婚約破棄はできません!? コワモテ騎士と捨てられ王女がケンカップルから溺愛夫婦になるまで 1
「──はぁぁ?」
その知らせを聞いたときの、ロザンナの第一声はそれだった。
パラメウィア王国の王城にある、玉座の間でのことだ。
国の一大事はここで告げられるし、重大決定も下される。
そこで国王の娘であるロザンナ王女に伝えられたのが、いきなりの『婚約者の失踪』だったのだ。
しかも、おそらくは駆け落ち。その相手は、ロザンナの妹であるガブリエル王女だという。そんなふうに立て続けに伝えられたものだから、いくら気丈なロザンナであっても、棒立ちになって絶句するしかなかった。
ロザンナは目を見開いて、まじまじと玉座の両親を見た。
──ガスパールが失踪。……こんな時期に。
じわじわとその事実が理解できていくにつれ、失恋のショックもこみあげてくる。
婚約者から愛されていないという自覚は、もともとあった。
だが、ロザンナとしては、いくら政略結婚の相手であっても、見目麗しいガスパールにほのかな恋心を抱いていた。それなりに胸をときめかせて、婚儀の日を待っていたというのに。
──なのに、逃げられた。
立っていられないぐらい、顔から血の気が引いていくのがわかる。
ガスパールは、この国一番の大貴族であるブリメーン公爵家の嫡男だ。
王女のロザンナと、大貴族の後継者のガスパールとの婚儀が、明後日、国を挙げて華々しく行われる予定になっていた。
──ガスパールが私よりもガブリエルのほうが好きだって、気づいていなかったわけじゃないけど。
気が強く、何でも容赦なく言い返すロザンナとは違い、妹のガブリエルは物腰柔らかく、肉感的な身体を持っていた。匂い立つような色香もある。
それでもガスパールは、自分の立場を考えて自重できる人だと思っていた。
──そうではなかったってことね? ガスパールには少し軽薄さもあったけど、ガブリエルのほうは? 二人が駆け落ちしたっていうのは、どうしても違和感があるわ。
公爵家の嫡男として甘やかされて育てられたガスパールは、どこか浮世離れしたところがあった。宴席では常に吟遊詩人を侍らせ、この国に伝わる恋の歌を披露させたり、自作の詩を自ら口ずさんだりしていたものだ。
そんなガスパールならば、勢いで出奔することもあり得る。だが、ガブリエルはもっと現実的なはずだ。
身を飾るドレスや宝石が大好きで、毎年の予算の上限ギリギリまで父におねだりしていた。そのようなガブリエルが駆け落ちして、自らの財産や特権的な地位をなくすような真似をするだろうか。
──それに、ガブリエルにも婚約者がいたのよ。
引っかかりはするが、それでも国王・ジョセフ十二世から告げられた内容を、ロザンナは事実として受け止めるしかない。
何年もかけて仕上げられたロザンナの豪奢な花嫁衣装は試着まで済ませ、後は本番を迎えるだけの状態だ。国を挙げての婚儀のため、すでに国内外から大勢の招待客が王城に押し寄せている。
パレードも準備され、婚儀に向けて国全体の機運が高まっているのだ。
──なのに、どうするつもり? いくら政略結婚であってもよ? そこから逃げるなんて許されない。政略結婚であることなど、私たちの立場であれば当然のことなのに!
胸の痛みを、ロザンナは怒りにすり替えようとする。そうせずにはいられないぐらい、苦しかった。
「それで、……ガスパールたちの乗った馬車は、見つかりましたの?」
見つかることを前提で尋ねたのには、わけがある。
ガスパールはブリメーン公爵家の嫡子として、何不自由なく育てられた。
その容姿を存分に引き立てる華美な服装を好み、最先端の流行を取り入れた姿は、遠くからでもよく目立ったからだ。
とにかく自らを飾り立てることに余念がなく、最近では身長が二倍近くなるような、七色の羽根がついた帽子を好んでいた。
そんなガスパールだからこそ、いくら駆け落ちだとしても、それなりの馬車を使ったはずだ。何しろ一人きりではなく、愛する人も一緒なのだから。
目立つ男の馬車ならば、あっという間に発見されたに違いない。
だが、巨大な玉座に腰掛けたジョセフ十二世は、重々しく首を横に振った。
「まだ見つかってはおらぬのだ。王都からの主立った街道には、全て追っ手をかけているのだが」
「すぐに見つかりますでしょう?」
念を押したのは、もはや婚儀の支度が取り返しのつかない段階まで進んでいるからだ。
王女であるロザンナと、ブリメーン公爵家の嫡男との婚儀は、国の権勢を見せつける絶好の機会だ。今さら中止ということになったら、国内のゴタゴタを逆に知らせることになる。
自分自身の失望はもとより、この婚儀が他国にどう見えるのか、ということも気になった。
その言葉を受けて、玉座のジョセフ十二世は深々とため息をついた。親としての立場より、国のことを第一に考えることができる国王であるのをロザンナは知っている。
父は横の玉座に座るエマ王妃にチラリと視線を投げかけてから、重々しく口を開いた。
「エマとも相談したのだが。──今さら、婚儀を中止することはできぬ」
それはロザンナにも理解できた。
だからこそ、急いでガスパールを連れ戻さなければならないのだ。
絶対に探し出してほしい、という気持ちを声にこめた。
「王都は十万人を擁する大都市。そこから延びる街道を行き来する人馬の数は甚大ですが、ガスパールは目立つ存在ですし、ガブリエルも町娘には見えぬはず」
その返答に、ジョセフ十二世は咳払いで応じた。
──え? 何、この反応。
「今回の件について、ブリメーン公と腹を割って話した。ブリメーン公はかなりのご高齢。婚儀の前日に、嫡孫であるガスパールに爵位を譲るつもりでおったことは、そなたも知っておろう」
「はい」
戸惑いながら、ロザンナはうなずいた。
貴族における当主の地位は、死ぬまで維持される。だが、あまりに高齢になった場合には、国王の許可を得て、譲ることも可能だ。
ブリメーン老公爵は、現在九十歳。その息子は爵位を継ぐことなく、少し前に病気で亡くなった。だから孫にあたるガスパールが、当主を継ぐ予定だったのだ。
「ブリメーン公は、ガスパールに面子を潰されたとカンカンでな。そのような不肖の孫は廃嫡する。代わりに次男であるイザークに公爵位を譲りたいのだが、それを承認してくれまいか、と言ってきおった」
「イザーク……ですか」
ロザンナは戸惑った。
ブリメーン公爵は、このパラメウィア王国の一番の大貴族だ。その領地は王都と隣接しており、北の山脈を背後に抱き、そこから広がる大平原を含んだ広大なものだ。
先ほど名前が出てきた次男のイザークは、滅多に舞踏会や社交の席に姿を現さない。軍を担当していると聞いたが、ロザンナはその次男の顔を思い出すのも困難だった。
──イザーク……。確か、大昔に紹介されたことがあったはず。
長男のガスパールは、女性から好まれる華やかな容姿だ。
さらさらの金髪に、深い緑の目。甘く整った顔立ち。初めて紹介されたときには、物語の中の王子様かと思ったほど完璧な美男ぶりだった。
舞踏会などでの振る舞いも洗練されていて、女性の扱いにも長けていた。
ガスパールとの出会いが、ロザンナを変えた。
気が強くて、何か納得できないことがあれば言い返さずにいられない性格だったのだが、ガスパールの前ではぐっと堪えるようになった。可愛いと思われたくて、ひたすら猫を被りまくった。
──だけど、全部無駄だったってことよね。最終的にガスパールが選んだのは、妹のガブリエルだったのだもの。
そう思ったとき、ロザンナはあることに気づいた。
「ガブリエルの婚約者って、そのイザークでしたよね?」
思わず父に確認する。
長女のロザンナと、次女のガブリエル。揃って、ブリメーン公爵家の長男と次男に嫁ぐことが決まっていたのだ。
それほどまでに、ブリメーン公爵家との連携は王家にとっての一大事だ。ブリメーン公爵家にそっぽを向かれたら、国を守れない。
経済的にも、王家はブリメーン公爵家に大いに依存していた。
「そうだ」
父の言葉に、ロザンナはうなずく。
だとしたら、ロザンナとイザークはどちらも婚約者に逃げられた者同士となる。
顔もまともに思い出せないイザークに対しての同情心が、にわかに湧き起こった。
この不始末をどうするつもりなんだろう、と考えていると、ジョセフ十二世はロザンナを見据えておもむろに口を開く。
「そういうわけだから、イザークとそなたの婚儀を、明後日に挙げることが決まった」
「は……、はぁあああああ?」
いきなりの宣言にロザンナは驚愕して、ぽかんと大きく口を開く。
まさかこんな強引すぎる解決法を、父が選ぶとは思わなかった。
「はぁ。……はぁああああああ」
魂まで抜け出そうな深いため息が、ロザンナの口から漏れる。
──だって、あり得ない! あり得ないでしょ!
そんなふうに思いながら、ロザンナは昨夜の父とのやりとりを思い起こした。
『絶対に、私は嫌です!』
父の命令に、ロザンナは渾身で抵抗したのだ。
だが、相手はこの国の絶対君主だった。
続けて言われた。
『どうしても嫌だというのならば、そなたの身分を剥奪し、一切の金銭も持たせず、身一つで追放するが』
──そんなことを言われたら、それ以上の抵抗はできないもの!
王城の中で世間知らずのまま蝶よ花よと育てられていたのなら、ロザンナは勢いよく城を飛び出していたかもしれない。
だがロザンナはこの国において、王女の地位と待遇がどれだけ優遇されたものなのか、身をもって実感していた。
身分を保証するものがなければ、城を出たところで何の仕事にもつけない。そうなれば、いつかは誰か男に頼って生きるしかない。
──それくらい、女性の身分は不安定なものなの。いずれ改善していきたいけれど。
追放された後の暮らしまで現実的に思い描けたのは、ロザンナが昔からしょっちゅう城を抜け出して、城下街をうろついていたからだ。
庶民の生活がどういうものなのか、肌で実感している。
それに、失恋のショックもあった。
大好きな人との恋に殉じるためならば、全てをなげうって駆け落ちする選択肢もあり得たのかもしれない。だが、ロザンナは婚約者に駆け落ちされた側だ。
──外に行ったって、どうせやるべきことはないもの。好きな人もいないしね。
すでに、ガスパールの廃嫡が決まった。今ごろはイザークがガスパール公爵家を継ぐ儀式が行われているはずで、明日には婚儀となる。
──だけど、そもそもイザークは私との婚儀に賛成しているの?
どうしても、それが気になった。
何せ、イザークの婚約者はガブリエルだ。
──ガブリエルと比べたら、私は女性的な魅力がまるで足りないとわかっているのよ。
ロザンナは冷静に分析している。
ロザンナの黄金色の髪は柔らかなウエーブを描きながら肩まで流れ落ち、身体つきはほっそりしている。この国の王族特有の、形のいい鼻梁を持つ美貌の王女だと、その容姿を褒められることも多い。
だが、社交の席でのお世辞とは違い、男性陣の間で遠慮なくささやかれている自分についての噂も耳に入っていた。
背が高いだけで、ガブリエルほどの蠱惑的な曲線はない。何よりつり上がった挑戦的な眉と目つきが恐ろしく、黙っていても喧嘩を売られているような顔だ、と。
──昔からずっとガブリエルと比べられてきたわ。ガブリエルは掛け値なしに美人だけど、私は可愛げのない顔立ちだって。
しかも、性格もガブリエルとは違う。その顔立ちの通り、ロザンナは売られた喧嘩は買うほうだ。
顔立ちがこうだから強気になったのか、強気だからこんな顔立ちになったのか、今となってはどちらが先なのか、ロザンナにはわからない。だけど、こんな顔をしているせいで、誰もロザンナのことは助けてくれない。だから、ますます気丈になっていったのだ。
ガスパールの前では猫を被り続けてきたものの、今となってみれば完全に無駄だった。渾身の猫かぶりが失敗に終わったからには、もはや猫は永久に追放することに決めた。
明日に迫った婚儀のために、ロザンナには細かな雑用が山のようにあった。
結婚したら城を出て、ブリメーン公爵邸に引っ越さなければならない。だけど、それに関するあれこれは、自分がいなくても全部使用人がしてくれる。
──とにかく急展開すぎて、心がついていかないわ。
失恋のショックさえ、ゆっくりと受け止める余裕がないままだ。
ロザンナは深いため息を漏らした。
いつもならば怒り肩のためにやる気に満ちていると感じられる姿だが、今日だけは完全に肩が落ちていた。
──侍女の服も、だいぶキツくなってきちゃったわ。だけど、きっとこれを着るのも今日が最後だから。
ロザンナが初めて王城を抜け出したのは、十二歳のときだ。
城の窓から遠く見下ろせる人々の暮らしに、ロザンナはやたらと興味を引かれてならなかった。
道を歩き回る人々は何をしているのか。露店で売られているものは何なのか。気になったあまり、お城を抜け出す方法を考え、ついに実行に移した。
最初のころは不慣れで浮いていただろうが、街歩きも長くなった今では、上手に溶けこめるようになっている。何もかもわかった足取りで路地を移動していくロザンナを、王女だと疑う人間はまずいないだろう。
ロザンナが身につけているのは、侍女から譲ってもらった普段着だ。ちょっとした襟飾りのついた白のワンピースに、胸元で編み上げるタイプの花柄のローブを重ね、腰を布製のベルトで締め上げている。
髪も軽く結い上げて、麻製の布で覆っていた。
その上に黒の地味なマントを重ねている。
明日からは人生がどう変わるのか、想像もつかない。残念ながら、ワクワクする気持ちはまるでない。結婚相手の顔すら思い出せないからだ。
だんだんと薄暗くなる中を思い出の場所を巡っていると、見覚えのある広場に出た。
この広場は、ロザンナにとって特別思い入れのある場所だ。このあたりの路地は、市街戦に備えて複雑な造りになっており、何も考えないで歩いていくと、必ずこの広場に出る。
初めて一人で城から抜け出したときも、この広場に出た。ゴミゴミとした路地から急にぱああああっと視界が開ける感動のある場所だ。
広場の中心には、噴水があった。ここは集会や祭りなどさまざまな用途で使われ、定期的に市も開かれる。
左に川も流れている。
すでに広場では、明日に迫った祝祭の準備が行われていた。
運びこまれた葡萄酒の樽が十ほど横積みされ、簡単なテーブルや椅子も並んでいる。もしかしたら今夜あたりから樽の栓がこっそり抜かれ、前祝いが始まるのかもしれない。
お酒目当てだったとしても、人々が祝ってくれるのは嬉しいことだ。だが今のロザンナにとっては、祝いと自分の気持ちがまるで一致しないことが問題なのだ。
祝祭が大きなものになればなるほど、ますます気持ちは醒めていく。このまま何もかも捨てて、失踪したいほどだ。そうしたら、王城ではどれだけの騒ぎになるだろうか。
空のオレンジ色は色あせ、少しずつ薄暗くなりつつあった。広場を通り過ぎていく人々は、一様に忙しそうだ。だが片隅に設置された祭りの準備を見て、笑ってくれるのは嬉しかった。
──そうね。私ができるのは、この楽しい祭りを中断させないことぐらいよね。
庶民にとっては、王女が結婚する相手が公爵家の長男だろうが次男だろうが、どうでもいい話なのだから。
そのとき、声が聞こえてきた。
「待て待て! おまえら! 何をしやがる!」
何事かと思って、ロザンナはそちらに注意を向けた。騒ぎが起きているのは広場の一角であり、葡萄酒の樽が積み上げられていたあたりだ。
すでに葡萄酒の運びこみは終わっている。そこに二人の男が立って見張りをしていた。
だが、その葡萄酒の樽を、突如として現れた十数人の男たちが運び出している。
黒のマントと軍服らしきお仕着せに身を固めた男たちは、キビキビと秩序だった動きをしている。彼らが葡萄酒の樽を次々と転がして、川沿いに移動させていくのが見えた。そんな彼らを、見張りの男が阻止しようとしたのが、さきほどの声だったらしい。
──盗み? 川に船を出して、運び出そうとしているの?
最初はそう思った。
だが、制止の声を気にもとめず、樽を川沿いまで移動させた男たちは、葡萄酒の栓を抜いていった。樽を傾け、その中身を川に流していく。
それには、ロザンナもビックリした。
まだ祭りは始まっていない。なのに葡萄酒を捨てるなんて、どういうことなのだろうか。
見張りの男もそれには驚いていたようだが、彼らが二人しかいないのに比べて、いきなり現れた男たちの数は圧倒的だ。しかも、若くて筋骨隆々とした男たちばかり。力ではかないそうにない。
騒ぎを聞きつけて、広場を歩いていた人々が集まってきた。だが、人々が何もできずにいたのは、葡萄酒を捨てている男たちが武装していたからだ。
その間に葡萄酒の樽は中身を全部川に流しこまれて、空になった。空になった樽は川の中に蹴りこまれた。さらに別の樽の栓が抜かれ、流されていく。
何が起きているのかわからず、最初のうちはただ呆然と見ているだけだったロザンナは、そこでハッと我に返った。
──これは、許しておけないわ。
十数人の男たちは揃いの服を身につけ、いかにも鍛えあげられた武装集団といった雰囲気だ。
そんな男たちに対抗するのは恐ろしく、葡萄酒を見張っていた男たちも、それを遠巻きにする人々も腰が引けているようだ。だが、ロザンナは見て見ぬふりをすることはできない。
何故なら、これはロザンナの婚儀の祝い酒だからだ。その酒を流されてしまうことは、自分の婚儀にケチがつけられているということだ。何よりこの酒は、人々にとってのかけがえのないお楽しみだ。
──王家の婚儀は、一生に何回も遭遇できない大々的な祝祭よ。三日三晩、遊んで騒いで、満腹になれる、こんな素敵なお祭りを、台無しにするなんて。
国家にとっては人々の忠誠心を高め、不満を抜く絶好の機会ともなる。
だからこそ、ロザンナは人々をかき分けて前に出た。
「ちょっと! 何すんのよ!」
すでにそこに積まれていた樽は全て川辺まで移動させられ、中身を川に注ぎこまれている真っ最中だ。
ロザンナは男たちに近づきながら、大声で叫んだ。
「やめなさい! 誰から命令を受けたの!」
なのに、彼らはチラリとこちらを見ただけで動きを止めない。
だったら、それを力ずくで阻止しようと、ロザンナは彼らの前に回りこもうとした。
だがそのとき、男の一人がロザンナのベルトをつかんだ。そうすることで、ロザンナの動きを止めようとしたのだろう。
「離しなさい! 無礼者!」
ロザンナは振り返って、怒鳴った。
自分はこの国の王女だ。誰だかわからない下賎の男が、気安く触れていい存在ではない。
だが、男の手はまるで緩まない。それどころか簡単に抱き寄せられ、からかうように顔をのぞきこまれた。
「とんだじゃじゃ馬だな」
「離しなさい! 離せ……!」
ロザンナはもがきながら、周囲を見回した。
この騒ぎを聞きつけて、人々が大勢集まっている。だが、ロザンナが押さえこまれているのを見ても、誰も助けてくれない。
そのとき、葡萄酒の最後の樽が空になり、樽が川に投げこまれた。
男たちは素早く撤退を始める。
ロザンナの身体も離された。
すでに広場に積まれた葡萄酒は跡形もなく、そこから流れ出した液体が石畳を少し濡らしているばかりだ。
ロザンナは納得できず、去っていく男たちの背に向けて叫んだ。
「待ちなさいよ! 誰の命令でこんなことをしているの! 皆の祭りをめちゃくちゃにするなんて、恥ずかしくないの!」
しかし、彼らは完全にロザンナの声を無視した。広場にいる人々はロザンナの言葉に同調して罵声を浴びせかけたものの、武装した彼らに突っかかる者はいない。
彼らは路地の入り口に停めてあった馬に素早くまたがると、あっという間に姿を消した。
ロザンナは憤懣やるかたない気分で、城へと向かう。
──何なのよ、あれ!
今の男たちの行動は許せない。どこの者だか、黒ずくめの服装だけではわからなかった。あのマントの布地や武装を考えれば、おそらくどこか金のある貴族か団体に属しているはずだ。
──誰の手下なの?
まずは父である国王ジョセフ十二世に訴え、どこの誰があのようなことをさせたのか突き止めてもらいたい。それからあの広場に、新しい葡萄酒を運びこむように手配する。
そんなことを思いながら、城への足を速めた。
だが、その途中で通りかかった他の広場でも、同じような乱暴狼藉が行われた形跡が見てとれた。そこでぼうっと立ちつくしている人々に聞いてみたら、やはりいきなり十数人の男がやってきて、葡萄酒の樽を打ち壊して去ったという。
まさか王都中の広場という広場に山と積まれた祝いの酒を、彼らが全て台無しにしているのだろうか。
──許せないわ!
怒りで爆発しそうになったロザンナは、ついに走り始めた。早く父に訴え、やめさせなければならない。せっかくの祝いがこれでは無価値だ。
その気持ちが先走るあまり、王城の門からまっすぐ突き進んだ。
「待て!」
途中で衛兵に止められる。いきなり黒のマントと、侍女の私服を着た女がやってきたところで、王への面会がかなうはずもない。
だが、ロザンナの顔を知っていた上官がハッとして衛兵を止めてくれたおかげで、ロザンナはそのまま城内に入ることができた。
ロザンナは取り次ぎもとらず、一心に玉座の間を目指す。
この服のままでは、父に何かを見抜かれる。けれど、城下に行くのはおそらく今日が最後だろうし、明日に婚儀を控えた身だ。咎められたところで、何ともない。
──そんなことより、早くあの男たちを止めさせないと!
来客がいるのか、玉座の間のドアは閉じていた。だが、礼儀を重んじるよりも重要な用事があった。
「父さま!」
肩からぶち当たる勢いで自らドアを押し開き、ロザンナは玉座へと向かう緋色の絨毯を踏みしめて突き進んだ。
「大変なことが起きているの! 街でね!」
そのとき、玉座の前に立っていた男が振り返る。
その男から鋭い眼差しで見据えられて、ロザンナは立ちすくんだ。
──誰?
まだ二十代後半ぐらいの、若くて上背のある男だ。身につけた格調高い衣装が男の身分を示し、その体鏸の立派さも引き立てている。
動きやすさを重視してか、黒いマントは片方の肩にしかかかっていない。このようなデザインのマントは、軍務についている者が好んで着るものだ。上着の襟から伸びる金糸銀糸の縫い取りが、ドラゴンを象ったデザインだと気づいた瞬間、ロザンナは弾かれたように震えた。
──まさか……!
先ほど見た黒ずくめの男たちの、お仕着せとの共通点に気づいたからだ。
そのとき、ジョセフ十二世の声が飛んできた。
「ロザンナ! いきなり何の用だ! 不調法だぞ」
「あ。あの、父さま、実は……」
「しかも、何だその格好は! ──まぁいい。あらためて紹介しよう。ここにいるのが、明日、そなたと婚儀を挙げるイザーク・ブリメーン公爵だ」