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あやかしの執愛 黒き蛇は無垢な乙女を夜ごとに貪る 3

第三話

 

 夜が更けて、室内は薄ぼんやりとした行灯の光に照らされていた。
 時雨は覚束ない手つきで紗夜の肌を清めると、首まで蒲団をかけてやる。
 彼女の口元に手を翳し、しっかりと呼吸をしているのを確かめて、温もりが戻った頬を手のひらで撫でた。
 ──呼吸は安定しているな。
 しばし、紗夜の寝顔を眺める。もともと色白だったが、まだ血色が悪いせいか肌が一層白く見えた。長い睫毛が目元に影を作っている。
 時雨は指先で、紗夜の丸みを帯びた輪郭をなぞった。
 人間の美醜は分からないが、柔和な垂れ目と小ぶりな鼻は愛嬌があり、唇は柔らかくてふっくらとしている。
 ひとたび目を開けると、そこにあるのは夜の底のような呂色の瞳で、見えてはいないはずなのに突き刺さるほどまっすぐに射貫いてくるのだ。
 ──まぁ、さっきは怖がっていて、ほとんど瞼を開けなかったが。
 時雨はため息をつき、観察をやめて立ち上がる。庭に面した障子を開け、縁側へ出て数歩進んだところでよろめいた。
 緊張の糸が切れたからか、立ち眩みに襲われて近くにあった柱に凭れかかるが、その場に立っていられなくてずるずると座りこむ。
「はぁ……」
 眩暈と虚脱感を堪えながら、片膝を立てて柱に寄りかかった。
 ──ひどい体調だ。しばらく動けない……妖力をごっそりと持っていかれたからな。
 青白い顔で息を整えつつ、乱れた黒髪をまとめている紐をほどく。
 背中のあたりまで伸びた髪は鬱陶しいが、切ってもすぐに伸びてしまうため、普段は邪魔にならないよう三つ編みにしていた。
 ほどいて緩やかに波打つ髪をかき上げたら、草を踏みしめる音がした。
 時雨はぴくりと肩を揺らし、音のしたほうへ瞳孔の開いた双眸を向ける。黄金色の目を凝らすと、月影に照らされた庭先に銀髪の男が立っていた。
「うまくいったのか、時雨」
 一本歯の下駄を履いた美丈夫──梧桐である。見た目こそ壮年の男の姿をしているが、本性は長命な天狗だ。
 年齢はゆうに八百歳を越えており、腰の曲がった老爺の姿で現れることもあった。
「天狗の爺さんか。あんたは気配がないから、いきなり現れると驚くんだが」
「気配を消すのは癖でな、悪かったのう。その様子だとうまくいったようじゃな」
「なんとかな」
「あの娘は?」
「今は寝ている。呼吸も安定しているようだ」
「そうか。……して、おまえさんの体調は?」
「最悪だ。立ち上がることもできない」
「まぁ、そうであろうな」
「分かっているなら訊くなよ。性格の悪い爺さんだ」
 顔を顰めたら、梧桐がくつくつと笑った。
「ただでさえ弱っていたところに、あの娘に分け与えたぶん、妖力が枯渇しかけておるんじゃろう。しかし、死にはせぬよ。休めば治る」
 そう言って、梧桐が右手に提げていた笹の包みを見せてくる。離れていても笹の中からほのかな味噌の匂いがした。
「どれ、儂が滋養のある飯でも作ってやろうな。おまえさんが動けなければ、大事な娘の世話もできんじゃろうて」
 お節介な天狗だな、と時雨は内心ぼやく。
 ──この爺さんをはじめとして、街で暮らす連中はお節介が多い。
 とはいえ、そのお蔭で、時雨みたいな素行の悪い存在でも受け入れてもらえるのだ。
 この世界には、人間とは別に“あやかし”という異形が存在した。
 あやかしは人の世における“妖怪”と同義であり、人間と同じように街を作って暮らしていて、そこは人間界と少しずれた異界にある。
 人間界とは行き来も可能だが、異界への入り口は山奥に隠されているため、妖力を持つ者だけが探し出すことができる。
 時雨が紗夜を連れてきたこの場所も、幽朧街と呼ばれる、あやかしの街だった。
 梧桐は、その幽朧街で名の知れた天狗だ。神通力を扱える天狗は山神や土地神に近い存在とされ、あやかしの中でも一目置かれる存在である。
「相変わらず余計な世話を焼くな、爺さん」
「ほっほっほ。おまえさんは危なっかしいからのう、放っておけぬだけじゃよ」
 時雨は不機嫌そうに鼻を鳴らしたが、梧桐は気にしたそぶりもなく近づいてきて下駄を脱ぎ、廊下に上がった。
 そして紗夜の寝ている部屋を無遠慮にひょいと覗きこむ。
「あの娘、紗夜と言ったかのう。なかなかに美しい御魂を持っておる。霊力は強くなさそうじゃから、あやかしに絡まれることは少なかったであろうが、その存在くらいは感知していたかもしれんな」
「いや。気づいてはいないと思う」
「気づいていない、とは?」
「紗夜は目が見えないからな。そのせいで儀式の供物にされたんだ」
 妖力の弱いあやかしは、人の世で霊力を持つ人間を見つけると話しかけたり、わざと転ばせたりして悪戯することがある。
 しかし目が見えなければ、違和感があってもあやかしを見分けるのは難しそうだ。
「ああ、そうであったな。目が見えない者は他の感覚が研ぎ澄まされるという。あの微弱な霊力は、それで発現したんじゃろう」
 梧桐は重々しく呟くと、黙りこむ時雨を振り返った。
「あやかしの存在に気づいておらぬのならば、どう説明するつもりじゃ」
「どうって、そのまま説明するつもりだが」
「急なことで混乱し、怯えるかもしれぬだろう」
「一度にすべてを話すつもりはない。まずは俺たちや、この街のことを説明して、慣れるまで様子を見る。……もっと詳しい話をするのは、それからだ」
「ふうむ。確かに、そのほうがよいか」
 神妙に頷いた梧桐が含み笑いを浮かべて厨へ向かう。
「おまえさんが血相を変えてあの娘を連れて来た時は驚いたがのう、ひとまず心配はいらなそうじゃ。怖がられないとよいな」
 時雨は吊り目を細めて天狗を見送ると、その眼差しを夜空へやった。
 ──もう、すでに怖がられたんだが。
 目を閉じると、この腕で抱きしめた紗夜の艶めかしい姿が蘇ったが、そこに怯えて逃げ出そうとした彼女の姿が重なる。
 抱かれてしまうのが怖いと震えて泣いていたのだ。
 ──紗夜には相手の顔が見えない。その上、理由も分からず抱かれるなど、怖がるのは当然だろう。しかし、まさかあそこまで怯えられるとは。
 どうしたものかなと物憂げに息を吐く。
 濃紺の空には人の世と変わらず星が散っているが、ここは幽朧街。
 紗夜が人の世に未練があるかどうかは不明だが、あやかしの街へ連れて来たのだと告げた時、彼女がどう反応するのかは想像できなかった。

     ◆

 暗闇の中で意識が覚醒し、紗夜は喉の渇きで呻き声を漏らした。気だるげに寝返りを打ち、震える手であたりを探る。
 ふかふかの敷蒲団があり、その向こうに畳が広がっていた。藺草の香りがして、どこからか涼しい風が吹いてくる。
 ──ここは、部屋……?
 だが、おそらく冷泉家の部屋ではない。生活していた離れの敷蒲団はここまでふかふかしておらず、敷き詰められた古い畳から藺草の香りはしなかった。
 紗夜は、自分の身に何があったのかと記憶を遡った。
 確か供物にされて死にかけた時、謎の男──時雨が現れたのだ。
 交わらないと死ぬと言われて、朦朧としながら肌を重ねたところまで覚えているが、そのあとはどうなった?
 ──意識が飛んでしまって、思い出せない。
 ひとりでに身体が震え始めたので、それを押さえつけるように自分で抱きしめる。
 ──私は、ちゃんと生きているのよね。
 村人たちの手で殺されかけた時、胸から多量の血が溢れたのを感じた。呼吸をするのも苦しくて、ここで死ぬのだなと覚悟したのである。
 紗夜はおそるおそる着物の合わせ目に手を入れた。汗ばんだ胸元を探ってみたら、ちょうど真ん中あたりに傷痕がある。
 供物の儀を行なうまでこんな傷はなかったはずだ。
 ──でも、傷は塞がっているみたいだし、痛みもない。
 時雨と交わったからだろうか……ただ交わっただけで傷が塞がるなんて、そんなことが本当にあり得るのか?
 およそ現実味がなく、その時の記憶も朧げだから、苦しみから逃れるために夢でも見ていたのではないかという気がしてくる。
 しかし、そうなると、どこからどこまでが夢だったのか。
 紗夜はひとまず蒲団を出て、手のひらで畳を探りながら進んだ。
 ──とにかく、ここがどこなのか確かめないと。
 誰かいるのなら話を聞きたいところだが、大きな声で呼ぼうとしても喉が渇きすぎていて掠れた声しか出ない。
 障子を探り当てて開けてみると、ひんやりとした空気が頬を撫でる。
 どうやら廊下のようだが、しーんと静まり返っていた。
 ──静かすぎる。
 壁伝いに突き当たりの角を曲がってみても人の気配がまったくないので、段々と不安になってきた。身体に力も入らなくて壁に凭れかかると、全身がずきんと痛む。
 ずき、ずき、と四肢に疼痛が走り、その場に蹲ってしまう。
「っ……身体が、痛い……」
 紗夜は唇を噛みしめ、膝を抱えて骨ばった膝小僧に額を押しつけた。
 どこかも分からない真っ暗闇の中、人の気配もなくて一人きり。
 疼痛とだるさで身体は動かず、心細くて堪らなかった。
 ──何も分からなくて、怖い……どうしたらいいかも分からない。
 瞼を開けても、そこに広がるのは何もない深淵だ。
 凍えそうな孤独を感じて、紗夜は身震いをした。弱りきっていて心を奮い立たせることもできず、子供みたいに丸くなって震えていた時だった。
 自分の来たほうから、ぎしっ、と廊下の床が軋む音がした。
 ──誰かが来る。
 ぎし、ぎしと床の軋みが近づいてきたので、廊下の隅で身をひそめる。
 まさか村人が死に損なった自分を連れ戻しに来たのではないかと、そんな恐怖に駆られてぶるぶると震えていたら、少し離れたところで足音が止まった。
 障子を開ける音がし、怪訝そうな男の声が聞こえる。
「ん? ……は?」
 ──あれ、この声は……。
 聞き覚えのある声だったため、紗夜はおずおずと面を上げた。
 部屋に駆けこんだのか慌ただしい足音が響き、あちこち探し回る音がしたかと思えば、今度は床の軋む音がこちらへ向かってくる。
 息をひそめて待っていると、すぐそこまで迫ってきた足音がぴたりと止まった。
「なんだ、こんなところにいたのか」
 頭上から降り注ぐ声は、紗夜を社から連れ去った男、時雨のものに間違いなかった。
「目が覚めたのなら、俺を呼べ。どこへ行ったのかと思ったぞ」
 肩に触れられた瞬間、全身がびくりと揺れた。
 時雨も彼女が緊張していると気づいたのか、不安をほぐすように肩を撫でてくれる。
「傷つけたりはしないから、そんなに緊張するな。ここへ来るまでに何があったのかは覚えているのか?」
 逡巡ののち、こくりと頷けば時雨の声が近くなった。
「俺のことも覚えているか?」
「……ええ。時雨でしょう」
 小声で応じたら、時雨が満足げに「そうだ」と答えて、今度は手のひらを紗夜の額に添えてくる。ひんやりとして心地いい。
「無事に目が覚めたのはよかったが、だいぶ熱は高そうだな。しばらく寝こむぞ」
 そう言われてようやく、紗夜は身体のだるさと喉の渇きが疼痛のためだけではなく、自分に熱があったからだと気づいた。
「ひとまず部屋へ戻ろう。廊下は冷える」
「……ここは、どこなの?」
「安全な場所だ。自分で歩けるか」
 促されて立とうとするが、どうしても足に力が入らない。
 すると、いきなり身体が浮いて、あっという間に部屋まで運ばれた。
 さっきまで寝ていた寝床に横たえられて、呆気に取られているうちに首まで掛け蒲団をかけられる。
「何か欲しいものはあるか?」
「……喉が、渇いて……」
「白湯を持ってくる。粥は食べられるのか」
「……ちょっとだけなら」
「分かった。用意してくるから待っていろ」
 時雨の声が遠ざかっていき、念を押すような言葉が聞こえた。
「俺が戻ってくるまで、そこを動くな。おとなしく休んでいろよ」
 紗夜の返事を聞く前に足音が離れていく。
 掛け蒲団にぬくぬくと包まり、耳を澄ませていた紗夜はゆっくりと起き上がった。
 ──時雨に助けられたのは夢じゃなかったんだ。
 彼の手が触れた肩に、自分でも触れてみる。
 時雨は傷つけたりはしないと言った。信じてもいいのだろうか。
 ──今は、信じるしかない。
 身体は弱り切っていて歩くのもままならない。
 もし逃げるとしても、自分のいる明確な場所が分かっていない状態で逃走するのは愚策であることを、紗夜は過去の経験から理解していた。
 さほど待たないうちに時雨が戻ってきた。温かい白湯を紗夜に飲ませてから、冷めた粥を匙ですくって食べさせてくれる。
「ほら、口を開けろ」
「……う……」
「どうした?」
「身体が、痛くて……」
 全身がずきずきと痛むのだと細い声で告げたら、そっと手を取られた。
 やにわに時雨の息遣いが接近し、心の準備をする間もなく唇に柔らかいものが触れる。
「えっ……ん……」
 接吻をされているのだと気づいた時には、口の中まで彼の舌が忍びこんでいた。
 反射的に時雨の胸に手を添えたが、それ以上は力が入らない。ぬるぬると口内を舐められているうちに、また身体の内側がぽかぽかしてきた。
 それと同時に疼くような痛みが消えていく。
 たっぷりと舐られて口づけを終えると、紗夜は戸惑いぎみに自分の唇に触れた。
「……今のは、何?」
「俺の妖力を分けた。楽になっただろう」
「痛みは、消えたけど……」
 ──ようりょく、って何なの? 前も聞いたような……。
 首を捻っていたら口元に粥の匙を押し当てられた。
「粥だ。口を開けて食べろ」
「あ、うん……は、む」
 促されるまま粥を食べて腹が満たされたところで、再び寝床に横たえられる。
 しかし先ほどとは違い、時雨が隣にもぐりこんできた。
「そっちへ寄ってくれ」
「……あなたも、ここで寝るの?」
「ああ。俺も、さすがに疲れた……横になって休みたいんだ」
 紗夜の世話をしていた時は飄々としていたが、彼の声には疲労の色が滲んでいる。
 時雨は紗夜を抱きかかえると、当然のように腕枕をして眠る体勢に入った。
「たっぷりと寝て元気になったら、たらふく飯を食い、まるまると肥えろ」
「……肥えろ?」
「そうだ。うまそうになるまでな」
 うまそうになるまで、とは──肥えたら食べられてしまうのだろうか。
 湧いた疑問を口には出さず、紗夜が少しためらってからおずおずと時雨に寄り添うと、緩やかな手つきで髪を撫でられた。
 その手の優しさに涙腺が緩みそうになり、奥歯を噛んで堪える。
 こんなふうに誰かと寄り添って眠るのは、亡くなった両親に添い寝された時以来だった。
「ねぇ、時雨……私が寝ても、側にいる?」
 消え入りそうな声で尋ねると、時雨が「何を訊くかと思えば」と呆れた声を出す。
「当たり前だろう。俺の他に、誰がお前の世話をするというんだ」
「世話を、してくれるのね」
「そのつもりだが。あまり手を焼かせるなよ」
 またしても、じわじわと目の奥が熱くなってきた。
 紗夜は深く息を吸いこんでから消え入りそうな声で問う。
「……あなたは、何者? どうして、私を助けて……世話まで、してくれるの?」
 わずかな沈黙をおいて、時雨は「さぁな」と静かに応じた。
「それを知りたければ、今は余計なことを考えずに寝ろ」
 彼が小声で「側にいるから」と付け足したので、紗夜はくすんと洟を啜った。
「おい。まさかとは思うが、ここで泣くなよ」
「……っ」
「泣くなって言っただろうが」
 時雨がため息をつき、ぽろり、ぽろりと涙を流し始める紗夜の背中をさすった。
 その仕草が、また優しかったから胸に巣食っていた不安や恐怖、孤独感まで薄れていく。
 ひとしきり泣いたら疲れてしまい、眠気と戦いながら時雨の胸に顔を押しつけていると宥めるような囁き声がした。
「お前は弱りきっている。だから、さっさと寝るんだ。紗夜」
 紗夜──そういえば、どうして名前を知っているのか。
 問いかけようとしたけれど、とうとう睡魔に軍配が上がって意識が飛んでしまった。

 

 

 

 凍てつくような冬の寒気が、指や耳の先といった身体の末端を冷やす。
 紗夜はぬかるんだ地面に横たわり、かすかな呻き声を漏らして疑問を抱いた。
 ──あれ……ここは、どこ? いったい、何があったんだっけ……。
 瞼を閉じたまま考えようとした瞬間、後頭部に鈍痛が走った。
 どうにか呼吸を整え、手探りであたりの様子を確かめる。地面は濡れており、接していた背中の体温が奪われていた。
 近くで川の濁流の音が聞こえる。ぬかるんだ地面から立ちこめる泥臭さと人の気配のなさで、ここが山の中であると推測した。
 ──どうして、私はこんなところにいるの?
 分からない。何も思い出せない。
 強かに頭と身体を打ちつけたらしく激痛が走って、ぐっと息を呑んだ時だった。
 ずるり、ずるり。
 どこからともなく何かを引きずる音がした。
 紗夜は敏感に音を聞きつけて、そちらへと顔を向ける。
 ずるり、ずるり、ずるぅり。
 ──何かが、近づいてくる……?
 重量感のある荷を引きずって運ぶ時のような音が近づいてきても、正体が分からない。
 あたりに人けがないので、もしかしたら大型の獣だろうか。
 混乱する頭で、逃げるべきかと考えるが、この目と痛む身体では遁走したところで徒労に終わると歯噛みする。
 引きずる音が真横で止まった。自分のものではない荒い息遣いが聞こえて、大きなものが傍らにいる気配がする。
 土の泥臭さに交じり、魚の腹を捌いた時の生臭さとよく似た臭いが漂っていた。
 やはり獣だろうか。紗夜を喰いにきたのか。
 心臓がきゅっと縮まる心地がしたが、喰われるのならばせめて自分が何に喰われるのかを確かめようと手を伸ばす。指先に当たったのは硬いものだった。
 そこにいる何かがびくりと身を震わせたが、紗夜は更に手を動かした。
 体表が鱗みたいなものに覆われていて、手を滑らすと尋常ではないほど大きい。
 これは、ただの獣ではない──“人ではない何か”だ。
 打ちつけた頭の痛みがひどくなってきた。雨のせいで身体が冷え、意識は混濁し始める。
 ここで喰われるのだと覚悟を決めて寝転がれば、傍らにいる生物の息遣いが近づいた。
 鱗に覆われた冷たいものが腕に触れて、ざらりとしたものが額を撫ぜていく。
 その不可解な感触と体温の低さに、どうしてか、紗夜は泣きたくなるような懐かしさを覚えて──。

「紗夜」

 いきなり名を呼ばれて、紗夜ははっと我に返った。
 今朝、見た夢を追想していたら上の空になっていたらしい。
「反応がなかったが、まさか寝ていたのか?」
「……ううん、ちゃんと起きていたわ。ただ、ちょっとぼんやりしていたの」
「まだ熱が高いからな。さっさと終わらせるぞ。……袖を抜け」
 真横から聞こえる時雨の指示に従い、のろのろと浴衣の袖を抜くと、ほっそりとした腕を温かい手拭いで拭かれた。
「お前、少し痩せたな」
「ここのところ、食欲がないから」
「何でもいいから口に入れろ。喰いたいものがあれば用意してやる」
 会話の最中も、時雨が粛々と紗夜の身体を拭いていく。腕から脇、首元と背中にかけて手早く拭いたあとは、正面に回って胸元や腰回りまで清拭してくれた。
 はじめの頃はぎこちない手つきだったが、今は動きに迷いが一切ない。
 時雨に保護されてから、目覚めるたびに彼が側にいた。
 ただ、紗夜は身体の痛みが軽減した代わりに高熱が出て、寝床から動けない日々が続いている。自分の足で歩くのすら億劫で、手を借りなければ厠へ行くこともできない。
 時雨は、そんな紗夜を甲斐甲斐しく世話してくれる。
 汗ばんだ肌の清拭と着替えに、食事の介助から熱に浮かされて心細いと訴える紗夜の添い寝まで、文句も言わずにこなした。
「新しい浴衣だ」
「……ありがとう」
 清潔な浴衣を着せてもらって半纏で包まれる。
 本来であれば男性に素肌をさらし、拭いてもらうなんて考えられなかったが、他に介助を頼める相手がおらず、全身だるくて衰弱しきっていたからやむを得ない。
 ぬるくなった白湯の椀を持たされたので、ゆっくりと時間をかけて嚥下する。
「身体の痛みは?」
「今は、ないわ」
「粥は? 昨夜から何も食べていないだろう」
「あまり食べたくない」
「ならば、白桃はどうだ。果物なら食べやすいはずだ」
「……果物なら、食べられるかも」
「よし。厨から取ってくるから待ってろ」
 時雨の声色が明るくなった。食べられるかもと言っただけなのに嬉しそうである。
 紗夜が横になって彼の足音に耳を澄ませていると、部屋を出て行った時雨はあっという間に戻ってきて、蒲団の横で桃を切り始めたが──。
「痛っ……」
 という声と、悪態が聞こえた。おそらく桃を切ろうとして指を切ったのだろう。
「……大丈夫?」
「たいしたことない。包丁は使い慣れていないんだ」
 時雨は献身的に世話してくれるが、料理は不得意のようだ。紗夜が食べる粥も、作って持ってきてくれる人がいるらしい。
 おっかなびっくり桃を切っているのが伝わってきたので、紗夜はかすかに笑んだ。
「私が切ろうか?」
「病人はおとなしくしていろ。切るだけだから、もう終わった。……さぁ、口を開けろ」
 のろのろと身を起こすと楊枝に刺した桃を口元に押しつけられた。小さく切ってあったが皮は付いたままだ。
 寺にいた頃、白桃は高価な果物とされていたが、たまに貰い物だからと一欠片だけお零れに与ることがあった。その時、皮は剥いてあった気がする。
 ──まぁ、いいか。
 皮付きでも気にせずに咀嚼する。わずかな渋みがあったが、ごくりと飲みこんだ。
「おいしい……もう一個、食べてもいい?」
「何個でも食べろ。お前のぶんだ」
「時雨は食べないの?」
「俺は、桃は喰わない。……喰ったことがない」
 紗夜は二口目をもぐもぐと食べながら、それきり黙りこむ時雨に話しかけた。
「試しに食べてみたら?」
 熟れた白桃は瑞々しくておいしい。せっかくなら一緒に食べたい。
 そう伝えても返答がないから、紗夜はひとまず楊枝に桃を刺してもらい、自分で受け取って彼のほうへ差し出した。
「甘くて、おいしいのよ。……口、開けて。二人で分けて食べましょう」
 いつも食べさせてもらっているみたいに掲げたら、時雨が息を呑む気配があったが、ほどなくして楊枝の先から桃が消失する。おとなしく食べてくれたようだ。
「どう?」
「なんだこれ、甘すぎる。よく平気で喰えるな」
「おいしいけど」
「甘いものが好きなのか?」
「どうかしら……私、寺で育ったんだけど、甘いものはあまり出なかったの。村の食事でも食べる機会は少なかったわ。でも、おいしいとは思う。だから、好きなのかも」
「やっぱり残りは全部、お前が喰え」
 彼が心底嫌そうな声で「俺はいい」と言うものだから、紗夜はつい笑ってしまった。
「時雨は、甘いものが苦手なのね」
「好きではないな」
「じゃあ、好きな食べ物は?」
「考えたことがない。何でも喰うから」
 そもそも頻繁に食事する必要がないからな、と時雨は小声で付け足し、きょとんとする紗夜の額を小突いた。
「さっさと喰って寝ろ。また顔が赤くなってきた。熱が上がってきたんじゃないか」
「……そうかも。食べて寝るわね」
 桃を食べられるぶんだけ口に運んで、ぬくぬくと蒲団に包まると、当然のように時雨がもぐりこんでくる。ここへ来てから彼とは一緒に寝ていた。
 最初は驚いたものだが、紗夜も少しずつ慣れてきたので拒否せず受け入れる。
 それに体調が悪いと人の温もりが恋しくなるのだ。
 紗夜はほっと胸を撫で下ろして、時雨の胸に顔を寄せた。
 ──私は一人じゃない。
 眼前には、いつもと変わらぬ真っ暗闇が広がっている。でも寂しいとは思わなかった。
 寝かしつけるみたいに髪を撫でる時雨の手と、いつの間にか頭の下で枕代わりになってくれている腕。彼のしてくれることがすべて温かい感情に変わり、紗夜の心に入りこんでくる。
 ゆっくり、ゆっくりと時間をかけて凍てつく氷を解かしていくかのように。
 安心しきってうとうとし始めた時、かすかな声が鼓膜に届いた。
「……まだ……まだ、だめだ……」
 これは時雨の声だろうかと朧げに思う。
「……焦らず……急かさず……」
 髪を撫でていた手が離れていく。続いて下唇に指が置かれて、くっと押されたので口が少し開く。
 紗夜は夢うつつの状態で、口内にそろりと忍びこんでくる長い舌を受け入れた。
 ぬる、ぬる、と舐められているうちに身体が温かくなる感覚があり、ほっと嘆息する。
 ──これ……気持ちが、いい……。
 朦朧としながらそう思って、時雨の着物の襟をぎゅっと掴んだら、その手を優しくほどかれて繋がれた。
 一本ずつ指を絡め、口の中まで舐められて、ふわふわとした夢見心地になるが、同時に不思議だなと思った。
 繋いだ手はがっちりと握られている。身体は彼と隙間なく密着していた。
 そのことに安心し、尚且つ、ぴたりと寄り添った状態がとても自然な気がして──。
 今はまだ、その感覚が何であるのかは分からなかったけれど、じわり、じわりと何かが這い寄ってくるような異変を、紗夜はかすかに感じ取っていた。

 

 

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