと躍起になって、騎士になるどころではなくなるかもしれない。いや、やさしい彼だからこそ、確実に己を犠牲にしてでもイルヴァを探す。
 だが、それでは本末転倒だ。
 彼の夢を諦めさせないために、イルヴァは誰も知らない場所へひとりで行こうと決めたのだから。
「……ヴァイス、お願いがあるの」
 イルヴァはヴァイスに声をかけた。
「ああ」
 彼は何かを察したように、口調を崩した。
 イルヴァは決意を込めた目でヴァイスを見上げ、これからやろうとしていることを、彼に伝えた。

 部屋を出て、慎重に階段を降り、ヴァイスとともに庭に向かう。
「イルヴァ」
 外へ続く扉を開けたところで、待ちきれないと言わんばかりにキースが走り寄ってくる。その赤い瞳は確かにイルヴァへの愛に溢れていて、嬉しそうに目尻が下がった。
「ああ、会いたかった……! この数週間、君に会えずどれほど寂しかったか! 体調はもういいのか? 手紙にはもう治ったと書いてあったが、まだ少しやつれているな」
 抱きしめようと彼が広げた腕を、イルヴァはやんわりと拒絶して、苦笑した。
「イルヴァ……?」
「会えなかったんじゃなくて、会いに行かなかったの」
「え?」
 キースが腕を広げたまま、固まった。
 これから、イルヴァは彼を傷つける言葉を吐かなくてはならなかった。
 イルヴァがいなくなっても、彼が自分を探さないようにするために。
「私ね、キースのこと、もう好きじゃなくなったの。……ううん、正直に言うと、ほかに好きな人ができてしまったのよ」
「は……? イルヴァ、君、何を言って──……」
 驚いて瞠目するキースに止めを刺すように、イルヴァは傍にいたヴァイスの腕に手を絡めた。
「彼は家族のようなものだし、身分も違うから、好きになっちゃいけないって思ってたけど、やっぱり気持ちに嘘はつけない。私、本当はキースじゃなくてヴァイスのことがずっと好きだったの。彼も私の想いを受け止めてくれたから、もう隠さなくてよくなったのよ。彼が私の運命の相手だわ」
 ひと息にそう言って、イルヴァはヴァイスの肩にコツンと頭を寄せた。その髪を、ヴァイスが愛おしそうに撫でた。
「……そういうわけです。申し訳ありませんが、イルヴァのことは俺が貰います」
 ヴァイスが勝ち誇った顔で宣言した。
「ふたりとも、さっきから何を言ってるんだ……?」
 混乱したまま、キースの手がだらんと落ちる。意味を理解できず、目の前の光景にただただ首を振っている。
「……だからっ、私は、キースのことはもう好きじゃないって言ってるの! こんなふうに会いにこられても迷惑なのよ!」
 言いながら、泣いてしまいそうだった。
 本当はこんなこと言いたくない。
 愛していると叫びたい。
 この胎の中にはあなたとの子どもがいるのだと打ち明けてしまいたい。
 揺らいでいる心をぐっと押し留めるように、ヴァイスがキースに見せつけるためイルヴァの腰に手を回した。
「イルヴァは俺のほうが上手くて満足できるそうなので、もうあなたは必要ありませんよ。お引き取りください」
 ヴァイスの口から飛び出た下世話な話に、イルヴァはぎょっとする。だが、反論すれば演技だとばれてしまう。ぐっと唇を引き結び、押し黙った。
「彼と寝たのか、イルヴァ」
 震える声で、キースが訊いた。
 イルヴァは頷くこともできず、さっと目を逸らした。だが、彼にとってはそれが肯定の意味に受け取れたらしい。
「……君がそんなはしたない女だとは思わなかった」
「キース」
 思わず、彼の名前を呼んで手を伸ばしそうになってしまう。それを、ヴァイスが引き留める。
「ダメだ、我慢してくれ、イルヴァ」
 そう耳元で囁かれ、イルヴァはぐっとこぶしを握った。
「ごめんなさいね、キース。あなたと過ごした日々は、偽りでもとても幸せだったわ」
 涙を堪え、尊大な態度で言った。
「……俺は、俺の愛は偽りじゃなかった」
 片手で顔を覆い、キースが肩を震わせ、痛々しげに呟く。その目には、涙が浮かんでいた。
 キースが泣いているのを、生まれて初めて見た。
 今すぐにヴァイスを振り切って、彼を抱きしめてあげたくなる。
 だが、それは彼のためではなく、自分のためだ。
「立派な騎士になることを祈っているわ」
 イルヴァが言うと、キースはバッと顔を上げ、見たこともないくらい憎悪の籠もった目で、イルヴァを睨みつけてきた。
 まるで燃え盛る炎のような瞳を、こんなときだというのに美しいと思ってしまった。
 ──ああ。私は、彼に憎まれて生きるのね。
 それでも、この道を選んだのは自分自身だ。
 張り裂けそうな胸をぐっと押さえ、背を向けるキースをじっと見つめる。
 そして、去りゆく彼の姿が見えなくなってから、イルヴァはその場に崩れ落ちた。
「う、うう……っ」
「よく頑張ったな」
 ヴァイスがしゃがみ込み、そっと背中を撫でてくれる。
「あんなこと、言いたくなかった……っ」
「ああ、わかってるよ。つらかったな」
 いつの間にか落ちてしまっていたショールが、そっと頭の上から被せられた。
「私は、私はキースのことを愛してるっ。それはずっと変わらないわ……!」
 悲痛な泣き声は、しばらく止みそうになかった。
 イルヴァが泣き止むまで、ヴァイスは黙って背中を撫で続けた。


 キースに別れを告げてからの日々は、実はあまりよく覚えていない。
 ヴァイスが滞りなく修道院へ入るための手配を進めてくれて、最後まで両親には渋られながらも、ノルランデル家を旅立つ日がやって来た。
 妊娠を知ってから、三月も経たないうちだった。
「それでは、イルヴァお嬢様は私が責任をもって修道院へ送り届けますので」
 ヴァイスの言葉とともに、イルヴァを乗せた馬車が動きだす。
「お父様、お母様、それから、お兄様たち。どうかお元気で」
 窓から身を乗りだし、手を振るイルヴァに、家族のすすり泣く声が聞こえてきた。
「つらくなったらいつでも帰ってきなさい!」
 母が叫び、父も「ああ」と頷いている。
「ありがとうございます」
 彼らの姿がどんどん小さくなって、顔も見えなくなってからようやく、イルヴァは座り直してまだ膨らみの少ない腹を撫でた。
「これから、私の家族はあなただけになるのね」
 イルヴァが呟くと、向かいに座っていたヴァイスがふっと笑った。
「何?」
「いえ。家族ではありませんが、私も傍におりますので、多少は寂しさが紛れるかと」
「でも、ヴァイスはノルランデルに帰るじゃないの」
 修道院に着いたら、ヴァイスはこの馬車に乗って引き返す予定だ。一緒にいられるのも、あと五日ほど。
 しかし、何がおかしいのか、ヴァイスはずっと笑っている。
「ちょっと、ヴァイス。何がおかしいの?」
 しんみりとした空気に水を差された気がして、イルヴァがむっとすると、彼は懐から手紙を取り出した。
「これは?」
「辞表です」
「えっ?」
 どうしてそんなものを、とイルヴァが訊くより先に、ヴァイスが言った。
「身重のお前をひとりで知らない場所に行かせるわけないだろ。成人した男はあの修道院には入れないだろうから、近くの村にでも引っ越してたまに様子を見に行くよ」
「そんな……」
 ヴァイスまで、自分の人生に巻き込むわけにはいかない。
「今からでも間に合うわ。考え直して」
「もう決めたことだ」
「ヴァイス」
 いくらイルヴァが懇願しようと、彼には聞き入れる気はないようだった。しばらく押し問答を繰り返し、彼の決意が本物だとわかって、イルヴァは涙を堪えきれなくなった。
「……ありがとう」
 じわっと涙腺から雫が溢れだす。
 本当は、とても心細かったのだ。本音を言えば、誰かに傍にいてほしかった。
 だから、ヴァイスがついてくると言ったとき、嬉しかった。
「血は繋がっていないけど、お前は大事な妹分なんだ。もっと頼ってくれよ、お兄ちゃんを」
 ハンカチを差し出しながら、ヴァイスが肩をすくめた。
「……同い年といっても誕生日は私のほうが早いんだから、私が姉でしょう?」
「まったくもってそのとおりだな。じゃあこれからはお姉様とでもお呼びしましょうかね、イルヴァお姉様」
 茶化すようにそう言ったヴァイスと見つめ合い、同時に吹き出す。
 旅立ちに曇っていた心が、ほんの少し取り払われた気がした。

 イリィという名を騙り、小高い丘の上にある修道院に入ったばかりの頃は、右も左もわからず、慣れない庶民の生活に苦労した。
 だが、妊婦であることも鑑みられ、賄い婦の労働自体はそれほどきついものではなかった。むしろ、シスターたちはイルヴァのことを最大限に気遣ってくれ、二月ほどですっかり修道院に馴染み、体調を崩すこともなく、順調にお腹も大きくなっていった。
 ヴァイスも修道院のある村に移民として受け入れてもらい、たまにイルヴァの様子を見に教会へやって来てくれた。それがどんなに心強かったことか。
 そして、修道院に来て初めての春を迎える頃、イルヴァは元気な男の子を産んだ。
 イルヴァに似たクリーム色の髪に、くすんだ赤色の瞳。イルヴァの目は琥珀色で、生まれてきた赤ん坊とは違う色だ。
 その瞳の色を見たとき、イルヴァは産後の痛みではなく、張り裂けそうな胸の痛みに、はらはらと涙を零した。


 ──月日は流れ、四年後。
「ロラン! お片付けが終わったらお昼寝の時間よ」
「ぼく、まだねむくないから、おかあさんのおてつだいをするよ」
 ロランと名づけられた男の子は、修道院や教会にいる皆に可愛がられすくすくと成長し、今では少し大人びた子に育っていた。
「ダメよ。大きくなりたいなら、子どもはしっかり寝ないと。ヴァイスのようになれないわよ」
 イルヴァがそう言って布団を取り出すと、ロランは少し悩んだあと、渋々といった顔で寝支度を始めた。
「いい子ね」
 布団に横たわるロランの額にキスをして、イルヴァも隣に横になる。
 しばらく子守唄を歌ってやると、ロランはすやすやと寝息を立てはじめた。布団を胸の上まで引っ張り、柔らかな髪を撫でる。
「本当に、そっくりね」
 キースと出会ったのは、彼が八歳の頃だ。成長するにつれ、ロランはそんな彼の顔立ちに似てきた気がする。
「……こんなところまで」
 前髪を掻き分ければ、丸い額の左端に、バツ印のような痣がうっすらと浮かんでいた。
 キースの額にも、反対側にだが似たような痣があった。ただ、キースの場合はバツ印ではなく、ラインフェルト侯爵家の家紋に刻まれたクローバーのようなはっきりとした模様だった。
 ロランの痣は、ぼんやりとした細い線が交差したもの。
「私の罪をロランが背負ってしまったのかしら……」
 クローバーではなくバツ印だなど、あまり縁起のいいものではない。まるで罪人であるかのような模様だ。
 だから、イルヴァはロランの前髪を少しだけ長めに整えている。ここにいる人たちはロランの痣を見てもなんとも思わないのはわかっているが、イルヴァにとってはあまり見たいものではなかったのだ。
 この痣を見るたびにキースを思い出し、彼が今どうしているか、考えてしまう。
 ──キースは帝国騎士になれたかしら。いいえ、それどころか、今頃順調に出世しているに違いないわ。
 そして、どこかの身分の高い美しい令嬢と、結婚しているかもしれない。もう子どもももうけているかもしれない。
 自分ではない誰かと幸せな家庭をつくって、微笑んでいるキース。
 それを考えるとぎゅっと胸が切なくなり、そのたびにここにはいない彼を思い出し、ぼんやりと遠くを見つめてしまう。
 彼には幸せになってほしいはずなのに、でも心のどこかで自分がいなくなったことでずっと思い悩んで不幸でいてほしいとも願ってしまう。
「本当、私って最低な女ね」
 身勝手な感情に、イルヴァは苦笑した。
 とはいえ、それ以外では特に気にかかることや不自由もなく、食堂で料理をしたり教会の掃除をしたりと、仕事を続けながら細々とした幸せな日々を送っていた。
 家族やキースを騙して失踪してまで不義の子を産んだイルヴァにとっては、今の生活は十分すぎる。
 このままもう数年もすれば、きっとキースのことを考えても胸が痛まず、純粋に彼の幸せを願えるようになる。そして、ただロランの幸せだけを考えて生きていけるようになるはずだ。
 そうなってくれればいいと、イルヴァは祈るように目を閉じた。

 

 

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