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背徳の夜の果て 孤高のヴァンパイアは最愛の乙女に永遠の愛を捧ぐ 1

第一話
 


 燃えるような痛みが、全身を貫いた。
 父の断末魔、母の悲鳴。ふたりが血を吐きながら倒れる鈍い音。
 その夜、セラディア王国にあるフォルクハマー男爵家の屋敷は、何の前触れもなく惨劇の舞台へと変わった。
 ――なにが……何が起こったの。誰がこんな……。
 屋敷は激しく炎が燃え広がっている。焦げた木の柱が軋み、崩れかけた天井から瓦礫が落ち、少女の頭に直撃した。
「うっ……」
 傷口から滲む血が視界を赤く染め、炎と黒煙に覆われて何も見えない。
 けれど、そこには確かに誰かが潜んでいる。
「だれ……」
 ――お願い、誰か……誰かこの悪夢から救って。
 だがその願いは届かない。黒煙の中、人影はただその場で少女の最期を見届けているかのようだ。
 ――ああ……この男がやったのね。
 フォルクハマー男爵家の長女――エリーゼは、血の滲む床に転がったまま、意識が途切れていくのを感じた。
 痛みも恐怖も、すでに遠ざかっていた。ただ心臓の鼓動だけが、皮肉にも現実と繋いでいる。いっそ、今すぐ事切れてしまいたいと願うほどに。
 丁寧に編み込まれた長い髪も解け、美しい淡いクリーム色の髪が血溜まりに広がる。
 血の匂いと煙に包まれて、エリーゼの意識は少しずつ薄れていく。
 ――私は死ぬんだ……。
 額から流れ出た血は絨毯に染みを広げ、今にもエリーゼの命が失われようとしていた。
 そのとき。
「……エリーゼ」
 低く、涙の混じるような声が届いて、再び意識が戻る。
 そこには黒衣を身に纏った青年がいて、エリーゼの傍らに膝をついていた。長い金糸の髪が揺れ、その紅い瞳はどこか哀しげにエリーゼを見つめている。
 焼け落ちる屋敷の中、エリーゼは最後の力で彼を見た。
「ヴェステ……ル……どう、して……」
 ――さっきの人影は、貴方だったの……?
 もうほとんど声にならない音が、黒煙に紛れて消えていく。
 彼の姿が視界に入った瞬間、エリーゼの瞳には驚愕と困惑が同時に宿った。
「……すまない」
 ヴェステルはもう一度エリーゼに謝罪すると、ゆっくりと彼女の心臓に唇を寄せる。もうほとんど意識のないエリーゼは抵抗することもできず、ただ人形のようにヴェステルにその身を預けるしかなかった。
 そしてヴェステルの牙が、心臓に突き立てられた。
「あああああああああああああああああああ」
 エリーゼの胸元から血が吹き出す。絶叫と共に視界が赤く染まり、世界の色が音もなく消えていった。
 ――ああ、これが死……?
 ――だとすれば、何の救いでもない。ただの地獄への入り口なんだわ……。
 エリーゼの命の灯火が消えかけたその瞬間、ヴェステルがエリーゼをそっと抱きしめた。
「エリーゼ……俺を赦してくれ」
 ――やっぱり吸血鬼なんて、信じなければよかった……。
 人間としての矜持を捨てる覚悟は決めていたはずだった。けれど今、彼を愛してしまったことをこんなにも後悔している。

 ――赦さない。
 ――赦さないわ、絶対に。
 ――貴方を憎んで、憎んで、憎んで、この血が枯れ果てても赦さない。

 これは決して赦されない、夜の始まり。
 切なくて抗えない、吸血鬼と少女の物語。

 

 

 

 

 

 

 静寂の中、どこか遠くで人の気配がした。
 冷たいシーツの上で、エリーゼの意識が静かに浮かび上がる。
 ぼんやりと映った視界の先には、全く知らない天井が映っていた。
「ここは……?」
 全身が重い。身体を起こすこともできず、エリーゼはゆっくりと辺りを見回す。優美な装飾が施された壁と、外を拒むように閉ざされた深紅のカーテン。
 天蓋付きの広いベッドに、絹のシーツ。滑らかで柔らかいそれは、一目で高級だと分かる。普段ならきっと、穏やかさと安らぎを与えてくれるだろう。
 けれど、エリーゼの心は一片も安らいではいなかった。
 ――そう。何か。何かとてつもないことが起こった気がする。
 こんな穏やかな空間があるはずがない。決して忘れてはいけない地獄のような光景が、記憶の中で微かに散らばっている。
「あれ……? どうして思い出せないの……?」
 思い出そうとすればするほど、脳が焼けそうだった。
 思い出してはいけないと、本能が警鐘を鳴らす。だがエリーゼは気づかないふりをして、記憶を遡っていく。
 昨日の夜――確か準備をしていたはずだった。
 このセラディア王国の若き国王である、ヴェステル=ノスフェラリウスの元へ嫁ぐために。
 王妃候補として迎えられるその日に向けて、フォルクハマー家の屋敷は、朝からずっと慌ただしくも幸せな空気に包まれていた。
 母は、ドレスの刺繍の仕上がりを細かく確認してくれていた。優しい手でベールを整えては、
「これを纏った貴女は、きっと世界一美しいわ。私の自慢の娘よ」  
 と、微笑んでくれた。
 父は少し緊張した面持ちで、
「まさか我が娘が……ヴェステル国王陛下に見初められて……王妃になるなんて……」
 と、洪水でも起きるのではないかというほど嬉し涙を流して、祝福してくれた。
「大げさよ。まだ正式に決まったわけじゃないわ」
 そう言っても父は娘の門出を誇らしげに語り、こちらを見つめるその瞳は、どこまでも温かかった。
 そしてエリーゼ自身も、幸せだった。
 男爵家の娘である自分が、王妃となるかもしれないだなんて、もちろん夢にも思っていなかった。
 八年前、あの出来事がなければ、謁見の機会さえなかっただろう。
 エリーゼは、金の封蝋が押された書状をそっと見つめる。
 そこには『エリーゼ=フォルクハマーを王妃候補として城へ迎える』という王命が記されていた。
 ――本当に夢みたい……。
 ヴェステルと出会い、そして彼のすべてを知ったときのことを思い出す。
 この国の未来をエリーゼと共に歩みたい、と。そう彼が言ってくれた日のことを何度も思い返しては、明日を待ちわびて過ごしてきた。
 王妃という権力が欲しかったわけではない。むしろ元々、そういった欲はない方だった。ただ家族と静かに、この自然豊かな領地で暮らせるだけで充分だった。
 けれど愛した人が国王だった。彼のいつか迎えにくるという言葉を真に受けて、八年間いっときも欠かさずに王妃候補としてふさわしい教育を受けてきたつもりだ。
 つらく苦しいときもあったが、ヴェステルの優しい笑顔、低く穏やかな声、手を取られたときの確かな温もり。そのすべてが、これからの未来に繋がっていると信じて疑わなかった。
 そしてようやく、努力が報われる日が訪れた。
 なのに、なぜ。
 なぜ自分はひとりでこんな場所にいて。
 祝福してくれる家族の姿がどこにもなくて。
 ヴェステルとの未来を祝うはずだった朝が、こんなにも静かで、こんなにも冷たいのか。
 何かが抜け落ちている。肝心な何かが、ぽっかりと穴を開けたまま、何も思い出せない。
「……夢? それとも……眠っている間に王城へ……?」
 身体を動かそうとするたび、全身がぎしぎしと軋むように痛んだ。
 呼吸が酷く苦しい。
 思い出さなければならないのに、それが怖かった。
「うっ……!」
 記憶をたどろうとすれば、激しい頭痛に襲われた。けれど身体がその感覚を覚えている。
 焦げる木材の匂い、血の海に沈んだ家族の顔――そして、最後に見たのは、深紅の瞳だった。
 突如、心臓がきつく締めつけられるような痛みに襲われる。
 一瞬で血の気が引き、全身が凍りつく。
 記憶が戻るほどに、現実が牙を剥いてくる。
 エリーゼは焼きついた残像を振り払うように、重い瞼を持ち上げた。
 そして。
「そうだ……私……」
 乾いた声が漏れると同時に、激しい吐き気に襲われる。
「うっ……うっ……げほっ、げほっ……!」
 吐き出すものなんて何もないのに、シーツに手をついて何度も胃液を吐き出した。
 夢じゃない。全身が覚えている。
 この世の地獄をこの目で見た。
 そうだ。自分はあのとき、死ぬはずだった。
 全身が苦しくなり、思わず喉元に手を当てた。
 何かがおかしい。
 けれど、はっきりとした原因が分からない。
 ――なぜ……なぜ私は生きているの?
 家族があの夜に命を落とした中で、自分だけがこうして生きている感覚がある。
 まるで悪夢の続きを見ているみたいだ。
「私を……あの男が……」
 囁いた言葉は、自分でも聞き取れないほど掠れていた。胸の奥に怒りとも恐怖ともつかない、泥のようなものが渦を巻く。
 でもそれよりもまず、現実がまだ呑み込めなかった。
 脳裏に浮かぶのは、焼け落ちた屋敷、悲鳴と同時に倒れる家族の姿。そのすべてをこの身体が覚えている。
「そう……最後に……最後に見たのは……」
 エリーゼの顔が、みるみるうちに青ざめていく。
 淡いクリーム色の髪は枕元に流れ、透き通る肌には生気がなく、琥珀色の瞳にはまだ焦点が宿らない。
 するとそのとき。静かに扉を叩く音が聞こえて、エリーゼは振り返った。
「だれ……?」
 扉が静かに開くと同時に姿を現したのは、純白の王衣に身を包んだ長身の青年だった。
 繊細な刺繍が施されたマントが淡く光り、胸元には黒のシャツが覗いている。
 肩甲骨よりも遥かに長い金髪は絹のように滑らかで、動くたび静かに揺れた。
 透き通った青い瞳は、どこか遠い記憶を宿し、整った顔立ちはまるで神話の中から現れたような気品に満ちている。
 圧倒的な威厳を放つ彼の存在に、エリーゼは息を止めた。
 その顔を、エリーゼはよく知っていた。
 あの夜、血に染まった手で自分を抱き上げた――その姿のままの男。
「目が覚めたか」
 感情の読み取れないヴェステルの声が、静かに部屋の空気を揺らした。
 だがエリーゼの中には突然、激しい感情が湧き起こった。唇を強く噛みしめ、清らかな瞳に冷たい拒絶の色が宿る。
 業火の中――フォルクハマー家の屋敷に踏み入ってきたのは、ヴェステル=ノスフェラリウス。
 エリーゼの婚約者であり、この国の王だ。
「貴方が……」
 エリーゼはベッドから抜け出し、頼りない足取りで彼へ詰め寄った。クリーム色の髪が揺れ、瞳には裏切られた怒りが燃え上がっている。
「答えて……貴方が私の家族を殺したの!?」
 ヴェステルは何も言わず、ただ黙ってその視線を受け止めていた。謝罪の欠片すらなく、反論する気配もない沈黙。それが何より、エリーゼの胸に突き刺さった。
 忘れてなどいない。
 ヴェステルへ向ける愛は本物だった。
 エリーゼは、ヴェステルの王妃候補として、この城を訪れるはずだった。
 思い返すだけで、胸が張り裂けそうだ。
 歩き方、貴族への挨拶、舞踏会での作法の教育。そしてこのセラディア王国の歴史と真実。
 エリーゼはそのすべてを真摯に受け入れた。ヴェステルの隣に立つために。
 初恋が叶った奇跡を、大切に両手で包み込むように。
 それなのに――。
「どうして否定してくれないの……? お父様も、お母様も……あんなに、あんなに優しかったのに! なのにどうして、どうして……っ!」
 涙が喉の奥からこみ上げた。エリーゼの張り詰めた声が、震える空気を切り裂く。言葉が詰まり、喉が焼けるように痛み、まるで今も火の海にいるようだった。 
「…………」
 だが、それでもヴェステルは何も言わなかった。ただ黙ってエリーゼを見つめている。その姿に、エリーゼはさらに絶望へと叩き落とされる。
 否定してほしかった。本当はヴェステルじゃなかったのだと。ヴェステルの姿をした、別の誰かだったと。けれど彼の口からは否定の一言もなく、悔やむ表情もない。
 その沈黙こそが、決定的な答えだった。
「……そう。やっぱり、そうなのね」
 エリーゼは目を伏せ、静かに首を振った。
「貴方が……貴方が、私の家族を殺した……」
 そう声に出した瞬間、エリーゼの中で何かが崩れる音がした。
 愛する人の手で、すべてを奪われた。
 信じていたのに、踏みにじられた。
「……家族を殺したのは、口封じのつもり? この国の秘密を……貴方が吸血鬼だということを知られるわけにはいかないから?」
 喉が焼けるように苦しかった。言葉を発するたびに、心が擦り切れていくのを感じる。
「私は……貴方との約束を守ったわ。誰にも話してなんか、いないのに……最初からこうするつもりだったのね!」
 本当は信じたかった。
 ヴェステルがそんなことをする人ではないと。
 家族を殺すなんて、あの優しい笑顔の彼ができるはずがないと。
「…………」
 けれどその想いは空しく、冷え切った痛みが全身へと広がっていった。
 彫刻のような表情からも、ヴェステルが何を考えているのかは読み取れない。
 心のどこかで、最後の最後まで縋ろうとしたわずかな希望すら、彼の無言が打ち砕いていく。
「どうして私だけ生かしたの!? ……家族を返してっ!」
 その叫びが壁に反響し、冷たい空気をさらに冷やす。エリーゼはなんとか正気を保とうと、両腕で自分の身体を抱きしめた。もはや魂すら抜けてしまったみたいに、足元からガラガラと崩れ落ちてしまいそうだ。
「……君だけは死なせたくなかった。それだけだ」
 低く絞る声が、頭上から届いた。
 そんな言葉を誰が信じられるだろうか。ようやく口を開いたかと思えば、その言葉はエリーゼの耳には嘘にしか聞こえなかった。
「家族は……死んでもよかったのね……」
 全身の力が抜けるように、エリーゼはとうとう床に崩れ落ちた。
 ――私が愛したのは、こんなにも冷酷な人だったの?
 ――私が見てきたこの人は、一体何だったの?
 ――人間と吸血鬼が、愛し合えるはずなんてなかったんだ……。
 エリーゼは絶望に苛まれながらも、胸の奥では激しい憎しみだけが燃え続けていた。
 カーテンの隙間から、夜の風がひらりと吹きこむ。
 その風は、ふたりの間にある埋められない距離を、さらに深く裂いていくようだった。
「私は、絶対に……貴方を赦さないわ」
 その言葉に、ヴェステルは瞬きすら見せなかった。エリーゼは決して忘れないように、ただその憎しみを心の中に繋ぎとめる。
 やがて静かに、ヴェステルが言葉を紡ぐ。
「……侍女を用意した。必要なものがあれば、彼女に頼むといい」
 扉の向こうで、控えていた気配が微かに動く。ヴェステルの言葉を合図に、二度のノック音が聞こえて、扉が控えめに開かれた。
 入ってきたのは、ひとりの女性だった。
 歳はエリーゼと同じぐらいだろう。深紅の髪を肩の上で切り揃え、所作に全く無駄がない。
 深い金色の瞳は感情を映さず、少し不気味だった。細身の身体に黒いメイド服を纏い、侍女でありながら、どこか軍人のような厳格さを感じさせる。
「初めまして、エリーゼ様。エルムローデと申します。以後、身の回りの世話を担当させていただきます」
 頭を下げたその動作には一分の隙もなく、完璧に訓練された従者だ。
「……貴女も吸血鬼?」
 問いかけた声には、毒が含まれていた。
 エルムローデはわずかに視線を上げて「はい」とだけ応えた。
 その声にもまた、感情の起伏は見られない。
「彼女は信頼できる。俺の母……フレデリカ前王妃に仕えていた者だ」
 エリーゼの目が、ヴェステルに一瞬だけ向けられた。だが彼の瞳の奥に浮かぶ過去には、触れるつもりなどなかった。
 それでも思い出す。
 遠い昔、まだエリーゼが無垢な少女だった頃。
 森の中で血を流し、死にかけていた青年を助けた。薄暗い視界の中、彼が人ならぬものだと、幼いながらにも直感していた。
 それでも怖くはなかった。
 彼は優しかったから。
 エリーゼは自分がその青年を信じ、彼の正体を知っても、ひとりの人間として好意を抱いていたことを思い出していた。
 まさか彼が後の国王であり、この国を統治する王族が吸血鬼だったなど、あの頃は想像すらしていなかったが。
 セラディア王国には、昔から国民の間で語り継がれている御伽話がある。
 美しい建築物が立ち並ぶこの内陸の国の発展は、豊かな自然から生まれる葡萄酒や希少な鉱石に支えられてきた。しかし小国ゆえに近隣諸国から侵略を受け、不遇の時代を過ごしていたという。
 だが四百年前、国の運命を変える出来事が起こる。
 セラディア王家の血を引くフレデリカ王女と、深い森に隠れ住んでいた吸血鬼の王――ヴァルトルンが恋に落ちたのだ。
 それまで吸血鬼たちは森の奥でひっそり暮らしていたが、ヴァルトルンは彼らを束ね、圧倒的な力で周辺諸国を退けた。
 そうして、セラディア王国には平和が訪れた。
 国を救った愛の軌跡は、美しい御伽話として今も絵本や詩を通じて伝えられている。
 エリーゼ自身も幼い頃、母に幾度もその物語を読み聞かせてもらった。
 もちろん誰ひとり、ヴァルトルンが本物の吸血鬼だったとは思っていない。ヴァルトルンが人間離れした美貌だったため、御伽話らしく脚色されただけだと。
 だがエリーゼは知っていた。
 これは御伽話などではない。
 王家そのものの歴史であることを。
 国民が知らない、御伽話の続きはこうだ。
 平和が訪れた後、フレデリカ王女はヴァルトルン国王の力によって吸血鬼となり、ふたりでこの国の未来を担った。そうして数十年ごとに名前や姿を変え、代替わりを演出してセラディア王国を発展させてきた。そしてヴェステルが生まれたのだ。
 思い返せば、この国では王族は神聖視されており、年に数度しか民の前に姿を現さない伝統があった。それはきっと、この真実を隠すためだったのだろう。
 そう――国民は知らなかっただけで、セラディア王国の栄光と歴史はすべて、吸血鬼によって作られている。これは一部の者しか知らない国家機密だ。
 エリーゼからすれば、ヴァルトルン前国王とフレデリカ前王妃は、四百年前の歴史上の偉人だ。まさかそのふたりが、わずか八年前までこの国を統治してきたなど、誰が信じるだろうか。そしてその息子であるヴェステルもまた、二百年以上の時を生きているなど、あまりにも現実離れしている。
 だがその真実をヴェステルから告げられてもなお、エリーゼはヴェステルと共に生きる覚悟を決めたはずだった。夢にまで見た初恋の相手と。
 けれど――。
「……全部、嘘だったのね」
 絞り出すような声が、喉から漏れた。
 信じていたものが音を立てて崩れ落ち、胸の奥に広がるのはどうしようもない虚しさだけだ。
「いっそ殺してほしかった……」
 微かな震えを帯びた言葉。吐き出すたびに、鋭い棘が全身に突き刺さる。
「私の望みは、貴方に関わらないこと。それだけよ……」
 顔を見れば心が揺らいでしまいそうだ。ヴェステルから視線を逸らし、吐き捨てるように言葉を投げつけた。
「……エルムローデ、後は頼む」
 ヴェステルの声は、ほんのわずかに掠れていた。
「かしこまりました」
 エルムローデに後を託すと、ヴェステルは静かに離れていく。
 扉が閉まる音だけが、絶望に沈んだ部屋に残された。

 

 部屋には再び静寂が戻ったが、ここは地獄のようだった。
 エリーゼはエルムローデに目も向けず、魂が抜けたまま窓に視線を向ける。
「エリーゼ様、まだ混乱されているとは思いますが――」
 エルムローデの言葉を遮るように、エリーゼは口を開く。
「……あの窓から飛び降りたら死ねるかしら」
 エリーゼは吸い込まれるようにふらふらと、窓際へ歩く。エルムローデは止めなかった。 窓を開けると、冷たい風が舞い込んでくる。エリーゼを止めるような強い向かい風だったが、迷いはなかった。
「エリーゼ様、おやめください」
「止めないで……死にたいの」
 なぜ家族だけ殺されて、自分は生かされたのか。
 その理由を知るつもりもない。ただただ、この悪夢のような現実から解放されたかった。自分の命にさえ価値を見出せない。
 だが、エリーゼの足は思うように動かなかった。
 たった一歩が踏み出せない。踏み出すべきでないと、見えない何かが阻止している。
「どうして……?」
 恐怖はない。迷いもない。
 なのに目に見えない何かが足を縛っているような感覚だ。
「無駄です」
 エルムローデが静かに近づき、エリーゼの手を取った。
「お願い、貴女が押してちょうだいっ……!」
「ですから、無駄なんです」
 エルムローデが試すようにエリーゼの背中を押した。だがエリーゼの足は、その場から一歩も動かなかった。
「なによ……これ……」
 エリーゼの瞳が揺れる。涙がこみ上げたわけではない。ただ抑え込んでいた感情が、その瞬間一気に溢れ出してしまいそうだった。
「陛下のお力です。貴女は自分の意思で死ぬことはできないのです」
 淡々と告げられる事実に、エリーゼは身震いする。
「なに、それ……じゃあ私は……ただ生かされただけの人形で、死ぬこともできず、あの男が満足するまで弄ばれるの……?」
 肩が微かに震え、冷たい汗が背筋を伝う。指先に力が入らず、拳を握ることさえできなかった。自分の身体が、もはや自分のものでないような錯覚に囚われて、気が狂ってしまいそうだ。
「あの人が求めるのは……形だけの妻だったのね……」
 どれほど深い絶望に堕とされるのだろう。あまりにも愛していたがゆえに、その裏切りはとてつもなく無情に思えた。
「私は……あの人を信じてた。吸血鬼でも、人ならざる存在でも……一緒に生きていけると、彼のためなら私も吸血鬼になってもいいと、本気で思ってた……なのに」
 エルムローデがそっとエリーゼを抱きとめる。その手は驚くほど冷たく感じた。
「……エリーゼ様」
「ヴェステルが憎くてたまらないわ。でも……あの人を、まだ……」
 そこで言葉が途切れた。
 泣いてはいなかった。 だが嵐のように感情が吹き荒れている。ただ赦せないという感情が、ぐちゃぐちゃに混ざり合う。
 エルムローデは何も言わず、胸元から何かを取り出す。
「エリーゼ様に、これを」
「これは……」
「フォルクハマー家の屋敷が焼け落ちた後、奇跡的に残っていたのを……陛下が密かに持ち出しておられました」
 小さな箱を手にしたエリーゼは、震える指で蓋を開けた。
 見間違えるはずがない。
 中には、銀の細い鎖に翡翠の石がついた、古風なペンダントが入っていた。母が大切にしていたものだ。特別な日は、母の胸元にはいつもこれが輝いていた。
「……これが、燃えなかったの?」
「はい。傷ひとつなく」
 指が翡翠に触れた瞬間、肌の奥にひりりと小さな痛みが走る。そのわずかな刺激に、胸の奥に閉じ込めていた何かが揺れた。
 なぜ――ヴェステルがこれを持ち出したのか。
 あの夜、家族を殺した男の手がこれを拾い、胸に抱えていたというのか。
 エリーゼの手が、微かに震える。
「……どうして……こんな……」
 心の奥で声が響く。
 ――やめて。優しくしないで。
 この翡翠の石は、母の笑顔を思い出してしまう。
 ヴェステルが家族を殺したのに。
 憎んでいるのに。
 赦せないはずなのに。
 こんな風に記憶の欠片を差し出されて、心が壊れそうになる。
 信じたくない。こんな優しさに、惑わされたくない。
 ――私は、貴方を赦さないって決めたのに。
「陛下をお赦しにならなくても構いません。ですが、これだけは覚えておいてください」
 胸の奥で何かがざわめき、エリーゼは思わず視線を伏せる。
「陛下は心から貴女を愛しておられます」
「だったら……どうして……あんなことを……!」
 張り裂けるような声が喉から漏れる。
 その言葉は、今のエリーゼには鋭い刃のようにしか感じられなかった。
 信じたい気持ちと、信じられない思いが心の中でせめぎ合う。
「……ただひとつだけ、私に言えることがあります」
「……」
「愛しているからこそ……過酷な決断をしなければならないときもあります」
 エリーゼはその言葉に応えなかった。
 ただ窓から遠ざかり、そっと床に座りこむ。
 エリーゼの視線の先には、月だけが静かに輝いていた。

 

 まるで世界が一度滅びた後のような、夜明けだった。
 エリーゼの気持ちとは反対に、時間は残酷にも平等に過ぎてゆく。
 けれど朝になっても、身体は重たく心が晴れるわけでもなかった。
 ただ夜が明けただけ。世界は何も変わっていない。それなのに心臓がぽっかりとなくなった喪失感と苦しみから抜け出せず、呼吸ひとつすら億劫だった。
 カーテンは隙間なく閉められている。部屋は夜のように暗く、時の流れを忘れてしまいそうだ。
 朝と夜の境が曖昧になる。静けさだけがこの部屋を支配して、世界から取り残されたような感覚だ。
「起きなきゃ……」
 ベッドから身を起こし、ふらふらと生気の宿っていない足取りで窓際へ向かう。カーテンの隙間から差しこんだわずかな光が頬をかすめた瞬間、ぴりっと微かな刺激が皮膚を走る。
「……っ!」
 思わず腕で顔を覆い、後ずさる。
 少し眩しいだけ――でも、どこか刺すような違和感があった。
「暗闇に慣れすぎてしまったのかもしれないわ……」
 身体がまだ弱っているのだろう。
 火事の煙を吸い込みすぎたから、過敏になっているだけだ。
 家族を失った心の傷も痛みも、まだ何も癒えていない。それどころか、傷はさらに深くなるばかりだ。
 エリーゼは無意識に喉元へ手を伸ばしたが、すぐにその手がぴたりと止まる。
 それは嫌な予感というよりも、ただの不安だった。
「私の手……こんなに白かったかしら……」
 昨晩は暗くてよく見えなかったが、自分の手のひらに目を向けると、思っていたよりも肌が白くなっている気がした。
 灰と血にまみれていたはずの肌は、驚くほど滑らかで傷ひとつない。
 まるで、すべてが夢だったかのように。
「……これもヴェステルの力なのね」
 もう一度、カーテンに手を伸ばす。今度はそっと。
 だが差しこむ日光に思わず目を細めてしまう。
「……っ」
 やはりいつもより眩しく感じる。きっと今日に限って、雲ひとつない晴天だからだろう。でもやけに目が痛む気がした。
 反射的にカーテンを閉める。何もおかしくない、ただ調子が悪いだけ。
 エリーゼは自分にそう言い聞かせる。
「少しずつよ……大丈夫……」
 勢いよく開けようとしたのがいけなかったのだ。
 そう思い直し、今度はほんの少しだけ光を取り込んでみる。
 その柔らかな光を、目を細めて見つめながら、エリーゼはほっと息をついた。
 ――よかった。やっぱり今はただ、疲れているだけ。
 窓の外からは、王城の美しい庭園が見えた。
 昔、ヴェステルがいつかエリーゼにも見せたいと言っていた庭園だろう。
 八年前、ヴェステルの正体を知ったあの夜。
 国民には決して知られてはいけない秘密を共有したあの日。
 世界が彼の正体に、この国の真実に気づかなくても、自分がヴェステルを支えていけたらいいと。
 それほど覚悟を決めていたはずなのに、今は最も憎い男になった。
 そのときだ。
 ノック音が聞こえて、エリーゼは身構える。