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黒き悪魔の至上の愛 無垢な新米天使は魅入られて快楽の園に堕ちる 2

第二話

 

(ああ、ようやく食べられる! ようやく食べられる!)
 ウララは飢えた獣のような目で市場を徘徊した。様々な品物が並ぶ景色はいくら見ていても飽きない。そして視覚以上に、嗅覚を刺激してくるのが料理したものを売っている屋台である。
「羊肉の串焼きだよ! 新大陸の珍しいスパイスで味つけしたんだ、美味しいよ!」
「いただきます!」
「柔らかいウサギ肉を詰めたパイだよ! 焼きたてで熱々さ!」
「いただきます!!」
「採れたての魚を……」
「いただきますッ!!!」
 支給されたダパイン帝国の通貨を使い切る勢いで食べまくるウララ。
(あ……あああぁ……なんて美味しいんでしょう……ミカさんの言っていた通りでした……これが今まで食べていたものと同じ食べ物だとは思えません……ここは下界であるはずなのに、こここそがまるで天上界のようです……)
 素晴らしい塩気。酸味。香辛料の独特の香り。滴る肉汁。口内にあふれる芳醇な香り。甘美な味わいの渦。
 あまりの興奮にウララは意識が朦朧としてきた。このままでは魂が天に昇り、ここで得た肉体がほろほろと崩れ落ちてしまうのではないかと思うほどだ。
(この素材はすべてここで作られたもの……箱庭の大地で育った作物や動物がこんなに素晴らしい味わいだなんて……! 天界でも箱庭のものを使えばもっと美味しい料理ができるんでしょうか?)
 ふとそんなことを思ったが、天界では肉体を持たず精神体となる天使たちである。食べるものも同じく実体のない、天使の体を保つためだけの精神の欠片を食べ物のようにこしらえただけの物質であり、人間と同様に味を追求することはないのだ。
 人間界に降り、人間のように肉体を得て人間のように食べ物を味わえば、それが強烈な刺激となるのは当たり前のことなのかもしれない。
 木箱の上に座って買ったものを貪り終えると、ようやく落ち着いた。腹も心もいまだかつてない幸福で満たされ、ウララは目を閉じ今さっき食べたものの味を反芻する。
 どうにかしてこの世界の食べ物を天界にも持ち込めないものか、という欲望を捨てきれない。十中八九、堕天対象になってしまうだろうし不可能だろうが、それでも夢見てしまうほど罪深い、禁断の果実の味わいである。
(そうだ、それなら人間界にずっと住んでしまうのはどうでしょう? 悪魔を監視するとかナントカいう名目で……いやいや、戦えもしないのにどうして私がここに残れるというんでしょう。何か他に人間界でできる仕事があればいいんですが……)
 ウララは必死でこの食べ物に囲まれた生活を維持するための計画を考え始める。何しろ、人間界にいればきっともっと様々な種類の美味しい食べ物を手に入れることが可能なのだ。この素晴らしく美味な食べ物を毎日味わえる幸福──考えただけで満腹感が消え失せ再び貪りたくなってしまう。
 そのとき近づいてきた気配に、ウララはハッとしてよだれを拭った。
「お姉さん、いい食べっぷりだったねえ」
 年若い男だ。庶民の標準的な格好をしているが、顔立ちは華やかで美男といえるだろう。見知らぬ者に声をかけているのにもかかわらず、まるで旧知の仲のような親しみを感じさせる口調である。
「どう、美味かったかい」
「ええ、それはもう……食べたことのないものばかりで、本当に素晴らしかったです」
「おや、そうなのか。もしかすると、地方から出てきたばかりなのかな?」
 まさか人間界に来たのが初めてであるとも言えず、ウララはただ頷いた。
 すると青年の目が輝き、気さくに笑いかけてくる。
「なるほどね。それじゃ新鮮なものばかりだろう。首都バラクへようこそ! 俺が一杯おごってやるよ」
「い、いっぱい? な、何をいっぱいおごってくださるのです?」
「もちろん、酒だ酒! たらふく食った後は酒だろ?」
 ウララは思わずごくりと喉を鳴らす。
 食べ物ですらこんなにも美味なのだ。酒は天界のものとどのように違うのだろうか。
 気になりだしたら味わわなければ気が済まない。すでに食べたものは恐るべき勢いで消化され、ウララは空腹と渇きでどうにかなってしまいそうだった。
「そ、そうですね、お酒……、とっても飲んでみたいです!」
「よし、いい場所があるんだ。ついてきな」
 男はウララを連れて裏通りの瀟洒な屋敷に入った。煉瓦造りの門には屈強な男が立っていたが、ウララを伴った青年とは馴染みの仲のようで、軽く手を挙げて通してくれた。
 中はかなり照明が暗く、燭台の仄赤い灯りが酒に酔った男女らの顔を浮かび上がらせている。黒で統一された室内は表の色鮮やかさや天界の白い世界とは真逆で、少々居心地の悪さを感じてしまう。エキゾチックな香が焚かれふしぎな香りが充満し、それは奇妙に時間の感覚を狂わせる。
 何よりウララはそこに入った瞬間、何か熱のこもった粘ついたものに包まれたような、奇妙な感覚を覚えた。
(まさか、ここに悪魔が……? いえ、そんなはっきりとした気配ではありませんが……)
 僅かな緊張感に体を強張らせていると、ウララを伴ってきた青年が軽く肩を叩く。
「こういう場所も初めてだろう? 大丈夫大丈夫! 地方の酒場と同じ、酒を飲んで楽しむところさ。さあ、ゆっくりくつろいで」
 クッションの柔らかな天鵞絨の長椅子を勧められ、ぎこちなく腰を下ろす。
 少し落ち着いて周りを見回すと、確かにそこには気持ちよく酔って笑ったりお喋りをしたりしている客やスタッフばかりで、先ほど見たような異形の悪魔はどこにもいない。
(私の勘違い? それともこういうお酒を飲む場所の雰囲気が、少し悪魔と似た気配を持っているんでしょうか)
 人間界が初めてだったウララは、無論魔界にも行ったことがない。もしかすると、魔界にもここに近い空気が漂っているのかもしれないが、それを知ることはないだろう。
「さあ、お約束の一杯だ。遠慮せずどうぞ!」
「ま、まあ、ご親切に、どうもありがとうございます」
 渡された酒器には一見黒とも見えるような深遠なる赤い液体が揺れている。
「バラクの葡萄酒は他とはひと味もふた味も違うぜ。ここでしか栽培に成功してない希少な品種を使ってる。まあまずは飲んでみな」
「は、はい……いただきます」
 顔を近づけると濃厚な酒気が鼻孔に忍び込み、その感覚だけで恍惚とする。口に含めばその渋みと酸味、そして仄かな甘味の絶妙なコントラストにウララは丸い目を見開いた。
「まあ、美味しい。こんなにも深く香り高い味わいがあるだなんて」
「お姉さん、いい飲みっぷりだね! こいつも試してみな。葡萄酒を温めたものに色んな新大陸の香辛料を混ぜたもんだ。天国に昇っちまうほど美味いぜ」
 店員らしき男がやってきて、ウララが返事をする前に新たな酒器を差し出す。
 その器は温かく、ふしぎに思いながら飲んでみると、男の言う通り、魂が天界に帰ってしまいそうになるような陶酔に呑まれてしまう。
「なんて味でしょう。素晴らしい香辛料の香り……なんて複雑で芳醇な飲み物!」
「いやぁ、こんなもんじゃないぜ。もっともっと味わってもらいたい酒があるんだ。さあさあ、どんどんいっちまいな!」
 ウララは男に勧められるままに、様々な酒を飲んだ。
 天界の酒とは味も香りもまるで違う。いや、これは下界に降りて肉体を得たからこそ味わうことのできる愉悦なのかもしれない。
 酒と一緒にチーズやナッツ、ドライフルーツなど、よく合うからと提供されたものまで残らず平らげ、するとふしぎと再び市場へ出てもっとたくさんの食物を腹に詰め込みたいという欲求が頭をもたげてくる。
「あの、たくさんのお酒をありがとうございます。私、そろそろ……」
「え? でもお姉さん、全然酔っ払ってないじゃないか。すんごい酒豪みたいだけど、そんなんで満足できるのかい」
 酔う? と首を傾げそうになり、そういえば自分が飲んでいたものはアルコールだったのだとはたと気づく。
(天界のお酒じゃ全然酔えなかったですから、お酒ってそういうものだと思っていました……普通は酔いますよね、お酒なんですもの)
 いい気持ちにはなっているが、確かに酔っているとは言い難い状態だ。この先どれほど飲んでも酔っ払えそうにはない。それより深刻なのは空腹の方だった。なぜか酒を飲めば飲むほど猛烈に食欲が湧いてきてしまうのだ。
「あの、大丈夫です。お酒を飲んでいたら、何だかお腹が空いてきちゃって。また何か市場で食べてみたいなと思って」
「そうか。それじゃまたおいでよ。これ、お勘定ね」
「お勘定?」
 ウララはキョトンとしてオウム返しで答える。
「あの……私をここへ連れてきてくださった方が、奢ってくださると」
「え? あれは一杯だけって話だったでしょ? 他のものは代金いただけないと困っちゃうんだけどな」
 いっぱい。それはたくさんという意味ではなく、ひとつの杯という意味だったのか。
 遅ればせながらに理解し、それならば最初の一杯以外を払わなければいけないと納得し、はて何を飲食したかを思い返して血の気が引く。
 さすがにまずい。一体どのくらい飲んだかウララはまるで覚えていないのだ。酔っ払ってはいないが、あまりにもたくさん飲み過ぎた。
 怖々と目の前に置かれた紙切れを見ると、意味がわからない桁の数字が書かれている。支給された通貨では到底払いきれない。
(もしかして今、ヤバい状況ですか? 私……)
 何やらまたやらかしてしまったようである。天界でも失敗続きだった新米天使ウララは、人間界でもやはり失敗続きなのだった。
 背に腹は代えられない。ここはサラエに雷を落とされる覚悟で懇願し、金を借りるしかないようだ。
「え、えぇと、申し訳ないのですが、今払えるだけの手持ちがないので、知人に借りてきてもよろしいでしょうか」
「は? 払えないの?」
 急に男の声の温度が下がる。
 人間の皮を被った悪魔だったかと思うほどみるみるうちに人相が凶悪化していく。
「あ、あの、すみません、払わないと言っているのではなくて」
「払ってもらわなきゃ困るよ。こんな店の酒樽全部空にしそうな勢いで飲んでおいてさ。もし今払えないんだったら、うちの系列店で働いて金作ってもらうしかないわ」
「け、系列店?」
 それは一体何なのかと訊ねる前に、気づけば周りを屈強な男たちに囲まれている。
「いるんだよね、こういう客。端から払う気ゼロなんだもん。そういうお客さんにはね、紹介する店があんのよ。お姉さん、かなりイイ線いってると思うよ。顔つきも髪も体もなんかふわふわでさ。美人っていうか、可愛いし。特にその丸い目、ぼんやりした青? 灰色っての? 掴みどころがない感じですごく魅力的だと思うしさ。多分すぐに借金なんか返せるからさ……」
「はいはい、ちょーっと待ってねぇカルロスちゃん」
 唐突に、場違いなほどの明るい声が店内に響く。
 男たちの筋肉の間からヒョッコリ顔を覗かせたその存在に、悪魔の顔つきだった男はパッと表情を変えた。
「ん? おわ、アゼルじゃねぇか。ひっさしぶりだなぁ、おい!」
「お久お久ー。いやぁ相変わらず景気がよさそうだねぇ、この店は」
「そうでもねぇよ。ま、無銭飲食しようとしてる客もいることだし」
 チラリと冷たい目でこちらを見やる。ウララが居心地の悪さに首を縮めていると、アゼルと呼ばれた青年はサラッととんでもないことを口にした。
「あ、それ俺が払ってやるよ」
「へ?」
 ウララと店員の男は同時に素っ頓狂な声を上げる。
 そのとき、ウララは初めてまともにアゼルという青年の姿を見た。
 上背があり居並ぶマッチョたちと遜色がないほど逞しい体格をしている。やや褐色がかった肌に、琥珀色の瞳。そして白に近い銀髪の巻き毛との組み合わせが印象的で、様々な人種がこの青年の中に入り混じっていることを想像させた。
 そして蕩けるように甘い目がひどく色っぽい。そういう方面に疎いウララが見ても思わず胸をときめかせてしまうほどの妖艶な雰囲気を持っている。
 観察されているのに気づいたのか、アゼルの視線がこちらに向けられる。その搦め捕るような、妙に熱い眼差しにウララはドキリとして、思わず彼の目から逃れるように横を向いた。
(な、何でしょう、この感じ……。見られているだけなのに、何だか落ち着きません)
 恐る恐る目線を戻すと、アゼルはまだウララを見ていた。そしておかしそうに小さくクスリと笑い、目を剥いている店員の男の肩に馴れ馴れしく腕を回す。
「この子いかにも天然じゃん。お前んとこの娼婦なんか無理過ぎだって。ヤベエ要求の客多いのにさ。払い終えるのいつになるかわかんないよ。だから俺が払ってあげる」
「え、え、マジ? お前正気か? アゼル」
「うん。今お小遣い貰って潤ってるんだよね。だから善行積んどくわ」
「女に貢がれた金で善行ねぇ……まあ、店としては払ってもらえるなら誰の金でも構わないけどさ。この子、お前の好みだったわけ?」
「女の子は皆可愛いに決まってんでしょ! 俺じゃなくたってこんな子助けたくなっちゃうよー」
 店の男はフンと鼻を鳴らし、横目でウララを見やった。
「あんた、ラッキーだったな。物好きに救われて」
「あ、は、はい……」
「せいぜい、お礼にご奉仕してやんなよ。……はあ、せっかくの上玉逃しちまった」
 男は残念そうに頭を振っている。ウララはまだ何が起こったのかわからず混乱したまま、アゼルに首根っこを掴まれるようにして店の外に出た。
 あんなに明るかった太陽が、気づけばすでに落ち切る寸前である。一体どれほどの時間、ここで飲んでいたのだろうか。
 暗くなった世界は明るかったときよりも少しひんやりとしている。陽光が大地を暖めていたためだろう。
(時を刻めば、夜が来る……すごい、本当に空が暗くなっていきます。なんて綺麗なグラデーション……天界にはない光景……でも、何だかどこか、懐かしい……)
 赤く燃える水平線を眺めながら、黒い帳に覆われていく天空に視線を移し、ウララは星々が宝石のように輝く美しさに束の間恍惚とした。
 東の空に煌々と光る半月。その光にサラエの手から発されるあの冷たい刃を思い出す。
 ウララははたと我に返った。夜空に見とれている場合ではない。慌てて青年に向き直って何度も頭を下げた。
「あ、あの! ありがとうございます! 本当に助かりました。お金は必ずお返ししますので……」
「いや、いいって。さっきも言ったけど、俺の金じゃないからさ。気にしないでいいよ」
 アゼルは手をヒラヒラと振って笑っている。しかし、あんなとんでもない桁の金を払わせておいてそのままでいるわけにはいかない。
「いえ、あの、本当にきちんとお返ししますから、お住まいの場所を……」
「あー。俺、自分の家、今ないんだよね」
「へ?」
「女の家に居候してんの。飼われてるって感じ? 侯爵夫人のペットなのよ、俺。まあそろそろ飽きてきたからどっか他ふらつこうと思ってるけど」
「ペ、ペット? え、えぇと……そうですか……それじゃ、今のお住まいは自分のおうちではないですよね……」
 しかも飽きて他に行こうとしているらしい。あの金額をすぐに用意できるとは思えないし、今住んでいる場所を聞き出せたとしても、すでにそこにはいなくなってしまっている可能性が高いのだ。
 どうすればよいのかと途方に暮れていると、「だから気にすんなって!」とアゼルはくしゃくしゃと犬にするようにウララの頭を掻き混ぜる。近づくと、アゼルの胸元からふんわりと甘い香りがした。
「まあ、お姉さん気をつけな。都会にゃこういういわゆるボッタクリ店がたくさんあるんだからさ。基本的にその辺うろついてる客引きは相手にしない方がいいよ。あの店もいい酒揃えてるんだけどさ、あんたみたいな可愛いお嬢さん騙してああやって働かせるわけ」
「あ、あの……ボッタクリといいますか……実際私がとてもたくさん飲んでしまったからだと思うのですが……」
「それでもあの額はいき過ぎ。ま、お上りさんじゃわかんないか」
 ふいに、アゼルの琥珀色の瞳が真っ直ぐにウララを見る。その目の奥にふしぎな光が瞬き、ひどく優しく甘く心を包まれたように思って、なぜかズキンと切なく胸が軋り、一瞬声が出なくなった。
「あ……あの……」
「ん? なあに」
「以前、お会いしましたでしょうか、どこかで……」
 言ってしまってから、トンチンカンなことを口にしているのに気がついた。ウララが箱庭に降り立ったのは今日のことなのだ。どこかで会っているはずなどない。
 けれど思わずそう口にしてしまったのは、アゼルのウララを見る目に、どこか懐かしさを孕んでいるような色合いを見たからだ。
 アゼルは一瞬目を細め、口元に優しい微笑を浮かべて頭を振った。
「いや、会ってないと思うよ」
「そ、そうですよね……すみません」
「俺に似てる奴とかいたの?」
「え? いえ、そうではないと思うんですが」
 ふと、ウララは自分の言葉に首を傾げそうになった。そう、以前会ったことがあるかもしれないと思ったのは、アゼルの目つきだけでなく、自分の中にも微かにアゼルの面影が漂っているように感じたからだ。
(アゼルさんに似ている天使が天界にいたでしょうか……それともここに来てから彼に似た人を見た?)
 記憶を手繰ってみるが、まるでわからない。どうしてこんなおかしな印象をアゼルに抱いてしまうのだろう。突然色々な展開が起きて混乱しているのだろうか。
「……とにかく、自分を大事にしなよ。世の中、いい奴ばっかじゃないんだからさ」
 最後にそう言って、アゼルはあっさりと人混みの中に消えていった。
 一人取り残されたウララは、雑踏の中呆然と立ち尽くしている。
(アゼルさん……。ふしぎな人です。どなたかのペット? らしいですけれど、まったく繋がれているようには見えない……とても自由な方でした)
 そういえば、彼はなぜあの店にやってきたのだろうか。店員が久しぶりだと言っていたので、気まぐれに飲むつもりで寄ったところで偶然ウララの状況に出会い、助けようと思ったのか。