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あやかしの執愛 黒き蛇は無垢な乙女を夜ごとに貪る 1

第一話

 

 頬を撫でる南風は生ぬるく、寺の軒先で風鈴がちりん、ちりんと涼しげな音を鳴らしていた。
 羽化したばかりの蝉が短い命を削るかのように鳴き声を響かせ、朝から一日中、風鈴と混じり合って夏の音色を奏でている。
 太陽が西に傾いても蝉の声はやまなかったが、肌を焦がす日射しが弱まったのを見計らって、紗夜は人目を忍んで裏口から外へ出た。
 着替えと食糧の入った風呂敷を背負い、寺の土塀沿いに村へ下りる山道を探す。
 何度か下調べをして、あらかじめ山道の位置は頭に入れていたが、木の杖を使って足元を確認しつつ数歩進んでは土塀の位置を確かめた。
 ──早くここから離れよう。
 紗夜は唇を噛みしめて自分の顔に触れる。柔らかな頬は腫れて熱を持っていた。
 お前は作業が遅い、いくら何でもできないことが多すぎると叱られながら、住職に何度も打たれたからだ。
 じんじんと痛む頬を撫でて、その手を閉じた瞼に乗せる。
 紗夜は生まれつき目が見えなかった。だから普段は眼球が乾かないように瞼を閉じているのだ。
『紗夜、目が見えなくてもできることはたくさんあるの。だから、できることから試してみましょう』
『そうだ。はじめは時間がかかってもいいからな』
 ──お母さん、お父さん。
 亡くなった両親はいつも紗夜を励まして、前向きに生きるようにと教え諭し、周りの人々に紗夜について何か言われたとしても必ず守ってくれていた。
 両親の教育があったからこそ、紗夜は困難にぶつかっても挫けずに生きていこうと思っていたのに──。
『あいつ、いちいち話しかけてきて鬱陶しいよな。目が見えないくせに色々と手伝おうとしてさ。余計に手間が増えるだけだっての』
『ほんとだよ。任せたって時間がかかるし、失敗ばっかりしておれたちの仕事が増えるんだよな。相手するのが面倒くせぇ。住職だって、あいつにだけ厳しいし』
 両親亡きあと、紗夜が身を寄せた寺で出会った他の孤児たちの会話である。井戸まで水を汲みに行った時、たまたま耳にしてしまった。
 紗夜は根が明るい性格で、どうにか寺の生活に馴染もうと努力していたが、すべて空回りだったらしい。
 これ以降、紗夜は人に話しかけるのが怖くなった。心の内を明かせる相手もおらず、しまいには孤立して、ある日とうとう耐えきれなくなった。
 ──この寺を出て、どこか別の場所で生きよう。
 もし父母が生きていたら、なんて浅慮な真似をするのだと叱っただろうか。
 しかし、十三歳の紗夜は世間知らずで無鉄砲で、何とかなるはずだと考えていた。
 寺の外へ出たことがなく、土地勘もない盲目の娘が一人で山を歩くことが、どれほど危険なのかを考えもせずに。
 身をもって己の愚かさを実感したのは、村まで山道を下りるはずが、途中で道に迷った時だった。
 日が落ちてしまったので山寺まで参拝にくる者もおらず、紗夜は前も後ろも分からない状態で歩き続けた。
 やがて山を登っているのか、下っているのかも判断できなくなり、疲労で足の動きが鈍り始めた頃──あっけなく山の斜面から落ちた。
「きゃっ……!」
 足が空をかいて視界はぐるぐると回転し、全身が険しい斜面に打ちつけられて転がり落ちていく。
 ──ああ……どうして、こんな馬鹿なことをしてしまったんだろう。
 死への恐怖と、自分の浅はかな行動に対する後悔がとめどなく押し寄せてきた。
 もし生きて帰ることができたら、衣食住を与えられるだけでも感謝する。
 諦めず、萎縮せずに人との関わりを作って、孤独を感じても支えてくれる相手と出会えるよう精一杯生きるのに──。
 次の瞬間、どんっと全身に強い衝撃があって紗夜の意識は暗転した。

 それは、いつもと変わらぬ夏の夕暮れ。
 盲目の少女が神隠しに遭った日の出来事である。

 

 

 

 ──五年後。
 紗夜は花嫁衣装を着せられて、村の裏山にある社殿の中央で正座をし、周りの音に耳を澄ませていた。
 ここは“黒蛇様”と呼ばれる蛇神が祀られている社だ。
 社殿は物々しい空気で満ちている。村人の緊張した息遣いが聞こえ、入り口のほうでは葬儀のように銅鐘がカーンと鳴らされた。夏を奏でる風鈴の音よりもやや低めで、よく耳に馴染む音だ。
 ──鐘の音は好き。昔からよく聞いていたから。
 寺育ちの紗夜にとって鐘の音は身近にあった。
 朝昼晩と鐘が鳴るので時刻を知るのに役立ち、大晦日に鳴らす除夜の鐘をはじめとして季節の折り目を報せるためにも鐘が鳴らされたからだ。
 人が近づいてくる気配がして、威厳ある男の声が降り注いだ。
「覚悟はできているな、紗夜」
 寺で生活していた紗夜を養女として引き取り、衣食住の面倒を見ていた村の名家、冷泉家の当主の声がする。
 ──覚悟も何も、私には嫌だと拒否する権利は与えられていない。
 紗夜は唇を震わせてから細い声で「はい」と頷いた。
「支度は整っておるか」
「はい、こちらに」
 古い社殿の床があちこちで軋んだ音を立てる。控えていた村人が動き始めたようだ。
 周囲の音と気配に神経を尖らせつつ、紗夜は両手をぎゅっと握りしめた。
 これより行なわれるのは“供物の儀”だ。
 古くから、この村はたびたび水害に見舞われている。
 ゆえに数十年に一度、土地に棲むとされる蛇神“黒蛇様”に供物──妙齢の生娘を捧げることで水害から土地を護ってきた。
 そして今年がその忌まわしい慣習の年回り。
 村で暮らす娘の中から選別が行なわれて、冷泉家の養女である紗夜が選ばれた。
「紗夜、これを飲め。零さぬようにな」
 当主の指示で、大きめの酒盃を持たされる。おそるおそる顔を近づけたら鼻腔を刺すような強い酒の香りがした。
 つい顔を顰めてしまったが、当主に「飲め」とまた促されたので、紗夜はおとなしく口をつける。強烈な酒気に噎せながら飲み干したら、すかさず更に酒を注がれた。
 かなり強い酒らしく二杯、三杯と飲まされると、耐性のない紗夜は身体が火照って頭がふわふわとし始める。
 思考が麻痺して手まで震えてきた頃、盃を取り上げられて、酔ってゆらゆらと揺れる身体が冷たい床に横たえられた。
「堪忍な」
「これも村のためじゃ」
 遠くで村人たちの声が聞こえる。
 供物の儀。それに選ばれた娘は“神に嫁ぐ”という名目で花嫁の支度を整え、社に棲む蛇神の餌となる。
 とはいえ生きたまま蛇神に喰われるのは惨すぎるということで、強い酒を飲ませて酩酊している間に村人の手で命を絶つらしい。
 蛇神はその絶命したての生々しい血肉を供物として喰らい、水害を治めて、村に庇護を与えるのだとか。
 紗夜は酔いで朦朧としながら唇を噛みしめた。
 ──本当に、私は殺されるのね。
 実在するのか分からない黒蛇様のために、と胸中で嘆く。
 古い信仰というものは年を食った者ほど熱心だ。しかし実際に蛇神の姿を見た者はいないのだと、儀式の準備中に村人たちが小声で話しているのを聞いた。
 それでも数十年おきに供物の儀は行なわれてきた。
 紗夜がまだ寺にいた頃、住職が寺に保管された近隣の村の記録を読み聞かせてくれたことがあるが、供物の儀を行なうたび、翌日には娘の遺体が跡形もなくなっていたと記されているらしい。
 蛇神に供物を捧げ始めてから水害も起きていないため、連綿と伝わる慣習をやめようと言い出す者がいないのだろう。
 手足を押さえつけられると恐怖心がむくりと頭をもたげて、喉がひゅっと鳴った。
 ──やっぱり、死ぬのは怖い。
 誰かが請け負わねばならない役目と分かっていても、いざその時になると覚悟したはずの心が揺らぎそうになる。
 これも村のため。昔からの慣習だからな。堪忍な、堪忍な。
 あちこちから宥める声が聞こえても震えは止まらない。
「あ……い、や……」
 呂律の回らぬ舌で言葉を紡いだが、舌を噛まないようにと猿轡をされて余計に恐怖が煽られた。
 ──怖い……!
 覚悟して、諦めていても、死ぬのは恐ろしかった。
 目尻から涙がつうっと流れ落ちたが、村人たちは紗夜を憐れみこそすれ押さえつける手を緩めたりはしない。
 やがて胸元に激痛が走り、恐怖に取って代わった苦痛に襲われながら思う。
 ──苦しい……悲しい……。
 生温かい血とともに命が流れ落ちるのを感じて、光を灯さない目から涙が溢れた。
 両親が亡くなってから、紗夜は生き方を選べなかった。
 周りの人々の言うことに唯々諾々と従って、死に方すらも選ばせてもらえない。
 せめて村人に恩義を返すためだとか、紗夜が犠牲になることで大切な人が救われるだとか大義名分があれば、この死だって受け入れられただろう。
 だが、この村は生まれ育った場所ではなく、誰も紗夜を必要としていない。
 育ての親である住職でさえ、紗夜がどうなろうが関心を抱いておらず、村人は同情こそすれ彼女の命を捧げることで生活が守られると信じている。
 その根底にあるのは、紗夜は盲目で身寄りがないから構わないだろうという侮りだ。
 薄れゆく意識の中、口惜しさに猿轡を噛みしめた時だった。
 やにわに外が騒がしくなって、儀式に参加していない村人が駆けこんできた。
「黒蛇様だ! 黒蛇様が社の外に現れたぞ……!」
 怖れと不安の叫びが響き渡り、あたりが一気にざわめく。
 しかし、冷泉家の当主が一喝した。
「うろたえるな、皆の者! 黒蛇様は、この村の守り神! きっと供物の儀のために参られたのだろう。我らに危害を加えることはないはずだ……!」
 冷静を装っているが、その声には明らかな動揺があった。
 ──何か……音が、する……。
 力なく床に横たわっている紗夜の聴覚は、その音を拾った。
 ずる、ずる、と。村人たちの足音や慄く声の向こうから、まるで重たい土嚢を地面で引きずるような音が近づいてくる。
 ずる、ずる、ずる、ずる。
 ──これは……生き物が、這う音?
 その時、近くにいた村人が堪りかねたらしく「うわああ!」と悲鳴を上げた。
 それを皮切りに逃げ出す足音が交錯し、紗夜の周りから人の気配が一気になくなる。
 ──本当に、黒蛇様なの……?
 ずる、ずる、ず、ず……。
 異質な音が真横で止まった。途轍もなく巨大なものが、すぐそこにいる。
 紗夜が薄目を開け、暗闇に向かって縋るように手を伸ばしたら、指先に硬くて冷たいものが触れた。
 それが生き物の鱗であると理解した途端、眦から涙が溢れ落ちる。
 ──ああ……私は、ここで死ぬのね……。
 そう確信し、死への恐怖に包まれると同時にかすかな安堵もあった。
 息をするのもままならないほどの身体の痛みも、悲哀の底に沈んだ心の痛みも、これですべて終わるのだ。
 肩の力をふっと抜こうとした時だった。
「──紗夜」
 真上から男の低い声が聞こえた。蛇神の声だろうか。
 ──どうして……私の、名を……?
 疑問に思った瞬間、指先から鱗の感触が消えて、代わりに人の形をした大きな手で握り返された。
 噛まされていた猿轡をすばやく解かれ、労わる手つきで頬を撫でられてから、いきなり逞しい腕に抱き上げられる。
 そうかと思えば力強く地を蹴る音がして、涼しい風が頬を切った。木々と草の匂いが鼻腔を満たす。どうやら山を駆けてどこかへ運ばれているらしい。
 てっきり蛇に丸呑みされると思ったのに何が起きているのだろう。
「……あなたは、蛇神様……?」
 紗夜を抱えて疾走する誰かに尋ねてみたが、その声はほとんど音にならない。
 質問の途中で吐息がひゅーひゅーと音を立てた。苦しくて、男の肩にぐったりと頭を凭せかけたら返答があった。
「しゃべるな。死なないことに集中しろ」
 ずいぶんと無理を言うものだ、と紗夜は思う。
 なにしろ胸の痛みがひどくて満足に息もできない。今にも事切れそうなのだ。
 ──ああ、でも……何故だろう……。
 自分を抱きかかえる手は、なんだかとても優しい。
 紗夜は曖昧模糊とする意識を保ちながら手を伸ばし、そこにある男の顔に触れた。咎められなかったので輪郭をなぞってみる。それは、やはり人の形をしていた。
 指先で口元を探り当てると、彼の唇が動く。
「今は天狗のもとへ向かっている。あの爺さんなら、お前を癒す術も知っているはずだ」
 ──天狗?
 幼少期、母が語って聞かせてくれた民話に登場したが、神やあやかしといった人ならざる存在である。
「だから、それまで死ぬなよ」
 紗夜は小さく肩を揺らした。村の者たちは古臭い慣習にのっとり、自分たちが生きるために紗夜の死を願ったのに、この得体の知れない誰かは「死ぬな」と言うのだ。
 しかし、まともに意識を保っていられたのはそこまでだった。痛みと強い眠気のせいで思考が鈍り、手から力が抜けていく。
 すると風前の灯火である紗夜の命を繋ぎとめようとでもいうのか、抱きかかえる手に力がこもって抱擁された。
 名前は知らない。顔も分からない。それどころか人かどうかさえ判然としない相手の腕の中にいるのに、紗夜は消え入りそうな笑みを浮かべた。
 誰にも必要とされていないと思ったが、自分の死を惜しんでくれる人がいる。
 ただそれだけのことが嬉しくて、ひとりでに涙がぽろりと頬を伝い落ちていった。
 その直後、大事な糸を断ち切られたみたいに紗夜の意識は途切れた。

     ◆

 紗夜は生まれた時から目が見えなかった。
 だが、それを悲観しながら生きてきたわけではない。
『紗夜、目が見えなくてもできることはたくさんあるの。だから、できることから試してみましょう』
『そうだ。はじめは時間がかかってもいいからな』
 愛情深い両親は一人でできることはたくさんあると教えてくれて、幼少期は貧しくも幸福な日々を送ることができた。その日々は紗夜の心を明るく健やかに育てた。
 しかし、両親との暮らしは長く続かない。
 集落で伝染病が流行して、一家全員が罹患したからだ。
 幼い紗夜は優先的に治療を受けて命を取り留めたが、両親は重症化して逝去した。
 集落の半分以上が亡くなるという惨事で、身寄りを失くした彼女は『盲目の娘はいらぬ』と親戚に引き取ってもらえず、やむなく山向こうの寺に預けられることになった。
『目が見えない娘だからといって、お前を特別扱いはせぬぞ。自分でできることは自分でするのだ。一人で生きられる術を身につけよ』
 寺の住職は厳しい人だった。説法を用いて礼儀や教養を教えてくれたが、叱りつける時は容赦なく手を上げた。
 とはいえ衣食住は与えられたし、寺の構造を把握して掃除や洗濯のやり方を覚えてしまえば、時間はかかるが他の人と同じ作業ができた。
 ──両親のぶんまで、私は精一杯生きよう。
 紗夜は父母を失くした喪失感を埋めるように寺のお務めをこなし、住職の厳しさも優しさの裏返しだと信じて馴染もうとした。
 それでも“目が見えない”というだけで、たびたび困難に直面した。
 特に行動範囲は、かなり制限された。
 山間の寺から村へ下るには長い階段と山道を通らなければならず、崖や斜面があり危険だったので敷地の外に出られない。
 寺にいる孤児たちの輪にも入れてもらえなくて、紗夜はいつも一人ぼっちだった。
 十三歳の頃、一度だけ、寺の生活が嫌になって逃げ出したことがある。
 しかし、途中で山道を外れて斜面を転げ落ち、頭を打って昏倒した。
 それからの数ヶ月間、どうやら紗夜は行方知れずになったらしい──が、その間の記憶はすっぽりと抜け落ちていた。
 崖から落ちたところまでは覚えているのに、気づいたら寺の一室で寝ていたのだ。
 住職の話によると、夏の夕暮れに行方をくらまし、初冬の夕暮れに傷だらけの状態で境内に横たわっているところを発見されたのだとか。
 まさに神隠しのごとき出来事であった。
 結局、紗夜は自分がどこで何をしていたのか思い出すことができなかったが、ほどなく檀家の間で“神隠しから戻った娘”として有名になった。
 有名な商家である冷泉家が話を聞きつけて、身寄りのない紗夜を養女として引き取りたいと申し出たのは翌年の春のこと。
『お前は冷泉家へ行くのだ、紗夜。幼子で盲目ゆえに行き場がないからと、この寺で引き取ったが、お前もそろそろ年頃だ。妙齢のおなごを寺に置いておくのは体裁も悪い。冷泉家は裕福な家だから、そこの養女となれば何不自由なく暮らせるであろうよ』
 住職はそう言って話を進めてしまい、紗夜は寺から追い出されるようにして冷泉家に迎え入れられた。
 住職が言っていたとおり、そこでの暮らしは確かに不自由はなかった。
 けれども一人では何もさせてもらえなかった。
 屋敷の奥にある離れに居を与えられて、どこへ行くにも使用人が付き添い、外出は禁止。気ままに庭を散歩することも許されない。
 家人との交流はなく、人目を避ける生活を余儀なくされたため、紗夜はどうして自分が引き取られたのか分からなくて困惑した。
 そんな戸惑いの日々は、ある会話を耳にしたことで終わりを告げる。
 夜半に用を足したくなって壁伝いに母屋にある厠へ向かった時、冷泉家の当主が妻と話す声が聞こえたのだ。
『あの娘をいつまで離れに置いておくつもりなのですか』
『儀式までの辛抱だ。供物として選別するのは村の娘という決まりだが、どの家も若い娘を差し出したくはないからな。だからといって、古くから伝わる慣習を辞めるわけにはいかんのだ。よそから身寄りのない娘を連れてくるしかあるまい』
『ほんに恐ろしい儀式ですこと。もし百合子が選ばれていたらと考えたら、わたくしは怖気が走ります』
 百合子、というのは冷泉家の一人娘だ。紗夜よりも二つ年下で、邸宅へ連れてこられた際に一度だけ顔を合わせたが、紗夜を無視してまともに会話ができなかった。
『今しばらく我慢してくれぬか。供物の儀にあの娘を選ぶというのは、村人も了承しておる。あの寺は隣村にあるゆえ、この村に招くには養女にするのが一番だったのだ』
『仕方ありませんね。でも住職は納得されているのですか? あの娘は寺で育てられたのでしょう』
『本堂の改修費用を出すと申し出たら、娘のことは好きにせよと快諾されたぞ』
 固唾を呑んで聞いていた紗夜は喉がきゅっと詰まったかのような感覚を抱いた。
『あの娘は数ヶ月も姿を消していたそうだが、記憶を失くした上、栄養状態もよく戻ってきたのは気味が悪いと顔を顰めておったな。化生の者に取って代わられたのではないかとも疑っていたようだから、さっさと追い出したかったのだろう』
『まぁ、化生の者ですって? なんと恐ろしい……』
『真偽のほどは分からぬが、どうせあの娘は盲目で身寄りもない。神隠しから戻った娘と周知されているのならば、神に捧げる供物としてもちょうどよいであろう』
 その後、どうやって部屋に戻ったのかは覚えていない。
 気づけば部屋の隅で膝を抱えて泣いていた。
 以前、住職が近隣の村について話してくれたことがあり、供物の儀がどういった儀式であるかは知っていた。
 そして供物に選ばれた娘が村人の手で命を絶たれるということも。
 養女にされた理由はもちろん、住職が改修費用と引き替えに紗夜を差し出したということが衝撃的で、ぼろぼろと涙が溢れて止まらなかった。
 ──私が死のうが、どうでもいいんだわ。
 恐怖もあったが、それ以上に、自分がどうなろうが誰も気にかけないという事実を突きつけられて悲しかった。
 ただ懸命に生きてきただけなのに、何故これほどまでに蔑ろに扱われなければならないのか。
 ──もう、ここから逃げてしまいたい。
 そんな考えが過ぎったものの、逃げたところで行く宛てはなく、このあたりの土地勘もないため遠くへは行けない。やみくもに脱走したせいで崖から転げ落ちたことまで思い出してしまった。
 紗夜は失意の底に沈みながら、普段は目が乾かないようにと閉じている瞼を開けた。
 そこにあるのは、真っ暗な無の世界。瞼を開けても閉じても変わらぬ暗闇が広がっていて、彼女はいつも一人きり。
 誰かと心を通わせることができず、抱きしめてくれる人もいない。
 ──なんて寂しくて、悲しい。
 どこへも行けないまま、ここで死を待つだけなんて。
 小刻みに震える両手で自分の身体を抱きしめた。
 目の前に広がる深淵に呑みこまれて、どこまでも続く孤独に圧し潰されそうだった。