辺境伯の罪深き執愛 献身の乙女は甘く淫らに囚われる 3
カーティスは、ぼこぼこした石畳の道を、愛馬の手綱を手に歩んでいた。
──こんな華奢な娘に暴力を振るうなんて……。
馬上のシアを思いながら、カーティスはやるせない思いに駆られた。
シアの身体に浮かぶ痣、あれは、絶対に暴力の証拠だ。
──理由を話してくれれば、助けられるのに。
昨夜もそのことを悶々と考えていた。
放っておけない。
この気持ちは騎士道に基づくものなのか、それともカーティスの個人的な願望なのか。
『どうしたのですか?』
そう問われ、カーティスは我に返る。鞍に横座りしたシアが不思議そうにカーティスを見つめていた。
なんと澄み切った瞳だろう。
シアの動きも気配も、やはり子どもの頃に絵本で見た妖精のそれにそっくりだ。透明感があって儚くて、人間離れして美しい。
あの泉で見間違えたのも無理はない。そう思いながら、カーティスは首を横に振った。
「あ……ああ、いや、考え事をしていただけだ」
『くだもの たのしみ?』
無邪気な質問に、憂いが一瞬だけ晴れる。
「そうだな」
次の瞬間、こんなに愛らしいシアに振るわれた暴力のことを思い、再び胸が塞がった。
『げんき ない』
君のことが心配で。
そう口にしようとして、呑み込む。
「美しい女性をエスコートしているから、緊張しているんだ。君は本当に……花々の間を舞う妖精のようだな」
カーティスの本音混じりの冗談に、シアが細い肩を揺らした。もし彼女に声があったら、きっと鈴を振るような笑い声が聞こえただろう。
「笑うな、本気だぞ?」
『おもしろい ひと』
よほどおかしかったのだろう、シアはまだ笑っている。
なんの曇りもない可愛い笑顔だ。その笑顔をもっと見たいと思い、カーティスは一人、顔を赤らめた。
──初めてだ、女性に対して『笑ってほしい』と思うなんて。旅先で浮かれているからか? いや、違う。俺はどうしてこんなに……。
社交界でどんな美しい令嬢が寄り添ってきても、こんなに心が弾むことはなかった。
カーティスはロザリーにちょこんと座っているシアを見上げる。
真っ白な肌も金の髪も作り物めいていて、やはり妖精のようだ。
──本当に綺麗だな……。
はたしてこの弾む気持ちは、美しい旅先の光景が見せるつかの間の夢なのか、それとも運命がくれた出会いなのか。
──また俺は夢見がちなことを。母上が生きておられたら鞭打ちでは済まないだろうな。
そんなことを考えていたとき、シアがフードを脱いだ。森に入って、日差しがなくなったからだろうか。
可憐な美貌に視線が吸い寄せられる。
あまりじろじろ見ては失礼だ、と思った刹那、視界の端にふと鮮やかな紫色が揺れた。
「……なんだろう? 美しい花だな」
カーティスはシアから意識をそらそうと、わざと声を上げる。
咲いていたのは、淡い紫の花だった。シアの瞳の色によく似ていると思って馬を止めたとき、シアがきゅっとカーティスの肩を掴んだ。
「どうした?」
掌を差し出すと、シアが慌てて書き付ける。
『あのはな どく ある』
「そうなのか、美しい見た目に似合わないな」
『ねっこの どく しんぞう とまる きけんです』
「分かった。触らないで見るだけにしよう」
危険を知らせてくれたシアに感謝しながら、カーティスは毒花に歩み寄った。
やはり美しい。透ける花弁が風に揺れ、澄んだ紫色をますます可憐に見せている。
「毒の花なのに、こうして咲かせたままでいいのか?」
そう尋ねると、シアが困ったように首を横に振る。
『ぬいても ぬいても はえてきます』
「なるほど、ここは自然のほうが勢いが強い場所なんだな」
カーティスは頷いた。なにをしたところで植物の生命力には敵わないらしい。
「それにしても美しい花だ。人里の多いところで咲いていたら、知らずに摘んで飾る人間もいるだろう」
シアが微笑む。そしてカーティスに向かって手を差し伸べた。
「どうした?」
『おりたい です』
カーティスはすぐにシアを馬上から抱き下ろした。シアは毒花に近づき、一輪摘んだ。
『ねに ちかくなければ だいじょうぶ』
そう言って、手にした花をカーティスに差し出す。
「くれるのか?」
頷くシアの手から、カーティスは花を取り上げた。
「本当に安全なんだな?」
シアがもう一度頷くのを確かめ、カーティスはシアの美しい髪に、その花を挿した。
化粧っ気がまるでないシアには、自然の野の花がよく似合う。そう思いながらカーティスは目を細めた。
「似合うな、思った通りだ」
「……!」
シアが見る間に真っ赤になった。
そしてカーティスに背を向けてしまう。
ただ髪に花を挿してあげただけ、ちょっとした贈り物のつもりだった。ここが社交界ならば、ただの気障男と笑われて終わるような、そんな戯れだったのに。
──気に障ったのか?
シアの態度を不思議に思っていると、彼女は赤い顔のまま振り返って、小さな唇を震わせた。
なにか言いたいらしい。
「どう……した?」
戸惑いつつ尋ねたカーティスの掌に、シアが素早く書く。
『これは けっこん もうしこむ いみ』
シアは赤い顔のままカーティスを睨んでいる。
──結婚……。
しばらく考え、カーティスはシアが言っていることを理解した。
「女性の髪に花を挿すのは、結婚を申し込む意味があると?」
シアが頷く。
『このむらで やっては だめ』
「そ、そうだったのか」
頷いて見せたものの、こちらまで落ち着かなくなってきた。カーティスは頬を火照らせ、気まずい思いでシアに笑いかける。
「悪かった。そんなつもりはなかったんだ」
シアはまだ真っ赤だ。
──純真なんだな。
そう思うと、今まで以上にシアが可愛く見えてくるから困る。カーティスは笑顔のまま、シアの小さな手を取った。
「だけど、この花は外さずにおいてもいいか? 君に似合うから」
シアが細い肩をビクッと揺らした。
──照れているのかな。
自分の言葉に、シアがいちいち純粋な反応をするのが可愛くてたまらない。
久しぶりに心からの笑みを浮かべていられる。
そう思ったときだった。
「おい」
背後から男の声が聞こえた。
「うちの村の女と森の中で逢い引きか? 見逃してやるから金を寄越せよ」
見れば、身なりの悪い大柄な男が、手斧を持って立っている。
──面倒そうな奴が来たな。
カーティスは笑みを消し、シアを背後に庇って頭を掻いた。ロザリーはと見れば、まったく反応していない。たいした敵ではないということだ。
「ふん、シアじゃねえか。お前も大変だな、村の男に相手にされなくなったら、次は旅の男かよ。これだから売春婦は……」
「おい」
聞いていられずにカーティスは割って入る。目の前の男がシアに、耳にするのも汚らわしい罵詈雑言を投げつけたことが許せなかった。
「貴様、今なんと言った? 彼女に対する大変な侮辱のようだったが?」
こんな風に腹を立てたのは久しぶりだ。
カーティスの眼光に圧倒されたかのように、男が後ずさる。
「……っ、な、なんだよ」
「今の発言を取り消せ」
カーティスはそう言うと、一歩歩み出した。武器はない。だがこの程度の相手であれば、腕の一本くらい素手で簡単にへし折れる。
「聞こえなかったか? 取り消せと言ったんだ」
男の額を汗が流れ落ちていく。
身体を縮め、怯えているのが伝わってくる。
「あ、あんたに関係ないだろ? 俺はシアと話を……はは、もしかして知らねえのか? そいつは村長さん家の奴隷なん……」
──これ以上の発言は許したくないな。
そう思った瞬間、カーティスは男の腕を掴んで容赦なく投げ飛ばしていた。
男の身体は空を舞い、少し離れた地面に叩きつけられる。
「ぐはぁっ!」
「彼女を侮辱するのは許さない」
「ひ……ひぃ……っ……」
自分になにが起きたのか分からないのだろう。男はうつ伏せのまま顔を上げ、ぶるぶる震える手で手斧を掴み直した。
「その斧を俺たちに向けてみろ、次は容赦しない」
カーティスは言いながら男の頭に靴底を押しつける。
「や……やめ……やめろ……っ!」
「止めてほしいならさっさとここから立ち去れ、これは預かる」
カーティスはそう言うと、男の手から手斧を取り上げ、足を外した。
男は咳き込みながら立ち上がり、よろよろと村のほうへ去って行く。
──口ほどにもない。
そう思ったとき、シアが慌てた様子でカーティスの袖を引いた。逃げようと言っているようだ。
『だれか くるまえに いきましょう』
確かにあの男が『一方的にやられた』と嘘をついて人を呼んでくる可能性はある。
カーティスは頷いて手斧を投げ捨て、シアをロザリーに乗せて自分も飛び乗った。そして強く手綱を引き、一気に村のほうへと駆け戻る。
「じゃあ、予定変更だ。このまま街道沿いに散歩しよう」
腕の中のシアにそう提案すると、シアがフードをかぶり直して頷いた。
そしてカーティスの腕に、細い指で字を書いた。
『わたしはちがう』
「ん? どうした?」
『わたしは ばいしゅんふ じゃ ない』
シアの指が小刻みに震えていることに気付き、カーティスは一瞬言葉を失った。あの狼藉者が投げつけた言葉は、彼女の心を深く傷つけたのだ。
──許しがたいな。今から戻って、あの無礼な発言を後悔させてやりたい。
そう思いつつ、カーティスはシアをこれ以上傷つけないよう、恐る恐る口を開いた。
「……もちろんだ。俺はあんな男の言葉は信じていない。だが君を侮辱したのだから、やはりもう一発くらいはお見舞いすべきだったな」
『ちがう ちがう』
「分かってる、大丈夫だ」
できるだけ優しい声で言うと、シアがカーティスを見上げてきた。大きな美しい目に、澄んだ涙が溜まっている。
──やっぱりシア殿は、本物の妖精なんじゃないか?
あまりの愛らしさに、カーティスは再び言葉を失った。
『ありがとう』
「れ、礼なんかいらない。友人を信じるのは騎士として当たり前のことだ」
『ともだち?』
「……ああ」
カーティスは柄にもなく頬を染め、そう答えた。
シアがそんなカーティスを見て微笑む。
──なんでこんなに可愛い? 反則だ。
シアの笑みに気を取られた途端、ロザリーが警告するようにいななく。
乗馬に集中しろという意味に違いない。
「分かったよ、行くぞ」
カーティスは背筋を伸ばし、ロザリーの腹を蹴って並足の勢いを増す。ロザリーを走らせる間、シアは物珍しげに、馬上の光景に見とれていた。
──さっきの男、もう一つなにか言っていなかったか? シア殿が……奴隷?
嫌な言葉だ。けれどシアの身体中に浮かぶ痣と『奴隷』という言葉の間に、ひどく嫌な繋がりを感じてしまう。
──あとでシア殿に、それとなく確かめてみよう。
カーティスは、そう決意した。
◆
シアはカーティスの腕の中で、先ほどの出来事を思い出していた。
──あの男。一度フィーリと寝て捨てられたからって、私にもずっとしつこかった。
舌打ちしたいくらい不快だ。
鼻の下を伸ばし、ただ機嫌を取ってくるだけの大人しい男も多いが、さっきの男のような卑劣漢もこの村にはたくさんいるのだ。
だから本音を言えば、カーティスにもっとぶっ飛ばされてほしかった。
しかし……。
──私が止めなかったら、カーティスさんはあいつに大怪我をさせていたかも。
ここは閉鎖的な村だ。旅人が村人に大怪我なんてさせたと知れたら、村の憲兵隊が来て騒ぎになってしまう。面倒に巻き込まれるのはごめんだ。
それにしても、先ほどのカーティスの強さは圧倒的だった。手斧を持った大柄な男が、なにもできずに投げ飛ばされてしまったのだから。
──この人、本当に何者なのかしら。ただの優しいお人好しだと思っていたのに。
そのとき、馬を走らせていたカーティスが尋ねてきた。
「この先には、しばらく集落はなかったよな?」
微笑む今の彼からは、威圧感など微塵も感じられない。不思議な男だと思いながら、シアは考えをめぐらせた。
──どこに連れて行けば満足するかしら。別の森? それとも観光名所?
そこまで考え、髪に花を挿しっぱなしだったことに気付く。
外そうと思って、止めた。
そのままにしておけば、カーティスがぬか喜びするだろうと思ったからだ。
──もっと私を好きになって、振られるときに傷つけばいいわ。
シアは無邪気な娘を装って、カーティスの腕に書いた。
『みつばち ようほうじょう が あります』
「へえ? 蜂? 蜂蜜を採るための場所か?」
『おかね はらえば おかし たべられます』
「いいな、そこに行こう」
カーティスが乗り気になる。シアは手を組み合わせ、目を輝かせて見せた。
本当は蜂蜜を使った菓子になど興味はない。
カーティスが喜びそうな女を演じているだけだ。案の定カーティスは嬉しそうに微笑み、馬の腹を軽く蹴った。
「お姫様は甘いものが好きか?」
『すき』
「ははっ、やっぱり。嬉しそうだからそうだと思った」
シアの唇から一瞬笑みが消える。亡き父のことを思い出したからだ。
『ほら、シアが好きな蜂蜜入りのお菓子だよ』
お土産を差し出してきた父の声と、カーティスの声はそっくりだった。
──どうしてお父様のことを思い出すの? 同じように優しい……から……?
胸がちくちくと痛む。
シアはフードの陰で視線を泳がせた。
「養蜂場とやらに行って、蜂に刺されたりしないか?」
シアは俯いたまま、カーティスのたくましい腕に文字を書く。
『だいじょうぶ みつばち おとなしい』
「そうなのか。この旅は生まれて初めての経験が多いな」
カーティスは嬉しそうだった。
物珍しいもの、美しい花、喋れない女。きっとカーティスの物見遊山を求める気持ちは、十分に満たされているに違いない。
彼の胸に軽く寄りかかっていたシアは、ふと、上着の内側に大きなバッジが留められているのに気付いた。
──なんだろう、これ? リオン・ドゥ・ヴァルセー? 勲章?
瞬きをして、シアは目をそらす。
この男に興味を持つ必要などないからだ。それにこれが立派な勲章だった場合、わざわざ嬉しそうに褒めてあげなくてはならず面倒だ。
──そうよ、そう……面倒よ。別にカーティスさんのことを知る必要なんてないわ。
シアは瞬きをして、勲章のことを頭から押しやった。
「あの看板が養蜂場のものか?」
カーティスが馬足を緩め、路上に置かれた木の看板を指す。
シアがこく、と首を縦に振ると、カーティスは木々に覆われた煉瓦の小道へと入っていった。
たくさんの人の気配がする。
蜂蜜の買い付けに来た人々と、静養先の別荘から甘味を楽しみに来た貴族たちだろう。予想通り、養蜂場の入り口にはたくさんの馬車が停まっている。
「へえ、繁盛しているみたいだな」
シアは念のためフードをかぶり直し、あたりの様子を窺った。どうやらシアの顔を知っている人間はいなそうだ。
カーティスは養蜂場の入り口に馬を停め、シアを抱き下ろすと言った。
「君はなにが食べたい?」
食欲は別にない。冷ややかにそう考えた途端、お腹が鳴ってしまった。シアは耳まで赤くなり、カーティスの顔を見上げる。
──べ、べつにお菓子が食べたいわけじゃない、ずっと食べていないから!
目を丸くしたカーティスが、ぷっと吹き出す。
「分かった。俺のおごりだ。好きなものをなんでも食べていい」
シアは髪に挿した花が落ちないよう、そっと首を横に振った。カーティスはシアのその仕草を見て、胸に手を当てうやうやしく一礼した。
「わかったよ、姫君。では俺が選ばせていただこう」
そう言うと、カーティスはシアの手をそっと取った。
シアは振り払わずに、されるがままにカーティスに身を任せる。
──綺麗な仕草。カーティスさんは一体どんなお生まれなのかしら。皇帝陛下が直々に傷の治療を命じてくるくらいだし、もしかして帝都の貴族様とか?
「なにか考え事か?」
シアは、慌てて首を横に振り、カーティスへの興味を絶とうとした。
彼はシアの声を奪い、ぬくぬくと幸せそうに生きている男だ。
それだけ知っていれば十分ではないか。
傷つけたくて一緒にいるだけ。彼に興味を持っても意味がない。
分かっているのに、シアの興味はどうしてもカーティスに向いてしまう。
どこから来たのか。
どんな風に生きてきたのか。
なぜ目の光を失う羽目になったのか。
──馬鹿じゃない、こんなお人好しに興味を抱くなんて。
シアは慌てて、湧き上がってくる好奇心を抑え込む。
『なんでも ないです』
「ならいいんだ。さ、君の菓子を選ぼう。この先の建物が売店かな?」
カーティスの問いに、シアは慌てて頷いた。
彼に再び手を取られ、菓子の売店に向かう。
「へえ、なかなか大規模な店なんだな、帝都の菓子店にも負けないぞ?」
カーティスが耳元で囁きかけてくる。
瓶詰めの蜂蜜の他に、たくさんの焼き菓子が卓上に並んでいる。
大きな硝子の水瓶にはレモン水が湛えられ、柄杓ですくって自由に飲めるようになっていた。
「どういう仕組みなんだ?」
両親から習ったことを思い出し、シアは会計をしている女性と、庭の空席を指さした。
菓子を買ったらレモン水がもらえ、テーブル席で自由に飲食していい仕組みなのだ。
「なるほど。菓子を買って、好きな席で食べるのか?」
シアは頷く。
養蜂場の庭はお金を掛けて特別に美しく整えられている。
この庭が評判で、はるか離れた場所から馬車を飛ばしてくる金持ちも多いらしい。
「では君は席に座っていてくれ」
シアはカーティスの言葉に従い、花がよく見える席に腰を落ち着けた。
選び抜かれた花々が品良く揺れている。
なんと見事に作られた庭だろう。
野生を微塵も感じさせない。
貴族たちに評判がいいのも頷けるしつらえだ。
「お待たせ、シア殿」
しばらく待つと、カーティスが山ほどの菓子を盆に積んでやってきた。
レモン水のグラスも二つある。
シアは笑みを浮かべて、二つのグラスを受け取ってテーブルに並べた。
「菓子、買いすぎたかな?」
『はい』
テーブルにそう書くと、カーティスが笑った。
「では消費するのを手伝ってくれ、新鮮なうちに食べろと店員に言われたんだ」
『どうしようかな』
からかいを込めてそう答えると、カーティスが優しい笑顔のまま言う。
「腹を鳴らしていたのにか? さ、君が好きなものを選んでいいぞ」
反撃されてしまった。
シアは素直に山のように積まれた菓子の中からマドレーヌを一つ手に取った。
甘い香りが胸いっぱいに広がり、同時に、昔の幸せだった生活が胸に蘇る。
無邪気に菓子を頬張っていた頃には、もう戻れない。両親に守られていた頃には、もう戻れない。
──本当に、つかの間の夢、って感じ……。
この甘く香ばしい平和が終わったら、フィーリたちが街から帰ってくる。シアは再び殴られ、こき使われて、飢えに苦しみながら泉で沐浴をする毎日に戻るのだ。
「どうした?」
カーティスに尋ねられて、シアははっと我に返った。
シアは慌てて首を横に振り、笑みを浮かべ直してマドレーヌを頬張る。
「元気が急になくなったから」
『そんなこと ないです』
シアは慌ててテーブルに書く。
その文字をじっと見つめていたカーティスが、ふと言いにくそうに切り出した。
「すまない。さっきの男のことだが……あいつは君のことを、村長一家の奴隷とか言っていなかったか?」
──余計なことを覚えているわね。
シアは首を横に振る。
亡き母は奴隷出身だった。しかし父が母を愛し、正式な手続きを踏んで母の身分を買ったことで、母は奴隷という立場から解き放たれたのだ。
だが村の人間たちは、元奴隷の娘であるシアを、未だに奴隷扱いする。
そしてシアはその悪意に抗えない。
──実際に私は、叔父様一家の奴隷も同然だもの……。
事実がどうであれ、カーティスに余計なことを探られるのはごめんだった。
「本当に?」
しつこい、と思いながらも、シアは精一杯愛らしく微笑む。その笑顔をどう勘違いしたのか、カーティスは困った顔で質問を続けた。
「だけど君は、身体中痣だらけだろう?」
カーティスの問いに、シアの身体が硬直する。
シアはカーティスと視線を合わせずに、首を横に振った。
「俺には、どうしても君が訳ありとしか思えなくて」
露骨に視線をそらすと、カーティスが申し訳なさそうに続ける。
「余計なことを聞いてすまなかった」
詮索するだけして、カーティスはようやく満足したらしい。シアは愛想良く首をかしげて彼の顔を見つめた。
『わたしはだいじょうぶ』
シアの言葉に、カーティスは首を横に振る。
「大丈夫とは思えない」
『ほんとうに だいじょうぶ』
やや苛立ってテーブルにそう書いたとき、不意にカーティスが言った。
「……もしサン・リエ村に頼れる人がいないのなら、俺と一緒に来ないか?」
予想外の言葉だった。
シアは弾かれたように顔を上げる。
──なんですって?
「俺の故郷はヴァルセーという土地なんだ。少し遠いが、そこに行けば確実に君を保護できる。俺が君の住む家を用意できるし、生活のために必要なものも整えられる」
あまりの驚きに、身体が動かない。
──なにを言っているの、この人?
真っ先に浮かんだのは、『不埒な行為が目的なのだろうか』ということだった。
旅人が村娘に将来を約束し、村から連れ出して、抱くだけ抱いて捨てる。
よくある話だ。
そうなった村娘の末路だって何度も見てきた。
新しくまともな男を見つけられた女は僥倖で、そうでなければシアと大差ない暮らしをしている者も多い。
子どもができていたら、より最悪だ。
カーティスの狙いもシアの身体なのだろうか。
そう想像すると、だんだん指先が冷たくなっていく。
──ほらね、所詮はカーティスさんも男よ。
そう言い聞かせてもまだ心が揺れる。カーティスがあまりに真剣だからだ。この表情が嘘なのだとしたら、彼はたいした詐欺師に違いない。
シアは荒れた手をぎゅっと握った。
俯いてなにも答えないシアに、カーティスが気遣わしげな声をかけてくる。
「帝都に行けば、駐在している俺の部下たちがいる。女性士官も侍女たちもいるから、君の世話は彼らに任せるつもりだ。だから安心してくれ」
再び、予想外の言葉がシアの耳に流れ込んでくる。
──部下? 女性士官……?
シアは息を呑んで彼を見上げた。
カーティスはただ、心配そうにシアを見つめている。
「君をここに置いていけない。また君が誰かに殴られたらと思うと、俺が辛い。人知れず振るわれる暴力の辛さは、それなりに分かっているつもりだ」
そう言うと、カーティスが遠慮がちに手を差し伸べてくる。そして卓上に置いたシアの手を引き寄せ、ぶかぶかの袖をそっとめくった。
服の下に隠れていた無数の痣が露わになる。
「こんな怪我をさせられている君を放っておけないんだ。だから一緒に来てくれないか?」
呆然としていたシアは、慌てて首を横に振る。カーティスの声音があまりに誠実で、つい耳を傾けてしまったではないか。
──詐欺師は口がうまいのよ。だからみんな騙されるの。
頭ではそう思うのに、心が揺れて止まらない。
「君には、この村で暮らしたい理由があるのか?」
──もうやめて。
シアの目に涙がにじみそうになった。
「そうだな、俺の言葉が嘘ではない証拠がいるなら……皇帝陛下からいただいた『リオン・ドゥ・ヴァルセー』の勲章を君に預けておく。ヴァルセーの獅子という意味の称号だ、俺には過ぎた名前だろう? もし俺が嘘をついたら、これを捨てていい」
カーティスはそう言うと、上着の内側から見事な勲章を取り出し、シアに差し出した。
先ほどちらと見かけたものだ。どう見ても重要な品としか思えない。
──なにを言うの……貴方の親切を本物だと思ってしまうじゃない……!
シアはぎゅっと歯を食いしばり、カーティスから顔を背けた。
中途半端な夢を見せられたら、心が痛い。
平穏な暮らしを取り戻す夢は、見るだけで苦しい。
「君の家庭環境を知らないので失礼かもしれないが、もしかしてこの怪我は、ご家族の誰かにやられているのか?」
シアは震える手を上げて、思わず正直に『はい』と書こうとした。
その手が止まる。
両目から涙があふれた。
──こんなお人好しに泣かされるなんて、私、馬鹿じゃないの……。
抑えようとしても、肩が揺れる。
シアはしゃくり上げながら、両手を強く握り合わせた。
──夢なんて、二度と見せないでほしい。貴方は私の八つ当たりの道具よ、それ以上でもそれ以下でもないわ。
ひとしきり泣いたあと、シアはゆっくりとテーブルに書いた。
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