黒き悪魔の至上の愛 無垢な新米天使は魅入られて快楽の園に堕ちる 3
「ウララ。見つけましたよ」
恐ろしい先輩の声に条件反射で飛び上がる。
怖々と振り向けば、サラエが無表情でウララを見下ろしている。
「こんなに遅くまで、一体何をしていたのですか」
「あ、あの……実は、色々ありまして……」
隠しておくこともできるのだろうが、嘘の苦手なウララは自分が事実を隠し通せるわけもないのはわかっていた。後になればなるほどバレたときに超弩級の雷が落ちるのを知っているので、早々と白旗を上げた形だ。
ウララの報告を聞き、サラエは深々と大きなため息をついた。
「何という……」
「す、すみません、また私、失敗を」
「失敗などという言葉では済まされません。神の使いである天使が人間にたぶらかされ金を巻き上げられそうになったなどと……こんな醜聞は断じて放置しておくことはできません。証拠を隠滅しなければ」
「し、証拠を、隠滅……!?」
突然物騒な言葉を口にしたサラエに、ウララはゾッと鳥肌を立てる。冗談で言っていると思いたかったが、サラエは今まで一度も冗談など口にしたことがない。つまり、彼が発している言葉はすべて本気なのだ。
「ち、ち、ちょっと待ってくださいサラエ先輩! 一体何を!?」
「ですから、証拠隠滅です。あなたをボッタクろうとした人間、いや店ごと燃やします」
「だっ、ダメダメ、やめてください──!!」
ウララはいまだかつてないほど必死で先輩天使を止め、なだめすかそうと懸命に頭を動かした。
自分の迂闊な行動のせいで店をひとつ燃やされてしまうわけにはいかない。何より、ボッタクリだったかもしれないが、あの店の酒やつまみはとても美味しかったのだ。美味しいは正義。つまり無罪。冤罪で処刑されてしまっては敵わない。
「何ですか、ウララ。いやに必死ですね」
「だ、だって、私が悪いんですもの。それでお店が黒焦げになっちゃったら、私本当にお店の方々に申し訳なくって」
「馬鹿正直、もとい純真無垢な天使であるあなたを騙すような店ですよ。残す価値などないではありませんか」
「いえいえ、だって、あそこには悪魔なんていませんでしたよ。ただの人間たちが働いていただけです。天界は人の世界を見守るだけで、直接手出しはしないというのが鉄則じゃないですか。それに、私たちがここへ来た目的は、悪魔を退治することでしょう?」
「おや、知っていたのですか。私はてっきり、あなたは箱庭グルメツアーでもするためにここへ来たのかと思っていましたよ」
ぐうの音も出ない。けれどここで黙って引き下がればあの酒場は燃やされてしまうのだ。天界の規則を犯してでも天使の矜持のためとあらば、サラエはいとも容易く行動に移すだろう。
「ほ、本当に軽率な行動は反省しています! ですからどうか、今回だけはご勘弁を……」
「口だけならば反省などいくらでもできますからね」
「そ、それに、私が天使だなんて誰も知りませんし気づいていませんでした。彼らも天使を弄んだなどと思っていません。幸運にも私は助けていただいたのですから、これ以上誰も傷つく必要はないと思います……!」
「ふむ。そうですか。まあ、あなたが本当にきちんと反省してくれると言うのなら、私も引き下がりましょう。今回だけは」
サラエはあっさりと譲った。ウララは思わずぽかんとしたが、もしかするとウララに自分を省みさせるための過激な言葉だったのかもしれないと思い至る。こちらが本気で抗わなければ十中八九、実行していただろうが。
ともかく、最悪の事態は免れたのだ。ウララは脱力し、へたり込んでしまいそうになる。
「す、すみませんでした……気をつけます、本当に」
「私も監督不足でした。あなたがこれほど食欲に弱いとは想定外だったものですから。で、あなたを助けてくれたという青年はペットという身分で住所不定なのですね」
「はい……そろそろペットはやめると言っておられましたが、次は何になるのかも聞いていませんし……お金を返したいのですが、こんなにたくさん人のいるところじゃ、次はいつ会えるか……」
「簡単じゃありませんか。あなた、彼の魂の色は見なかったのですか」
「へ? 魂の……色?」
そういえば、天使学校でそのようなことを習った気がする。というか、この世界に至る途中でサラエが悪魔の魂の説明をしていたではないか。すっかり忘れていた。というよりも、まず目の前の食べ物や飲み物に夢中で魂のことなど頭からすっぽり抜けていたのである。
「そ、そうでした。魂の色は十人十色……形も揺らぎも一人ひとり違うんですよね」
「天界では我々は肉体を持ちませんからね。精神体である天使たちは魂を見ようとせずとも見えていた。けれどここでは魂は肉体という檻に閉じ込められています。肉体の眼で見ていては外側のものしか見えない」
天使の魂とは、頭の上に浮かんでいる輪のことだ。下界へ降りてしまえば、肉体を得た天使の輪も人同様に体の中に隠される。
上空から見下ろせば人の形はつぶさに見えずとも、魂の輝きはひとつひとつ感じ取ることができる。悪魔を見つけようとしたときもそうだったが、正確な居場所を突き止めるには大地を踏んだ方が早い。しかしアゼルの魂を見ていれば、彼を再び見つけ出すことは確かに容易だっただろう。何という過失。しかし過ぎてしまったことはどうしようもない。
「ま、また失敗してしまいました……こんな大事なことをうっかり忘れてしまうなんて」
「まあ、あなたはここへ降りたのが初めてのことですからね。仕方ないといえば、仕方がないでしょう。初めて肉体の目で見て感じる世界は相当刺激的でしょうから」
もう呆れ果ててため息も出ないといった空気をありありと醸しながら、サラエはかぶりを振る。
「ともかく、報告のために一度他の天使たちと合流しなければいけません。集合場所へ向かいましょう」
「あ、天界に戻るのではないんですね」
「あなた、来たときのことを覚えているでしょう。いちいちあの数の関所を越えていてはあまりに効率が悪い。我々が下界で作戦を実行しているときは最寄りの陣地に集いながら、報告は連絡係に任せる決まりです」
なるほど、確かに行きも帰りもいちいち出入りの作業を踏んでいては時間がかかり過ぎてしまう。少し箱庭にいただけでも悪魔に幾度か遭遇したのだ。掃討作戦と銘打っているからには、もっと多くの悪魔を駆逐しなくては話にならない。その任務に専念するために、天界への報告はそれ専任の天使がいるのだろう。
(それにしても……初日から散々な目にあってしまいました)
自業自得の文字が頭にのしかかった。このポンコツ具合には我ながら悲しくなる。
しかしもちろんいいこともあった。素晴らしく美味しい食事と酒にありつけたことと、優しい青年アゼルに出会えたことだ。
何もかもが初めての人間界で、新米天使ウララは希望と不安を同時に抱えつつ、次にとる食事に思いを馳せるのだった。
サラエがウララを伴って訪れたのは、一見何の変哲もない民家である。
市場を見下ろす格好の山肌に並ぶ家々の中のひとつで、彩り鮮やかな壁が多い中、その家は真っ白だった。
数度サラエがノックをすると、しばらくして中から厳かな声が響く。
「汝の名を述べよ」
「御前天使が一人、月のサラエでございます。そして我が配下、光の天使ウララもこちらに」
淀みなくサラエが答えると、白い扉は静かに開いた。
室内はまるで天界を模したような眩い白で統一された部屋だ。生活感はなく、だだっ広い空間の中央に円を描くように木の椅子が並べられ、すでに十人ほどの天使が座っており、新たにやってきた二人を静かに見つめている。
「よく来ましたね、同胞よ。さあ、今日の成果を報告してください」
入口からいちばん遠い位置に座っている天使が朗らかにウララたちに声をかけた。
ウララはその顔を見てハッと緊張する。天使長のジブレルだ。優美な微笑をたたえる青年の姿でありながら峻厳な鋭い光を目に宿す、天界でも最も長く存在している天使のうちの一人だ。
(天使を束ねる立場のジブレルさま自ら箱庭に降りていらしたなんて……)
天使の数が足りないというのは本当なのかもしれない。人間界で悪魔召喚が流行し、多くの悪魔が蔓延っているという事態は確かに深刻なのだろうが、天使長まで実際に現場に降りてきているとは思わなかった。
ジブレルは千年前に起きたとされる天使と悪魔の大戦争にも参加した、偉大な天使だ。その聖なる力の強大さには神も一目置いていると言われている。
そんな危機的な現場に自分はいるのだ。そう思い知らされて、ウララは青ざめた。グルメなど堪能している場合ではない、と思いつつ、先ほど貪った美味なものの数々が舌の上に蘇り、恍惚としてしまいそうになるのを懸命にこらえる。
サラエはウララと並んで椅子に座り、今日退治した悪魔の数、姿、場所などを報告した。
「バラクの市場で四体の悪魔を浄化しましたが、どれも下級悪魔でした。やはり人の子が魔界から召喚したものだったようです」
「そうですか。他の皆が浄化した悪魔たちも皆、人間が自ら呼び寄せたものです。それがここのところ非常な勢いで数を増している。我々の数が足りなくなるほどに」
ジブレルが淡いため息を落とすと、憤懣やる方ない様子の天使らが声を上げ始める。
「偶然ではありますまい。誰かが裏で糸を引いているとしか思えない」
「その通りだ。すべて悪魔の企てだろう。脆弱な人の子らを使い悪魔を次々と箱庭へ侵入させ、神の創り給うた世界を汚し尽くす腹積もりなのだ!」
「まあまあ、落ち着きなさい、皆さん」
優しい声音だがジブレルの一言でその場は静まり返る。秩序を絶対とする天使たちの間では、階級は何にも勝る判断基準だ。
「確かに、このところの箱庭の動きは何らかの力に操られているようにも感じます。しかし、我々は人の子の愚かしさゆえの流されやすさを知っています。人々は流行と呼ばれるものに弱く、ひとたび流行れば我も我もと雪崩を打つかの如く同じ行動をし始めるもの。それが起きているとも取れるのです」
「し、しかし……悪魔召喚など、普通の人間には知り得ないことではないでしょうか。専門知識が要りますし、何より代価として自らの寿命を捧げることになる。にもかかわらず、神を冒涜する行為に人々がそれほど熱中していると……?」
「ですから、人の子らは我ら天使が正しい方向へと導いてやらねばならぬのです。彼らは脆く、移ろいやすいもの。心に芯を持たぬ弱き生き物なのです。今我々にできることは、一体でも多くの悪魔を駆逐すること。一刻も早く箱庭を洗い清めなければ、毒は地中深くに根を下ろし、やがてここは魔界に呑まれてしまうでしょう」
ジブレルは天使たちの顔を一人ひとり眺め、静かにつけ加える。
「もちろん、陰で動く何者かの存在を感じ取った場合、すぐさまここで報告を。もしも頭目を排除することができれば、状況は一気に好転するでしょうから。皆さん、ゆめゆめご油断めされぬよう」
天使たちは一様に真面目な顔で頷き、一人、また一人と去ってゆく。
サラエに促されウララも椅子から立ち上がったところで、ジブレルが声をかけてきた。
「ああ、ウララ。あなたは初めての下界なのでしたね」
「えっ。は、はい」
「どうでしたか、この箱庭の最初の印象は」
美味しそうでした。と答えかけてサラエの冷たい空気に凍りつき、アワアワと他の言葉を探す。
「えぇと……すごく、色々なものが混ざり合った場所だなと。人の種類も、ものの種類も、何もかもがバラバラで、それなのに一定の秩序もあって……とてもふしぎでした」
「なるほど。それはこのダパイン帝国の首都が大陸における交易の要の場所だからでしょう。各地から人々が集まってきますからね」
ウンウンと頷くウララ。市場で買って食べたものも様々な香辛料、調味料、料理法も種類に富んでいてまったく飽きがこなかった。願わくはここの市場だけでもすべての食物を制覇したいものである。そして各地から物が集まっているということは、もちろん酒の種類も色々あるはずなのだ。あのウララが暴飲暴食してしまった店ではバラクの酒しか飲めなかったが、探せばいくらでも種類はあるだろう。
これからの食道楽を想像して目を輝かせていると、ジブレルがじっとこちらを見つめているのに気づき、思わず狼狽える。
(天使長、なぜ私をこんなに真っ直ぐに観察しているんでしょう……ハッ、天使長の能力は思考を読めるものだったでしょうか……? だとすると私の頭の中には食べ物とお酒のことしかないのがバレてしまいます……!)
ウララが一人で赤くなったり青くなったり汗をかいたりしていると、ジブレルはふっと視線を和らげる。
「ここを楽しんでいるようで、何よりです。天使として生じて間もないあなたには少々荷が重いかと思っていましたので……」
「ジブレルさま。私が責任をもって彼女を監督しますので、どうぞご心配なさらず」
「ええ、頼みましたよ、サラエ。さて……私は天界に報告に戻るとしましょう」
ジブレルは颯爽と家を出て行き、ウララたちもそれに続いた。
ジブレルがウララの思考を読んだのかそうでないのかは謎のままだが、不真面目な頭の中身を叱られなくてよかった、と心底安堵する。
「ウララ。ここにいる間は我々も肉体を得ていますから、人の子らと同じように生活します。ここでは昼と夜が交互に訪れます。明るいうちに活動し、暗くなったら眠るのです。人の子の肉体は基本的にそのようにできています」
「えっと……それじゃ、悪魔も夜に眠るのですか?」
いい質問です、とサラエは頷く。
「そのはずですが、悪魔を召喚した人間にもよるでしょう。魔界は常に夜の場所ですから、悪魔にとって活動しやすい時間は暗くなってからです。人間が依頼する内容によって状況は変わるでしょう」
「あ……それじゃ、夜の方が悪魔に遭遇しやすいということでは」
「その通りです。ですから、これから他の天使たちと連携をとっていく中で、我々が夜の担当になることもあるでしょう。そのときは、あなたはまだ慣れないでしょうから最初のうちは私一人で動くことになると思います。おいおい、状況を見ながら計画を決めていきましょう」
ウララははいと答えつつ内心怯えた。
(天界はずっと白い光に満ちている場所でした……初めて見た夜は美しかったけれど、暗い場所で悪魔と戦わなくてはいけないなんて、恐ろしい……魔界に近い時間では、悪魔も強くなってしまうに違いありません……)
なるべく夜の担当が回ってきませんようにと願いながら、ウララはこのことを考えていたくなくて質問を変えた。
「あの、それで、今夜の宿はどこでしょうか。他にもここのような私たちのための家があるのですか?」
「ええ。同胞の経営している宿屋がいくつかあります。そこで部屋をとりましょう」
サラエによれば、人間界にはここでの活動を潤滑にするために、平生から人と偽って暮らしている天使たちがいるのだという。天使の魂は不死に近いが、人の世界にいれば人とほぼ同じ肉の器を得て同じような寿命になってしまうので、定期的に天界に戻って箱庭での肉体をリセットする必要がある。そのため、長くとも五、六年ほどでその役割は交代し、しばらく天界で過ごした後に戻ってくるらしい。
しかしこの情報はあまりにもウララにとって有益だった。
(それです……! ここで暮らすには、そのお役目をいただくしかありません……!)
一体どのような条件が求められるのかはわからないが、必ずクリアしてみせる。人間界の食べ物と酒への情熱が、いまだかつてないやる気をウララに起こさせていた。
今夜の宿はこぢんまりとした建物だったが、掃除が行き届いていて清潔で、寝台は太陽の匂いがする心地のいい場所だった。宿屋の主ロペはなるほど魂を見れば同胞とわかったが、先ほど報告のために集まった天使たちに比べればずっと人間らしく見えた。
自分ももしも箱庭で長く暮らせば、この天使のように魂までもが人間に寄っていくのだろうか。ふしぎな心地がした。
しかし考えてみれば天使も人も神の創造物。同じ創り手である以上はどこか似通うのも当然の話なのかもしれない。
ウララとサラエはロペの宿で簡素な夕食をとった。給仕している者らは意外にも人の子である。
「やあサラエ、よく来たな」
「ええ。こんな仕事で来ることは御免だったのですが仕方ありません。あなたはすっかりここに馴染んでいますね」
サラエとロペは親しげに話している。サラエは以前人間界に降りたときもこの宿を利用したようで、ロペとは旧知の仲らしい。
「ロペさん、あの、一緒に働いている方々は、その……」
「ああ、そうだよウララ。宿屋の主は私だが、他は周りの宿と何ら変わりないのさ。……もちろん、我々がどこから来たのかということは知らないよ」
ロペはこっそり耳打ちした後、快活に笑っている。ウララの視線に気づいたのか、一人の給仕がこちらを見てにっこりと微笑んだ。栗色の髪に暗褐色の瞳のすらりとした姿の女性で、物静かな顔立ちが笑うととても魅力的になる。
「サラエさん、彼女は初めての人ね」
「ええ、ウララといって私の部下です。とんだお上りさんで困ってしまいますよ。マヌエラ、ぜひ彼女にここで気をつけなければいけないことを教えてあげてください」
「あら、何か困ったことがおありですか」
「初日からボッタクられそうになりましてね」
「あっ、あっ、サラエ先輩、どうかそのことは……」
「もちろん冗談ですよ。この私の部下がそんな不始末をしでかすはずがありません。ねえ?」
冷や汗をかきまくるウララを冷たい目で眺めるサラエに、マヌエラはコロコロと笑っている。
ウララは人の子と言葉を交わすサラエに秘かに驚いた。天界でも必要最低限の会話しかしないサラエである。それが積極的に会話をし、冗談めいたことまで口にしている。それに、彼女のマヌエラという名まで呼んでいるのだ。人間界での時間の流れを考えれば、かなり最近にこの宿を利用したはずである。それも何度か通っていなければこうまで気安く喋れないだろう。
(サラエ先輩の以前の任務は知りませんが、人間界での仕事をしていたんでしょうか。ここに降りると天界にいたときとはまるで違う天使のようです)
天界では雑談などできる雰囲気ではなかったので、ウララはサラエのことをあまりよく知らない。それとも、この場所には天使を変えてしまうような何かがあるのだろうか、と少し怖くなった。
「サラエ先輩、以前箱庭に降りたのは結構最近だったんですね」
食事を終え、二階の部屋に戻る途中で話しかけると、階段を上っていたサラエの足が一瞬止まる。
「ええ……そうですが。なぜそう思うのですか」
「あの、マヌエラさんという人と話されていたので。天界とは時間の早さが違うはずですから、交流があるなら近いうちでないと」
「確かに。あなたにしては鋭い観察眼ですね」
褒められているのか馬鹿にされているのかわからない。普通ならばすぐに気づくことでも、ウララへの評価がすでに最低なので少しは救いようがあるという程度の意味だろうか。
「箱庭で悪魔召喚が活発になり始めた頃、私は今と同じ任務でここへ降りていました。以前はこうまで悪魔の数は多くはなかったので、そう大変なことでもなかったのですが」
「そうなんですね。じゃあ、悪魔が増えたのは結構突然だったんですか」
「予兆はありましたがね。その調査もしていましたが、あまりに数が多いので、今は駆逐する作業を優先しています。ジブレルさまも仰っていましたが、この事態の裏にあるカラクリは掃討作戦を実行しながらでも自ずと見えてくるでしょう」
サラエは小さくため息をつく。その横顔には今まで見たことがないほどの疲れがあらわになっていた。悪魔を数体排除し、更に出来の悪い後輩を探し回って疲れ果ててしまったのだろう。まだ質問したいことはたくさんあったが、さすがの落ちこぼれ天使でも空気を読んでやめておいた。
それぞれの部屋に戻り一人になって寝台に身を投げると、ふとウララは今日自分を助けてくれたアゼルのことを思い出す。
(せめてどなたのペットをやっていらしたのかくらいは聞いておくのでした……今私が知っているアゼルさんのことなんてほとんどありません。またあの店に戻って彼のことを聞けばいいのかもしれませんが……)
正直それは最後の最後までとっておきたい手段である。酒は美味かったが恐ろしい経験をしたせいで再度行く気にはなれないし、もしもまたあの店を訪れているところをサラエに見られでもしたら、今度こそ店は消し炭にされてしまう。
魂の色や形は覚えていないが、ウララの目には鮮やかにアゼルの姿が焼きついている。あの暗い店の中では満月のように冴え冴えと光って見えた銀髪の柔らかな巻き毛に、蜂蜜のような甘い誘惑的な琥珀色の瞳、そして浅黒い光沢のある肌。柔和に整った顔立ちと上背のある逞しい姿は著名な芸術家の手による美しい彫刻のようで、その声も深くなめらかで人を恍惚とさせる響きだろうと思えた。
天使らにとって美しさとは肉の器ではなく魂の輝きに他ならない。自分たちも元は精神体とはいえ神に似せて創られた外見を各々持っている。それは魂の特徴を反映されたものであり、魂が歪で陰鬱な精神に支配されていればその輝きは鈍り、澄み渡る清きものであれば神々しく光り輝く。
人の子らの間では外見の美しさとは、その目鼻立ちの大小や配置と聞いているが、たとえそれが整っていても、よしんばウララのように魂を見ることをうっかり忘れた天使にとってさえ、魂のありようによって美しいか醜いかは変わるのである。
(アゼルさんは美しかった。それはきっと彼の魂が眩い輝きを放っているからです。ペットというお仕事は具体的にどんなものか知りませんが、きっと高尚なものなのでしょう)
何より、アゼルは万事休すだったウララを助けてくれたのだ。悪しき魂の持ち主がそんな行為をするはずがない。
ウララは別れる前に自分をじっと見つめた青年の目を思い起こし、再び妙な胸の高鳴りを覚えた。
(また会えるでしょうか……アゼルさん)
もっと彼のことが知りたい。そんな仄かな願いを胸にしまいながら、ウララはそっと目を閉じた。
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