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崖っぷち女学者ですが、甘くて危険な男を買いました 3

第三話

 

 ジェイドは客間の質素な椅子に腰掛け、ぱらぱらと数冊の本を捲っている。一冊は最近出版された『ディアルス丘陵の地層と化石について』、ほかはアーロンとジェイドの共著になっているものだ。
 向かいに掛けたクラリッサは彼の動きを追う。ジェイドは本を捲っては時折手を止め、そのページを斜め読みしているように見えた。
「化石が形成された年代を、その地層から読み解く……という学問か……? 大昔に火山が噴火したことも、地層からわかる……? ふーん……」
 たまにページを戻ったりしながら、ジェイドはぶつぶつと呟いている。
 男娼は読み書きができてそれなりに教養もあるという話だった。主人に本を読んであげたり詩を吟じたりする必要もあるからだ。
 ただ彼のその教養はいつ、どうやって培われたものなのだろうと、クラリッサは不思議に思う。
 ジェイドはものすごい速さで本の内容を理解しているように思える。これは読み聞かせをするためだけにつけた教養では成しえない。彼はかつて、高水準の教育を受けていたのではないだろうか。
 ジェイドの過去を知りたいという好奇心がむくむくと湧いてきたそのとき、彼はクラリッサに向き直る。本をざっと確認し終えたらしかった。
「マダム。あなたの事情はだいたい聞かせてもらったが、もう一度確認させてくれ。これらの本を書いた学者『ジェイド・ストークス』は、ほんとうに実在しないのか?」
「ええ。私が一人でも生きていけるように、父が作りあげてくれた架空の男性なの」
「そしてあなたは、亡き父親の愛弟子である『ジェイド・ストークス』の助手を名乗り、彼が存在するかのように振る舞って、その実、自分の研究をしていた……?」
「そのとおりよ。ジェイドの名を隠れ蓑にして、このまま生きていくつもりだったのだけれど」
「現フローリー伯爵で、マダムの従兄であるモーリス・ハチェットから、疑いの目を向けられている……だから『ジェイド・ストークス』の実体を、用意しなくてはならなくなった。そういうことだな?」
 ジェイドが話の続きを引き取ってくれる。クラリッサは大きく頷いた。それと同時に大事なことに気がついてハッと息を吸い込んだ。
「あの! あなたが『女は学ぶべきではない』と考えているのなら、無理強いはしないわ……うちで起こった出来事は黙っていてほしいけれど」
 この国にはそういった考えが深く根づいている。貴族はもちろん、一般市民や農民たちの間にも。だからジェイドがそうであっても不思議はないと思った。
 すると彼は微かに首を傾げた。
「どうしてそんなことを聞く? 俺は奴隷だ。思想を持つことは、許されていない」
 堂々と掲げていないだけで、クラリッサもこの国では異端と呼ばれる思想を持っている。それは咎められても禁じられても消えることのない胸の埋火だ。だから、他人の埋火も消したくはなかった。
「あら。思うだけなら自由でしょ。誰がいつ、何を考えたっていいじゃない。奴隷も貴族も関係ないわ」
 どんなに厳しいルールを作っても、人の心まで縛ることはできない。クラリッサはそう考えている。
 クラリッサの言葉に、ジェイドは目を見開く。ふた呼吸ほど間をおいて、彼は答えた。
「架空の学者を演じる件。できる限りのことは、やってみよう」
「ほんとうに? ありがとう、ありがとう!」
 クラリッサはジェイドの両手を掴んでぶんぶんと上下させた。
「あっ、あなたは私の雇い主ということになるのだから、これから私のことはクラリッサと呼んでちょうだい。ええと、まずは家の中を案内するわね」
 これでジェイドの実体を手に入れた!
 興奮のあまり早口でまくしたてつつ、席を立つ。自分の雇い主を雇うというのも変な話だが、両手をあげて飛びあがりたい気持ちだった。
 二階はクラリッサが寝室として使っている部屋があるくらいで、あとは物置と化している。今日のところは一階の案内だけでいいだろう。
 ジェイドを従えて廊下に出ると、クラリッサは浴室や手洗い場、キッチン、パントリーの場所を教え、それから書斎の扉を開けた。
 そこにはたくさんの本棚と、大きな机やキャビネットが置いてある。本棚に収めきれなかった本は、そこかしこに高く積みあげられていた。
「ここが書斎。私の……いえ、私とあなたの仕事場ということになるわ」
「すごい数の本だ……」
 ジェイドは入り口で立ち止まり、圧倒されたように呟いた。
「あなたは、これらの本を全部読んだのか?」
「私は半分くらい。でも、父はすべて読んだのではないかしら」
 クラリッサは窓際まで歩き、ガラス戸のキャビネットにかけられていた布を外した。中にはこれまでに蒐集した化石や、古代文字が彫られた石板が綺麗に並べられている。
 ジェイドもキャビネットに近づいてきて、感心したように言う。
「まるで、博物館だな」
「ええ。父が集めたものなの。綺麗でしょう?」
 誇らしい気分になってそう口にしたが、ふと疑問に思う。
「博物館に行ったことがあるの?」
「……以前の主人のお供で」
「まあ、そうだったのね」
 そういえば買い物や観劇に付き添うこともあるという話だった。しかし博物館へも足を運ぶとは。ジェイドのかつての主人は、意外と教養のある女性だったのかもしれない。それなら是非とも会ってみたかった。クラリッサとはいい話し相手になれただろう。
 そういったことを考えながらキャビネットの布を戻し、再び廊下に出る。そして今度は書斎の隣にある部屋の扉を開けた。
「寝室はここを使ってもらえる? ……ごめんなさい。定期的に掃除はしているのだけど、ちょっと埃っぽいわね」
 そう言いながら部屋の奥の窓を開け、風を入れる。
 外には小さな庭が広がっているが、草むしりをサボっているので景観がいいとはとても言えない。それに窓の正面にある木もしばらく剪定をしていなかった。枝が伸び放題である。どうにかしなくては……とクラリッサが考えていると、ジェイドが言った。
「マダム、この部屋は……?」
 彼は部屋にある暖炉と家具を見比べている。その後視線を落として、微妙に使用感のあるラグを見つめた。
「マダムではなくて、クラリッサよ。ここは父が使っていた部屋なの。あっ、亡くなった人の部屋を使うのに抵抗があるのだったら、二階の私の部屋と交換しても……」
「俺は構わない。若干の生活感があるから、不思議に思ったんだ。ついでに聞きたいんだが」
「ええ、何かしら」
「この家に入ったときから、違和感があった。ここに……使用人はいないのか?」
「いないわよ。私は留守がちな学者の助手で、彼の身の回りの世話もしているという設定だから」
「設定」
 彼はクラリッサの言葉を繰り返した。口調こそ無機質であったが、どこか楽しそうに唇の端を持ちあげている。
 食事は、近くの食堂が料理を詰めたバスケットを配達してくれる。足りないものがあれば市場へ行って自分で買う。洗濯物は業者が回収にくるが、掃除は自分でしているとクラリッサは続けた。
 すると、ジェイドは信じ難いものでも見るような視線をクラリッサに向ける。
「しかし……父親が存命だった頃は?」
「使用人のこと? 伯爵邸にはもちろんいたけど、この家では雇っていなかったわ。言ったでしょう? 父は私を連れて研究の旅をすることが多かったと」
 父はどこかで土砂崩れがあったという話を聞くと、むき出しになった地層を見に行くために旅の支度をした。また、遺跡らしいものが見つかったと耳にすれば瞳をキラキラさせながら現地へ急いだ。馬車が入れないようなぬかるんだ道を徒歩で渡り、近くに宿がなければその場にテントを張って火を熾す。現地でガイドや荷物持ちを雇うことはあったが、基本的に父とクラリッサの二人だけで行動することが多かったと思う。
「野ウサギを捕まえる罠を張ったり、雨水を飲み水にするために、ろ過装置を二人で作ったりしてね……父と旅するのはとても、楽しかったわ」
「旅の間は野宿していたということか……? 伯爵が? あなたも一緒に?」
「いつも野宿というわけではないわ。農家の納屋に泊めてもらったこともあるわよ」
 それはちょうど羊の出産の時期だったこともある。クラリッサは命が誕生する瞬間を見学させてもらい、メモ魔だった父は自分の研究とは関係ないのにその光景をせっせと書き留めていた。血と粘液にまみれた生まれたての子羊の姿にクラリッサは衝撃を受けたが、その子羊が自分の足で立ち上がったときは心を揺り動かされたものだ。
 父と過ごす日々は、刺激と感動にあふれていた──。
 クラリッサは当時を思い出してうっとりとし、それからジェイドの視線に気がついてハッとした。
 彼は無言でクラリッサを見つめたままだ。
 そうだ。クラリッサの「当たり前」を、大多数の人間はそうだと思わない。ジェイドの実体が調達できたのでついつい浮かれてしまった。余計なことまで口にしてしまったかもしれない。
「ごめんなさい。喋りすぎたわね。今日は疲れたでしょう? 夕食の時間まで休んでいてちょうだい」
 クラリッサはジェイドの部屋から出る際、ふと振り返る。彼は窓の外を眺めているように見えた。
 結局、彼の経歴についてあまり聞けなかったなと思う。彼は奴隷商のところに何度も出戻っていて、主人が変わるたびに呼び名も変わったということしかまだ知らない。
 しかしジェイドの本を読むスピードや、理解の速さには驚かされた。あの教養はいつ、どこで身につけたものなのだろう。博物館に行くという、以前の主人の元でだろうか?
 ジェイドにもっと色々聞いてみたいとは思うけれど、自分の好奇心を満たすために聞いてしまっていいものではない気がする。
 クラリッサはそこで前に向き直り、二階にある自室を目指した。階段をのぼりながら考える。
 あれこれ聞くのはよくないかもしれない。でも見当をつけて推測することならできる。いつ、誰が何を考えたっていいはずなのだから。
 例えばジェイドのゆったりとした口調。あれはウェルディック語を母語とする人の喋り方ではないように思える。
 この大陸にはウェルディックのほか、エルツラント、オルヴェリア、スタイン、リトリーズ、ガートフォードという国がある。
 ウェルディックと言葉が近いのは、国境を接しているエルツラントとオルヴェリアだろう。ウェルディック語、エルツラント語、オルヴェリア語と一応の区別はされているが、綴りや発音が少し違うだけで文法は殆ど一緒だ。母語の近い人がウェルディックの言葉を喋ったら、ジェイドのようになるのではないだろうか。
 クラリッサは自室の棚から地図を引っ張り出して机の上に広げた。
「可能性が高いのは、エルツラントかオルヴェリアでしょうね。逆に、一番可能性が低いのはガートフォードかしら」
 この国は大陸の最北に位置し、一年のうち半分近くが雪に閉ざされるらしい。そしてガートフォード人の多くは金髪か銀髪だという話だ。黒や茶色の髪もいないことはなさそうだけれど、ジェイドの容貌はあんまり北方系という感じはしない。
「そもそも、どういう人が奴隷になるのかしら……」
 クラリッサはぶつぶつと呟き、窓辺を歩き回る。
 そういえばモーリスが言っていた。世間知らずなクラリッサはすぐに騙されて人買いに連れていかれるだろう、みたいなことを。
「人買いに、捕まったということ……?」
 いまのジェイドは簡単に攫われるような体格や風貌ではないが、彼がまだ子どものときだったとしたら。
「では、彼は孤児だったのかしら……」
 クラリッサは親を喪う理由について考えた。事故、病気、あるいは戦争。
 しかしここ数十年で、この大陸において大きな戦は起こっていない。六年ほど前にエルツラントでクーデターがあったが、殺されたのは国政を担っていた王族だけらしい。
 ただ共和制に移行した際に、国外脱出をした貴族たちも多いと聞いている。もしかしたらそのときの混乱で親を喪って……と考えたが、貧しい農村では子供を売ってしまう親もいるという話だ。彼が親を亡くした孤児だったとは限らない。
 しかし彼が貧しい農村出身というのも考えづらい。あの気品ある所作は、ちょっと教育されたくらいで身につくものではないような気がするのだ。
 クラリッサは窓に寄りかかって天井を見あげ、ふうとため息をつく。
 いま、すごく楽しい。
 こうして謎について考えを巡らせるのは、ジェイドには申し訳ないが楽しい。
 見慣れた家の中の風景が、鮮烈に色づいているようにさえ見えた。
 頭の中でジェイドの姿を思い描く。
 ムスクの香りが漂う、退廃的な雰囲気の天幕に彼はいた。あれほどの力強さと美しさを兼ね備えた男性をこれまで見たことがない。簡素な恰好をしていても、彼が纏うオーラはゴージャスだった。
 謎と言えば、ソファで彼に導かれたときのあの感覚。クラリッサには初めてのことだったが、とにかくすごい体験をしたことはわかる。とてつもなく甘美でいやらしい、夢のようなひとときだった。
 ジェイドは優しくて、丁寧で、クラリッサの身体のどこをどんな風に触れば、どんな反応が返ってくるかを熟知しているみたいだった。こちらがどんなに狼狽しても彼は終始落ち着いてゆったりと構えており、とても頼もしかった。それがますますクラリッサを夢心地にさせた。
『哲学者』を必要とするのは独り身の女性だと、ジェイドは言っていた。
「なるほど……なるほどね」
 男女のあれこれに疎い自覚はある。でも、自分にも性欲と呼ばれるものは備わっていたらしい。
「なるほど……」
 クラリッサは頷きながら繰り返し呟いた。

 ***

 クラリッサ・ハチェットは、なかなかに酔狂な女だ。
 ……というのが、ジェイドの所感である。
 ジェイドは部屋の窓を閉め、自分には少し小さいスツールに腰掛ける。
 あの虚無でいっぱいの天幕の中で、初めてクラリッサを見たときのことを思い起こす。周囲はそれほど明るくなかったが、それでも彼女の瞳は濃い翡翠の色だとわかった。
 ほかに印象的だったのは、クラリッサは『哲学者』を欲するにはあまりにも若かったということだ。とは言え、結婚してすぐに未亡人になってしまう場合もある。だから印象的ではあったが、特殊なケースというわけでは決してなかった。
 ジェイドは性行為にほかの要素──ぶったりぶたれたり、道具を使ったり──を持ち込むのは好きではない。彼女に尖った性嗜好がなければいいと祈りながら、クラリッサのものになった。
 ただ『哲学者』を買えるほどの金を持っていながら、彼女は質素な家に住んでいた。使用人がいる様子もない。これまで何人かの婦人に所有されたが、こんなことは初めてであった。
 たいていの女は亡き夫の遺した絢爛豪華な屋敷に住み、使用人たちに傅かれながら、ジェイドをトロフィーのように所有したがったものだ。
 ジェイドは彼女らの傍に侍り、求められれば応じ、時折本を読んでやり、あとはあまり中身のない会話の相手をして過ごしていた。
 一方クラリッサは、ジェイドがこの家に到着するなり「学者を演じてほしい」と要求した。いきなりそんな要求をされるのも──彼女は『哲学者』に関して大きな誤解をしていたわけだが──初めてのことであった。
 ジェイドは内心では面食らっていたが、クラリッサに触れるとごく自然に指は動いたし、口からは女を悦ばせるようなセリフが勝手に飛び出した。
 これまでであったら、そんな風に振る舞ってしまえる自分に嫌悪を抱いた。そして同じくらい諦観していた。いまの自分はこうすることでしか生きていけないのだから、仕方がないと。
 しかし彼女の翡翠色の瞳が蕩けていく様子を見ながら、ジェイドは自分の体内の血が熱く巡っているのを感じた。この酔狂な女を自分の手で導きたいと思った。彼女相手であれば、用命がなくとも『哲学者』のお役目を完遂できそうだと考えたとき、クラリッサは言ったのだ。論文を読んでみたい、と。
 まさか、彼女が本物の学者を欲していたとは思わなかった。道理でかみ合わない会話があったわけだ。
 とんでもない誤解と行き違いについついジェイドは大笑いしてしまったが、あんな風に声をあげて笑ったのは何年ぶりのことだろうか。
 そしてクラリッサは改めて「学者を演じてほしい」とジェイドに言った。
 奴隷に身を落としてからというもの、主人の命令にはなんでも応えてきたつもりだが、そんな要求をされたのは初めてのことである。架空の人物になりすまし、現フローリー伯爵を出し抜くなど、自分には荷が重すぎると思った。しかし。
 ──これは私の闘いなの。
 そんなセリフを吐く女に出会ったのも初めてだった。たいていの女は──特にこのウェルディックの女は──自立するために闘ったりしない。自分が置かれた状況に抗うことすら選択肢にないのではないだろうか。
 ジェイドの心を動かした言葉はまだある。
 ──誰がいつ、何を考えたっていいじゃない。
 彼女は幼少期から旅をして暮らしていたという。そんな人生を送っていたのだから、世間の考え方や決まりごとは窮屈で仕方ないだろう。
 クラリッサは相当な変わり者の部類に入る女性だと思う。だが彼女のその言葉に、ジェイドは困難な世界の中で自由を見た気がした。
 ぐるりと部屋を見渡す。ここはクラリッサの父親が使っていた部屋だという話だ。机や棚の上などは、故人が生きていたときのままになっているようだった。それを動かしてしまうのは気が引けたが「ジェイド・ストークス」になりすますために、前伯爵のことも頭に入れておこうと思う。
 ジェイドは立ちあがり、扉の近くにある本棚を確認する。研究に使っていた本や彼の著書の多くは書斎にあると聞いている。だから、これらは趣味で読んでいたものかもしれない。
 上の段から見ていき、ジェイドは中段で視線を留めた。
 そこには「エルツラント王国史」という本があった。
 ジェイドは左右に視線を走らせ、耳を澄ませた。クラリッサの気配は二階にある。玄関のほうも静かだ。この部屋に突然誰かがやってくるということはなさそうだ。そう確信したうえで、本を手に取る。
「王国史」と銘打ってあるからには、最近のものではないのだろう。いまのエルツラントは共和国なのだから。
 目次にざっと目を通してから、奥付を確認する。この本が出版されたのは十五年前。ウェルディック語に翻訳──と言っても、言葉の違いはそれほどないのだが──されてこちらで流通したのは十年ほど前のようだ。
 もう一度目次に戻り、ぱらぱらと捲った。前半は歴史の教本のような内容だった。そして後半はエルツラント王家と、王家を取り巻く貴族たちの年譜だ。
 ジェイドは本を閉じ、元の場所に戻す。
 記されてある内容と向き合う気には、まだなれなかった。

 

 

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