このたび、ゼロ日婚いたしました。 冒険者夫婦の愛は前途多難!? 2
「っ、うあああああぁぁぁ」
鍛えた肺活量をうっかり発揮してしまった──と思ったのだが。
しかし、周りの客は誰も耳を塞がなかった。
(あ、あれ……?)
男がヒルダの前で、人差し指を立てている。
その指先からはほんのりと青い光が出ていた。
ヒルダはパクパクと口を動かした。あーとかうーとか発音してみたが、自分には聞こえている。
沈黙魔法《ミュート》のようだ。
しかし、自分に魔法がかかっていることに、ヒルダは困惑した。
「ところ構わず叫ぶのは感心しない」
「■■!(なっ!)」
「特殊な体質を持つ女剣闘士……噂の主のヒルダ・ヒーリーは、君か」
「■■■■■、■■■■■■■っ(そうだけど、私に何をしたのっ)」
今も自分には聞こえているが、どんなに大声で叫んでも、周りはただ訝しげに眺めてくるだけだ。
(なにこれ? どういうこと?)
首を傾げていると、オズワルドと呼ばれた男は、はぁ、とため息をついた。
「もう騒ぐなよ」
ひゅうっと、光が消えた。
「……? 何をしたの?」
「突然の大声は周りに迷惑だ。そう、昨晩も──」
「っ」
「君は人より声が大きく出やすいのを自覚しろ」
んぐっと、ヒルダは声を呑み込む。
「君の特殊体質は知っている。だから、君自身にではなく、君の口から放たれた声だけを無音化した。それだけだ」
「……へ?」
つまり、声そのものを消す魔法をかけたのではなく、外へ漏れた声だけを消した、ということか。
(沈黙魔法って、そんなことができるの?)
そもそも魔法を無効化してしまう体質だし、この近辺にはそんな複雑な魔法を使ってくるモンスターはいない。
つまり、沈黙魔法の理論がそういうことなのか、それともこれは応用なのか──ヒルダには判断がつきかねた。
「ヒルダ。あなた、オズワルドさんとお知り合いなのぉ?」
背後からマティルダに声をかけられて、ヒルダは「えーと」と言い淀んだ。
先ほど、嫁に行けないと泣き喚いた、その原因となった男です、なんて言えるはずがない。
「昨晩、巨大スライムに襲われたところを助けた」
オズワルドに告げられてしまい、ヒルダは黙るしかなかった。
「まあ、そうだったの。どうりで見覚えのある外套だと思った。受付で預かっていますけどぉ」
「そうか。処分して貰っても問題なかったが……」
ヒルダは「失礼な」と言いかけたが、マティルダが笑顔を崩さずに告げた。
「まぁ、巨大スライムの核は、冒険者規定で換金しましたけどぉ」
「わわっ、それ言っちゃう!?」
本来ならそれも彼に返却すべきだが、なにぶん、持ち合わせがなかったのだ。
規定上、問題ないと確認した上で換金したのだが、どうにもまだ後ろめたい。
「構わん。依頼完了の報告に来ただけだ」
「お疲れ様ですぅ。案内しましょうかぁ」
「今はオフなのだろう。……いや」
ふむ、と、オズワルドが顎に手をやって何かを考え込んだ。上から下へと、視線はヒルダに向けられている。
「な、なに……? なんですか?」
半ば無意識でファイティングポーズを取るも、オズワルドに気にした様子はない。
「──マティルダ嬢、もし彼女がご友人なら、仲立ちいただきたい」
「へっ?」
声をあげたのはヒルダのほうだった。
「あらあら、構いませんけどぉ」
「ちょっとマティルダ!?」
「ありがたい」
「話が勝手に進んでますけど!?」
命を助けてもらった恩人。
素っ裸を晒した相手。
オズワルドという名前で、たぶん、凄い魔法使い。
──ぐらいしかまともな情報がない。
(なのに、私のことは……結構知ってる?)
もっともこんな特異体質、最近は世間にやはり知られてきたと思う。
もちろん悪い意味で。
だが、それならおかしい。
強化魔法を無効化し、魔法生物に無力な剣闘士など、仲立ちしてもらって何の得があるのか。
「パーティー登録は受付で致しますから、どうぞこちらへぇ」
マティルダが案内しようとするので、ヒルダは「待って」と言い、手を伸ばした。
だが、次の言葉で、その手はぴたりと止まった。
「ああ、パーティー登録と婚姻届を同時に頼む」
「…………は?」
これが、固まらずにいられるだろうか。
「はぁい、承知しましたぁ」
マティルダの暢気な声だけが、ヒルダの耳に届いた。
***
『お母さんへ。
体調はいかがですか?
ヒルダはジルウェットで、冒険者として毎日頑張っています。
この間は、魔法生物の巨大スライム相手にピンチになったけど、無事に切り抜けて元気に過ごしています。
お金はいつも通り、マガリ亭の手形で届けるから待っていてくださいね。
追伸
誠に勝手ながらヒルダは、結婚しました。
なお、お相手は── 』
(──って!! 書けるわけないでしょ!!)
ヒルダはノリツッコミをしながらも、巨大蝙蝠《ビッグバット》に向かってブォォンと両手剣を振り下ろした。
風圧で周りの草が凪ぐほどの一撃で、巨大蝙蝠は両断された。
こんなので、息を乱すことはない。
剣を収めて、パンパンと手を払った。
その左手の薬指には、これまで装備していなかった──いや、できなかったアイテムが光っていた。
「おお。見事だ、ヒルダ」
パチパチと軽い拍手を送ってくるのは、ローブを身に纏った魔法使いのオズワルド。
ヒルダの夫である。
ただし、名義上の、だ。
彼の左手薬指にも、ヒルダと同じものが嵌められている。
結婚したのは昨晩のこと。マガリ亭でパーティー登録書と同時に、婚姻届を提出した。
証人にはマティルダがなってくれた。
基本的に宿が婚姻届を受理することはないのだが、冒険者は別。教会の代行で受け取り、すぐに婚姻のリングを渡すことを、ここ数年で制度化したのだ。
「しかし少々雑念があったように感じたが」
「気のせいです!」
ヒルダは彼に背を向けたまま、巨大蝙蝠が落とした核を拾い上げた。
巨大蝙蝠は、通常生物が突然変異したタイプのモンスターだ。非常に敏捷性が高く、聴覚を乱す超音波を放つ。
攻撃は当たりにくいし、味方との連携も取りにくくなるので、エンカウントすると厄介だが、ヒルダにとってはおいしい敵だ。
素早いヒルダならば、命中率もさほど下がらない。超音波もすぐに回復する──が、正直なところ、音が聞こえなくても見えてさえいれば充分だ。
当たればいい。
ヒルダの戦法は、それに尽きる。
魔法に対して一切の適性がなくとも、ヒルダがそれなりに稼げるのは、一撃必殺のパワーと、命中率と回避率の高さがあるからだ。
(あと十体倒せば、今日のノルマは達成できそうだなぁ)
キラキラと青く光る核は、換金の等級としては、初心者にとってはかなり高い。巨大蝙蝠は、初心者パーティーが苦労して倒すレベルである。
が、中堅者となれば雑魚扱いになってくる。むしろ逃がして別の大きい敵を狩った方が効率がいい。
そう、パーティーを組んでいる、というのが大前提である。
ソロのヒルダには、やはりおいしい敵なのだ。
(いや、もうソロじゃないんだけどさ)
オズワルドとは、マガリ亭でパーティー登録をした。バディとも言う。
同時に婚姻届まで出してしまった。
理由は簡単だ。
婚姻のリングの存在である。
これはマジックアイテムではあるが、それ自体に魔力はない。
相手の魔力を伝導させる効果がある、触媒のようなものだ。
だからこそ、ヒルダが身につけても、ヒルダ自身に魔法がかかっているわけではない。
つまりヒルダの嵌めたリングから、オズワルドの魔法が放たれる、ということである。
「興味深い。君自身に強化魔法は効かなくとも、君の指先を通した、俺の攻撃や防御の魔法には充分効果がある」
「……違いがいまいちわかりません」
先ほどの戦闘で、オズワルドは何もしていなかったわけではない。
ヒルダのリングに向かって、防壁の魔法を発動させた。
ヒルダは一発で倒してしまったが、オズワルドはそれで、実質的にヒルダにもバリアがかかったのを実感したようだった。
もうちょっと苦戦しそうな敵で試せばわかりやすいが、念には念をといって、オズワルドが巨大蝙蝠を選んだのだ。
「君に直接バリアをかければ、そのバリアが無効になってしまう。だが、指輪を通してなら、あとはバリアの範囲を広げるだけで君を守れる。属性付与も攻撃魔法で、似たようなことができる」
「うーーん、話が難しい! もう直接魔法で攻撃してもらうほうが早い気がします!」
「攻撃はな。だが、防御は使えた方がいいし、上手くいけば回復魔法も使えそうだ」
オズワルドが嬉々とした様子で語った。
ヒルダにしてみれば、期待したほどの優れものという実感はなかった。
付与魔法がかかるようになった! という単純な話ではない。
どうもこれは魔力云々より、魔法をかける側の判断力に大きく左右されるらしい。
(ということは、私はこれから先、やっぱり魔法適性はないままで……この人がいないと! 魔法効果を受けられない!)
もはや恨めしい気持ちさえも出てきて、ヒルダはジトーッとオズワルドを睨めつけた。
なんて早まったことをしたのか、自分は。
オズワルドはというと、彼にとっては、これはこれで新しい実験ができて楽しいようだ。
(そう、愛情なんて何一つない)
心優しい母が知ったらどう思うだろう。
女手一つで育ててくれた、たった一人の肉親だ。
父親の記憶は全くない。赤ん坊の頃にはもう別れてしまったのだろう。
母からは一度たりとも、父の思い出話を聞いたことがない。
幼い頃に父のことを訊ねても、母は困ったように微笑むだけで、答えてはくれなかった。
『いつか大事な人ができたら、お母さんに教えてね。約束よ』
いつもそう言ってくれていた。
そのはずが──。
(好きでもない人と結婚なんて……やっぱりダメだったよね)
きっと酒のせいだ。
そしてこの体質は、もうどうしようもないということが判明した。
これは冒険者として完全に行き詰まった。
「離婚しましょう」
ヒルダはきっぱりと告げた。
もう脈絡など気にせず、とにかく善は急げだ。いきなり結婚したのだから、離婚も速やかに行っても問題はないだろう。
しかし。
「しない」
即答された。
「……そもそも、あなたに何のメリットが?」
やっとヒルダは、核心を突いた質問をした。
オズワルドが実験を楽しんでいる様子なので、あえてスルーしていた。こんな特異体質の持ち主は、冒険者どころか一般人にも殆どいないことを。
魔法適性とは、それぐらい普遍的なもので、高いか低いかだけのもの。全くの皆無、というのは稀有なのだ。
魔法が効かないのは、メリットもある。相手の魔法攻撃が効かない。だが、魔法生物にはこちらの攻撃が通らないし、そのための属性付与魔法も無効化してしまうのだ。
あまりに稀だから、原因は調べてもはっきりしなかった。
最初は剣さえ振るえば、それなりに戦えると思っていたのだ──が、この頃は焦燥に駆られていた。
もっと、稼がなければ、と。
「メリットか」
何を今更、と言わんばかりの態度で、オズワルドが腕を組んだ。
「一つ。前衛を任せられる者が欲しかった」
「……なら、他にもたくさんいませんか? 私、斬るのはこの辺では一番強いし速いですけど、盾役はそこまで上手くないですよ」
「攻撃は最大の防御だろう」
しれっと言われた。
「魔法使いからそんな言葉を聞くとは思いませんでしたね!?」
「二つ。魔法適性が皆無という、稀有な体質をどこまで打ち消せるかを知りたかった」
それがいわゆる実験、ということだ。
まぁ、確かにメリットとしては大きい。つまるところ、ヒルダは検体だ。
「これは現に、婚姻のリングである程度は可能とわかった。もっとも、現状俺以外ではここまで応用はできんだろうが」
「すみませんね、ご苦労かけまして」
だから離婚しよう、面倒かけて申し訳ないということなのだが。
オズワルドしか応用できないほど、冒険者として最高レベルの致命的欠陥なら、救いようがないと宣言されているようなものだ。
「この程度は苦労のうちに入らん」
「……へー……私と組もうとした人達は、皆、苦労したみたいですけど」
みたいではなく、実際にとてつもなく苦労したはずだ。
特に魔法使いや回復職達が、申し訳ない顔をした。
『回復が必要ないぐらい、速くて強いから、無傷なのはいいんだけど』
『でもこの先、魔法生物との戦いは避けられないんだよね』
『前衛だって魔法が必要になるんだから』
『将来のことを考えると、あなたがいると……ね? 大変なんだってわかって?』
『抜けてほしいんだ、みんなのために』
思い出すだけで、普段は痛まない健康な胃がキリキリと、うんとキリキリする。
これが一回や二回ではないのだ。
「効率だけ考えている連中にとってはそうだろうな」
「冒険ってある程度の効率が必要では?」
「剣闘士としての君の欠点は、魔法適性のなさだけだ。そこさえ克服すれば、効率は一気にあがるはずだ」
「……それはあなたのメリットではなくて、私のメリットでは」
「ウィン・ウィンという言葉があるのを知らんのか」
「……知ってますけど? あなたにも私にも旨みがあるってこと」
「お、意外と博識だな」
「私をおちょくってます!?」
からからと笑うばかりで、オズワルドは否定しなかった。
「この二つ目の理由は、一つ目の理由にも繋がる。それに、君ほどでなくても、魔法の適性が低くて悩んでいる者はいる」
「……それは、確かに」
自分は規格外だろうが、魔法適性は人それぞれなのだ。魔法使いになりたい子が、必ずしも魔法使いを目指せるとは限らない。
そういう子らの適性を底上げする研究は、まだあまり進んでいない。素質のある者の特権、という意識が強いのだ。
「そうした者達への助けとなるはずだ。俺は、できれば生来の素質だけに因らない、魔法使いを多く育成したい」
「なんだか崇高ですね。理想的、というか」
上手くいえないけど、なんだかとてつもない使命を抱いているような印象を受けた。
実はこの人、本当にすごい人なのではないか。
いや、魔法使いとしての実力は、実際にかなりすごいと思うのだが、人物としてもという意味で。
「──そんないいもんじゃないさ」
ぽつりと低い声でこぼれた言葉を、ヒルダは「え?」と聞き咎めた。
「何でもない。さて、もうしばらく試すか」
「はい! まだまだ体力は有り余ってます!」
「では一週間分の宿代と飯代を稼ごう。この奥に赤鴉《レッドクロウ》がいる」
赤鴉は、魔力で羽が赤く染まっているモンスターで、言うまでもなく魔法生物だ。
特徴として、宝石や古銭を巣穴に持ち帰る習性がある。
経験値はそこまで高くないが、実入りはいい。
だが、群れで行動するのと動きの俊敏さがあるので、パーティーを組んで戦うことが推奨される。
物理攻撃が効くので、ヒルダでも倒せるのだが、ソロの剣闘士では、正直そこまで効率は良くない。ゆえに稼ぎのノルマが厳しい時以外、相手にしなかった。
ただ、ずっと気になっていることがある。
(この人にとっては、巨大蝙蝠も赤鴉も、一発で消し飛ばせて実入り皆無の雑魚なのでは)
パーティーを組んだ後、こっそりとマティルダに、彼がどういう人物であるか訊ねたが──。
『オズワルドさんはねぇ、ここでの冒険者登録はね、二年前なのぉ』
『ってことは、私と一年しか変わらないの?』
『データ上はそうねぇ。でも、単独《ソロ》で活動できる魔法使いなんて、マガリ亭の冒険者の中ではあの人だけだわぁ』
のほほんとした態度を崩さなかったが、彼女もオズワルドについて、ただの魔法使いとは思っていない様子だった。
魔法は基本的に詠唱を必要とする。レベルが高い魔法ほど呪文は長くなる。純粋な威力そのものは使い手の魔力次第だが、たとえば複数の敵を同時に氷と雷で攻撃するような場合、それぞれ使う呪文が異なり、それを掛け合わせて唱える必要がある。
詠唱の間、魔法使いは無防備となる。魔導具などである程度は補えるが、最低でも前衛が一人いて初めて安定して戦える職業だ。
詠唱を省略、簡略化することも不可能ではないが、それには並々ならない修練や素質を必要とする――はずなのだが、なんとオズワルドは、基本的に無詠唱なのだ。
オズワルドは今まで一度も、少なくともマガリ亭ではパーティーを組んでいない。それでいて結果を出しているのだから、実力は相当なもののはずだ。
他の人からも噂を聞きたいところだが、気軽に訊ねられる相手は彼女しかいなかった。
なにぶん、魔法適性皆無で将来性のない剣闘士という悪評ゆえに、仲間に入れてくれとの押し売りを警戒されてしまうのだ──。
ヒルダも自覚しているので、どうにもマガリ亭ではマティルダ以外に声をかけづらい。
登録先を鞍替えするのも、不可能であるが──王国内において、冒険者の登録情報は共有されているらしい。
公になっている制度ではないが、冒険者の中には荒くれ者も多く、問題行動を起こす者もいるためだ。
ヒルダは、規範を犯したことはない。もっぱら体質のせいだ。だから、拒否されることはないはずだ。
だが、王都やその近郊の宿が、一番仕事が多い。ジルウェットもそうだ。
それにマガリ亭には、理解者であるマティルダがいる。
彼女が仕事を優先的に回してくれるからこそ、冒険者として活動できるというのも否定できない。
何よりもヒルダにとって、気の置けない友は、今はマティルダぐらいだ。
「何を惚けている?」
「へ?」
「行くぞ。食いっぱぐれては困る」
「ま、待って!」
サクサクと先を進み出したオズワルドを、ヒルダは慌てて追いかけた。
***
宝石の如く煌めく脂に、香ばしい匂い。
分厚く切られ、熱気を放つステーキ肉を前に、ヒルダはごくっと生唾を呑んだ。
「こ、これ、食べてもいいんですか……?」
「構わない」
おそるおそる訊ねたヒルダに、オズワルドはきっぱりと即答した。
赤鴉が運良く宝石を幾つもドロップし、それらを全て換金した。しばらくは狩りに出なくても、充分生活できる。食事のグレードアップも、さほど問題ではない。
しかし余った分は、できれば母の治療費にあてたい。
だからこそ、儲けても贅沢は避けたい。
今にも盛大に音が鳴りそうな腹を、そっと押さえながら、ヒルダはじっとオズワルドを見つめた。
「で、でも、こんな大きな肉……随分な出費では?」
「これは俺の奢りだ」
「奢り、ですか?」
「ああ」
どうやら、彼自身が個人で持っている金から出してくれるらしい。
「いや、奢りなど……そんな大層なものではない。気にせず食べろ」
「じゃ、じゃあ遠慮なく。返せと言われても、食べたらもう返せませんけど!」
神に祈りを捧げてから、ヒルダはナイフとフォークで肉を半分ほど、さらに一口大に切り分けた。
ソースと脂が落ちないように注意しながら、ぱくっと口に含むと、じゅわっと肉の旨みが舌から全身へと駆け巡っていった。
マガリ亭には、腕の良い料理人がいる。
ヒルダはいつも、安くて量が多いものばかり選んでいるが、それでも美味しいし評判も高い。
だがこれはもう、別格だ。
「ど、どうしよう……」
きちんと咀嚼してしっかり喉を通した後、ヒルダは呟いた。
「どうした?」
「……こんな贅沢に慣れたら、破滅する」
泣きだしてしまいそうだ。
なかなか次の一切れを口に運ぶ勇気が出ない。
「こんなのは贅沢のうちに入らんだろう」
「入りますよ!」
「駆け出しの冒険者ですら、三ヶ月に一度はありつけるレベルだ」
「私は初めて食べます」
「ならば、慣れておくといい。見たところ、君は剣闘士として、エネルギー効率が良い体質でもある」
「は、はぁ……」
腕っ節がいいことを、そんな小難しい言い回しで褒められたのは初めてだ。
「だがそれに頼りすぎてもいけない。食事はしっかり摂れ。単に食べればいいだけではなく、栄養価の高いものを選べ。良質な肉も、君には必要だ」
「必要、ですか」
「ああ。それに今日は、俺の実験に長く付き合わせたからな。もっとも闇雲に摂取すればいいというものでもなく……」
説教交じりの解説にげんなりしそうになるも、鼻腔を満たす匂いが気分を上げさせる。
「……料理が冷めてしまうな。先に食べなさい」
「! はい!」
ヒルダは皿に添えていたナイフとフォークを、再び手にした。
「美味しい……美味しいです!」
一口食べ終えるたびに、ヒルダはオズワルドに向かって訴えた。
うるさいと言われるかと思ったが、彼は意外にも穏やかに眼を細めてこちらを見ていた。
思わず、ヒルダはドキッとした。
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