逆行愛執 彼に生きてほしいので、大嫌いなあの男と結婚しようと思います 2
「はあ、はあ、はあ……」
これまでのことを思い返しながら走る。
あれから駆け落ちをする日時と待ち合わせ場所を決めた。
実行は翌日。
ライラとしてはすぐにでも出たかったのだが、さすがにふたりで屋敷から抜け出すのは難しい。
特にホークは屋敷の壁を越えてきたらしく、彼女に同じ方法は使えなかった。
それに父親が屋敷にいる。
翌日なら現国王派の集いで留守にする予定があるから、少なくとも今日よりは抜け出しやすい。護衛もそれなりの人数を連れていくだろうし。
「じゃあ明日、待ち合わせ場所で待ってる」
「ええ。明日ね。必ず行くわ」
そう約束してホークと別れる。
彼と離れるのは寂しかったが、明日になれば会えると思えば我慢もできた。
そうして庭からひとり屋敷の自分の部屋に戻った彼女は何食わぬ顔でそのあとを過ごし、決行日となった今日「ちょっと散歩に」と嘘を吐いて外に出てきたのだ。
チラリと後ろを振り返る。
大丈夫、あとをつけて来ている者はいない。
誰にも見つかってはいないはずだ。
「あと、もう少し」
丘の上には背の高い一本の木が生えている。その木の下が待ち合わせ場所だった。
約束の場所が見え、自然と安堵の息が零れる。
疲れた身体に力が戻ってきたような気がした。
もう一踏ん張り。そう思い、ひと息に丘を上りきる。
(あら?)
木の幹に誰かがもたれ掛かっているようだ。腕を組んでいる。後ろを向いているので顔は見えないが、ホークに間違いないだろう。
そういえば、もうすぐ彼の誕生日だ。新天地で落ち着いたあとにでも、祝ってあげたいなと考えながら、彼女は大きく手を振った。
「ホーク! 来たわよ!」
ようやく目的地に着いたことで笑顔になる。
後ろを向いていた人物が振り返った。
「遅かったですね」
「えっ……」
「この私を待たせるとはいい度胸です」
「……」
手の動きがピタリと止まった。
腕を下ろし、歪な笑みを浮かべる男を凝視する。
黒髪黒目の青白い顔色をした神経質そうな男。スクエア型の眼鏡を掛けている。
ガリガリで頬がこけるほど細いが、着ている服は上質なものだった。
ホークではない。
彼の名前はジャックス・アンダーソン。
アンダーソン公爵家の息子で、現国王派。
父が用意したライラの……婚約者だ。
「……ジャックス」
何故、彼がこんなところに。
不審感を滲ませ構える彼女に、ジャックスが悠々と近づいてくる。
「全く、ご両親にも内緒で駆け落ちとは驚かせてくれます。あなたの婚約者は私ですよ。遊びはもう十分でしょう。さあ、一緒に帰りますよ」
「っ!?」
駆け落ちという言葉に息を呑む。
ライラが駆け落ちすることは、彼女とホーク以外誰も知らないはず。
だってライラは誰にも言っていない。待ち合わせ場所も時間も、どれひとつとして口にしていないのだ。
それなのにどうしてジャックスが知っているのだろう。
「……どう……して……あなたが……いえ、それよりも……」
ここに来るはずのホークがいないことに疑念を抱く彼女に、ジャックスは唇の端を吊り上げて答えた。
「ああ、あの王弟派の愚か者のことですか? あれなら来ませんよ」
「来ない?」
何がおかしいのか、ジャックスが口元に手を当て、クスクスと笑う。
「ええ。彼は死にましたから」
「……は?」
一瞬、ジャックスが何を言ったのか理解できなかった。
目を丸く見開くライラに、彼は実に楽しげに告げる。
「ホーク・テイラーは私が殺しました。剣でぐっさりと刺し貫いて、ね。全く、人の婚約者を奪い取ろうなんてふざけた男ですよ。あなたは私のものだというのに。……ねえ?」
「……」
猫なで声で同意を求められたが、ライラは何も言えなかった。
ジャックスの言葉を頭が拒絶して、まともにものを考えられなかったからだ。
周囲の音という音が消える。走り続けて暑かったはずなのに、身体がひどく冷たいのは何故だろう。
ズキズキとこめかみが痛む。吐き気と眩暈に襲われた。
地面が揺れているように感じる中、彼女はようやく声を出した。
「……嘘。嘘よね?」
カラカラに乾いた声だった。
縋るようにジャックスを見る。
彼は妙に芝居がかった声と仕草で言った。
「いいえ。嘘ではありません。私がこの手で彼を、ホーク・テイラーを殺しました。人のものを奪おうとする男など死んで当然ですからね」
「……人のものって……」
「あなたは私の妻になる人だ。間違っていないでしょう?」
さも正しいことをしたと言わんばかりのジャックスに、ライラは呆然と首を横に振った。
「違う……違うわ。私はあなたのものじゃない。だって私、何度も言ったじゃない。あなたとは結婚できないって。私が愛しているのはホークだけだって!」
顔合わせで会った時、ライラははっきりとそう告げたのだ。
父の意向は分かっていても、自分には心に決めた人がいる。
だから結婚はできないときちんとお断りした。
「それなのに……どうして……!」
「私が一度でも頷きましたか? それに私とあなたの婚約は、家の当主同士が決めたこと。あなたがいくら嫌だと言ったところで覆ることはありませんよ。私だってあなたを手放す気はありません」
笑みを浮かべながらジャックスが小首を傾げる。
その態度があまりにも普通で気持ち悪かった。
人をひとり殺してきたとは、とてもではないが思えない。
だがそのジャックスの態度こそが逆に、ホークが死んだことを痛感させられた。
「……本当に、ホークは死んだの?」
ポツリと言葉を零す。ジャックスは両手を広げ「ええ」とよく通る声で告げた。
「死にました。自らが作った血だまりの中で。ふふ、駆け落ちの準備をしているところを後ろから思いきり刺してやったんですよ。油断していたのでしょうね。余裕でした。前から彼のことは気に入らなかったのですっきりしましたよ」
「……そう」
「あなたを奪おうとする者は誰であっても許しません。あなたは私と結ばれるべきなのです。そう昔から決まっているのですよ。ふふ、刺されたと気づいた時の奴の顔はなかなか見物でしたね。あなたにも見せてあげたかったくらいです」
ホークを殺した時の話を自慢げに語る。それをライラはどこか余所事のように聞いていた。
ホークが死んだ。その事実が彼女の心を打ちのめしていたのである。
(そう……もう、ホークはいないのね)
何故だろう。
身体に力が入らない。全ての感覚が消えたような気分だ。
いつの間にか、心の中心部にぽっかりと大きな穴が空いていた。その穴は塞がるどころか広がる一方で、急速に彼女の生きる気力を奪っていく。
「……」
無言でドレスのスカートをたくし上げ、その中に手を入れた。
「な、何をしているのです!」
ライラの奇行に顔を赤くするジャックスを余所に、彼女は太股に着けていたベルトから、ナイフを取り出した。鞘にはたくさんの宝石が鏤(ちりば)められている。美術品として価値の高い逸品であることは一目瞭然だった。
このナイフは、昨日ホークがライラにくれたもの。
待ち合わせ場所に辿り着くまでの道中、何かあれば売るなり、護身用に使うなりしてほしいと渡された。
ライラは必要ないと断ったが「守りとなるものを持っていてほしいから」と説得されて受け取った。
鞘からナイフを引き抜く。それを見たジャックスが眉を顰めた。
「それをどうするつもりですか。まさか敵討ちなんて馬鹿なことは言いませんよね」
ライラには無理だろうという馬鹿にした口調だ。
だがその通りだ。彼女は今まで一度だって刃物を触ったことはない。
ジャックスに向かっていったところで返り討ちにされるだけだと分かっている。
何も言わないライラに、ジャックスが手を差し伸べてくる。
「さあ、物騒なものは捨てて、私と共に帰りましょう。仕方ありませんから今回の件はお父上に黙っていてあげますよ。何せ、私たちは結婚するんですからね。妻の秘密を守るのは夫のつとめ。あなたが良い子にしている限りは何も言わないと約束してあげましょう」
自分と共に来るのが当然という態度でジャックスが告げる。
彼は全く疑っていないのだ。
ライラがジャックスの手を取り、彼の妻となることを。
今回の件を秘密にしてもらうため『良い子』でいることを彼女が受け入れると本気で思っている。
「まさか、そんなはずないでしょう」
「ライラ?」
笑いを滲ませながら鞘を投げ捨て、刃を自分の方へと向けた。
感情が麻痺しているのだろうか。怖いとは全く思わなかった。
「あなたをどうこうしようなんて思っていないわ。これはホークが私のためにくれたもの。それをあなたに使うなんて彼に対して失礼過ぎる」
ホークからの贈り物。
それをジャックスの血で汚すような真似はしない。したところで、意味はない。
だって敵討ちをしたところで、ホークは帰ってこないのだから。
「ライラッ!」
ライラの行動を察したのか、ジャックスが顔色を変えて駆け寄ってくる。
それを無視し、思いきり己の胸にナイフを突き立てた。
「っ!!」
まず、熱さを感じた。次に想像を絶するほどの痛みが襲ってくる。
立っていられない。意識が痛みに持って行かれる。
重力に引っ張られるように地面に仰向けに倒れた。
胸から多量の血が溢れ出していく。それはやけに温かく、生(せい)そのもののようにライラには感じられた。
「……」
ホークの名前を呼ぼうとしたが、声は出なかった。
視界がぼやけている。音も聞こえない。痛みすら麻痺し、感じなくなってきた。
「けほっ……」
口から多量の血が吐き出される。
ジャックスが側にきたような気もしたが、ライラにはもう分からなかった。
身体から急速に熱が奪われていく。そんな中、彼女が感じていたのは安堵だった。
(ああ、これでホークのところにいける)
愛する人を失ってまで、この先を生きていたくない。
彼がいない世界に身を置き続ける理由がライラにはなかった。
(私、こんなにホークのことが好きだったのね)
ホークを愛しているとは思っていたが、彼が死んだと聞かされて一瞬で後を追うことを決断できるほどだとは自分でも知らなかった。
でも、この決断をライラは後悔していない。
「――! ――――!!」
おそらくジャックスだろう人物が彼女を抱き上げ、何か叫んでいる。
目を開けようとしたが瞼が重くて動かなかった。まあ、別にいいだろう。
ホークがいなくなれば、ライラが手に入ると思ったら大間違いだ。ライラの心はライラだけのもの。誰を選ぶのかは自分で決める。
(――ホーク)
身体から命が流れ落ちていく。全ての感覚がなくなり、意識が遠くなっていく。
世界が閉ざされる瞬間、彼女は願った。
(ああ、どうか、生まれ変わることがあるのなら、またホークと出会えますように)
祈りの先は、フェレイラ王国の主神。時を司ると言われる神にライラは心から願った。
聞き届けられるなんて思っていない。
ただ、最期の時にホークの顔が思い浮かんだから、だから願ってしまっただけなのだ。
(愛しているわ、ホーク)
もう一度、彼の姿を思い浮かべようとする。だがそれは叶わず、彼女の意識は永遠の闇の中へと還っていった。