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辺境伯の罪深き執愛 献身の乙女は甘く淫らに囚われる 2

第二話

 

 まさか天国のようなこの村でまで、おぞましい暴力の影を見ようとは。
 カーティスは裸の娘に背を向け、できるだけ穏やかな口調で尋ねた。
「その怪我は誰にやられた?」
「……」
 娘は答えない。
 ぱしゃ、ぱしゃっ、と水が跳ねる音が聞こえる。
 ──水から上がってきたのか……?
 がさがさと衣擦れの音がしたあと、娘がぱっと走って逃げ出すのが見えた。
「待て」
 カーティスは後を追い、娘の細い腕を取った。
 袖から出ている部分には痣はない。
 だが先ほど見た痣は決して見間違いではなかった。
 自分の身体で嫌と言うほど見てきたから分かる。あれは暴行を働かれた痕だ。ただの怪我ではない。
「さっきの痣、誰にやられたのか教えてくれ」
 娘がぶんぶんと首を横に振る。
 そういえば、彼女はなぜ喋らないのだろう。
 裸を覗いてしまったときも、娘は悲鳴ひとつ上げなかった。違和感を覚え、カーティスは娘に尋ねた。
「君はもしかして、声が出せないのか?」
 カーティスを睨み付けていた娘が、警戒を解かぬまま頷く。
 濡れた身体に慌てて服をまとったからか、娘の服は湿って透けていた。
 カーティスは自分の上着を脱いで娘に着せかけると、できるだけ優しい声で聞く。
「では、文字は書けるか?」
 そう言って、娘に向けて掌を差し出す。
「君の名前は?」
 上着を貸したことでやや警戒を解いたのだろうか。娘がおずおずと、カーティスの掌に文字を書いた。
『シア』
「ではシア、君に怪我をさせた人間の名前を言えるか?」
『だいじょうぶ です』
「大丈夫ではない。申し訳ないが、さっき君の身体を見た。あれは誰かにやられた傷だろう?」
 かつての自分も、こんな風に誰かに助けてもらいたかったのだ。父亡きあと、自分を庇ってくれる人間など一人もいなかったから……。
 そう思いながら、カーティスはシアをじっと見つめた。
 シアが透けるように白い頬を赤く染める。
『ころんだ』
 嘘だ。そう直感した。おそらくシアは誰かを庇っている。
 身近な人間……夫か恋人か。よくある話だが気が滅入る。
 ──犯人を庇うところまで、昔の俺と同じだなんて。
 カーティスは軽くため息をつき、シアに言った。
「憲兵隊に行こう。暴力は許してはならない。たとえ君の大事な人に振るわれたのだとしても、だ。いいな?」
 その言葉にシアがさっと青ざめ、激しく首を横に振る。
「嫌なのか?」
『はい』
「ではせめて医者に」
『いしゃも いやです』
 カーティスは、少女の頑なな態度にため息をつく。
 少女は美しい顔をしかめ、カーティスの掌にこう書いた。
『わたしは くすり つくれる じぶんで なおします』
 そう言うと、少女は貸した上着を脱ごうとする。
 だが、水を吸って重たくなったことに気付いたのか、困ったようにカーティスに尋ねてきた。
『かわかして かえしたい です』
「気にしなくていい。家まで着ていけ。肌が透けている。俺には予備の上着があるから」
 シアはしばらく考えて、尋ねてきた。
『あなたは たびのかた ですか?』
「そうだ。名乗るのを忘れていたな、すまない。俺の名前はカーティス・ヴァルセー。帝都から来たんだ」
 その名を聞いた瞬間、シアがかすかに目を見開く。
 まるでカーティスの名前に心当たりがあるかのような仕草だった。
「ん? 俺を知っているのか?」
 シアは慌てて首を横に振る。どうやら気のせいだったようだ。
 カーティスは頷き、シアに手を差し出した。
 痣だらけのシアを見捨てて去るのはどうしても心が痛む。過去の自分が重なるからだ。
 ──俺はお節介、なんだろうな……何度部下たちに『庶民に温情をくれてやる必要はない』と怒られたことか。
 そう思いながらも、カーティスはシアに言った。
「この馬に乗れ、君の家まで送ってやる」
『のりかた わからない』
「そうか、馬に乗ったことがないのか……じゃあ、失礼」
 カーティスはシアの華奢な身体を抱き上げた。
 綿毛のように軽い身体だ。
「危ないからあまり動くなよ」
 カーティスはシアをロザリーの鞍の上に横座りさせ、手綱を手に取る。
 シアは驚いた顔をしていたが、不快ではないらしい。美しい目を見張り、キョロキョロとあたりを見回している。
「視座が高くなって気分がいいだろう?」
 尋ねると、シアが笑みを浮かべて頷いた。
 ──俺みたいな男はともかく、非力な娘に手を上げる人間がいるなんて。
 暴力が心を削ることを、カーティスは身をもって知っている。シアが自分を傷つけた相手の名を口にしないのも、心が削られているからだろう。
 カーティスはやるせない思いを押し隠し、シアに尋ねた。
「そうそう、俺はしばらくこの村に滞在するつもりなんだ。宿は一軒しかないと聞いたが、泊まることはできるかな?」
 もし無理なら、ここから少し離れた場所にある知人の別荘に滞在するしかない。そうなると、貴族同士の社交にも顔を出さねばならず、面倒なのだ。
『やどを よやく しなかった?』
 シアがカーティスの腕に書いてきた。不思議そうな表情に、カーティスはかすかに頬を赤らめる。
「ああ。すまん。世間知らずで」
 帝都や領地で過ごすときは、カーティスに代わり、周りの人間が万事を采配してくれる。カーティスは部下をねぎらっていればいい立場だ。だから今回の一人旅も、金の力だけでなんとか乗り切りここまで来たのである。
 ──世間知らずの貴公子様、戦争するしか能がない男、か……実際そのとおりだからなにも言い返せないな。
 自分の風評を思い出して、カーティスは決まり悪い気分になる。そのとき、シアが明るい笑顔で振り返った。
『だいじょうぶ やどは すいている ので』
「それはよかった」
『ふく かわかして やどに もっていきます』
「ありがとう」
『さっきは ごめんなさい』
「ん?」
 謝られる理由が分からない。カーティスは首をかしげる。
『いし なげて ごめんなさい』
 シアは申し訳なさそうな顔をしていた。その顔が愛らしくて、カーティスはクスッと笑って首を横に振った。
「ああ、さっきの石か、気にするな。痛くも痒くもないさ」
『どうして あんなところに きたのですか?』
「馬に水をやろうと思ってな。それと……森の中に咲く花が見たくて」
 正直に答えたが、照れくさい気分になる。自分のようなごつい大男が花見がてら森へ踏み込んだなんて、似合わないことこの上ないからだ。
 シアが不思議そうに首をかしげる。
『はなが すきですか?』
「まあな」
 頷いた刹那、ふわりと風が吹いた。シアの華奢な身体を覆う上着が風に翻り、湿ったおくれ毛が空を舞う。
 シアは明るい笑みを浮かべていた。
 ──やはり、この娘は妖精なのかもしれない。
 彼女の笑みに惹き込まれそうになりながら、カーティスは無意識に息を呑む。
 美しい村には、美しい住人だけが暮らせるのだろうか。
 そんなくだらない想像が脳裏をよぎる。
『このむらは はなざかり』
「そうか」
 頷いたカーティスの唇から、思ってもみなかった言葉が転がり出る。
「……なら、今度、案内してくれないか」
 まるで妖精の魔法にかかったかのようだ。
 案の定、シアは驚いた顔をしている。初めて会ったばかりの覗き男に『村を案内しろ』なんて頼まれて、内心怯えているに違いない。
 やはり撤回しよう。
 そう思ったときシアが再び笑った。
『あさって までなら いいですよ』
 目を丸くするカーティスに、シアが妖精のような笑みを浮かべて書いた。
『うま のせてくれて ありがとう ございます』
「い、いや、女性を歩かせないなんて当然の話だ」
 カーティスはぎこちなく答えて、あたりを見回した。
 落ち着かない。
 社交界で高貴な令嬢を相手にしているのとは勝手が違う。
 村娘の素朴な愛らしさに、カーティスは柄にもなく動揺していた。
「もしかして、村を案内してくれるというのは、馬に乗せた礼にか? だとしたら無理しなくていい。俺はちゃんと案内人を雇って村を見物するから」
『また うまにのりたいから』
「……!」
 予想外に可愛らしい理由だった。
 胸の高鳴りを覚える。
 女性の言動に胸がときめくなんて初めてかもしれない。落ち着かないのに、シアから目が離せなくなる。
「分かった。ならば君をこの馬に乗せて花の見所を回ろう。それでいいか?」
 シアがにこにこしながら頷く。
 ──なんて純粋そうなお嬢さんだろう。平和な村育ちだからか? こんなに人懐っこくて大丈夫なのかな?
 可愛らしすぎて、余計な心配をせずにはいられない。
「もっと男を警戒したほうがいいぞ」
『しています』
 シアが満面の笑みを浮かべて答えた。
『わるいひと たくさん しってる あなたは だいじょうぶ』
 愛らしかったシアの笑みに、ふと影が差す。
 ──悪い人をたくさん知っている?
 カーティスは眉根を寄せた。その言葉から、シアの味わってきた得体の知れない苦労を感じ取ったからだ。
 ──悪い人……って……?
 気分の悪くなるような想像がどんどん湧いてくる。その悪い人とは男なのだろうか。だとしたら、その男になにをされたのか。
 ──許しがたい。
 そのとき、シアの指先がとんとんとカーティスの肩を叩いた。
「ん?」
「……」
 シアが眉間を差し、不思議そうに小首をかしげた。知らぬうち不快感が顔に出ていたらしい。
 カーティスは笑みを浮かべて答えた。
「考え事だ、気にするな」
 シアが頷く。やがて、行く手に集落が見えてきた。あれがサン・リエ村だろう。
 ──ずいぶん村から離れた場所で水浴びしていたんだな。無論、人に覗かれたくなかったからだろうけれど。
 そう思い、カーティスはシアに尋ねた。
「君はいつもあそこで水浴びしているのか?」
『いえに おふろ ない』
「公共浴場もないのか?」
 シアはしばしためらったあと、答えた。
『わたし つかえない』
「使えない?」
 なぜシアは公共浴場の使用を許されていないのか。カーティスが不審に思ったことに気付いたのか、シアが急いで付け加える。
『あのいずみ には だれもこない から』
「冬はどうしているんだ?」
『だいじょうぶ』
 カーティスは再び眉をひそめる。
 ──ここは北部だぞ? 寒い冬に水浴びなんて……いや、俺には関係ないことか。
 余計なお世話だと分かっているのに、どうしてシアのことがこんなに気になるのだろう。庇護欲をそそられて仕方ない。
「……宿はどちらか分かるか」
『こっち です』
 カーティスはシアが指さす方向へ馬を引いて進む。
 軍馬でもあったロザリーは体格が大きい。サン・リエ村内では目を引くらしく、カーティスとシアは注目の的になってしまった。
『もう うま おります』
「ん? 大丈夫だ、宿の場所を把握したら家まで送っていくから」
 シアがロザリーの上で強く首を横に振る。
 カーティスは仕方なくシアを抱き下ろし、地面に立たせた。
「楽しかったのだろう? もっと乗っていて構わないのに」
 シアが再び首を横に振る。
 そしてカーティスの掌に素早く書き付けた。
『あの あかいやね やどです』
「そうか、ありがとう」
 確かにシアが指すほうに、赤い屋根の家が見えた。
『うわぎ かわかして やどに もっていきます』
「それはありがたいが……」
『かえります』
 そう書くなり、シアはカーティスに背を向けて駆け去って行った。
 まるで、肩にとまっていた小鳥が飛んでいってしまったかのように思える。
 もう少し一緒に時間を過ごしたかった、と思ったあと、カーティスはすぐに我に返った。
 ──俺はなにを考えているんだ。
 シアの華奢な背中は、角を曲がってすぐに見えなくなってしまう。
 カーティスの心に『あの少女を放っておけない』という気持ちだけが残された。

 屋敷の勝手口を開け、シアはほっと息をつく。
 叔父も叔母もフィーリもいない。なにより安心できる時間だ。
 一家は都市部へ観劇に出掛けた。大きな都市に出掛けた際、彼らは必ず長逗留してくる。贅沢品を買い集めたり、賭博場に通ったりするためだ。
 ──くだらない贅沢趣味のおかげで、私が安らげる時間が長くなるわ。
 叔父はサン・リエの村長でありながら、この村をド田舎と言い放ち、村人をまともに顧みもせず遊び回っている。
 村の者は誰も止めない。
 叔父に逆らうと後が面倒だという理由でだ。
 ──後が、面倒……か。
 シアにとっては残酷な言葉である。
『関われば後が面倒』という理由で、シアは村人たちから無視されているのだ。
 シアは、サン・リエ村の前村長夫妻の娘だった。
 無論、そのことは村人たち皆が知っている。
 十二年前、両親が事故死したあと、シアは父の弟である叔父に引き取られた。
『うちのフィーリの代わりに、お前が献身の術を使うんだ。今日からお前は私たちの奴隷になるんだからな』
 その日からシアは、痩せこけた痣だらけの娘に変わってしまった。
 けれど、誰もシアに関わってこようとしない。
 田舎の閉鎖的な村だ。村長に逆らえば自分が村八分にされかねないからだ。
 誰からもなにも言われないのをいいことに、叔父たちはシアに暴力を振るい、献身の術を使うことをシアだけに強制してくる。
 そして皇帝から与えられる報奨金で遊びたい放題だ。
 ──よくある話。親のいない娘がたどる経過としては、たいした悲劇でもないわ。おとぎ話なら王子様が見初めてくれるんでしょうけれど。
 シアはため息をつくと、カーティスの大きな上着を台の上に広げた。
 せめて自分が、カーティスのようにたくましい男だったら、叔父夫婦やフィーリに力で負けることはなかった。
 女に生まれたことも、シアにとっては外れくじだったと思う。
 ──いいな、強い男に生まれるって。
 そう思いながら、シアは霧吹きに入ったハーブ水をカーティスの上着に掛けた。
 この状態で何度かハーブ水を含ませて乾かし、最後は火のしを当てて仕上げれば、いい香りのピンとした上着が仕上がる。
 しょっちゅうフィーリのドレスを手入れしているので、高価な生地の扱いにも慣れた。
 上着の手入れを終え、シアは無表情に己の喉に触れる。
 ──カーティス・ヴァルセー……こんな珍しい名前の人、他にいないわよね。
 まさか自分が『救った』人間と出会うなんて、想像もしていなかった。
 シアは無意識にぎゅっと拳を握り固める。
 これまでシアは何度も、皇帝の命令で『献身の術』を使ってきた。
 亡き父と同じように。
 父は『誰かの役に立てるなら、この運命を受け入れよう』と言っていたけれど、シアは父の境地には達していない。
 なぜ自分が。心のどこかで常にそう思っている。
 シアはじりじりと焼け付く胸を押さえ、ふうと息を吐き出した。
 ──カーティスさんは、花が見たくて森を歩いていた、って言っていたわ。
 彼はシアの声と引き換えに視力を取り戻し、幸せに生きている。
 その事実がただ悔しかった。
 やはり父のように『役に立てるならいい』という気持ちは到底湧いてこない。
 自分には『献身の一族』なんて名前は不似合いだ。
 そう思いながら、シアは天国の両親に心の中で語りかけた。
 ──お父様、お母様、私、声と引き換えに助けた人に会いました。とても幸せそうでしたが、喜べませんでした……。
 シアの目から涙があふれる。
 思い出すのは両親の優しい顔ばかりだ。
『献身の術者は、いつか術に食い殺される。だから父様と母様は、シアが大人になったらこの村から逃がすつもりなんだ。フィーリには悪いけれど、お前に生きてほしいから』
 そう言ってシアを抱き寄せた父の手には中指がなかった。
 かつて術を使ったときの代償だ。
 術を使えば使うほど、肉体はより『多く』失われるようになる。最後には命まで。
 他人に食い尽くされて死にたくない。
「……」
 ひとしきり声を上げずに泣いたあと、シアはぎゅっと唇を噛んで顔を上げた。
 ──自分を哀れんでいる余裕なんて、私にはない。
 シアは涙を乱暴に拭い、もう一度霧吹きで服にハーブ水をかける。
 ──そういえばカーティスさんが、私の痣に気付いてしまったわね。いつか頃合いを見て口止めしなくちゃ。この痣のことが村の誰かに知られたら……。
 想像するだけでうんざりだった。
 シアの身体を痣だらけにしたのはフィーリだ。
 フィーリは村人の前では『強欲な両親に振り回されている、清楚な令嬢』のふりをしている。そのお芝居の邪魔をしたら、なにをされるか分からない。
 ──清楚な令嬢、ね……。
 シアの脳裏に、たくましい村人の上で腰を振っているフィーリの姿が浮かんだ。
 見たくもなかった秘め事の光景。
 フィーリはまだ十九なのに、村のたくさんの男と寝ている。
 相手に妻がいようと関係ない。
『シアが余計なことをしていたら、すぐに私に知らせて? そうしたらこうやって、また寝てあげるから……』
 男にそう囁きかけながら、腰を弾ませていた姿を忘れることができない。
 この村の男たちの多くは、今やフィーリの手先だ。
 ──常に誰かに見張られていると思って暮らさなくちゃ……。
 ここで生き抜きたければ、決して叔父一家の、特にフィーリの機嫌を損ねてはならない。
 シアに残された選択肢は、それ以外になかった。

 

 

 

 次の日の正午、シアは約束通りに上着を持って、カーティスの宿を訪れた。カーティスは、満面の笑みでシアを歓迎してくれた。
 男の不器用な笑顔は嫌というほど見てきている。
 自分で言うのも馬鹿らしいが、シアは器量がいいほうだ。だから村の男たちは、叔父夫婦やフィーリにばれないよう、こっそりシアに優しくしてくれる。
 彼らが浮かべる笑みと、カーティスのそれはよく似ていた。
 ──つまらないわ、どうして皆、私に対して同じ反応をするの?
 シアの傲慢な嘲りになど気付いた様子もなく、カーティスは優しい声で言った。
「ずいぶん綺麗にしてくれたんだな、ありがとう、シア殿」
 カーティスの礼に、シアは首を横に振る。
 ──お人好しそうだけれど、優しいのは認めるわ。
「帝都の仕立屋にも劣らない。それにずいぶん良い香りがする」
『おおげさ です』
「いや、大袈裟なんかじゃない。毎日でもやってほしいくらいだ」
『わたしを やといたい ですか?』
 からかい半分に問うと、カーティスがぱっと赤くなる。
「そ、そうだな……君の腕は素晴らしすぎるから……」
 男らしい美貌に似合わず、うぶで純朴な反応だ。村の男と変わらない。もう少しからかおうと思い、シアはとびきりの笑みを浮かべた。
『ほかに わたしに なにを たのみたいですか?』
 その問いにカーティスが目をそらす。顔は赤いままだ。
「村の案内かな」
 生真面目に答えるカーティスに、シアは微笑みかける。
 同時に、夕立の黒い雲のように悪意が湧き上がってきた。
 ──こんな平凡な男のために、私は声をなくさねばならなかったのね。
 シアは心の中で吐き捨てる。
 しかし、シアの心中など知るよしもないカーティスは、ご機嫌だった。
 カーティスは端整な顔をかすかに赤らめたまま、着ていた上着をわざわざ脱いで、シアが火のしを当てた上着を羽織り直す。
「今日は、君が手入れしてくれた上着を着よう」
 そう告げた顔立ちは気品にあふれて美しく、この村の誰よりも凜々しかった。
 ──平凡だと思ったけれど撤回するわ。こんなに顔のいい人、この村にはいないし。
 シアはフードをかぶったまま、その陰でため息をつく。
 なんてまばゆい男なのだろう。
 恵まれた人間はすべてを得て幸せになり、シアのような人間は踏みにじられて、あらゆるものを失っていくのだ。そして、最後には命も……。
 そんな思いが脳裏をかすめる。
 ──どうして、いつもいつも私だけ?
「もう秋だが、花の見所はどこにあるんだ?」
 脱いだ上着を馬の背に積み込んだカーティスがそう尋ねてくる。
 シアははっと我に返り、強ばった顔に笑みを浮かべた。
『きょう みにいきますか?』
 彼の手を取り、そう書く。
 無理に浮かべた笑みは歪んでいないだろうか、そう思ったとき、カーティスが弾んだ声で答える。
「馬が入れる範囲で、自然に咲いた花を見られる場所はあるか?」
 彼の明るい笑顔とシアの歪みを隠した笑顔は、まるで違うものだった。
『あります もりに すこしはいったところ』
「ありがとう、では、そちらに向かおう」
 カーティスは失礼、とつぶやいてシアを軽々と抱き上げた。そして馬の鞍に座らせ、笑顔のまま手綱を手に取る。
 その嬉しそうな表情に、シアは改めて確信する。
 ──やっぱりこの人、私のこと気に入ったんだわ。
 シアは唇を噛んだ。
 なんて見る目のない男だろう。
 こちらは男なんてうんざりだし、カーティスにだって恨みしか感じていないのに。
 シアはフードをかぶって俯いたまま、さらに強く唇を噛みしめる。
 ──私、貴方に意地悪してもいいわよね? だって貴方に声を奪われた側なんだもの。
「どうした? 寒いか?」
 己の考えに沈み込み、はしゃぐふりを忘れていた。
 シアは誤魔化すように、馬のたてがみを撫でる。
『うま かわいい』
 無難なことを唇で言って微笑むと、カーティスが優しい笑みを浮かべた。
 カーティスは、馬上の小娘の悪意にも気付かないくらい『いい人』なのだ。
 そう思うと、再びじわりと黒いなにかがこみ上げてくる。
 ──私に振られたら、きっとこの人は傷つくわよね。もしそうなら……。
 再びこみ上げてくるどす黒いものを、シアはにじむ汗とともにやり過ごす。
「どうした?」
 気遣わしげなカーティスの問いに、シアは笑顔で首を横に振った。
「なにか食べ物を用意していったほうがいいか?」
『もりのなか くだもの あります』
 村の人口減少により、放置された果樹園の跡が森の中にある。手入れをしていないから木の実は少ないが、それでも十分食べられる。
 都会から来た優雅な貴公子様ならば、さぞ珍しがって喜ぶだろう。いっそのこと、酸っぱい果実を素知らぬふりで囓らせてしまおうか。
「果物? 勝手に採っていいものなのか?」
『だれも せわしていません』
「へえ……じゃあそれをご馳走になろうか」
 カーティスは楽しそうだった。
 シアは愛想良く頷き、馬の上で揃えた脚を揺らす。
 男はこんな風に、無邪気に振る舞う若い女が好きなのだ。
 媚を売らず、かと言って冷たくもない、常に機嫌良く愛嬌のある女を勝手に大事にする。
 ──男に好かれる方法くらい知っているわ。でも私は男なんて嫌い。自分が男になるほうがずっといい。殴られない人生のほうがいい。
 シアは今日何度目になるか分からないため息を呑み込む。
「今日はずいぶん重装備のようだが、寒いのか?」
 カーティスが尋ねてくる。
 フードをかぶっているのは、村人にカーティスと一緒のところを見られたくなかったからだ。
 だがシアはできるだけ甘ったるく微笑むと、首を横に振った。
『ちょうど いいです』
「そうか、ならよかった。寒かったらすぐに言ってくれ」
 カーティスの耳はまだ赤かった。
 自分の打ち込む矢は確実に彼の心に刺さっているのだ。
 そう思いながらシアは頷く。
 どんなに彼を弄んでも、きっと胸の中のどす黒い渦は消えないだろう。カーティスだってシアに振られたことなど、すぐに忘れてしまうだろう。
 幸せな人間はどこまでも幸せになり、シアは永遠に今のままなのだ。
『私に惚れて、裏切られて、傷つけばいい』
 何度もこみ上げてくるその思いを、シアはただ空しく噛みしめた。
 こんなのは、ただのその場しのぎの八つ当たりなのに、と。