聖女と番犬 腹黒貴公子の15年越しの愛が重すぎますっ! 2
──ディーデリック・フェラウデン。『王家の番犬』と高位貴族の者たちに密かに恐れられているフェラウデン侯爵家の次男だ。
当時、侯爵家には嫡男が生まれたが、その子供は季節の変わり目などでも熱を出してしまうほどの虚弱体質だった。フェラウデン侯爵家は所謂王家の汚れ役を担う家であり、王家と国に害するものを常に監視し、排除することを責務とする。
跡継ぎがこれでは困る。だが、正妻との間に次の子はできなかった。
当主は妾を作り、彼女が男児を産んだ。それがディーデリックだ。
嫡子の代わりとして番犬の役目をこなせるよう、まだ物心つかないうちから身体を鍛え、毒や殺しの知識と技術を教え込まれたという。
その後、嫡子は健康体になり、次期当主としての不安も消えた。今では現当主として腕をふるい、皆に敬愛と恐れを抱かれている。
そのときのディーデリックはもう長男の代わりとしての生き様しか知らず、自分の命にすら執着しない、人形のような存在になっていた。歴代当主の中でも彼の兄は肉親への愛情を人並みには持っていて、生ける屍のような歳の離れた弟の様子に心を痛めていた。
そんなときヴィレミーナが聖女として選ばれ、護衛の選別が始まった。
聖女の選出には身分や立場、また処女性すらも関係ないが、孤児院育ちのヴィレミーナが選ばれたことは、少なからず貴族階級に衝撃を与えた。
ヴィレミーナからすれば女神が勝手に選んだことなので、こちらにとやかく言ってくるのはお門違いだろうと、王城からの使者に疑いの目を向けられて言ってしまったほどだ。
その豪胆さをフェラウデン侯爵は気に入ったらしく、ディーデリックを護衛候補に出馬させた。
コネも使おうとしたらしいが、ディーデリックの知能、剣技、肉体は、他候補を遙かに圧倒し、選別員の満場一致で護衛に決まった。
ディーデリックには言わないで欲しいと頼まれたから、決して話してはいないが──彼の兄はわざわざヴィレミーナのもとを訪れ、彼の生い立ちを教え、普通の少年として扱って欲しいと頭を下げてきたのだ。
孤児院育ちで様々な個性を持つ子供たちの世話をしてきたヴィレミーナには、容易いことだった。
だから初めて会ったとき、ただの十一歳の少年として扱い、話し、触れ合った。そして天界に行く準備期間は、ずっとディーデリックと一緒に過ごした。
ディーデリックの死人のような表情が感情豊かなものに変わっていくのを確認して、安堵した。残念ながら自分以外にまだ心許せる相手はできていなかったが、彼の中で一番の存在になれたことが嬉しかった。
ヴィレミーナにとっては一年後の再会でも、ディーデリックにとっては五年後の再会となる。
自分よりも背の低かった幼い顔立ちの少年が、会うたびに青年らしくなっていき──胸をときめかせた。そんな彼と天界に戻るまで一緒に過ごせる時間が、とても大切なものになった。
肉親のような情愛が一人の男性に向ける恋情に変わったのがいつだったのか、自分でもよくわからない。けれど彼に想いを告げられたとき、「私も」と答えそうになったことで、自覚せざるを得なかった。
(私もあなたのこと、好きになっていたわ。でも私は孤児院育ち。侯爵家次男とはいえ、あなたが求めてくれるままに応えるなんて駄目だと……それくらいは理解できるわ)
聖女に選ばれなければ、貴族社会に関わることすらなかっただろう。
孤児院の子供たちの世話をし続けて、やがて自分と同じような身分の男性と出会い、心を交わし、結ばれ──ごくごく普通の平民としての日々を過ごしていただろう。
聖女に選ばれたことは僥倖ではあるが、単なる偶然だ。だから大それた願いを抱いたら、自分も周囲も、不幸にしてしまう。
身分違いでも求め合って結ばれる恋に乙女らしく憧れはするが、現実味がない。
貴族社会を知らないままだったら、きっと何でも乗り越えられると単純に考えて、ディーデリックの求めに応じていただろう。
『身の程をわきまえなさい』──前回の地上戻りのときに受け取った警告の手紙通りなのだ。
(でも、もうそんな心配もないわ。ディーは相応しいご令嬢と結婚して……)
もしかして子供もいるかもしれない、と考え、気落ちする。
そのとき、ふいに鐘の音が聞こえた。
カーン、カーン……、と厳かに周囲に響き渡っている。確かに鼓膜で捉えられた音を実感して、ヴィレミーナは肉体に戻ったことを知る。
しかしいつも目覚めは寝室のベッドの上のはずだ。なぜ今回に限って鐘の音が聞こえるのだろう?
目を開けようとしたとき、ふにっ、と何か唇に柔らかいものが触れた。少しかさついた感触もあり、何だろうと眉を寄せる。
魂が肉体に戻った直後は、どうしてもすぐに反応できない。
続いてぬるりとぬめった感触が触れ、優しく──けれども拒むことは許さないとばかりに明確な意思を持って口中に入り込んできた。
「……ん……っ?」
それはヴィレミーナの小さな舌を捉え、絡みつき、ぬるぬると擦ってくる。ゾクリと背筋が震えるような甘い快感には覚えがあった。
ディーデリックに抱かれたとき、何度もこんなふうに舌を擦り合わせて絡め合うくちづけを交わした。そのときの感触とまったく同じだった。
(これ……くちづ、け……っ)
誰がそれを自分にしているのか。勝手に触れられたことと、ディーデリック以外に触れられていることに瞬時に言いようのない怒りが生まれ、実感が戻る。
カッ!! と大きく目を見開くと、すぐ傍に深い緑色の瞳があった。知的な額に撫でつけた黒髪の一房が落ち、毛先がヴィレミーナの額を擽る。
(ディー……?)
一年ぶりの再会とはいえ、間違えるわけがない。好きな人の瞳の色だ。
その目が、嬉しそうに細められた。元々端整な顔立ちだったが、目元に壮絶な男の色気が滲んで、胸がドキドキする。
驚いて硬直するヴィレミーナの目元を、ディーデリックが優しく指先で撫でた。目を閉じるよう促されている。
思わず従えば、再び口中に舌が潜り込んできて、じっくりたっぷりと味わわれてしまう。
これはいったいどういうことなのか。
「……んぅ、あ……ふ……っ」
「……ヴィレミーナさま……」
「……や、もう……くる、し……から……っ」
「──うぉっほん!!」
わざとらしい大きな咳払いが、頭上から降ってきた。
ビクッ、と反射的に震えると、ディーデリックが小さく嘆息し、渋々唇を離した。ヴィレミーナも息を吐きながら身を起こす。
ディーデリックが背を支えて手伝ってくれる。相変わらず甲斐甲斐しい。
「申し訳ありません。あなたと夫婦になれたことがあまりにも嬉しくて……歯止めが利きませんでした。お許し下さい」
意味がわからず、ヴィレミーナは目を見開く。目の前には本当に嬉しそうなディーデリックの笑顔があった。
久しぶりに見る彼は男っぷりにさらに磨きがかかっていて、なんだか見返すだけでドキドキしてしまう。これは世の女性が騒ぐだろうな、などと頭の片隅で思いながら、ヴィレミーナは周囲を見回して絶句した。
教会だった。ステンドグラスから差し込む陽光も神々しく、頭上で聖なる鐘が祝福の調べを奏でている。
本来なら祭壇があるところに置かれたベッドには、汚れ一つない真っ白なシーツが敷かれ、周囲は女神ウルジュラが好む白薔薇で取り囲まれていた。
白薔薇を咥えた白鳩が、ヴィレミーナたちの周囲を飛び回っている。ふんわりと漂う薔薇の芳香も相まって、妙に現実離れした雰囲気だ。
そして目の前には正装姿の大司教が、非常に複雑な表情でヴィレミーナを見下ろしていた。
こちらも一年ぶりだ。少し目元の皺が増えている。
慌てて立ち上がって挨拶しようとしたが全身が重くてよろめき、ディーデリックに支えられる。
見れば白いレースと滑らかなシルク生地がたっぷりと使われた真っ白いドレスを身に着け、裾がベッドを取り囲む白薔薇をすべて覆い尽すほどの大きなヴェールが花冠と一緒に頭に乗っていた。これは重い。
(ああ、これ、婚礼衣装……婚礼衣装!?)
ぎょっとしてディーデリックを見返せば、彼も同じく真っ白な婚礼衣装を纏っていた。襟に細かい薔薇模様の白いレースが縫いつけられ、光の加減で真珠色に輝く張りのある生地で仕立てられている。
無駄な筋肉のないすらりとした長身に裾が長めの上着、少しゆったりめのトラウザーズが彼の足の長さを際立たせている。長靴も白で、ここにもレースの縁取りがされていた。
癖のないサラサラの黒髪は後ろに撫でつけて知的な額と美しい緑眼を露わにし、甘い微笑を滲ませた目元が、息が止まりそうなほど男の艶を醸し出している。その視線は熱っぽく、愛おしさを一切隠さずヴィレミーナを見つめていた。
前回の地上戻りのとき、彼に激しく求められたことを嫌でも思い出し──そのときよりもさらに凜々しく素敵に成長しているのを認めれば、心臓が破裂しそうなほど高鳴ってしまう。
(と、ときめいている場合ではないわ! これはどういうことなの!? と、とりあえず大司教さまに話を聞いて……)
「……お、お久しぶりです、大司教さま……」
うむ、と大司教が重々しく──いや、苦々しく頷く。
途端にディーデリックがひどく悲しげな顔になった。
「五年ぶりにようやくお会いできたのに、私には一言もないのでしょうか。とても寂しいです……」
もう二十六歳になっているはずなのにこんなときは年下風を吹かせ、しゅんっ、と肩を落として項垂れる。非常にあざとい。
もうそんな歳でもないでしょう、と叱責しようとする気持ちが、瞬時になくなってしまう。だが負けるものか。
「挨拶よりも先に、私に説明しなくちゃいけないことがあるのではないの? これ……結婚式よね?」
招待客は一切見当たらないが、間違いなく結婚式だ。
うむ……、と大司教が再び苦く頷く。反してディーデリックは満面の笑みだ。
「はい、私とヴィレミーナさまの荘厳なる結婚式です。婚礼衣装を纏ったヴィレミーナさまは、私の想像を遙かに上回るほど美しく気高く神々しく……誓いのくちづけの際にはあなたをお迎えできる歓喜のあまり、危うく失神してしまいそうでした……」
ディーデリックは片手で胸を押さえひどく感じ入った様子で言うが、ヴィレミーナは大司教とともにジトリと彼を見返してしまう。
「それに、ヴィレミーナさまの唇が、とても柔らかく甘くて……」
ディーデリックがヴィレミーナを見つめ、自分の唇をそっと指でなぞった。
先ほどのくちづけを思い知らせるかのような仕草に、ヴィレミーナは瞬時に耳まで真っ赤になる。叱りたいのに言葉が出てこない。
大司教が再びわざとらしい咳払いをし、ぎろりとディーデリックをねめつけた。
ディーデリックが大司教の睨みごときで身を竦ませるような青年ではないことを、ヴィレミーナはよく知っている。あっ、と思ったときにはもう遅く、彼の目が冷ややかに細められた。
瞬時にディーデリックの纏う空気が冷酷なものに変わる。
唇に笑みが浮かんだままだから、余計に恐ろしい。まさに暗殺者の目だ。
「ヴィレミーナさまとの語らいの邪魔をすることを、誰が許した?」
大司教は悲鳴こそ上げなかったものの、威圧感に呑まれてふらついた。気を失う寸前の彼の背中を、ヴィレミーナは慌てて支えた。
「ディー! 大司教さまを威圧するなんて駄目よ!」
「申し訳ございません。ですが私の邪魔をしたのは確かです。それに夫以外の男に触れてはなりません。今すぐ離れてください」
ディーデリックが大司教を支えていた手を掴み、無情に引きはがした。大司教は再度よろめいたものの自分の足で立ってくれ、ホッとする。
「ならばあなたがちゃんと説明して! どうして私とディーが結婚式を行っているの!?」
嘘やごまかしは絶対に許さないと瞳に込めて、ディーデリックを見返す。
前回の地上戻りのときよりもまた少し背が伸びている。聖女の威厳を一生懸命込めて睨みつけても爪先立ちで背を軽く反らせた体勢では、子供が大人に懸命に食ってかかっているようにしか見えない。
ディーデリックは眦を吊り上げるヴィレミーナを、愛おしげに──同時に楽しげに見下ろした。
「そうですね、きちんと説明します。まずは愛の巣に参りましょうか」
「そんなところに行かなくても説明はできるでしょう! 私は行かな……んんっ!」
腰を抱き寄せられ、深くくちづけられる。大して力を入れているようには見えないのに、腕は外れない。
あまりにも濃厚で激しいくちづけに息が上手くできなくなり、膝から力が抜ける。視界の端で、大司教が額を指先で押さえて軽く首を左右に振るのがわかった。
力が抜けてしまったヴィレミーナを、ディーデリックが軽々と抱き運ぶ。
「さあ、私たちの家に帰りましょう。これからあなたの夫としてよろしくお願いします、ヴィレミーナさま」
(その前に説明ー!!)
そう叫びたいのに、動けない。大司教の海よりも深い溜め息が、祝福の場に広がるだけだった。
「聖女のお勤めを果たされてお戻りになられましたこと、とても嬉しいです。地上に戻られたばかりで魂が身体とまだ馴染みきっていないでしょう。いつものように一週間は何もせずお休みいただけるよう手配しておりますので、ゆっくりなさってください」
主人のことを心底気遣う忠実な護衛の言葉を淀みなく紡ぎながら、ディーデリックはあれこれ世話をしてくれる。
今は二人がけソファで足の間にヴィレミーナを座らせ、入浴後の湿った髪を丁寧にタオルで拭い、一房ずつ櫛を入れていた。
目の前のガラステーブルには温かい茶と一口大のサンドウィッチが用意され、時折ディーデリックがそれらを手ずから食べさせてくれる。
「次はこちらの卵サンドはいかがでしょうか。卵の固さはヴィレミーナさまのお好みにしてあります。毒味も私が済ませておりますので、どうぞ口をお開けください」
つんつん、とパンの端で軽く唇をつつかれる。ついに耐えきれず、ヴィレミーナは勢いよく立ち上がった。
ついでにその勢いを借りてディーデリックの顎を頭突きしてやろうと思ったのだが、あっさり見破られて腰を抱き寄せられ、再び同じ体勢にさせられてしまう。
「まだ髪を整え終えていませんよ。じっとなさってください。……ふふ、じっとできないヴィレミーナさまも子供のようでとても可愛らしいのですが」
憤慨で顔を真っ赤にし、ヴィレミーナは肩越しに睨みつける。
「私のどこが子供だというの!! 私は一人で入浴できるし髪も梳かせるし、食事だってできるわ! 聖女としてウルジュラさまのお世話をしてきたし、その前は孤児院の職員だったのよ。ディーこそ私より四つも年下なのに、何を子供扱いして……」
ちゅっ、と唇を軽く啄まれ、ヴィレミーナは今度は羞恥で真っ赤になって絶句する。
ディーデリックは目を細めて笑った。目尻に甘さが滲んで妙に色っぽく、ドキドキしてしまう。
「な、何を勝手にくちづけているの……」
「私とヴィレミーナさまはもう夫婦なのです。このくらい、当然でしょう?」
「だからどうして私とディーが夫婦になっているの? そろそろ説明して」