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捨てられ聖女ですが、追放先の神殿で氷の公爵の溺愛に蕩かされそうです 1

第一話

 


 暖かな風がそよぐ南の神殿で、わたし――ヘレナ・ブレイズは跪き、一人で祈りを捧げていた。
 目を開けて立ち上がる。
 ここは、土地を護る水晶が祀られた屋外祭壇だ。
 透明な角柱水晶の周囲には、いくつもの炬火台が円状に配置されている。
 わたしは息を吸いながら歩きだす。
 燦々と降り注ぐ陽射しから炎を取りだすようにして、複数の炬火台に炎を灯していく。
 わたしが着ている赤い聖女服の裾を、気まぐれな風がひらひらと踊らせる。
 風と一緒に舞いながら、わたしはすべての炬火台に炎を灯した。
 炬火台から水晶へ一筋の光が走り、中央にある角柱水晶が煌々と光りだす。
 そうすることで南の土地に活力を与え、作物の実りを良くすることができる。逆に角柱水晶に魔力を与えなければ、災厄に見舞われるとも言われている。
 この水晶に魔力を捧げることは、南の神殿における聖女としての最たる役目だ。
 日課を終えたわたしは橙色に光る水晶の傍らに立ち、炬火台の炎を見まわした。
 空には雲が多いものの雨とは無縁だし、風は穏やかだ。
 すると突然、炬火台の炎が消えた。雨が降りだしたのでも、強い風が吹いたのでもない。
 わたしは慌てて炬火台へ走った。
「これは――」
 炬火台は氷に閉ざされている。他の炬火台も同じだ。
 橙色だった角柱水晶は、一瞬にして銀色のそれへと変わった。
 氷のすぐそばにいて、しかも陽の光が雲に遮られてしまったせいか、肌寒さを感じる。
「あなたはもう用済みよ」
 高く冷たい声が響いた。心臓がドクッ……と、不穏に高鳴る。
 わたしは声がしたほうを振り返った。
 純白の聖女服に身を包んだ公爵令嬢のテザリア様が、周りにたくさんの令嬢を連れて立っていた。
「テザリア様、それはどういう意味でしょう?」
 必死に笑みを取り繕って尋ねた。
 彼女はわたしよりも一つ年下だけれど公爵令嬢で、わたしは男爵令嬢だ。爵位の差を鑑みて、いつも丁寧な言葉遣いを心がけている。
「そのままの意味よ。これからは、わたくしが聖女を務めるの」
 テザリア様は金色の長い前髪を掻き分けたあと、毛先を指で搦め捕り、うっとりと碧い目を細くした。
「炬火台に与える元素は炎だけという決まりはないわ。先代の聖女はこうして炬火台を凍らせることで地に活力を与えていたのだもの」
「ふふっ」と笑って、テザリア様が近づいてくる。
 わたしの腰まである、ウェーブがかかった赤い髪を掴まれ、軽く引っ張られた。痛くはないのに、どうしてか恐ろしいと感じてしまう。
「この――燃えるような赤い髪も、わたくしと同じ色にしてあげたいくらいだわぁ」
 彼女はなにが言いたいのだろう。その答えはすぐにわかる。
「赤い色は目障りなのだもの」
 一瞬だけ、テザリア様の顔から笑みが消えた。わたしもまた、笑顔ではいられなくなる。
「わたくしはだれよりも、なによりも――すべてが美しく、大きな力を持っている。あなたの何倍も輝かしい聖女になれるわ。だから安心してちょうだい」
 ぱっと笑みを作ったあと、テザリア様は「ごきげんよう」と言い、踵を返した。令嬢たちはぞろぞろとテザリア様についていった。
 あたりは静まり返っている。
 テザリア様が炬火台に放った氷には、呆然としているわたしの姿が映しだされていた。琥珀色の瞳は、不安を露わに揺れている。
 動揺している場合ではないわ。神殿長のところへ行って真偽を確かめよう。
 わたしは拳を握りしめて歩きだす。
 一つの神殿には神殿長と聖女が一人ずつ置かれる。複数人が就任できる書記官と違って、聖女は一つの神殿に一人だけと決まっている。
 本当にテザリア様が新たな聖女として認められたのなら、わたしはその座を降りなければならない。
 神殿長室の前に着く。わたしは深呼吸をしてから扉をノックした。室内からはすぐに「入れ」という声が返ってきた。
「失礼いたします」
 室内へ足を踏み入れる。白い顎髭を蓄えた神殿長は、わたしの目的がわかっているらしく「聖女の任命に関することだろう?」と、すぐに話を切りだされた。
「はい。テザリア様が聖女を務めることになったと聞きました」
「ああ――そのとおりだ。おまえにも、告げようと思っていたところだ」
 神殿長は顎髭を撫でつけながら話を続ける。
「じつは前々から、テザリアには『わたくしを聖女に』とせっつかれていたが、魔力不足を理由に断っていた。ところがいまになってテザリアの魔力が大きく実ったのだ。大器晩成型だったのだろうな。この地を支える力が備わっていれば、テザリアでも聖女としての役目を果たせる」
 神殿長が眉間に皺を寄せる。渋い顔をしている。
「おまえもわかっているだろうが、テザリアは由緒正しきウォント公爵家の令嬢。対しておまえは没落寸前のブレイズ男爵家の令嬢だ。天秤にかけるのなら、言うまでもない」
 南の神殿長は根っからの階級主義だ。しかも、わたしの父が事業に失敗したことで、家計は火の車なのである。
 だから、貧乏な男爵令嬢のわたしよりも高位の公爵令嬢であるテザリア様のほうが聖女にふさわしいのだと、南の神殿長は言いたいのだ。
 つまり、やっぱり――わたしはお役御免ということ。
「処遇は追って伝える」
 もう話すことはないと言わんばかりに、神殿長はわたしを追い払うように右手を振った。
 わたしはお辞儀をして、神殿長室を後にする。
 重い足取りで廊下を歩く。
 テザリア様は以前から氷の魔力を持っていたけれど、神殿長が言ったとおり大きな力ではなかった。
 いくつもの炬火台をあれほど大きな氷で覆うことができていたし、水晶も光っていたから、たしかにテザリア様は聖女としての役目を果たしている。
 けれど、そう簡単に魔力の量が増えるものかしら?
 年齢を重ねれば魔力量は少しずつ増えていくものの、わたしの場合は、物心ついたときから一定の――聖女として認められるのに充分な――魔力量があった。
 それで、爵位としては最下位の男爵令嬢ながらも聖女として働くことができていた。
 わたしは「うーん」と唸る。
 テザリア様の魔力量が急に増えたことが、どうも引っかかる。
 そういう事例が過去にあったのか、書庫で調べてみよう。
 あてどなく歩くのをやめて書庫を目指す。
 目的地に着いたものの、扉の前にはテザリア様がいた。その周りを令嬢たちが囲んでいる。
 そういえば先月から、テザリア様が書庫の管理を任されているのだった。
「書庫へ入ってもよろしいですか?」
「だめよ。いまはまだ書物の整理をしている最中なの。ああ、あなた――時間を持て余しているのね。掃除でもなさってはいかが?」
 テザリア様が言うと、どこから取りだしたのか令嬢たちが紙くずをばら撒いた。
 彼女たちはにっこり笑うと、書庫の中へ入っていった。ガチャンという、施錠の金属音だけが虚しく響く。
 紙くずをこのままにしておくわけにはいかないので、一つ残らず拾い集めた。
 わたしがここに来ることを、テザリア様はあらかじめ予想していたのかしら。
 書庫を自分たちの縄張りのように考えていて、わたしを立ち入らせたくないのかもしれない。
 書物を調べたところで、テザリア様が南の神殿の聖女になるという事実は変わらないのだから、書庫へ入るのは諦めよう。
 どういう処遇になるのかわからないけれど、たとえ聖女という肩書きがなくとも神殿で働き続けることはできるはずだ。
 頬に両手を当てて、無理やり口角を上げる。
 沈んでいる気持ちを引き上げるには、笑顔が一番だ。心の中がどれだけ大雨でも、笑顔でいれば自然と気分が晴れるものだ。

 神殿で働く人々を手伝いながら数日を過ごした。
 神殿長から呼びだしを受けたわたしは彼の部屋へ行った。
「おまえはもう十八だ。儂の第二夫人にでもなるか?」
 唐突に話を切りだされて面食らう。
 神殿長は先代の聖女と結婚している。この国は一夫多妻が認められているものの、実際にそうした家庭には出会ったことがない。
 わたしは「まさか、ご冗談を」と返した。すると神殿長は驚きもせず「では聖女として、北の神殿へ行くがよい」と言った。「第二夫人に」という話は本当に冗談だったのだろう。
 北の神殿は、南の神殿にとっていわゆるライバルだ。
 これまで、各神殿の人員が行き来することはなかった。
 それなのに、どうして神殿長はそんな提案をしてきたのだろう。
 わたしが聖女を続けられるよう配慮してくれているのだとしても、前例のない突飛な提案だ。
「この神殿で働き続けるわけにはいかないのでしょうか。聖女としての仕事でなくても、喜んで致します」
「下働きをする、と? それでは外聞が悪い。元聖女を下働きとして置き続けるなど――たとえおまえの家が没落寸前であっても、醜聞になる。テザリアが聖女に就任した理由についても、階級を優先したのだと後ろ指を指されるではないか」
 それは事実ではないか――という言葉を、やっとの思いで呑み込んだ。
 口答えしたところで、どの道この神殿にわたしの居場所はない。
 南の神殿長は体裁を保つため、わたしを聖女として北に送りたいのだ。
 聖女の仕事はやりがいがあったから、未練が少しもないと言えば嘘になる。
 そうして、自分の中で結論が出た。わたしは大きく息を吸う。
「わかりました。北の神殿へ参ります」
 北の神殿にはもう何年も聖女が不在だ。いまは北の神殿長が、聖女の仕事を兼任しているのだと聞いたことがある。
 家族がいる南の土地を離れるのは少し心細いけれど、安定した収入を得るには北の神殿へ行って聖女を続けるほうがいい。
 それに、まだ見ぬ土地への好奇心も少なからずあった。
 思惑どおりに事が進んだからか、南の神殿長はにやりと笑った。
「あちらの神殿長はまだ二十五歳で、独身だ。うまく行けば取り入ることができるぞ」
「取り入るだなんて」と、つい口答えしてしまった。神殿長が不愉快そうに眉を顰める。
「言っておくが、あちらでの待遇は期待するな。北の神殿とはいまもなお勢力争いをしているのだ。聖女としておまえが赴いたところで、南からの間者ではないかと、むしろ疑いの目を向けられるだろう」
「ご忠告ありがとうございます。けれどわたしは、精いっぱい働くだけです」
 北の神殿には一度も行ったことがないけれど、役に立てることはきっとあるはずよ。
 家族を支えるため、とにかく働かなければ――。

 北の神殿へ発つ日。
 家族はわたしが北へ行くことを嘆いていたけれど、聖女として精いっぱい働くという点は変わらないから、あまり気にしていない。
 神殿の玄関前で馬車に乗ろうとしていると、後ろから「ねえ」と声をかけられた。テザリア様だ。
「北の神殿へ行くそうね。あちらの神殿長は氷のようなお方だと聞いたことがあるわ。せいぜい頑張って」
 公爵令嬢であるテザリア様は、社交の場に出ることが多いから、そういう情報も耳に入るのだろう。
 テザリア様はわたしが南の神殿を出ていくことがよほど嬉しいのか、満面の笑みだ。
「ありがとうございます。ごきげんよう」
 お辞儀をして馬車に乗り、北を目指す。後ろは振り返らない。
 宿を転々としながら、数日かけて北上していった。
 北の神殿の管轄下に入ると、上り坂が多くなった。
 持ってきていた上着を羽織り、車窓から外を眺める。見慣れない景色ばかりだ。
 馬車が停まり、扉が開く。外へ出れば、冷たい風を受けて全身が震えた。
 この寒さは、南の神殿よりも北に位置しているというだけでなく、標高が高いせいもあるのだろう。
 わたしは御者に「ありがとう。お元気で」と告げて、北の神殿へ続く階段を上りはじめた。
 指先に小さな炎を呼んで暖を取る。大きな炎を掲げていたら、放火でもするのかと疑われそうだから、ごく少量の炎に留めておいた。
 それも屋外までだ。神殿内ではむやみに炎を連れ歩けない。不用意に炎を呼んで、なにかに燃え移ってしまったら一大事だ。
 長い階段を上り終える。指先の炎を消すと、極寒の地へ降り立ったようだった。
 重厚そうな木製の扉に取りつけられた鉄のドアノッカーを鳴らす。
 しばらく待っていたけれど、扉が開く気配はない。近くにだれもいないのかもしれない。
 わたしはもう一度ドアノッカーを鳴らしたあとで扉を開けた。
 エントランスホールにあるのは鉢植えばかりで、人の姿はなかった。
「お邪魔いたします」と声を張り上げたものの、やっぱりだれかが出てくる気配はない。
「どなたかいらっしゃいませんか?」
 わたしの声がエントランスホールにこだまする。返ってくる声はない。
 あたりを見まわしながら、人が通りかかるのを待つ。
「……だれもいない」
 つい声が出た。
 勝手に歩きまわるのはどうかと思うけれど、このままここにいては日が暮れてしまいそうだ。
 エントランスホールの中央にある階段を上り、廊下を真っ直ぐに進む。
 南の神殿だと、このあたりに書記官たちの祭務室があるわ。
 あたりをつけて歩いていると、祭務室らしき部屋に入っていく男性を見かけた。服装から察するに彼は書記官だ。
「すみません、少しよろしいですか」
 声をかけると、黒髪の男性はわたしを見て眉を顰めた。
「赤い髪、琥珀色の瞳……南の聖女様ですね。連れもなしに、たった一人でいらしたのですか」
「はい」
 御者はもう南へ帰った。ブレイズ男爵家では使用人を雇っていないし、南の神殿からは付き添いの者をあてがわれなかったので、わたしだけだ。
 待遇は望めないと言われている場所にだれかを付き合わせるのは申し訳ないから、わたしはこれでいいと思っている。
「ここは土地柄、慢性的な人員不足です。今回あなたを受け入れることにしたのも、猫の手も借りたい思いからです。どうぞこちらへ。神殿長室へご案内します」
 男性は茶色い目を伏せると、いかにも嫌々というようすでため息をつき、歩きだした。
 わたしは「よろしくお願いします」と言い、男性についていく。
 神殿長室の手前で、やっと一人、守衛を見かけた。人員不足というのは間違いなさそうだ。
「アークティス様はご不在です。礼拝堂にいらっしゃいます」
 守衛が言うと、書記官の男性はふたたびため息をついた。
「ただでさえ忙しいというのに、無意味な案内役をさせられるのは時間が惜しい」
「あ……ええと、礼拝堂がどこにあるのか教えていただければ、一人でも平気です」
「そうですか。では――」
 男性はわたしに礼拝堂への道順を教えるなり、すぐに去っていった。
 教わったとおりに神殿の廊下を歩いていけば、礼拝堂に着いた。
 縦にも横にも広大なドーム状の空間だ。随所に絵画が嵌め込まれ、天窓からは陽光が射している。
 あまりにも厳かだから、立ち入るのに少し気後れする。
 最奥の壇上には長身の男性が立っていた。その手前にいるのは、北の住民たちだろうか。
 男性は住民たちの陳情を聞いているようだった。時折、小さく頷いている。
 あの男性が北の神殿長なのだろう。彼の近くに書記官がいないことを不思議に思いながらも近づいていけば、しだいに男性の姿がよく見えるようになる。
 氷のようなお方――まさにそのとおりだわ。
 北の神殿長、アークティス・イヴァルディ公爵様。
 陽の光を受けた銀の髪は氷霜のように煌めいている。
 紫色の透き通った瞳は、純度の高い氷にアイリスの花びらを閉じ込めているよう。
 顔の造作は完璧で、礼拝堂の壮麗さにもまったく見劣りしない。
 氷雪を思わせる白亜の上衣に施された重厚な金の装飾は、彼を絶対的な存在として引き立てているようだった。
 なにもかもが美しい彼から目が離せなくなる。
 どこかミステリアスな紫色の瞳と視線が交われば、心臓がドキッと跳ね上がった。
 そうだ、見とれていないで挨拶をしなければ。
 彼のもとへ歩き、膝を折ってレディのお辞儀をした。
 間近で見る彼はいっそう麗しい。端整な顔立ちには少しの隙もない。完璧なまでの美を誇っている。
 わたしとは別の世界の住人なのではないかと、そんな考えすら浮かんできた。
 先ほどからずっと、静かに見おろされている。その顔に笑みはなく、まして初対面だから、彼がなにを考えているのかさっぱりわからなかった。
 ドキドキするばかりで、なかなか声を発することができない。
 黙り込んでいても埒が明かないわ。
 圧倒的な美を前に萎縮する心を奮い立たせて声を絞りだす。
「ヘレナ・ブレイズと申します。本日からこちらでお世話になります」
「ああ、きみが――」
 お腹の底に響く低い声もまた、彼の容貌と同じで――ぞっとするほど――美しい。
 アークティス様は固い表情のまま、しばらく黙り込んでいた。
「……話はそれだけか?」
 抑揚のない声だった。表情からも声音からも感情が読み取れない。
「は、はい」
「神殿内は自由に見てまわっていい。次の仕事があるので失礼する」
 アークティス様はにこりともせず、礼拝堂を出ていった。
 わたし――さっそく嫌われている?
 いや、もとより歓迎されていないのはわかっていた。南からの間者だと疑われているのだとしても無理はない。前例がなかったのだ。
 けれどわたしは、ここ――北の神殿での出来事――を南に報告するつもりはない。
 これからは北の神殿の一員として尽力していきたい。
 北に住まう人々には、わたしの存在に不安を覚えることなく安心して過ごしてもらいたい。
 そのためには信頼を得なくちゃ。何事にも誠意を持って行動しよう。
 ふと、近くにある燭台の火が消えていることに気がついた。
 わたしは燭台に手をかざし、魔力を使って蝋燭に火を灯す。
「――まさか、聖女様でございますか!?」
 声をかけられたので振り向くと、近くに女性が立っていた。服装からして、神殿に仕えている人ではない。礼拝に来た住民のようだ。
 神殿で働く人たちには、いまのところあまり認められている感じがしないけれど、わたしは北の神殿の聖女ということでいいのよね。
「はい、南から参りました。これから北の神殿で過ごさせていただきます」
「まぁまぁ、わざわざ南から! ようこそ北へ」
 女性の他にも住民たちが集まってきた。
「ああ――やっと聖女様が降臨なさった!」
 北の住民たちは、わたしが南の出身であっても気にしていないようすだ。
「どうかくれぐれも、末永くこの地をお守りください」
 住民の女性が「末永くでございますよ」と強調してくる。
 ここではだれにも歓迎されていないのだと、少し落ち込んでいたけれど、女性の言葉を聞いて明るい気分になれた。我ながら単純だ。
「あたたかなお言葉をありがとうございます。励んでまいりますね」
 わたしが言うと、女性をはじめ住民たちは皆、嬉しそうな顔をしてくれた。
「それにしても、さっきは緊張した……。神殿長様は相変わらずだ」
 男性が言うと、周りにいた人々が「うんうん」と頷いた。
 アークティス様と話をするのに、緊張していたのはわたしだけではなかったようだ。
 壮麗な礼拝堂に立ち入るのがためらわれたのと同じで、アークティス様の麗しさに圧倒されて、話しかけるのにも勇気が必要だった。
「アークティス様――神殿長様は、どのようなお方なのでしょう」
「どんなって……そうだなぁ、とんでもない美丈夫だ」
 住民たちが口々にアークティス様のことを教えてくれる。
 彼は若くして公爵位を継ぎ、神殿に上がった。
 有力貴族たちは皆が出世を望むものだけれど、そんな中でだれもがアークティス様の手腕を認めて賞賛したことから、押しに押されて彼が神殿長になった。その実力は申し分なく、北の住民たちは不自由なく暮らしている。
 ただ、不穏な噂もある。
 アークティス様は他に類を見ない強大な魔力を持っており、悪行を働けば『氷刑』といって、問答無用で氷漬けにされるのだそうだ。
「話をするのにも身が強張るくらいさ」
 住民の男性は苦笑している。
「アークティス様が実際にだれかに氷刑を施しているところを見た方はいらっしゃるのですか?」
「いいや、あくまで噂さ。まあ、面と向かって神殿長様に『氷刑をしたことがあるのか』なんて尋ねる勇気はだれも持っちゃいない。それこそ氷漬けにされそうだ。ともあれ、怒らせさえしなけりゃいいのさ。彼が神殿長になってから、暮らしは格段に良くなったんだ。これで聖女様が揃えば、もう完璧だ!」
 住民たちがわいわいと話をするのを、わたしは頷きながら聞いた。
 アークティス様は住民たちから尊敬されているけれど、同時に恐れられてもいるのね。
 礼拝堂を後にして神殿の廊下を進む。
 アークティス様に「自由に見てまわっていい」と言われたので、そのとおりにしている。
 ここは、書庫かしら。
 扉が開いていたので中を覗く。棚はいくつも並べられているものの、書物はほとんどなく、がらんとしていた。
 カウンターにはだれもおらず、羊皮紙の束が置かれているだけだ。
 羊皮紙には『聖女の就任履歴』と書かれている。気になって紙を捲れば、この神殿で聖女を務めた人の記録が綴られていた。
 わたしの前にも何人かが聖女としてこの神殿に来ていたものの、だれもかれも在任期間が短い。
 住民の女性が「末永く」と言っていたのは、ここ数年で聖女が立て続けに辞めているからなのだろう。
 そもそも、北の土地は南よりも人口が少ないから、聖女として適合する者――一定量の魔力を持っている者――を選出するだけでも骨が折れるはずだ。
 聖女を見つけだしたとしても、こうも早々と辞任されるようでは、書記官の男性が「猫の手も借りたい」と言っていたのも頷ける。
 それではなぜ、前任の聖女たちはこの神殿を去っていったのか。
 わたしは書庫を出て神殿内を歩きまわった。
 どこからともなく美味しそうな香りが漂ってきた。引き寄せられるようにして辿りついたのは厨房だ。
 料理人たちは、わたしを見るなり小さく頭を下げた。
 笑みを湛えている者は一人もおらず、その唇は一様に固く引き結ばれている。
「……なにかご用でしょうか」
 料理人の一人が、手を止めずに尋ねてきた。
「あ……いいえ。美味しそうな匂いがしたのでつい足を止めてしまいました」
「新しい聖女様ですよね? 南の神殿から来たっていう……」
 わたしが返事をする前に、男性が言葉を被せてくる。
「食事の用意はまだできておりませんので、お引き取りください」
 とりつく島もないというのはこういう状況なのだろう。
 わたしは「お邪魔しました」と言い、ふたたび歩きだす。お腹の虫が小さく「ぐう」と鳴いた。体は正直だ。
 歩きまわらずに食事の時間を待つべきだろうかと考えていると、中庭に出た。屋外ではあるけれど、建物と木々に囲まれていて風がないからか、それほど寒くはない。ところどころに松明が設けられている。
 その中央で、何人かの男性たちがなにか作業をしていた。彼らの服装から察するに、祭典の道具を管理している祭具司たちだ。
「祭典のご準備ですか?」
 祭具司の一人に話しかけると、案の定というか、怪訝な顔で視線を返された。
「ええ、まあ……」
「なんの祭典なのでしょう」
「書記官にお尋ねください」
 それ以上は会話が続かない。
 あまり話しかけると作業の邪魔になるかも……。
 わたしは「失礼しました」と言い、彼らに背を向けた。
 庭から外廊下に入ったところで、中庭のほうから声が聞こえてきた。
「南からの聖女など、信用できるものか。わざわざ北に聖女を寄越してくるなんて、絶対になにか裏がある」
 このまま聞かなかったことにするべきか、あるいは引き返して弁明するべきか。
 悩んだ末に、わたしは中庭に戻った。
「あの――」
 祭具司たちは、わたしがここに戻ってくるとは思っていなかったのか、ぎょっとしている。
「南の神殿に別の聖女が就任することになり、北に参りました。北の神殿でも一所懸命、働かせていただこうと思っています。北での出来事は、たとえ尋ねられたとしても南の神殿へ報告するつもりはありません」
 それでもまだ祭具司たちは訝しげな顔をしていた。
 すぐには信じてもらえなくてもいい。それでも、意思表明は大切だ。
 北と南の住民たちにはきっと対抗意識がないけれど、北の神殿で働く人々は違う。
 これまで南の神殿と様々なことを競ってきたから、わたしに対して悪い印象を抱くのは理解できる。
 わたしだって、北の神殿へ行くことを最初は渋ってしまった。北と南の関係上、仕方のないことだ。
 でもそれはチャンスでもある。
 わたしの印象は初めから『悪い』のだから、今後の行動しだいでいくらでも『良く』できるはずよ。
 先ほど言った言葉には一切、偽りがない。後ろめたいことはなにもないのだ。
 それに、住民の方々には必要としてもらえている。聖女としての務めを果たそう。
 上手くいけば――高望みではあるけれど――神殿同士の関係改善にも繋がるはずだ。
「聖女様。勝手に歩きまわらないでいただけますか」
 書記官から声をかけられたわたしはぴたりと足を止めた。
「祭具司たちがさっそく噂していましたよ。南の聖女様はずいぶんと気丈なようだ」
「僭越ながら、わたしはもう北の聖女です」
 書記官は眉間に皺を寄せている。
「そういえば、祭具司たちが中庭で祭典の準備をしていました。なんの祭典ですか?」
「……祭典の開催はまだ先ですから、聖女様には関係のない話でしょう」
 彼は暗に、その祭典までわたしが保たないと言いたいらしい。祭典の内容についても、答える気がなさそうだ。
「それよりも記入していただきたい書類がございますので、祭務室へ」
 言われたとおり祭務室へ向かい、羊皮紙の書類に記入を始める。
「ニール、いまいいか」
 その声を耳にするだけでドキッとしてしまうのは、なぜだろう。
 顔を上げて、声がしたほうを向く。祭務室の入り口にアークティス様が佇んでいた。