黒き悪魔の至上の愛 無垢な新米天使は魅入られて快楽の園に堕ちる 1
「はうぅ……また叱られてしまいました……」
ウララは丸い肩を落としながらオフィスの食堂で綿菓子を口に詰め込む。
綿菓子といってもほんのり甘いだけで食感も皆無なので美味しくはない。というかここの食堂で出されるものはすべてこんな感じで大体味気ないのだ。けれど何かを口に入れずにはいられなかった。
同僚のミカは呆れた目でウララを眺める。丸いフォルムのウララと正反対の痩せぎすのミカは視線もまるでカミソリのように鋭い。
「落ち込むか食べるかどっちかにしろよ」
「だって! 悲しいとお腹が減るじゃないですか!」
「それ、落ち込んでねーから。本気で落ちたら食欲とか湧かないだろ」
そうなのだろうか、とウララは丸い目を泳がせて動揺する。しかし今自分が落ち込んでいるのも空腹なのも紛れもない事実なのだ。
「私はお腹減っちゃうんですよぅ。心が苦しくて空っぽだから、せめてお腹は満たしたいんです」
「ウララはそう言って毎日食いまくってるじゃん。最近明らかに膨張してるぞ、お前」
ミカの言葉にハッとしてウララは自分の体を見下ろした。
確かに、元々丸かったラインがますますふくよかさを増している気がする。けれどそんなことよりも問題なのは、仕事を始めて以来叱られていない日がまったくないということだ。
厳しい先輩天使のサラエは口を開けばウララを叱責する。笑った顔など想像がつかないくらい、常にしかめっ面だった。
超がつくドジっ子新米天使を部下にあてがわれ気の毒な立場なのは間違いないが、もう少し、スープひとさじ分くらいは優しくしてくれてもいいのに、などと思ってしまう。
「ミカさんは新人の頃どうでしたか。怒られてばかりでしたか」
「いや、そこそこ上手くやってたぜ。そこはほら、俺は要領いいから」
そうですよねぇ、と頷きながらまた綿菓子を口に入れる。
なぜ自分はこんなにも不器用なのだろう。整然とした秩序で成り立っているこの天界では事務仕事も決められたルールに則って行われ、そこから外れさえしなければ正しく進めることができるはずなのだ。
それなのにウララはいつもうっかり手順をひとつ抜かしてしまったり、一度したことを忘れてもう一度やってしまったりする。そしてその度に、先輩のサラエに雷を落とされるのだ。文字通り。そのせいで元々緩いウェーブを描いていた亜麻色の巻き毛がチリチリのパンチパーマになりそうである。
「一体どうしたらきちんと仕事ができるようになるんでしょう。私、気をつけていてもいつも失敗してしまって」
「ウララはさ、椅子に座って仕事するより、案外現場とかの方が向いてんのかもよ」
「現場!? ますます無理そうですよぉ。今人間界に悪魔めちゃくちゃ増えてるって話じゃないですか」
「人間界、面白いぜ。俺はまだちょっとしか行ったことないけど」
「どんな風に面白いんです?」
「何ていうか、天界にはないゴチャゴチャ感があるっていうかさ。風景もそうだし、匂いとか……あ、何と言っても、食い物が美味い」
ウララは味のしない綿菓子をごくりと飲み込み、それは非常に魅力的だと素直に思った。あまり食べることに熱心ではないミカが美味しいと言うのだから、それは相当なものなのだろう。そう考えると今すぐに直滑降で人間界に降りたくなるが、ハッと我に返って頭を振る。今あそこはとても危険な場所になっているのだ。ポンコツ天使が一人でサバイバルできるような平和な世界ではない。
「でもでも、やっぱり怖いです。悪魔に出会っちゃうのは嫌ですよ……それならまだ失敗ばっかりでも事務仕事の方が」
「現場の方が簡単じゃね? だって悪魔見たら退治すればいいんだし。間違えねぇだろ」
「退治する前にこっちが退治されちゃいますってば! 私、全然戦えないんですから!」
神の僕である天使には大まかに分けて二つの仕事がある。ひとつは天界での世の中の秩序を維持するための事務仕事、もうひとつは下界に降りて人の子らを惑わす悪魔たちを排除することだ。
魔界に棲む悪魔たちは元々天界から堕天した天使や神々も多く、天界と魔界の間には幾度となく争いが繰り広げられてきた。
太古の昔には数多の神々が存在しそれぞれの地方で人の信仰心を集めていた。だが現在の神が現れその強大な力を示すと共に主神は自らただ一人であると主張し、下僕である天使たちを生み出し絶対的な秩序を敷いた。それを冒そうとする者は皆堕天したとされ天界を追われたのだ。
日和見の神々は主神の傘下に静かに座し、反目する神々は悪魔と呼ばれるに至った。彼らの多くは魔界に腰を落ち着け天界に唾を吐き自由を謳歌している。
人間界には人に姿を変えた天使が舞い降り、人々に神は一人であると伝え歩いた。素晴らしい建築物、絵画、音楽と共に人心を集め神を崇めさせ、今や多くの人々がこの教えを信じ、守り、ただ一人の神を仰いでいる。
しかし昨今、文明が発展し秩序よりも自由を求めるようになった人々は必ずしも神を信じることが正義と感じなくなった。この状況に天界は危機感を覚えているのだ。
「私、悪魔と会ったことすらないんです。どんな風に戦ったらいいのかなんて全然わからないし」
「簡単だよ。俺たちと同じ。ただ神に従ってないってだけさ」
「同じ? でも、悪魔は醜く、魔界はおぞましい場所だと習いましたが」
「そりゃそうさ。ここは天界だぜ? 秩序を重んじてる世界だってのに、自由な発想の余地なんか与えるかよ。真実はいつもひとつ。天使は清く美しく正しく、悪魔は醜くすべてにおいて間違っている、って教えるさ」
ウララは首を傾げた。同僚のミカは時々難しいことを言う。
そんなウララの様子を見たミカは肩を竦めて「まあ、違う言い方をするとだな」と軽い口調で続ける。
「最初は天界とまったく違う場所に行ってやろうって堕天した連中が地下に潜って魔界を見つけたんだろ。あそこにいると翼は黒くなるし見た目も変わっちまう。体の造りは俺たちと同じだけど住む場所が変われば体も変わるってことなんだろうな」
「そんなものでしょうか。でも、天使と悪魔が同じだなんて……そんなことサラエ先輩の前じゃ絶対言えません」
「そりゃそうだ! ってか、言うなよ、ウララ。お前うっかり口にしそう」
ミカの懸念にウララは大いに同意する。やってはいけないと思えば思うほどやってしまうのがウララだった。
「何を言うなと言っているのですか」
その冷たい声を耳にした瞬間に、ピンとウララの背筋が定規のように真っ直ぐに伸びる。
「随分と楽しげに話していましたね。今回の失敗の反省でもしていたのでしょうか」
眩い金髪をなびかせながら、滅多に開かれない緑の瞳を瞼の裏に隠し、サラエは出来の悪い後輩ウララを見つめる。サラエを前にすると、ウララは緊張で丸い体が長方形になるのではないかと思うほど硬直した。
「え、えと、あのう、友だちと、ちょっとお話をしてましてですね」
「友だち、ですか。逃げ足の速いお友だちですね」
えっ、と思わず声を上げて周りを見回してみれば、すでにミカの姿はない。何という危機管理能力。その素早さを少しでも分けてもらえたら、などと羨ましく思う。
「声が聞こえていましたからね、わかっていますよ。相手はミカでしょう」
「は、はい……」
「あの子の言動は少々自由過ぎます。堕天に近いところにいるのだから気をつけろ、と警告しておいてください」
ウララはその言葉にドキリとして、小さく頷いた。
サラエは同胞である天使の堕落した行いを見つけ、天界の秩序を守るため、その天使を堕天させる役目を負っている。サラエに堕落していると判断されれば簡単に天界を追われてしまうので、誰もが彼の前では品行方正に振る舞っているのだ。
ウララがサラエを怖がっているのはその能力を恐れているからではなく、単純に毎日叱られているからなのだが。
「え、えと、サラエ先輩もお食事ですか」
一応ここは食堂である。サラエが食事をしている姿など一度として見たことがないウララだが、沈黙するのも恐ろしく裏返った声で訊ねてみる。
サラエは無表情のままかぶりを振った。
「いいえ。あなたに新しい任務を伝えに来たのです」
「え……、あ、新しい?」
「そうです。明日から我々は地上に降り、人間界に蔓延る悪魔を掃討する作戦に加わることになります」
ガーンという衝撃音が頭の中に響き渡る。
まさしく先ほどミカが言っていたことが現実になってしまったのだ。
「あ、あ、あの、わ、わ、私なんかが、あ、あ、悪魔と戦うなんて、え、え、えと」
「大丈夫です。最初は私のやり方を見て学んでください。いくら私でも最初からあなたのような鈍臭い後輩を矢面に立たせたりはしませんよ」
一瞬安心したが、『最初は』ということは後々ウララ本人も悪魔退治をしなくてはならないということだ。
(ど、どうしよう……絶対無理なのに……! 悪魔と戦うなんてそんなの想像もできないですよぉ……!)
よほど悲愴な顔つきをしていたのか、サラエが珍しく同情的な表情を向けてくる。
「私もあなたのような何の準備もできていない新米天使を随行させるのはどうかと思ったのですがね。悪魔の数が増え過ぎていて、対応する天使が足りていないのです。ですから、まずは私の補佐と治療をする役としてついてきてください」
ここで嫌ですなどと言えないことは明白だ。絶対的な秩序の敷かれた天界では主神の下した命令は覆らない。ウララもどれだけ能力が足りなかろうと、戦えと言われればそうせざるを得ないのである。
「わ、わかりました……なるべく足手まといにならないよう、頑張ります……」
ウララはがっくりと項垂れる。
悪魔は怖い。戦ったら確実に負けるし、逃げればサラエによる仕置きでどっちにしろ地獄だ。けれど、人間界はちょっと興味があるかもしれない。
持ち前のポジティブさで、ウララは次第に新しい仕事が楽しみになってきたのだった。
***
翌日、ウララはサラエと共に人間界に降りた。
天界から人間界に至る道には数多の検問所が設けられており、特別な許可を得た者しか通ることのできない仕組みになっている。
ウララは人間界に渡るのが初めてのことで、その道程で(こんなところまでルールがきちんと決められてるんだなぁ)とほとほと感心してしまった。
「私たちがこれから至る場所は、箱庭でも最も大きな大陸にある国です。ダパイン帝国といい、他国との貿易が盛んで首都バラクは内海を望む美しい地にあり、非常に豊かな国です」
サラエは移動中、ウララに目的地の説明を無機質な声で語る。
天界の者らは人間界を時折『箱庭』と呼ぶ。神が創りし世界を自分たちが見下ろし見守っているという構図なのだ。
「えぇと、そこへ私たちが派遣されるということは、悪魔が蔓延っているのですか」
「その通り。豊かさは退廃を生みますからね。今かの国は多くの植民地を獲得しあらゆる物資があふれ、まさしく黄金時代を築いています。そういった富がもたらす悪徳というものは、救いようがないほどの速さで人の子らを蝕むものなのですよ」
「では、その国の民は皆悪魔を信奉しているのですか」
「いいえ、清く正しく生きている民ももちろんいるでしょう。悪魔崇拝をしているのは主に富裕な貴族です。人が知恵をつけ過ぎた成れの果てですよ。あなたも学校でそう習ったでしょう」
ウララはこっくりと頷く。
天使として生じた魂はその後すぐに天使の教育機関に入り世界の知識を身につける。そこで教わることは神の偉大さ、天使として仕事をする尊さ、悪魔の醜悪さ、そして人の子らの弱さである。
神は自らの姿を模して人間を創ったが、その魂は脆弱で欲望に流されやすい。神の教えを守っていれば簡単には揺らがないはずだが、弱い者ほど悪魔の囁く誘惑に抗いきれず、人の子は愚かな行動に及んでしまうのだという。また、知恵をつけ過ぎることで人は信仰以外に価値を見出してしまうそうだ。己の創造主である神に対しての大恩も忘れて。
「悪魔は様々な姿に化けて人を騙すのだと学びました。私たちはどうやって悪魔を見つければいいのですか」
「ああ。あなたはまだ悪魔に出会ったことがないのでしたね、ウララ」
天界から出たことのないウララだ。当然悪魔など見たこともない。
「簡単ですよ。見ればわかります。近づけばもっとよく感じるはずです」
「そうなんですか! 嫌な感じがするんでしょうか。羽が逆立つような寒気とか」
「そうですね……我々が同胞に感じるものと似たようでありながら、相容れない空気なのです。まあ、実際に感じてみた方が早いでしょう。そもそも、魂を見れば明白です。悪魔は人の子とは違う魂を持っていますからね。肉体だけ見ていれば気づかないでしょうが、魂を見れば一目瞭然ですよ」
サラエと話しながら検問所を通り抜けていると、最後の扉に辿り着き、ウララたちがそこへ近づくと同時にその扉は勝手に開いた。
空気中に漂う粒子の種類や密度が、急激に変化するのがわかる。皮膚に触れる風の感触が突然濃密になり、現実感が大きく増したかのような感覚を抱く。
けれどそれは天使が人間界へ赴いたときに実体化するために感じることだ。天界では精神体の状態で存在している天使たちは、人の世界に降りたとき、人と同じような血肉を得ると学校で学んだ。自らの体までもが作り変えられるために起こる違和感なのだ。
そして、その向こう側に広がっていた景色に、ウララは思わず歓声を上げた。
「わあ……すごい……!」
紺碧の空。そこへ繋がる眩いきらめきを放つ水面。港には美しい造形の船が数多浮かび、広大な市場では様々な人種、言語、品物が飛び交い、そのすぐ奥には山肌の傾斜に沿って鮮やかな色の家々が立ち並んでいる。
年間を通じて温暖な気候であるこの土地の風は海からの潮を含んで多少の粘り気があるが、乾いた空気のためそれがほどよく心地いい。
この光景を空から眺めたウララは、人の地の賑やかさに一瞬で魅了されてしまった。
(なんて楽しそうなんでしょう。なんて美しいんでしょう。天界とはあまりにかけ離れた場所……神が創られた世界でありながら、私たちのいるところとはあまりにも違う……)
天界も美しい。香しい花々が咲き乱れ、夜はなく常に神聖な光が降り注ぐ純白の世界だ。流れる川は緩やかで澄み渡り、聖獣や妖精たちがのんびりと過ごす草原に、天空へ向かって幾層も重なる虹には天使や神々の住処があり、その頂点には神の威容を示すような巨大かつ荘厳な神殿がそびえ立っている。
そのすべてが秩序で成り立っている汚れなき世界で過ごしていたウララには、初めて目にした人の世のあまりにも雑然とした、騒々しい、それでいて一定の安寧が保たれている、混沌と秩序の中間のような有り様に、目眩がするほどの興奮を覚えた。
「上空からでは悪魔のおおよその気配しか察知できません。人の姿になり地を歩くことにしましょう」
サラエの指示に従い、ウララは羽を隠し、普段着ている純白のローブを目に入った女性の着ている衣服と色違いのものにしてみた。花の刺繍が可愛らしい白の七分丈の衣にアンダースカートを重ねてふんわりとした淡い水色のスカートである。
「うっ……!?」
変化した瞬間、突然体を襲った違和感に、ウララはうめき声を上げる。上流市民風の洗練された衣服を身につけたサラエが訝しげに後輩を見やった。
「どうしました、ウララ」
「お、お腹と胸が……苦しい、です……」
今までふんわりとした衣だったため、突然胴回りを強烈に締めつけられ息ができない。乳房も過剰に持ち上げられ前に迫り出されて胸が苦しい。すわこれが悪魔の襲来かと思ったほどだが、多分違う。
サラエはしげしげとウララの格好を見てため息をつき、手をひと振りして胴体を締めつけていたものを緩める。
「この地の女性はコルセットをつけていますからね。慣れないと苦しい。あなた、変化するときは自分の形を考えなくてはいけませんよ。まだ魔法が未熟ですね」
「す、すみません……」
初歩的なミス過ぎてウララはしょげ返った。新たな任務で多少は張り切っていたのに、早速失敗である。
天使は性別が曖昧だ。自分が女性であるのか男性であるのか、性自認は存在することもあるが、普段は天界で精神体で生きているため人間界に降りて肉体を得たときのみ、その特徴を有する。
そもそも天使は一人ひとり、神によって魂を創られているので、繁殖を必要としない。それゆえに、ウララの肉体は女性型といえど成熟したものではなかった。
(箱庭の女性はこんなに窮屈なものをつけて生活しているなんて……皆さんどうやって息をしているんでしょう。私もここにしばらくいたら平気になるんでしょうか……)
しかしあんなに締めつけられては、ミカの言っていた美味しい食べ物など一口も食べられそうにない。緩めてもらった今でも、体にぴったりと沿うようなもので胴体を覆われているのが妙な感覚である。
戸惑うウララを落ち着かせるようにポンと肩を叩き、サラエは前に立って歩き始める。
「さて、調査を開始しますよ。ここはダパイン帝国で最も賑わっている場所です。悪魔に遭遇する可能性はかなり高いと言えるでしょう」
「それじゃすぐに会えちゃいますね……うぅ……」
人の世界に心が躍ったのも束の間、すぐに恐ろしい瞬間にぶつかってしまうのか。
歩くサラエの後ろについて恐る恐る周りを見回しながらも、ウララの五感は初めての場所を探索し鋭敏になっている。
ウララの鼻腔に忍び込んでくるのは得も言われぬいい香りだ。こんな匂いは初めて嗅いだのでどこから発しているのかわからないが、周囲の何らかの店のそれぞれが独特の素晴らしい芳香を漂わせているのだ。そしてそれはなぜか、ひどくウララの腹を空かせる。
(どこで悪魔に出会っちゃうのかも気になりますけど、それよりこの匂い……何なんでしょう、たまりません……!)
ウララは覚えずこぼれそうになるよだれを拭い、ためらいがちに前を歩くサラエに訊ねる。
「あ、あの……サラエ先輩、ちょっと気になったんですけど」
「はい、何ですか」
「このいい匂いは何なんでしょう……あちこちから漂ってくるのですが」
サラエは一瞬足を止め、ちらりとウララを振り返る。
「ああ、匂いですか。……それは人の子の食べ物の匂いでしょう」
「食べ物……!? 人の食べ物って、こんなにいい匂いがするのですか!」
「……ウララ、あなたにだけは気づいて欲しくなかったのですが……それは無理な相談でしたね……」
ウララはこの香りが食べ物のものだと知って激しく興奮した。なぜならば天界の食べ物はほぼ無味無臭。天界での天使の精神体を保つための栄養補給でしかなく、こんな風に腹を空かせる香りなどまったくしないのだ。
菓子や酒などの嗜好品も存在するが、そもそも食欲を備えている天使が少ない。ウララのように強い食欲を持つ者は稀で、需要の少なさゆえに供給もほとんどなかった。欲に忠実な者はすでに堕天し魔界で好き放題に好きなものを貪っている。そういった意味では、サラエ流に言えばウララも『堕天に近いところにいる者』なのだ。
(私は天使にしては食欲が旺盛なだけで、天界を去りたいなんて思ったことは一度もありません。神の定められたルールにも文句なんてないです。ただ……ただ、この香りにだけは抗えません……)
少しでも気を抜けばフラフラと近くの屋台に突撃してしまいそうな自分を叱咤し、せめてサラエに許可は貰わねばと意を決して呼びかける。
「あ、あ、あの、サラエ先輩!」
「はいはい、味わってみたいのでしょう。まずは悪魔を見つけてからですよ」
適当にあしらわれ、ウララは目眩を覚える。今すぐ食べたいのに。このたまらない匂いをさせている食べ物に食らいつきたいのに。
こうなったら早く悪魔に現れてもらわないと──あれほど悪魔を恐れていたことも忘れてそう強く願った矢先、サラエの全身がピリリと緊張感を帯びた。
同時に、ウララも何か違和感を覚える。
(ああ、これが悪魔の……)
そう直感的に感じられる程度にそれは顕著だった。実際に感じてみた方が早い、というサラエの言葉はなるほどと思えるものだ。
それは人間界においては異質だが、天界ではごく普通の気配。つまり同胞らが発する空気そのもので、その上にどこか強烈な差異がある。
「敵意……すごいですね」
「そう、感じるでしょう。彼らは我らを嫌悪し、侮蔑しています。そしてそれはこちらも同じこと」
『それ』は前方から近づいてきた。ウララの視界に入ったのは、従者を連れた美しい装いの貴族の青年だ。そしてその肩に、コウモリのような翼と獅子のような顔をした悪魔が乗っていた。
(これが……悪魔……)
ウララは息を呑んだ。天使のほとんどは人と同じ姿をしている。それは神が自らの姿に似せて創り出したからであり、その世界を離れてしまえば、どんな形にでもなれるということなのか。
悪魔もこちらに気づいている。赤い目を光らせ、うなり声を上げ威嚇しながら翼を広げる。
そして次の瞬間、サラエが常に閉ざしていたその目を開いた。
『グゥッ……!?』
悪魔が呻く。凍りついたように動かない。
(うわ……悪魔にも有効なんだ……サラエ先輩の眼力……)
実際は眼力という言葉では済まされない。サラエが普段目を閉じているのは『忌まわしい邪眼』をみだりに使わないためなのだ。
その目に敵意を持って見つめられれば、体は金縛りにあったかの如くに動かなくなり、されるがままになってしまう。ウララは自分でそれを味わったことはないが、堕天させられる天使がサラエの邪眼によって抵抗を封じられ天界から追放されるのを何度も見てきた。
そして今回初めてそれが悪魔に対して使われるのを見たのだ。
「人の子を惑わせし邪悪な悪魔よ。生まれ直し悔い改めるがよい」
『ま、惑わす、だと……俺をここへ呼んだのは、人間、なんだぞ……』
「悪魔の存在が世界から消えればよいこと」
サラエは情け容赦なく右手に冷たく鋭い光を纏わせる。それはまるで三日月のような湾曲した銀の光で、天界での天使たちの頭上にある光の輪に似ていた。
サラエはその光の刃で悪魔の首を刎ねた。悪魔は赤くきらめく粉となって四散し、すぐに影も形もなくなってしまう。
肩に悪魔を乗せていた青年は、何も気づかずにただ通り過ぎてゆく。ウララはあっという間のこの出来事に、ただ呆然として立ち尽くしているしかなかった。
「さて、まずはひとつ片づけましたね」
「あ、あ、あの……今、悪魔はどうなったのですか」
「死にましたよ」
あまりにあっさりと返されて、ああそうですかとこちらもあっさり終わってしまいそうになる。
「し、死んでしまったんですか。私、てっきり魔界へ帰すとかそういうことだと」
「自分でも言っていましたが、あの悪魔は悪魔召喚で人間界に強制的に呼ばれた悪魔でしょう。召喚した人間の願いを叶えなければ、いかなる力を使ったとて帰すことはできません」
「そんな……それは、ちょっと可哀想な気も……」
「あの悪魔が乗っていた人間は、おそらく召喚した者が呪い殺そうとしていた相手です。あの悪魔を帰すには、あの人間が死ななくてはいけないんですよ。それでも、可哀想だと?」
理路整然と説明され、ウララは何も言えなくなる。
悪魔召喚された悪魔を穏便に魔界へ帰す方法はないことはわかった。しかし、あの悪魔は自分の意志に関係なく人間界に呼ばれただけ。それなのに人間界にいるという事実だけで消されてしまったのは、どうしても理不尽なことだとウララには思えてしまう。
「でもそれじゃ……その人間は再び悪魔召喚をするかもしれないんですね。目的が果たされなかったから」
「その可能性はありますね。しかし呼んだ悪魔が消えてしまえば、術者も何か危機感を覚えるでしょう。自分を邪魔する何かがあるのだと。そうやって理解させていくしかないのです。我々は人の子らを見守ることしかできないのですから」
確かに、学校でも天界は箱庭に過剰に干渉しないということを学んだ。
箱庭を整えた後に人の子に余計な知恵を授けてはならない。それが守られなかった結果、今の混沌とした人間界がある。天敵である魔界の住人らが人間界を汚染しているのだ。
「サラエ先輩。悪魔は、死んだらどうなるのですか」
「この世に生きる生物は皆同じですよ。肉体を失った魂は再び輪廻へ戻ります。次の生で何となるかは自然の気まぐれ次第でしょう。人間界で死んだ者は基本的に人間界に生まれ変わります。冥界の住人が手心を加えることはあるかもしれませんが」
「では、もし私たちがここで肉体を失えば、やはり同じように……?」
その通りです、とサラエは頷く。
「悪魔もそうですが、基本的に我々の寿命はとても長い。ほぼ終わりはないと言えるでしょう。しかし、こうして人間界にいる間は、我々の肉体は人の子らと同じ時を刻みます。つまり、それだけ早く老いていくのです」
天界と魔界、人間界の時間の流れが違うというのは知っている。
実際、ウララが生じたばかりの頃、箱庭の有り様が妙に早く変わっていくと感じていた。その速度は一定ではなく、ゆっくりになったり一瞬で十年ほどが過ぎてしまったりと様々だが、その時間の『揺らぎ』というものは自然の流れそのもので、天使や神といえど操作できるものではないらしかった。
サラエは講義の時間はおしまいとばかりに再び歩き出す。
「さあ、早速次の悪魔を見つけますよ」
「えぇっ! そんな立て続けに……大丈夫なんですか? サラエ先輩」
「何ということはありません。私はそもそもさほど長くここに留まるつもりはないのですから、サクサクいきましょう」
悪魔を消せるだけ消して天界に戻ろうということなのだろうか。一体これからどれくらいの悪魔を殺さなければいけないのか、とウララは暗澹たる心地になる。
しかしそれに反比例するように、早く済ませてしまいたいという焦燥感に常に煽られていた。原因はもちろん、市場中に漂う美味しそうな匂いである。歩くほどに様々な食べ物を売っている屋台が視界に飛び込んできて、ウララはそれらを鉄の意志で無視しなければならなかった。
(サラエ先輩が悪魔を消すところを見るのは嫌ですけれど……その暁には……!)
サラエとウララはそれから三体の悪魔を見つけた。それらは最初の者のように人の上に乗っていたり、路地裏をうろついていたりと様々だ。どれもが人に召喚された様子の下級悪魔だった。
往来で悪魔退治を行っていても騒ぎにならないのは、そもそも普通の人間には悪魔は見えていないしサラエの操る銀の刃も見えないためだ。もしも怪物が見えていたら大騒動になってしまうし、更にそれと戦う者まで現れたら兵隊が呼ばれてしまうだろう。
基本的に、悪魔召喚で呼ばれた悪魔は召喚した者以外には見えない。だが魔力が高い悪魔はその限りではないという。上級悪魔は自ら道を作り人間界に到達することができる。そういった悪魔は天使と同じく、この世界にいれば人と同じ血肉を得るのである。
弱い悪魔ばかりなのが幸いしてサラエの動きは一瞬で済む。しかし人間には聞こえない悪魔の断末魔もウララにはしっかり聞こえてしまうので、心が折れないよう自分を奮い立たせることが必要だった。
しばらくの間、ウララは悪魔が消える場面が視界に入らないようにしながらやり過ごし、サラエが満足するのを待った。今日の作業の終了を決めるのはサラエであり、ウララはただそれに従うのみである。
やがてサラエがプールポワンの詰まった首元を少し緩め、小さく息を吐く。
ウララはその瞬間を見逃さなかった。
「サラエ先輩、今日はここまでにしませんか。立て続けに力を使ってきっとお疲れです」
「ええ……ですが、あと一体くらいは」
「いけません! もしこの後に遭遇する悪魔が強かったらどうするんですか? 今までは素人同然の人の子が呼び出した下級悪魔ばかりでしたが、そんな者ばかりとは限りません。こんな悪魔の気配があふれる都会では、強敵に不意打ちを食らってもふしぎじゃないんですよ」
ウララの口はかつてないほどなめらかに回った。今ならば何でもできるという全能感がこの新米天使にみなぎり、束の間百戦錬磨の先輩天使を圧倒した。
「ふむ、そうですね……あなたの言うことも一理あります。では、今回はこのくらいで」
「で、では、とりあえず自由時間ということですか」
「ええ、そうですね。ああ、そういえばあなたは人の食べ物を食したがっていましたね」
そう言って振り向いたサラエだが、すでにそこにウララの姿はなかった。鈍臭いはずの後輩の突然の恐るべきスピードに、サラエは内心恐怖した。