悪女(と誤解される私)が腹黒王太子様の愛され妃になりそうです!? ~新婚編~ 3
──素敵ね。夢の世界みたいだわ。
四阿には、色鮮やかに着飾った令嬢たちの姿が見えた。
ただし、令嬢たちの服装は少し変わっている。
ドレスをシンプルにし、男性用の生地で仕立てた者、シャツにスカートの者、短髪に見えるよう髪を工夫して結った者。令嬢たちなりに工夫をして『男装』というテーマをお洒落に織り込んだことが窺える。
結論を言えば、男に見える本気の男装の者など、アンジェリカしかいなかった。
まずい。そう気付いたがもう手遅れである。
──私、気合いを入れてサーベルまで持ってきてしまっ……た……。
アンジェリカは冷や汗まみれでダルト伯爵を振り返った。
「この剣、預けた方がよろしくて? 仮装を張り切りすぎてしまったみたい」
「いえいえいえいえ! 娘たちのためにもぜひお持ち下さい!」
「そ、それはどういう意味ですの?」
「さ、妃殿下、お席へどうぞ」
質問の答えは返ってこなかった。どうやらこの服装のまま突き進め、ということらしい。
アンジェリカは覚悟を決めて大きな四阿へ歩み寄った。屋根の下にいた令嬢たちが一斉に振り返る。そして、アンジェリカを見るなり悲鳴を上げた。
「きゃぁぁぁぁぁぁっ!」
「将軍そっくりぃぃぃぃぃっ!」
「ごっ……ごめんなさい」
アンジェリカは反射的に謝罪する。
武門貴族としての誇りはあるが、この場は謝る一択だ。自分が浮いている自覚がありすぎる。どこぞの鬼将軍が女になって現れたらびっくりするに決まっている。
「ご、ごきげんよう、王太子妃様」
令嬢の一人が緊張した表情で頭を下げてくる。
「ええ、ごきげんよう」
アンジェリカは自分なりに最高に愛想良く答えた。だが、一人だけ変な格好でお茶会に突撃してしまった悲しみはどう癒やせばいいのだろう。
──こんなざまでは、エルヴァン様のお名前に傷が付きます。どうしましょう。
無表情に落ち込むアンジェリカの前で、娘たちがとろんとした目でため息をつき始めた。
「はぁ……」
「リッカルト将軍……」
──ん?
なにやら様子がおかしい。鈍いアンジェリカにもそのことがわかった。
──お父様がどうしたのかしら?
頭の中に疑問符が次々に湧き上がってくる。
領主貴族の令嬢と、武門貴族の長でありこの国の将軍である父との間には、ものすごく距離があるはずだ。父は王宮のパーティにほとんど出ないし、そもそも王都にいることも少ない。
──お父様とご令嬢方には、面識がほぼ無いわよね?
そう思ったとき、令嬢の一人が思い切ったように話しかけてきた。
「アンジェリカ妃殿下」
「はい、なにかしら?」
「本当に、リッカルト将軍に似ておいでですね」
令嬢の顔は赤かった。風邪気味なのだろうかと思いつつ、アンジェリカは頷く。
「ええ、このような格好をするとますます似てしまいますね」
「そ、そうなのですね、ありがとうございます」
令嬢はひどく無難なお礼を言って押し黙ってしまった。しかし視線だけは離れていかない。無数の可愛らしい眼差しに取り囲まれ、アンジェリカは汗だくになった。
──この戦況をどう分析すればいいのかしら?
切り出す言葉も思いつかない。困り果てたとき、別の令嬢がボソリと口を開く。
「私、アンジェリカ妃殿下の結婚式で、初めてリッカルト将軍を間近で拝見したのです」
もう一人の令嬢が、四阿の天井を見上げながら呟く。
「氷の貴公子の名が相応しいと伺っておりましたが、お噂以上でしたわ……」
「恐れ多いあだ名ですわ」
アンジェリカが答えると、その令嬢はさらに続けた。
「本当に凍てつく氷そのもので、本当に美しゅうございました」
「場を凍らせると親子で言われますのよ」
「えっ?」
「い、いえ」
余計なことを言った。まずい。そう思ったとき、令嬢が首筋まで真っ赤になり、意を決したように声を張り上げた。
「しょ、将軍があんなに素敵な方だと思いもしませんでした! 一度間近でお声を聞いてみたい……あんな美神を父君とお呼びになれるアンジェリカさまがうらやましゅうございます!」
「私も、将軍のお美しさにひと目で胸を射貫かれましたわ!」
「エルヴァン殿下がアルディバラの太陽なら、リッカルト将軍は月であらせられますわ」
アンジェリカは無言で瞬きをする。
予想と違いすぎる話で、頭に入ってこなかったからだ。
──ん? んっ? お父様が……お父様が人気者に……?
そう思ったとき、背後から声が聞こえた。
「王太子妃殿下、お待たせして大変申し訳ございません。娘に薬を飲ませて参りました」
振り返ると、伯爵夫人がニノンの車椅子を押して立っていた。
「いえ、ニノン様、体調の方は大丈夫ですの?」
アンジェリカはニノンに恐怖や負荷をかけないよう、なるべく静かに穏やかに、声も小さめにして切り出した。
「先ほどは、その、急な男装で驚かせてしまってごめんなさいね」
急な男装とはなんだろう。自分で言ったのに意味が分からない。この話は流そうと思いながら、アンジェリカは騎士の礼を取った。完全に男装なので、貴婦人の礼をするのもおかしいと思ったからだ。
「お招きありがとうございました、ニノン様」
「……ッ……無理……ッ……」
声は聞こえなかったけれど、ニノンの小さな唇が、そう動いたのが分かった。
──無理? やっぱり具合が悪いのかしら。
様子を窺うアンジェリカの前で、ニノンが声を振り絞るようにして言った。
「無理……ッ……格好良すぎて無理ぃ死んじゃうぅぅ!」
胸を押さえて叫ぶニノンを、母親が慌てたようにたしなめる。
「こ、これ、ニノン! 落ち着きなさい、いくらアンジェリカ妃殿下がお美しいからってこんな場所で正気を失わないで頂戴!」
娘を励ましたあと、伯爵夫人はアンジェリカに向き直る。
「大変失礼いたしました。娘は以前入院していたとき、病院に奉仕活動にいらしたアンジェリカ妃殿下にひと目で恋い焦がれてしまったようで」
「えっ?」
これまた予想外の説明に、アンジェリカの頭が真っ白になる。
伯爵夫人はハンカチで目頭を押さえ、アンジェリカに微笑みかけた。
「腕まくりをして颯爽と掃除をなさる様子がとても素敵で、美しい女性なのに王子様のようだったと申しておりましたのよ」
ニノンは顔を覆ってしまっている。
どうやらアンジェリカが嫌いだからではなく、照れているかららしい。信じられない思いでアンジェリカは伯爵夫人に尋ねた。
「そ、そうなのですね。ニノン様は花の女神役を務めたいのだと伺ったのですが、そのお気持ちは私の件と関係ありまして?」
伯爵夫人は困ったように微笑み、頷いた。
「はい、娘はアンジェリカ妃殿下の婚約が決まったときから『花の女神役になれれば王族の方との接点が増える』しか口にしなくなっ……」
「お母様ァァァ! 恥ずかしいからやめて! 心臓止まって死んじゃうっ!」
顔を上げたニノンがりんごより赤い顔で叫んだ。令嬢たちが、慌てたようにニノンに駆け寄って彼女を囲む。
「ニノン、落ち着いて」
「貴女ったら、まだ妃殿下にご挨拶すらしてないわ」
「そうよ、妃殿下が寛容だから許して下さっているのよ、萌えの世界から帰ってきてちょうだい!」
令嬢たちはどうやら正常ではないニノンを落ち着かせようとしているようだ。
──だ、大丈夫なら良かったわ。
様子を窺っていると、令嬢たちがニノンの背中をさすったり肩を抱いたりし始めた。『落ち着いて』『失礼のないようにね』と彼女を励ましている。
ニノンはやがてゆっくりと車椅子から立ち上がり、細身のドレスの裾を引いてアンジェリカに一礼した。
「ア……アンジェリカ妃殿下……っ……ニ、ニノン・ダルトと申します。本日はお越し下さり、本当にありがとうございました。どうぞよろしくお願いいたします」
ニノンの声も身体も震えていた。
「こちらこそお茶会に招いて下さってありがとうございました、お会いできて嬉しいわ」
「だから格好良すぎて無理なのぉぉぉぉぉぉ……神様ぁぁぁ……」
ニノンがうめき声を上げる。
「ちょっ……ニノン、落ち着いて深呼吸!」
「正気になりなさいよ、貴女の心臓に悪いわ!」
友人たちに励まされ、ニノンが細い肩をゼエゼエ言わせながら涙を拭った。
「う……っ……本物がお綺麗すぎて格好良すぎて……本当に無理です天に召されます、最後にお顔を見せて下さってありがとうございます」
「あ……ありがとう……」
お礼は言ったものの、自分の怖い顔がこんなに評価されたことは今までなかったので戸惑って仕方がない。
「ど、どうぞ、こちらのお席にお座り下さいませ」
ニノンに勧められ、アンジェリカは礼を言った。
「ありがとう」
案内された席はニノンの真向かいだった。
お茶会にしてはやや異例な男装の会だが、会話は普通にすればいいはずである。アンジェリカは無難な話題を選んで口を開いた。
「本当にお花が豊かで綺麗なお庭ですこ……」
褒め言葉は途中で遮られた。
令嬢の一人が凄まじい悲鳴を上げたからだ。
「きゃあああああああああああっ!」
「何事!」
思わず戦闘態勢になったアンジェリカは、令嬢の悲鳴の源を目にしてほっと息をついた。
そこにいたのが大きなむっちり太った蛇だったからだ。
蛇ならば、野営訓練の時に父と一緒に食べた。
『食糧は民優先、我々はあらゆる食べられるものを自力で確保するのだ』と教えられたことは未だに記憶に鮮やかだ。
「あの蛇はお菓子の匂いに誘われてやってきてしまったのかしら?」
そう微笑むと、一斉にアンジェリカに視線が向いた。ニノンががたがた震えながら謝罪してくる。
「ににに、庭に蛇が出るなんて初めてで、申し訳ございません!」
単にニノンの目に留まらないよう、庭師が追い払ってきたのだろう。上流階級の令嬢なら蛇など目にしたことがなくても無理はない。
「大丈夫よ、この蛇は大人しくて毒もないから。お菓子を狙って鼠が来るでしょう? 蛇はそれを知っていてやってきたに違いないわ。賢いわね」
アンジェリカはそう言うと、のんびり鎌首をもたげている蛇の首を掴んだ。
「重たいわね、ずいぶんまん丸さんだこと」
アンジェリカが呑気なせいか、蛇もまるで威嚇してこない。令嬢たちは離れられるだけアンジェリカから距離を取り、固唾を呑んでアンジェリカを見守っている。
「王太子妃殿下、すぐに人を呼んで参ります!」
伯爵夫人が四阿から駆け出そうとするのを、アンジェリカは呼び止めた。
「私が庭の隅に放してきます。皆様はこちらで待っていてくださいな」
アンジェリカは微笑んでそう言うと、蛇を掴んでスタスタと歩き出す。そして庭の植え込みのひときわ濃い場所にムチムチした蛇を放した。
「もうお茶会の邪魔をしては駄目よ」
蛇はするりとアンジェリカの手を離れ、茂みの中に逃げ込んでいった。
アンジェリカが立ち上がるのと、一人の令嬢が四阿から駆け寄ってくるのは同時だった。
「ありがとうございました、なにもお手伝いできず申し訳ございません、妃殿下!」
──あら、この方は……。
髪型もドレスも『男装風』にしていたせいで気付かなかったが、彼女は領主貴族の第二位、ノイエン公爵家の三女、レヴィルナ嬢だ。
──『大物』がいたのね。気付かなかった。
領主貴族の第二位ともなれば、筋金入りの『反武門貴族』のはず。『武家の分際で貴族を名乗るとは』と思っている人間も少なくないはずだ。
これまでのレヴィルナの態度を思い出そうとしたが、あまり思い出せない。
親や姉たちに倣って武門貴族を無視していただけの、大人しい令嬢なのかもしれない。
「いいのよ、蛇は見慣れていなければ怖いでしょう。お茶会の席に戻りましょう」
アンジェリカはそう答え、レヴィルナを促した。
「あ、あの、私! 私も昔、パーティの席で、リッカルト将軍様に落ちてきた大きな蜘蛛を払ってもらったことがございまして……っ!」
「あら、そうでしたの」
父の部下から『大蜘蛛はあまり美味しくない』と聞いたことがある。
──食べられなくはないらしいけれど……。
明後日のことを考えているアンジェリカに、レヴィルナが真っ赤な顔で言った。
「あまりに素敵で……っ」
「誰がですの?」
「将軍様が……それにアンジェリカ妃殿下も……!」
「父と私が?」
やはり今日集まった令嬢たちは、少し変わった嗜好の持ち主のようだ。
しかし面と向かって『怖い』と避けられるよりはずっといい。そう思ってアンジェリカは微笑んだ。
「褒めて下さってありがとう。父はああ見えても」
ああ見えても、なんだろう。賊を倒すときは苦しませない……などと言っては怖がらせそうだ。必死に頭をひねって、アンジェリカは口を開いた。
「虫には強いのです」
なんだか妙な説明になってしまったが、これで良かったのだろうか。緊張するアンジェリカにレヴィルナがうるうると大きな目を潤ませた。
「ああ……素敵っ……! そんな頼りがいのある殿方、滅多に出会いませんもの! 私の兄なんて大きな虫を見たら気絶しますわ!」
──そうなんだ、領主貴族の世界では虫に強い男は素敵なのね……。
やがて四阿からわらわらと令嬢たちが集まってきた。皆、目を輝かせている。
「アンジェリカ妃殿下!」
「お怪我はございませんか!?」
「ええ、もちろんよ。蛇の扱いには慣れているから大丈夫よ」
落ち着き払ってそう答えると、ニノンが顔を覆って呻いた。
「尊いぃぃぃ」
「これ! お礼を言いなさい、ニノン!」
ニノンの反応は良く分からないが、悪意がないことは理解できた。
──多分、照れ屋さんなのね。
『氷の悪女』と呼ばれても、まるで誤解を解けないままだった自分とは似たもの同士ではないか。
そう思い、アンジェリカは車椅子のニノンに話しかけた。
「先ほど蛇が出たとき、心臓は大丈夫だった?」
「へ……へび……は……だいじょぶ……でした……」
「良かったわ。伯爵が貴女の身体を案じていらっしゃったわよ。それで私は今日、貴女を励ますためにお招きいただいたの」
「あ……ち、父が、わたしの……?」
ニノンがゆっくりと真っ赤な顔を上げた。
「ええ、女神祭の女神になれたら手術を受けると言ったそうね?」
「は……はい……」
「その理由は本当は私に会いたかったからなの?」
尋ねると、ニノンが再び顔を覆う。
「私……っ……昔から、本に出てくる美しい王子様が好きで……っ……もしも王子様に会えたなら、勇気を出して手術を受けようと思っていたんです……」
「あら、それなら」
身近に本物がいる。エルヴァンだ。
時間を工面し、エルヴァンをなんとかして連れてこようかと思ったとき、ニノンが真っ赤な顔で言った。
「わ、わ、私にとっては、アンジェリカ妃殿下が生ける理想なんですぅぅっ!」
「えっ私? 私が!?」
驚くしかなかった。なぜか周囲の令嬢たちもウンウンと頷いている。
「ええ、こんなに将軍閣下生き写しで、しかも王太子妃殿下だなんて素敵すぎますわ!」
「私もそう思います。『お姉様』とお呼びしたいのはアンジェリカ妃殿下だけだと!」
「素敵……女性なのにこんなに格好いいのが素敵……っ……」
皆の目がうっとりしている。アンジェリカは気圧されて、一歩後ろに下がった。そんなアンジェリカに、車椅子のニノンが必死の形相で訴えかけてくる。
「アンジェリカ妃殿下!」
「はい」
蚊の鳴くような声が出た。気弱な面を見せては武門貴族失格だが、多分父も許してくれるだろう。父もこんな修羅場は経験したことがないはずだからだ。
「次のお茶会に、王子様の格好でいらしていただけないでしょうか?」
「え……と……?」
まだ男装の会が続くのだろうか。首をかしげたアンジェリカにニノンが言う。
「私、今年中には絶対に手術を受けなくてはいけなくて、でも、怖くて……そんな私を励ますために友達が集まってくれるんです。そこに、わ、わ、私が憧れる王子様の格好で来て下さったら嬉しいです頑張れますむしろ昇天しますぅぅぅぅっ!」
◆
エルヴァンは腕組みをして、リッカルトの軍服をまとったままのアンジェリカを見下ろした。
倒錯的な美しさだ。
世界を見渡してもこれ以上美しい身体の女性はそういないのでは? と本気で思えるスタイルの良さに加えて、この美貌。それが父親のお下がりの軍服をまとった様はひと目見たら忘れられない異彩を放っている。
──なぜ男装の美しさに気付けなかったんだ。俺が誰よりも先にお前に男装をさせるべきだった……お前の異次元な美しさを独占したかった!
エルヴァンは、狭量な後悔を押し隠して口を開く。
「なるほど、今日はどこぞに隠れていたお前のファンが顔を出してきたんだな」
「ファン……?」
「なにかを熱狂的に愛好する人間たちのことだ。最近はそう呼ぶらしいぞ」
「そうなのですね、かしこまりました」
アンジェリカがニコッと笑う。そして両手を組み合わせ、嬉しそうに言った。
「それで、私、二回目のお茶会にも呼んでいただけたのです。皆様、父のことも私のことも好きだったと言ってくださって、本当に驚きましたわ。世界は広うございますわね」
「最近、お前とリッカルトが目立つからな」
そう言うとアンジェリカがなぜかぽっと赤くなる。
「どうした?」
「目立つのは恥ずかしいです。でも、エルヴァン様に嫁いだのですから、人目が集まってしまうのは仕方がないのでしょうね」
「いや……」
そうではなく、もともと華やかで美しい二人に、まるで日が当たらないことに問題があったのだ。
アンジェリカもリッカルトも、本来ならば賞賛を浴びてしかるべき人材である。
人並み外れて美しく才能にあふれ、性格も誤解こそ受けやすいものの正義感が強くまっすぐだ。むしろ……。
──お前を隠しておきたかったのは、俺の方だ。
エルヴァンは傍らに腰掛けたアンジェリカの肩を抱き寄せる。
「妙に寂しくなったぞ」
「エルヴァン様?」
アンジェリカが驚いたようにエルヴァンを見上げる。
「なにかありまして? もしかして、私が何か余計な……」
「違う、お前が今後、色々な人間に愛されるようになるのだと思ったら、嬉しい反面独占欲でどうにかなりそうなんだ」
「ど、独占欲など恐れ多うございます。私はエルヴァン様のお側にいるので、目立つようになっただけでございますし」
「違う。元から魅力的だったんだ」
そう言って、エルヴァンは嫉妬混じりの口づけをアンジェリカの白い額に落とす。
アンジェリカがますます真っ赤になりうっとりと目を閉じた。
「エルヴァン様だけが、最初からお味方してくださいましたわ」
「アンジェリカ?」
「私が悪女だのなんだのと呼ばれても、エルヴァン様だけは決して私を遠ざけず、目を掛けてくださいました。他の方が私を好いてくださっても、それだけは決して忘れません」
アンジェリカの健気な言葉に、エルヴァンは目を瞠った。
「お前」
「あ、は、恥ずかしいですね、れ、恋愛下手どころではない私が、こんな一人前ぶったことを申し上げるのは」
見る間にしどろもどろになるアンジェリカを、エルヴァンはぎゅっと抱き寄せる。
やはり愛妻が世界一愛おしいし可愛い。
「アンジェリカ……」
「エルヴァン様……」
見つめ合って唇を合わせようとしたとき、不意にガタッという音が聞こえた。なんだろうと思う間もなくエルヴァンの身体が柔らかな温もりに包まれる。
アンジェリカが、何かから庇うように腰を浮かし、エルヴァンを抱きしめたのだ。
「エルヴァン様ッ!」
がつ、と嫌な音と共に、アンジェリカの身体がずるりと崩れ落ちる。
「おい、大丈夫か、アンジェリカ!」
とっさに支えたアンジェリカは意識を失っていた。
突然落ちてきたのは、壁の高い場所に飾っていた絵画だ。これまでなんの問題もなく設置されていた品だった。
どうやらアンジェリカはその額縁の、一番硬い部分で頭を強打したらしい。
「アンジェリカ!」
エルヴァンは腕に抱いたアンジェリカを、そっと長椅子に寝かせた。彼女に庇われたのだ。あまりの衝撃に頭が真っ白になったが、すぐに声を上げて人を呼ぶ。
「誰か来い! アンジェリカが怪我をした!」
ばたばたと複数人の足音が聞こえる。しかし、いつもなら「大丈夫です」と答えるはずのアンジェリカの声は聞こえなかった。
エルヴァンは、意識の戻らないアンジェリカの枕辺に、リッカルトと共に付き添っていた。沈痛な面持ちをした二人に、王宮仕えの医者が淡々と告げる。
「王太子妃殿下の怪我は重くありません。ですが……」
「意識が戻らない理由が分からないというのだな?」
「さようでございます。打てる手は打ちましたので、経過観察しかございません」
アンジェリカは真っ白な顔で眠り続けている。
呼び出したリッカルトが、アンジェリカから目を離さずに呟く。
「打ち所が悪かったのでしょうか……娘は石頭なのですが……」
「すまない、リッカルト。アンジェリカにこんな怪我を負わせてしまって」
まさか絵画が落ちてきてアンジェリカと自分を直撃するなんて思わなかった。しかも、あんなに『するな』と言い聞かせたのに、とっさに自分を庇うなんて。
胸が痛くてたまらない。
アンジェリカの忠義ぶりは知っていたし、愛らしくも愛おしくも思っていたけれど、実際に怪我をされるなら話は別だ。二度と忠義なんて誓ってくれなくていいと思う。
「いえ、殿下のせいではございません。娘が選んだことでございます」
リッカルトは相変わらずアンジェリカから目を離そうとしない。最愛の一人娘が頭を打って目を覚まさないのだから、心配でたまらないに決まっている。
「……すまない」
絞り出すような言葉が出た。
自分が避けていたら、自分が部屋の様子にもっと気を配っていたらアンジェリカに怪我をさせずに済んだのに。自分を責める言葉ばかりが出てくる。
「殿下こそ、お怪我はございませんでしたか」
微動だにせず尋ねてくるリッカルトに、エルヴァンは首を横に振って見せた。
そのとき、ぐらりと視界が揺れる。身体が大きくかしぎ、エルヴァンは慌てて肘掛けにもたれかかった。
「どうされました?」
じっとアンジェリカを見守っていたリッカルトが、はっとしたように振り返る。
「い……いや、ただの目眩だ。最近少し多くてな……俺は大丈夫だ。そんなことよりアンジェリカが目覚めないようなら、王立大学から脳神経の専門医も呼ぼう」
「ありがとうございます、ところで額縁はお調べになりましたか?」
「結婚したばかりで、部屋の模様替えをしただろう? そのときに絵画を飾った職人がまだ見習いだったようでな、壁に吊す紐が外れて運悪く俺たちを直撃したようだ。罪に問うつもりはない」
「ただの事故ならば少しは安心できます。エルヴァン様や娘を狙う不届き者がいないのであれば……」
リッカルトが再びアンジェリカに視線を戻して呟く。
そのときだった。
「うーん……いたた……」
ベッドに寝かされていたアンジェリカが眉をひそめる。
「アンジェリカ!」
「アンジェリカ、分かるか、私だ!」
「ふえ……?」
リッカルトと同時に声をかけると、妙に可愛い声を上げながらアンジェリカがゆっくり目を開ける。そして顔をしかめ、コブがあるらしきあたりを手で押さえた。
「頭、痛い」
「覚えているか、お前は頭を打ったんだから動くな」
慌ててそう言い聞かせると、アンジェリカが不思議そうにぱちぱちと瞬きをし、スッとエルヴァンから目をそらす。
──ん?
思い切り無視されたことを不思議に思ったとき、アンジェリカが声を上げた。
「あれ? お父様が、老けました」
「は?」
「は?」
リッカルトと声が重なった。
「アンジェリカ、お前はなにを……?」
「どうして急におじさんになっちゃったのかな?」
アンジェリカは不思議そうに言うと、するりとベッドから立ち上がり、エルヴァンを再度無視してリッカルトに抱きついた。
「お父様ぁ!」
「……?」
あまりに子どもっぽい振る舞いに、リッカルトとエルヴァンだけでなく、医者や侍女たちまで凍り付く。
「あれ、お父様が小さいです。どうしてでしょう?」
リッカルトから離れたアンジェリカが、きょとんとした表情で首をかしげる。さすがのリッカルトも、娘の頓狂な言動に焦った様子で問いただした。
「アンジェリカ、お前は……なにを言っているのだ。私がどうしたと?」
「どうしてお父様は、急におじさんになりましたか?」
長い長い沈黙の後、リッカルトが低い声で答えた。
「……お前が大怪我をして、心労で老け込んだのかもしれん」
「んー?」
アンジェリカは『まったくわからん』という表情をしたあと、エルヴァンをまたまた無視して周囲を見回す。
「ここ、どこですか? 砦のどこのお部屋?」
「なにを言っている、ここは王宮で、エルヴァン様とお前の私室だ」
「エルヴァン様? エルヴァン様はどちらにおいでなのですか?」
「俺はさっきからお前の目の前にいるが……?」
嫌な予感に再び目の前がぐらぐらしてくる。アンジェリカが確実におかしいことが伝わってくるからだ。エルヴァンは激しい焦りと共に口を開く。
「俺がエルヴァンだ、という説明が必要なのか? 今」
「お兄様が、エルヴァン様……ですか……?」
アンジェリカは振り返り、銀の美しい目でエルヴァンを見つめて不思議そうに首をかしげる。そしてぶんぶんと首を横に振った。
「違う! エルヴァン様じゃない!」
リッカルトの背後にさっと隠れながら、アンジェリカが疑り深い目を向けてくる。
嫌な予感が的中しそうだ。
そう思いながらエルヴァンは尋ねた。
「……お前、名前と年齢を言ってみてくれ」
警戒心むき出しの表情でアンジェリカが薔薇色の唇を開く。
「アンジェリカ・ブロンナー、八歳です!」
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