崖っぷち女学者ですが、甘くて危険な男を買いました 2
クラリッサは自宅のリビングで隻眼の大男を前にし、後悔しはじめていた。
後悔の一つは、ついに奴隷を買ってしまったということ。
もう一つは、買ってきた奴隷に色気がありすぎるということだ。
彼を買った後、クラリッサは市場で男性用の衣装もいくつか選んだ。仕立てている時間はないから、既製品のサイズを調整してもらうことにした。
そこで購入したものはシャツとクラヴァット。ズボンとブーツ。そして上衣だった。それらを着せると、彼は……なんというか、学者というよりは海賊みたいになってしまった。
衣装代も合わせると結構な出費になったが、これは投資と同じだと自分を納得させ、クラリッサは家路につくために辻馬車をつかまえた。
そうして家に帰ってきたが、隻眼の男は黙ったままなので気まずい。
クラリッサは先ほどの奴隷商人ギャリーから聞いた説明を思い起こした。それは奴隷を所有する心得のようなものだった。
『では、彼の身体を一緒にチェックしていこう』
ギャリーは隻眼の奴隷をクラリッサの近くに呼び、まずは背中を見せるように命令した。
奴隷の背中には、右肩から左下にかけて大きな傷があった。でも、だいぶ古い傷のように見えた。
『これは、昔の傷だ。鞭で打たれたようだね』
『はあ……』
クラリッサは曖昧に頷いた。鞭で打つ主人がいたということだろうか。奴隷が鞭打たれるシチュエーションを想像してみる。主人の持ち物を壊してしまったときとか?
確かに蔵書をダメにされたり、蒐集している化石を壊されたりしたら痛手だが、自分だったら鞭で打つなんてことはしないのにと考えた。
『それから、ここに奴隷の印があるだろう?』
ギャリーは奴隷の左上腕部を指し示す。白い花を描いた、美しい刺青があった。最初の天幕で見た奴隷たちにも刺青が彫ってあったが、彼らの場合は黒一色で、模様もシンプルな記号のようなものだったはずだ。哲学者だという奴隷はそれなりに教養があって値段も高いから、刺青の種類も違うのだろうかと思った。
ギャリーは説明を続ける。
『奴隷が逃亡した場合は、これが目印になる』
稀に、主人の元から逃げ出す奴隷がいるらしい。そういった場合はギャリー商会に届け出をすれば、直ちに包囲網が張られるのだという。
クラリッサは王都を囲む城壁を想像した。街の外に繋がる門には番兵が置かれている。貴族や身なりの良い富裕層、それに商人の馬車はほぼノーチェックで通過できる。しかし一般市民が出入りする際は、どこから来たのか、どこへ行くのか、何のために移動するのかを厳しく調べられるのだ。
逃亡奴隷はおそらくそこで身体を検められるのだろう。
ギャリーはクラリッサに向き直り、説明を続ける。
『背中の傷、左目、それからこの奴隷の印。彼を返品する際、いまチェックした場所以外に傷ができていたら、買い取り価格は下がるけど……それでいいね? ああ、あと病気に罹っていたら返品はできないよ』
『返品?』
『そうだよ。要らなくなったら、あるいは別のが欲しくなったら、彼はうちで引き取る。今日マダムが支払った金額よりは安くなるけど……ほかの奴隷商へ持っていくよりはずっと高く買うよ。彼はこうして何度も出戻ってきているんだ。なあ、兄弟?』
ギャリーはそう言って奴隷の肩をぽんと叩いた。奴隷は口の端をわずかに上げ、愛想笑いと思しきものを返す。その瞳は決して笑っているようには見えなかった。
また、ギャリーのほうも兄弟と呼びはしたが、奴隷はギャリーの商品である。心の底から兄弟だと思っているわけではないのだろう。
静かだが、穏やかではないやり取りだった。クラリッサは手のひらにじっとりとした汗をかいたのを覚えている。
ただ、奴隷はいつでも返品できるとわかって少し気が楽になった。
しかも、購入時の六割から七割ほどの金額が戻ってくるらしい。十年後、二十年後に返品する場合は僅かしか戻ってこないようだが、そんなに長い間奴隷を所持しておくつもりはない。
いまは父が遺してくれたお金と、本を出した際の収入がある。だがジェイドの正体がクラリッサだったと露見してしまったら、もう出版はできまい。モーリスの管理下に置かれることになっても、クラリッサの収入は途絶えることになる。
まずは『ジェイド・ストークス』は実在するし、立派な学者であることを、モーリスに納得させなくては。
クラリッサはこれから奴隷の彼にしてもらうべき仕事を考えながら顔をあげた。
彼はクラリッサの前に立ったままだ。
目が合うと、彼はまた問うように首を傾げ、挑戦的な笑みを浮かべた。
彼を見ていると、お腹の奥のほうがざわざわする。「あわわ」と声が出そうになって、クラリッサは思わず一歩下がる。
ようやく、天幕で覚えた感覚がなんだったのかわかってきた気がする。彼は、セクシーすぎて危険なのだ。ただそこに存在するだけで、こちらがおかしな気分になってくる。
だが一言も喋らないということは、もしかして命令を待っているのだろうか。
着飾った彼はあまりにゴージャスで、圧倒される。クラリッサが何かを命じていいような立場の人には見えない。いや、自分の雇い主であり立派な学者でもあるジェイドを演じてもらうのだからそれでいいのだけれど。
どうやって切り出そうか暫し迷ったが、クラリッサは思い切って彼に話しかけた。
「あの……あなたのこと、なんて呼んだらいいかしら」
「お好きにどうぞ、マダム?」
ようやく男が口を開いた。低くて滑らかな声に、クラリッサは再びぞくっとした。
「お好きにと言われても……名前は?」
「これまでの主人は、それぞれ好きに呼んでいた。だから俺の名前は、何度も変わった」
彼の言葉にクラリッサは戸惑った。主人が変わる度に名前も変わったということだろうか。それとも、主人の気まぐれで呼び名が変わったということだろうか。これまで、彼の主人は何人くらいいたのだろう。そもそも彼は生まれたときから奴隷だったのだろうか? そうでないとしたら、どうして奴隷になったのだろう?
すごく知りたかったが、奴隷に過去を訊ねるのはあまりよくないことのような気もした。
とはいえ、呼び名がないのは困る。お好きにどうぞなんて言われるともっと困る。
クラリッサは両手を揉み合わせながらうろうろと歩き回り、ハッと気がついて男に向き直った。
「じゃあ、ジェイド。ジェイドと呼んでもいいかしら」
これから彼にはジェイドを演じてもらうのだから、それがいいだろう。
すると男はクラリッサの顔をじっと見つめ、ふと微笑んだ。
「翡翠……なるほど。マダム、あなたの瞳の色だ」
彼──ジェイド──は、ずいぶんゆったりとした喋り方をする。それが彼の持ち前の色気を増長させていた。
クラリッサは彼と目を合わせていられなくなり、俯いた。
「え、ええ……」
彼が口にしたとおり、ジェイドという名は自分の翡翠色の瞳からとったものである。「ジェイド・ストークス」という名が女性であるクラリッサを彷彿させてはいけない。けれどもクラリッサとジェイドを結びつける僅かなつながりは欲しい。父とそのように話し合ってつけた名前だ。
だがジェイドの色気にあてられたせいで、曖昧な返事をするのが精いっぱいであった。
ようやくジェイドを手に入れた。ホッとするべきなのに、心臓は落ち着かない。それどころか早鐘を打っている。
父親は学者然とした容貌であったし、モーリスも背は高いがひょろりとしている。ジェイドのように野性的な美しさを持つ男性に、クラリッサは慣れていないのだ。
しかし、慣れなくてはいま抱えている問題の対処ができない。
クラリッサはもう一度ジェイドを見つめた。
「あのー……」
「はい、マダム?」
ジェイドはすっと姿勢を正す。彼の仕草はやたらと洗練されていた。まるで生まれながらの貴族みたいに。
「あなたを買っ……えー、あなたに、うちに来てもらった理由なのだけれどね?」
「ええ。マダム、ご用命をどうぞ?」
彼の口調はまったく畏まっていなかった。クラリッサを挑発するような色さえ含まれている。こんなに妖しい色気を振りまく学者なんて見たことがない。
「ええと……実は、学者を演じてほしいの」
「もちろん、そのつもりだ。俺は『哲学者』だからな」
仕事に関してはきちんとやってくれるようだ。ほんとうに話が早くて助かる。ジェイドたちは哲学者という触れ込みで売りに出されていたが、そんなに需要が高いのだろうか。今回は地質や考古学の類を研究していることになるので、いつもと勝手が違うかもしれない。それでもいいかと問おうとした。
「それで、今回は……」
「いま、ここで?」
クラリッサが質問を口にする前にジェイドが言った。
ここで普段やっているような講義を聞かせてくれるというのだろうか。それともクラリッサ相手に議論を吹っ掛けてくるのだろうか。
哲学は専門外だから議論に自信はない。しかし自分が知らなかった話を聞くのは好きだ。どんな話を聞かせてもらえるのだろう。興味を持てる内容だといいのだけれど。
「ええ! では、いつもやっているように……」
「失礼、マダム」
クラリッサが頷くとほぼ同時に、ジェイドに身体を抱えあげられてしまう。
「えっ? あの……」
彼は軽々とクラリッサを抱いて大股で歩き、
「このソファでいいんだな?」
そう言ってクラリッサをソファの上におろした。
「えっ? えっ……?」
訳がわからず、クラリッサが左右を見回していると、ジェイドは上衣を脱いでソファの背もたれに掛けた。そしてクラヴァットを外し、シャツの胸元のボタンも外していく。
「あの……これは、どういう……」
お酒を飲んでいないと論文が書けない人がいると、耳にしたことがある。ジェイドも特定の条件下でないと講義ができないタイプなのだろうか。例えば、衣類をくつろげてソファに座っていないと頭が回らないとかで。
いや、そんなばかな。
クラリッサが身体を起こそうとすると、ジェイドはソファの座面に片膝と片腕をついた。そしてもう片方の腕をソファの背もたれに置き、クラリッサを閉じ込めるような体勢をとる。
クラリッサの眼前にジェイドの胸が広がっていた。シャツがはだけていて、滑らかな肌がのぞいている。ここは「きゃあ」と言って両手で顔を塞ぐべきなのだろうけれど、こんなに美しい男性の身体を目にする機会は最初で最後かもしれない。見ておかないと勿体ない気もした。
彼の胸板が、呼吸に合わせてゆっくりと上下している。ほのかなムスクの香りが漂った。力強くて、それ以上に淫らなムードに呑まれたクラリッサは瞬きするのさえ忘れていた。
「『いま、ここで』『いつもやっているように』……ほかに注文は?」
彼はそう言うと、クラリッサに顔を近づけてきた。
「あの、んんっ……?」
唇をふさがれたクラリッサは目を見開く。
これは、キスというやつではないだろうか。挨拶として頬にキスをし合う人たちはいる。しかし口と口でするのは、夫婦や恋人といった関係の人たちの間で行うもののはずだ。哲学と、どういう関係があるのだろう。
驚愕と狼狽でクラリッサは固まっていたが、ジェイドは自分の舌を使ってクラリッサの唇をこじ開ける。舌を搦めとられた瞬間、得も言われぬ感覚が身体の中心を突き抜けた。
「ん……!」
ぴくぴくと震えているクラリッサの身体を、ジェイドは後ろへ押し倒していく。あまりに自然に誘導されたものだから、抵抗する間はなかった。
こんなの、絶対挨拶のキスではない。
あるいは、もしかして……これが哲学ということ?
クラリッサが考えているようなものではなかったけれど、でも哲学のような気もしてきた。訳がわからないのに、ジェイドの所作が流れるように美しいので「なるほど」と妙に納得してしまうのだ。
ジェイドは自分の唇でクラリッサの首筋を辿る。
「ああっ……」
ぞくぞくするあまり声をあげると彼は言った。
「マダム、あなたは首筋が弱いようだ」
ジェイドは舌でクラリッサの首をつつつとなぞった。
「あ、あんっ……」
先ほどよりも激しい刺激に、クラリッサの身体がびくりとはねる。思わずジェイドの腕につかまってしまった。
「声も反応も、初々しいな」
気がつくと、いつの間にかクラリッサの胸元のボタンが外されている。ジェイドはそこから手を忍ばせ、シュミーズ越しにクラリッサの胸を撫でた。
「えっ? は……あぅ」
そんな場所を異性に触れられるのは初めてだ。さすがに異議を唱えようとしたが、ジェイドの触れ方は巧みだった。クラリッサの乳房を手で包み、まるで動物をなだめるようにやさしく愛撫する。大きな手で、ゆっくりと。
飼い主に撫でられながら眠りにつく猫はこんな気分なのだろうか……と思いかけたが、ジェイドは親指の腹でクラリッサの胸の先端を擦りはじめた。その部分がたちまち硬くなっていくのがわかる。猫を触るにしては、手つきが艶めかしすぎる。
「あっ、あの……」
「はい、マダム?」
彼はかしこまった返事をしながら、クラリッサの乳首をつまんだ。
「ひゃっ……あ、あなたはいつも、こ、こんなことを……?」
哲学者とは、普段からこういうことをしているのだろうか。聞きたかったことをようやく口に出せた。
「もちろん、そうだ」
ジェイドはふとクラリッサと目を合わせ、そう答えた。それはものすごく真面目な口調というわけではなかったが、ここで嘘を吐く意味はない気がする。きっと、ほんとうのことを言っているのだと思った。
やはりよくわからない学問だ。これまで自分とは疎遠な分野だと思い込んでいたけれど、いまは目の前に専門家がいる。それに謎を放置しておくのは自分の流儀ではない。クラリッサはいま行われていることと、哲学との関連性を探そうとした。
「まあ……では、あなたの専攻は、肉欲とかエロスとか……そういう類のもの?」
その質問に、ジェイドは一瞬だけ目を見開いた。それから白い歯を見せてくすっと笑う。非常に危険で、魅力的な笑顔だった。
「ああ、そうなる」
彼はそう囁いて、クラリッサのシュミーズを胸元から引き下げる。
「あっ」
肉欲とかエロス。彼はそれらを研究テーマにしているらしい。ではこの行為は彼の研究成果の発表なのだろうか。あるいは彼なりの講義。そういうことなのだろうか?
ジェイドはクラリッサの背中に腕を回して身体を少し持ちあげ、たったいま暴いた場所を口に含む。
「あ、あっ……」
乳首を吸いあげられたクラリッサは喘ぐ。
今日会ったばかりの──しかも、買ったばかりの──異性に、自分は何をさせているのだろう。これは多分、とんでもないことだ。未婚の女がしてはいけないこと。それはわかっているのに、クラリッサの好奇心は止まない。
こんなに強烈な快感があるなんて、いままで知らなかったのだ。
このまま彼に身を委ねていたら、どんな風になるのだろう。
「あ、それっ……は、ああっ」
「マダム。あなたは感じやすい」
彼は舌の先でクラリッサの乳首を弄んでは吸いあげる。
なんだかあそこがズキズキしてきて、クラリッサは身もだえした。すると、ジェイドはクラリッサの足の間に自分の膝を入れる。彼はクラリッサの胸を吸いながら、足を揺すった。
ジェイドの膝がクラリッサの敏感な場所をノックするように刺激する。ドレス越しではあるものの、じゅうぶんな快感だった。
「あっ、だめ……それ、だめっ……!」
「だめ? こんな風に身を任せておいて?」
「あああっ……!」
ひときわ強く胸を吸われ、クラリッサは彼にしがみついて叫んだ。
これまで経験したことのない甘美な刺激が、身体の中を暴れ回っている。未知の世界へつながる扉が開いたような気さえした。
「ああ……」
やがて、全身から力が抜けていく。
クラリッサは小さく呻き、快楽の余韻を味わいながらソファの座面に身体を投げ出した。
ぼんやりとジェイドを見あげる。これが哲学だというのだろうか? 思っていたのと違う。でも、彼に導かれてこれまで知らなかった世界を見せてもらった。哲学だと言われれば、哲学だという気もする。
彼はクラリッサのドレスの裾から手を忍ばせ、ふくらはぎに触れるとそのままゆっくりと撫であげる。
「一度で満足か? それとも……」
彼の動作と言葉は、この行為にまだ先があることを仄めかしている。
「……いた……は……」
「ええ、マダム?」
「あの天幕にいた男性たちは、皆……こういうことをしているの?」
クラリッサの問いに対して、ジェイドは手を止めた。
「そりゃ……『哲学者』だからな」
彼は少し動揺したような声音になった。
「彼らの論文を読んでみたいのだけれど」
「……え?」
「あなたにも著書はあったりするの?」
そう口にすると、ジェイドはクラリッサから手を放した。彼は自分の身体を起こし、はだけていたシャツのボタンを留める。それから改まった口調で言った。
「マダム。あなたは、すべて承知で俺を買ったのでは……?」
「ええ。学者でしょう? 哲学をやっている」
クラリッサはすべてを承知でジェイドを買った。それは奴隷商のところでも確認したことだ。それなのに、なぜいまになってそんなことを言い出すのだろう。
ジェイドは目を泳がせ、困った様子で自分の顎に手をやった。
午後の日差しが窓から差し込み、彼を照らす。
彫刻のように精悍な彼の顔に、後光がさしているみたいだった。神聖であり力強くもあるこの光景こそ哲学的なのでは……とクラリッサは思わず考えてしまう。
「俺は男娼だ」
しかしジェイドの口から、神聖さとはかけ離れた単語が飛び出した。
「えっ?」
クラリッサは訊ね返し、何度も目を瞬かせる。
「男娼。『哲学者』は男娼の隠語だ。知らなかったのか?」
「え……だ、男娼……?」
「あるいは、性奴隷とも言う」
「せ、性奴隷……」
自分の聞き間違いではなかったようだ。
クラリッサはドレスの胸元をかき合わせながら身体を起こし、彼が言った単語を愕然と繰り返した。耳慣れない言葉だが、見当はつく。娼婦のように春をひさぐ男性。主人に、性的な奉仕をする奴隷のことだと。
ただ、どうしてわざわざそんな呼び方をするのかわからなかった。まぎらわしいことこの上ない。
「どうして哲学者だなんて……」
「たいていの女は、男娼や性奴隷と口にするのを躊躇う。だから、代わりの言葉が必要になる」
クラリッサはギャリーの態度を思い起こす。そういえば、彼はこちらの様子を探るようにしながら「哲学者」という言葉を口にした。
「ま、まあ。それも……そうね……」
「それでいつしか、奴隷商人たちは、俺のような奴隷を『哲学者』と呼ぶようになった。ちなみに、女の場合は『占い師』らしい」
それにジェイドがいた天幕の退廃的な雰囲気。普通の奴隷よりもずっと高い値段の、堕天使みたいな男たち。いま考えれば合点がいくことばかりだ。
それなのに自分はなんの疑いもなく──いや、少し……かなりおかしいなとは思ったけれど──「哲学者」を額面どおりの言葉と受け止めてしまったわけだ。
いまごろ恥ずかしくなってきた。クラリッサは熱くなった頬を両手で押さえる。
「いやだわ、知らなかった……どうしましょう」
「俺も、おかしいとは思っていた。『哲学者』を必要とするのは、たいていは金持ちの未亡人。独り身の女だ。でも、あなたは『哲学者』が必要なタイプには、あまり見えなかった」
ジェイドはそう言いながらクラリッサの乱れたドレスや髪を直してくれる。彼はこれまでの主人にもこういうことをしていたのだろう。ずいぶんと慣れた手つきだった。
ジェイドは正面を向いてソファに座り直し、深いため息をつく。それからこちらを向いた。
「マダム。そうと知らずに俺を買ったのであれば、ギャリーにその旨を説明しに行こう。今日のうちであれば、満額取り戻せるはずだ」
彼は立ちあがり「あなたに買ってもらった衣類は、ギャリーの天幕で返す」と言い、背もたれに掛けていた上衣を羽織る。
「ま、待って」
クラリッサは反射的に彼の上衣を掴んでいた。
男娼を買ったつもりはなかったが、男が必要な状況に変わりはない。
それに彼はぴったりだ。学者というよりは海賊に見えるものの言動は粗野ではなく、優雅で堂々としていて、身体もモーリスより一回りは大きい。クラリッサが探していた「ジェイド・ストークス」にぴったりなのだ。
ジェイドを追いかけてソファから下り、彼の正面に立つ。
「あの……『哲学者』は、どうしても本来の用途でおいておかなくてはだめ?」
そう訊ねると、ジェイドは黙った。彼の青い右目は、おかしなことを言い出したクラリッサをじっくり観察しているように見える。
クラリッサも彼を見つめ返す。瞳でわかる。健全とは言い難い身分や立場にあっても、ジェイドは思慮深い人だ。あの天幕では怠惰な堕天使のようにソファに掛けていたけれど、中身まで空っぽの人には見えない。それどころか、たくさんの何かを秘めている。クラリッサには想像も及ばないような何かを。そんな気がしてならない。
天幕で妙に彼が気になった理由を、クラリッサはいまになって理解した。
「実は、学者を演じてくれる男性を探していて……」
「あなたは、さっきもそう口にしていた。もしかして……あなたは本物の学者を演じてほしいと、俺に言っていたのか?」
まるでジョークかどうかを確かめるような口調である。でも、クラリッサは真剣だ。学者を演じてくれる人を心から求めているのだ。
「そうよ。それ以外にないじゃない! ……いえ、あったみたいだけど……」
ジェイドはしばらく黙ってクラリッサを見つめていたが、やがて肩を揺らして笑いはじめる。
「どう? だめ?」
クラリッサは早く可否を確認したかったのだが、ジェイドはまだ笑っている。時折かすれる低い声がやたらと色っぽい。
ジェイドは目じりに滲んだ涙を拭いながら、ようやくクラリッサに向き直る。
「『哲学者』の役目は色々だ。主人に本を読んでやることもあるし、買い物やパーティー、観劇に付き添うこともある。庭の花壇に水をまくことも」
「侍従のようなこともするのね? では、学者も演じてもらえるということかしら?」
クラリッサは侍従と表現したが、ジェイドの以前の主人たちは、彼をトロフィーのように扱ったに違いない。着飾ったジェイドを連れて外出したら、周囲の女性たちはきっと誰もが彼を振り返る。その様子が容易に想像できた。
「これまで、それなりに色々やってきたが……学生相手に講義を行ったりするのは、さすがに無理だな」
「そこまでする必要はないわ。『ジェイド・ストークス』という架空の学者になりきって、私の従兄を納得させてもらえれば、それでいいの」
「……架空の学者?」
ジェイドはほんの少しだけこちらに身を乗り出した。この話に興味を持ってくれたのだろうか。そうだといいなと思いながらクラリッサは祈るように胸の前で指を組み、続ける。
「ええ。これから私が、女一人で自活していくために。これは私の闘いなの」
自分の戦なのに、よく知りもしない男性を矢面に立たせることになってしまうのはなんとも情けない。しかし、ここを乗り切らなくてはクラリッサの未来がない。
「あなたの、闘い……」
「ええ」
ジェイドはクラリッサをじっと見つめ返し、やがて大きく息をついた。
「話を聞こうか」