「おまえとは無理」と言ってた幼なじみ伯爵がデレ全開の溺愛夫になりまして 1
「システィリア──」
かつて日常的に聞いていた幼なじみの声が、一段も二段も低い大人のものになって耳の奥に響いた。
その低い音に、自分の心臓がまるで共鳴しているかのように震えている。
背中にあるのはバネの効いた上質なベッドで、上からのしかかってくるファルシオスとの間に挟まれている状態だ。
彼の体温と吐息を間近に感じ、たまらず目を閉じた。
(本当に、ファルシオスと結婚しちゃったんだ──)
現実になったはずなのに、やっぱり信じられない。
幼い頃からずっと好きだったふたつ年上のファルシオスは、フェンディス伯爵家の次男だが、結婚と同時に家督を継いだので、今はフェンディス伯爵家の当主である。
そして、早くに母親を亡くしたシスティリアを精一杯なぐさめてくれた、頼りになる初恋の人。
彼とは紆余曲折あって、システィリアが十五歳のときを最後に会う機会はなくなり、二度とふたりの人生が交錯することはないはずだった。
それなのに、八年も経った今になって結婚する結果になるなんて、どんな数奇な運命なのだろう。
このままキスされてしまうのだろうか。そして、初夜に突入しちゃうのだろうか。
あのファルシオスと……本当に!
心臓の鼓動が直接、耳に響いてくるが、これは紛れもなくシスティリアの胸の音だ。
困惑と戸惑いと羞恥、そして心の奥底深くに埋めた期待感が複雑に入り乱れた音。
何度も彼と気持ちを交わし合う夢を見た。でもそれは、決して叶わない幻だったはずなのに。
無言のまま、彼のあたたかく力強い手がシスティリアの頬に触れた瞬間、全身がビクッと強張り、何もしていないのに呼吸が乱れた。めちゃくちゃ苦しい。
閉じていた目をさらにきつく閉ざすと、無意識のうちに、胸の前で両手を握り合わせていた。
(恥ずかしい……どうしよう、心臓がちぎれて死んじゃいそう……)
『八年ぶりに再会した初恋の人』という属性は、照れくささを湧き上がらせるのに十分な条件を具えている。
ただただ狼狽えながら、されるがままに待ち受けるしかなかった。
唇がどんどん近づいてくる。彼の吐息を感じ、心臓が痛くなる。
(ああ……!)
くちづけあって、あの手に身体を預け、重なり合うのだろうか。
漠然とした知識で夫婦の営みを思い浮かべ、システィリアはさまざまな感情が入り乱れるのを感じて窒息寸前だった。
だが──。
「あー……やっぱりおまえとは無理だ」
突然、何もかもを放り投げたようにファルシオスが言った。
急に空気が冷えたのを感じ、恐る恐る目を開けたが、今まで自分の上にのしかかっていたファルシオスの姿はそこにない。
ふと顔を巡らせると、彼はシスティリアの隣で仰向けになり、大の字で寝転がっていた。
「あ、あの……」
あわてて跳ね起きてシスティリアが正座すると、彼も身体を起こして胡坐をかいた。
ブロンズ色の短い髪がランプの明かりを受けて輝き、その下の引き締まった顔は男らしい色気にあふれている。
正面からそれを見てしまったシスティリアは、頬が赤らむのを感じてうつむいた。
ファルシオスはすばらしく精悍な青年に成長していた。それは幼なじみの贔屓目ではなく、万人が認める事実である。
子供の頃から、たしかにファルシオスの方が背も高く手も大きかったが、それほど性差を感じたことはなかった。でも現在では、拳の大きさひとつで明らかな差を感じる。
できればその変化を凝視したいが、目でも合ってしまったら恥ずかしくて間が持たないので、視線を向けることすら困難だった。
そんなシスティリアの気持ちに気づいているのかどうか、ファルシオスが苦笑する。
「なんていうか……そういう関係じゃないだろ、俺たちは。ガキの頃からのなじみなのに、今さら夫婦になれとか、さすがに無茶ぶりが過ぎる」
「──そ、そう……だよ、ね」
目を泳がせつつ、ぎこちなく賛同してみせると、ファルシオスは大きなため息をついた。
「俺の両親の手前、はっきり言えなかったのかもしれないけど、システィリアも無理せず断ってよかったんだぞ」
キリッと整った顔立ちの幼なじみに苦笑され、こちらも遠慮がちに微笑んだ。
「ご、ご両親には並々ならぬ恩義があるし……断るなんてできないよ」
そういうファルシオスだって、「君がいいなら」と言っていたではないか。
それに、初恋の人だから結婚を承諾した──だなんて、本人を前にしてとても言えない。
「まあ、結婚式もした後だし、今さら言っても仕方ないけど。お互い、面倒なことに巻き込まれたもんだな」
「──ほんとだね。でもほら、気心知れた者同士だもの。型に嵌めなくても、昔みたいに気楽にやっていこうよ」
意に反し、口から幼なじみ宣言が飛び出してしまった。ファルシオスがそれを否定して、本物の夫婦として歩み寄ってくれるのを祈るように待つしかない。
でも、この流れでそんな奇跡が起きるはずなどなく。
「だな。じゃあひとまず、近況報告といこう。システィリアはこの家を出てからどんな生活をしてたんだ?」
夫婦の放棄を肯定した彼の応えに、システィリアは遠い目をして乾いた笑いを浮かべた。
本当は大好きだから、夫婦としての関係を築いていきたい。
そう言えたらどれだけよかっただろう。
だけど、幼なじみという関係性を壊して、今さら異性として接するなんて、とてもとてもできそうになくて……。
庭にあるガゼボのベンチで、夕方、システィリアは膝を抱えてうなだれていた。
大好きだった母が亡くなったのだ。
さっき母の亡骸を墓地に埋葬してきたところで、葬儀は終わったのに、父はまだ弔問客への対応で忙しくしている。
伯爵夫人なのにお菓子作りが好きで、いつも明るく笑っていた母が病で身罷るなんて、ほんの一ヶ月前までは思ってもいなかった。
ちょっと風邪をこじらせただけ。薬師である父の薬を飲めば、すぐに治る。
そう信じていたのに、あっという間に病状は悪化し、父とシスティリアが見守る中、母は静かに息を引き取った。
まだ十歳のシスティリアにとって、母の存在は世界のすべてにも等しかったのに、こんな急な別れになるなんて理解ができなかった。
涙腺が壊れたのかと思うほど泣いた。文字通り三日三晩は泣き暮らし、この先の一生分の涙を流したと思ったほどだ。
今日の葬儀でようやく涙は落ち着いたものの、腫れた目許にはまだ涙が溜まっていたし、ふとしたきっかけでぽろぽろとあふれてくる。
このガゼボにも、母とふたりでよく訪れた。庭園を眺めながら笑い合い、母手製の焼き菓子やケーキを一緒に食べた思い出が染みついている。
このまま一生、泣き続けることになるかもしれない。
そう思うとますますやりきれなくなって、膝に顔を埋めてシスティリアはしくしくと泣き続けた。
そのとき、頭にやさしい手が触れる感触があった。驚いて顔を上げたら、隣に礼服姿の男の子が座っていて、うなだれるシスティリアの頭を撫でてくれている。
「ファルシオス……」
ぐすっと鼻をすすって幼なじみの少年を見上げると、神妙な顔をしたファルシオスがシスティリアの頭を自分の方に抱き寄せた。
「つらかったな」
「……うん」
ひとりで泣いている間はずっと寒かったのに、ファルシオスの肩に頭を寄せたら、少しあったかくなる。
それにほっとしてうなずき、また顔を伏せたら弱音がこぼれた。
「お母さま、いなくなっちゃった……。私、これからどうやって生きていけばいいの?」
ぽつりとつぶやくと、ファルシオスの手がやさしくあやしてくれた。
「ここ、よくおまえのお母上と来たよな。いっつもおいしいケーキ作ってくれてさ。システィはそのケーキの作り方、覚えただろ?」
「うん……」
「お母上がいなくなっても、教えてもらったことはシスティの手に残ってる。お母上の存在は、システィがちゃんと受け継いでる。だから大丈夫だ」
「……うん」
そう言って、ファルシオスがシスティリアの手をぎゅっと握りしめてくれる。
つたないながらも、ファルシオスが一生懸命なぐさめてくれているのは、いやというほど伝わってきた。
「システィのお母上は、おまえが泣いていたらなぐさめてくれただろ? 今度からは俺がなぐさめてやるから、ひとりで泣くな。ひとりでいると、もっと淋しくなるから」
ファルシオスが傍にいてくれると、ふさいだ気持ちが少し楽になった気がする。
彼のぬくもりを感じ、確かに母を亡くした悲痛が和らいだのだ。
そして、彼に握りしめられた手を見ていたら、なんだかどきどきして顔が熱くなった。
これがシスティリアの恋のはじまり。
幼すぎて恋とも呼べなかったが、彼への感情が色を帯びたのは、間違いなくこのときだった。
*
システィリアの父、ヴァール・ロア・アルミストは、リュリアーサ王国の伯爵にして高名な薬師だ。
少年時代には、はるか東方にある、薬草文化の根付いたチャール王国に留学し、異国の知恵や知識、技術を学んできた。
母のシエラは、父が滞在していた薬草農園の娘だったそうだ。
熱心に薬草を学ぶ父と恋仲になり、留学を終えた父がリュリアーサに戻る際、国を捨てて一緒になったと、母の口から何度も惚気話を聞かされたのを覚えている。
とても仲睦まじい夫婦だった。夫婦というものに対する、システィリアの憧れそのものである。
ファルシオスの両親、フェンディス伯爵夫妻とは父の薬を通じて知り合い、システィリアが物心つく頃にはすでに両家は親しい間柄だった。
フェンディス伯爵家には、エヴァンとファルシオスという兄弟がおり、互いの家を行き来する際には兄弟揃って仲良くしていたものだ。
ただ、エヴァンはシスティリアより四つも年上だ。幼少期の四歳差はかなり大きく、精神的な隔たりがあったので、ふたりで遊ぶことはほとんどなかった。
一方、二歳年上のファルシオスとは兄妹みたいな関係を築いてきた。十歳の頃に母を亡くし、不器用になぐさめてくれた彼に、ほんのり淡い恋心を抱くようになった。
「アルミスト伯爵家は僕の代で終わるけど、システィは気兼ねせずに好きな人と結婚するんだよ」
父からは常々そう言われていたこともあり、将来はファルシオスと結婚することになるんだろうと、自然と思っていた。
ファルシオスは次男だから、実家を継ぐことはない。ならば、彼にアルミスト家に入ってもらえば家が断絶することはないし、みんな丸く収まるのでは──そう考えていたこともある。
でも、現実とは往々にして都合よくは進まないものだ。
薬師の父は、国内外で活動していることもあり、邸を空けることがしばしばある。
邸には執事に使用人、大勢の大人がいるから、システィリアがひとりきりで残されることはないが、数ヶ月単位で父が戻らないこともあり、淋しい思いをすることはあった。
そして、システィリアが十四歳の頃のこと。
隣国に招聘されていた父は、システィリアの誕生日の翌日から、一ヶ月ほどの予定で留守にしていたが、二ヶ月が過ぎても戻る気配がない。
父の消息を知る者もなくそわそわしていたら、ようやく父から手紙が届き、しばらく帰れない旨が記されていた。
それからさらに半年後だった。父の事故死が伝えられたのは。
リュリアーサへの帰路、馬車ごと崖から転落し、父は帰らぬ人になった。
母を亡くしてまだ四年。今度は父までをも喪うことになり、システィリアの世界は暗黒になったのだ。
近しい人々がアルミスト伯爵の葬儀を出してくれたが、システィリアにその間の記憶はない。あまりに衝撃的すぎて、心が何かを思うことを拒んでしまったから。
生前、父が言っていたように、父の代で家が終わるのはわかっていたが、それにしたって父はまだ三十代半ばの若さだった。こんなに早くいなくなってしまうなんて、考えたこともなくて……。
その上、母のときとは違い、システィリアの前には大問題が立ちはだかっていた。
ひとりっ子だった父には、システィリア以外に家族がいない。そしてリュリアーサ王国では、女子が家督を継ぐことはない。
アルミスト伯爵家は父の死をもって断絶したのである。
いくらかの財産はシスティリアに遺されたが、邸は手放さざるを得ない。借金こそなかったものの、父が亡くなったことで収入は途絶えるし、とてもではないがシスティリアに邸の管理や維持ができるはずがない。
本人は大人びたつもりではいたが、まだ十四歳。社交界にデビューすらしていない子供にすぎなかった。
貴族としての地位を失ったからには、今後は市井に小さな家でも借りて、自力で身を立てなければならない。
ひとりで生きていかなくてはならないのだ。
そんな窮状を救ってくれたのは、ファルシオスの両親であるフェンディス伯爵夫妻だった。小さな頃からよく知るシスティリアを、フェンディス伯爵家の養女として迎え入れてくれた。
つまり、ファルシオスの義妹になってしまったと、そういうことに……。
家が断絶した時点で、ファルシオスと結ばれる道がなくなったのは理解していたつもりだが、まさか夫婦ではなく兄妹になってしまうなんて、誰に予見できただろう。
(運命の神さまは私に意地悪だわ……)
システィリアもちょっとは成長していたので、母が亡くなったときのように泣き暮らすことはなかったが、目まぐるしい環境の変化を経て、よくよく自分の置かれた状況を鑑み、落胆した。
父の葬儀が終わって一ヶ月。今日から、好きな人とひとつ屋根の下。でも、養女とはいえ兄妹間で結婚するのは、この国では許されないことだ。
決して実らせてはいけない、禁断の恋に成り果ててしまうなんて。
自室にと与えられた部屋のベッドに腰かけて自嘲し、肩を落とした。
*
「システィ、お茶にしない?」
部屋の片付けがある程度済んだ頃、フェンディス伯爵夫人アリシアがやって来て、お茶に誘ってくれた。
「はい、おうかがいします」
王都にあるフェンディスの邸には、子供の頃から何度もお邪魔しているので、勝手はだいたい知っている。システィリアはベッドから立ち上がると、アリシア夫人についてティールームへやってきた。
日当たりのいい部屋には白いテーブルセットがあり、薔薇のレリーフで飾られた三段のケーキスタンドが用意されていた。
サンドイッチにスコーン、ケーキ、目移りするようなかわいらしいお菓子が並んでいる。
「どうぞ、座って。今日からここはあなたの家ですから、気兼ねなく過ごしてね」
夫人はもうすぐ四十路を迎えるが、まだまだ外見は若々しい。ファルシオスとそっくり同じ色のブロンズの髪を丁寧に結い上げていて、いかにも貴婦人といった上品さに満ちている。
「ありがとうございます、伯爵夫人」
「だめだめ、今日から私があなたの母なんだから、遠慮なくお母さまと呼んで」
システィリアは目を細めて笑い、「はい、お母さま」と呼び直した。
実際、母を亡くしてからの困りごとは、たいていアリシア夫人に相談していたのもあり、システィリアにとっては実の母に次いで心強い存在なのだ。
侍女が注いだ紅茶をそっと口許に運ぶと、夫人はしみじみと言った。
「本当はね、システィにはこの家にお嫁に来てもらいたいと考えていたのよ。そうしたら母娘でお茶ができるし、娘のドレスを仕立てるという楽しみもできたし。それがこんな形で実現するというのは、ちょっと複雑ね」
「私が、この家にお嫁に……?」
アリシア夫人の真意を知って、手が震えた。
「エヴァンでもファルシオスでも、システィのようなかわいらしい娘なら、どちらでも大歓迎だったわ。ファルシオスのほうが年も近いし、昔から仲が良かったかしら」
今となってはもう叶わぬ話とはいえ、ファルシオスの母からそんなことを言われて、うれしいやら困ったやら、そして残念やら──。
「ふ、ふたりとも幼なじみだし、なんていうか……本当に兄妹みたいだったから、結婚なんて、む、無理カナ~」
照れくさくて、心にもないことを言ってしまったが、アリシア夫人は深くうなずいた。
「それはそうよね。実を言えば今回、最初からお嫁さんとして迎えることも考えてみたけれど、あなたはまだ十四歳だし、システィに強要するみたいで、世間的にも褒められたことではなかったから……。それに今後、社交界に出て広い世界を知れば、素敵な男性に出会えるかもしれないもの。だからせめて、あなたがこの家からお嫁にいくまでしっかり面倒見させてね。あなたのご両親には本当にお世話になったから、せめてもの恩返しに」
思わず凍りついてしまいそうになったが、システィリアは必死に笑みを浮かべた。
「は、い。よろしくお願いします」
父の不幸がなければ、ファルシオスと結ばれる道が現実に存在していたなんて、身の回りで起きたことすべてに対して悔恨が募る。
とはいえ、こうして伯爵家の養女として迎え入れてもらえたことだけで、システィリアは満足しなくてはいけない。
父の遺産も、夫妻が後見人として適切に管理してくれているし、これまでとさほど変わらない生活水準を保障してもらえるのだから……。
こうしてフェンディス家の養女として暮らすことになったわけだが、不思議なことに、幼なじみとして別々の家で過ごしていたときよりも、今の方がファルシオスと疎遠になった気がする。
兄弟ふたりとも王立学院に通っているから、日中に不在なのはわかるが、朝晩の食事の席にエヴァンは姿を見せるのに、ファルシオスはめったに現れない。
たまに邸の中で行き合っても、会話らしい会話は発生せず、ファルシオスはそっけなくシスティリアから遠ざかってしまうのだ。
もうファルシオスは十六歳だし、子供の頃みたいな距離感で接する方が難しいのかもしれない。これが成長というものなのだろう。
(それとも、私の気持ちがバレちゃってて、避けられてる……?)
そうでなくとも幼い頃から兄妹に近い関係だったのに、今は本当の兄妹。妹から恋心なんか向けられたら、まっとうな男性は逃げ出すだろう。
もう結ばれることはないとわかっているから、恋が実らなくても諦めはつくが、それが原因でファルシオスに避けられているとしたら、とても淋しい。
*
ある休日、母直伝のパウンドケーキを焼いたので、ファルシオスの部屋に持っていくことにした。
母が存命だった頃、彼もよく食べていたゼファシードのパウンドケーキだ。
ゼファシードは、母の出身国であるチャール王国で採れる、栄養価の高い植物の種子だ。小さな粒のぷちぷちとした食感がよく、かの国では薬や料理によく使われているらしい。
輸出規制があるためこの国では入手が難しく、一般には出回らない。しかし、両親はチャール王国の貿易商・ハクゼンと交流があり、個人的に取り寄せていた。
母が亡くなった後も、父とハクゼンの取引は続いていたため、システィリアは残されたレシピを頼りに、母の味を再現できるようになった。
今ではケーキ作りも手慣れたもので、ほぼほぼ母のものと遜色ない出来栄えである。
ただ、システィリアからハクゼンに連絡する方法がないので、父が亡くなったことは知らせていない。手持ちのゼファシードがなくなったら、このパウンドケーキは作れなくなってしまう。
昔のような仲に戻ることは無理でも、この大事なケーキを食べたらきっと、ファルシオスの仏頂面も笑顔になるに違いない。
それに、もうすぐシスティリアの十五歳の誕生日がきて、年明けには王国主催のデビュタントが控えている。
ファルシオスにエスコートしてもらいたいから、そのお願いをするつもりだ。
ケーキと紅茶を載せた盆を持って、少し緊張しながら彼の部屋をノックしたら、扉の向こうから誰何するファルシオスの声が聞こえてくる。
扉越しの声を聞くだけで、なぜか胸がどきどきしはじめた。
「あ、あのね、ケーキを焼いたの。一緒に食べない?」
ややあって、小さく扉が開いてファルシオスが顔を覗かせた。
毎日同じ家で起居しているはずなのに、こんなに間近で顔を見るのはずいぶん久しぶりな気がする。
少し伸びた、艶やかな濃いブロンズ色の前髪が目にかかる様子は、ひどく彼を大人っぽく見せていた。少し距離が遠ざかっていた間に、ファルシオスはどんどん大人の男性へと変化していたのだ。
自分は何も変わらず、ただただ伯爵夫妻に庇護されるだけの子供でしかないのに。
そんな彼だが、やっぱり笑みはなくどことなく硬い表情で、システィリアではなくケーキに視線を向けていた。
「いただくけど、今、忙しいんだ。勉強しながら食べるから、システィリアは母上と一緒に食べな」
そう言って、自分の皿と紅茶だけを盆の上から取り上げ、ファルシオスはさっさと部屋の扉を閉めてしまった。
「あ……」
ふたりの間を隔てる扉は、まるでファルシオスの拒絶を表しているようだ。
一気に肩から力が抜けて、システィリアはうなだれる。
でも、心の距離がそのまま物理の距離になるまで、多くの日数を要しはしなかった。
システィリアの誕生日がやってくる前の月、ファルシオスが突然、フェンディスの邸を出てしまったのだ。
王国騎士団に入り、従騎士として正騎士に仕え、いずれは一人前の騎士として叙任を受けることになるという。
彼は次男だから、伯爵家を継ぐことはできない。身の振り方として、騎士になるというのは不自然な選択ではないが、それにしたって急すぎる。
結局、エスコートの件も言い出すことができないうちにファルシオスは邸を後にし、それきりシスティリアの前に姿を現すことはなかった。
それは唐突で、悲しく長いお別れだった。