逆行愛執 彼に生きてほしいので、大嫌いなあの男と結婚しようと思います 3
『――今度は絶対に幸せになってみせる』
気のせいかもしれないが、ホークの声が聞こえた気がした。
パチパチと目を瞬かせる。そして目を瞬かせた自分に驚いた。
目の前には鏡がある。
ライラは化粧台で髪を整えてもらっている最中だった。鏡の中に映る自分はひどく間の抜けた顔をしている。
「え……?」
置かれている状況が理解できず、呆然と鏡を見つめた。
見覚えのありすぎる針金のような真っ直ぐな髪。青い瞳。年齢より若く見られがちな顔は間違いなくライラ自身のものだ。
(……どうして?)
ライラはつい先ほどナイフで己の胸を貫き、死んだはずだった。
意識が奥へと引っ張られていく感覚も覚えている。
それなのにどうして今、生きてこんなところに座っているのか。
「え、え、え?」
一体何がどうなっているのだろう。
ライラがいるのは、己の部屋だった。
マルティネス公爵家、その三階にあるライラの部屋。
「どうなさいましたか、お嬢様」
愕然としていると、彼女の髪をブラシで梳いていたメイドが手を止めた。
名前はジゼル。
丸い眼鏡を掛け、髪の毛を三つ編みにした彼女はライラ付きのメイドだった。
「何か気になることでもありましたか?」
不思議そうに問われ、ライラは慌てて首を横に振った。
「い、いえ、なんでもないわ」
「そうですか。それならよいのですが。あ、頭は動かさないでくださいね」
首を振ったライラをジゼルが柔らかく咎める。
ライラは「ごめんなさい」と謝罪を告げ、大人しく前を向いた。
ジゼルが髪を梳くのを鏡越しに見ながら、再度これはどういうことかと考える。
一瞬、死後の世界に来たのかと思ったが、どうもそんな感じではなさそうだ。
「……」
「――それにしても最近、本当に仮面舞踏会が多いですねえ。来週、お嬢様が行かれるのもそうなのでしょう?」
「えっ、何?」
考えに耽りすぎて、ジゼルの話を聞いていなかった。
我に返り、ジゼルに聞き返す。彼女は「もう」と頬を膨らませた。
「来週にある仮面舞踏会の話ですよ。流行っているのは分かっていますけど、最近、夜会といえば仮面舞踏会しかないじゃないですか。いい加減、皆さん飽きてこないのかなって」
「え、ああ、そうね。国王派と王弟派でいがみ合っているから、そのことを気にしなくていい仮面舞踏会が気楽なんじゃないかしら」
考える時間もなかったので、普段から思っていたことを正直に告げた。
実際、身元を気にしなくていい仮面舞踏会は相手を必要以上に気遣わなくて済んで楽なのだ。普段が国王派と王弟派に分かれてギスギスしているからこそ、相手の立場を慮らなくていい仮面舞踏会が好まれるのは理解できる。
ライラの言い分にジゼルも納得したらしく、頷いていた。
「そうですねえ……じゃあまだしばらくブームは続きそうですね」
「ええ、たぶん。それでその……来週の仮面舞踏会って何の話かしら。私、しばらく仮面舞踏会に行く予定はなかった……というか、不必要な外出はお父様から禁止されていたと思うのだけれど」
苦い気持ちで告げる。
ホークとのことを知った父親は、ライラの外出についてかなりうるさくなったのだ。
彼女が「散歩」と偽って逃げたのも、そうしなければ外に出られなかったからだった。
だがジゼルはキョトンとした顔で言ってくる。
「禁止? 何を言っているんですか、お嬢様。旦那様はお嬢様の外出に特に文句を付けたりはしていないと思うのですが」
「え」
「仮面舞踏会も昨日まであんなに楽しみにしていらっしゃったのに。オッド侯爵様主催ですが、まさか本当に忘れたとかありませんよね?」
「……」
ジゼルの言葉にライラは大きく目を見張った。
彼女の声は本気で不思議がっていて、ライラをからかってやろうなんて気配は微塵も見受けられない。
だが、どうしたっておかしいのだ。
だって彼女の父親が外出に厳しくなったのはジゼルも知っていることだったし、あと、仮面舞踏会についてもライラの持つ知識とは違う。
(オッド侯爵様主催って……確か一年近く前の仮面舞踏会じゃなかった?)
新たにオッド侯爵が仮面舞踏会を主催するなんて話も聞いていない。でもジゼルは、その知らない仮面舞踏会をライラが楽しみにしていたと言っている。
(どういうこと? ……あっ)
首を傾げかけ、そこでようやく気がついた。
(もしかして……時が戻っている、とか?)
外出問題も仮面舞踏会についても、そう考えれば辻褄が合う。
とはいえ、死んだと思ったら一年近くも前に戻っていました、なんて普通に考ればあるわけがない。
まさかと思いつつもさすがに信じられなかったライラは、おそるおそるジゼルに聞いてみた。
「あの、ジゼル。変なことを尋ねるけど、今日って何月何日だったかしら」
「? どうしてそんなことを?」
「いえその……ぼうっとしていたらふと何日だったか忘れちゃって」
苦しい言い訳だと思ったが、ジゼルは信じてくれたようだ。「そういうこともありますよね」と言いながら、今日の日付を教えてくれた。
「……やっぱり」
ジゼルの答えはライラの想像通りのものだった。
だいたい一年ほど前に戻っている。
そして一年前のオッド侯爵主催の仮面舞踏会といえば、忘れもしない。
ライラがホークと出会った夜会だ。
(ホーク……)
無意識に口元を押さえる。
何が起こってこうなったのかは全く分からないが、ライラが時を遡ったのは間違いないようだ。しかも何の因果か、ホークと出会う直前に巻き戻っている。
(もしかして神様が、気まぐれを起こしてくださった、とか?)
死ぬ直前『またホークと出会えるように』と願ったことは忘れていない。
時を司る主神が彼女の願いを受け取り、叶えてくれた可能性はゼロではないだろう。
本当にそうかは分からないけど。
とはいえ、それについて深く考えている暇はない。
だってホークと出会う前に戻ったとはつまり、やり直しの機会をもらえたということに他ならないのだから。
ライラが努力すれば、未来に起こる悲劇を繰り返さずに済むかもしれない。
(え、本当に? ホークが死なずに済む未来がある?)
その事実に気づき、身体が震える。
期待と緊張から心臓がバクバクと脈打っていた。
「……お嬢様?」
黙り込んでしまったライラが気になったのか、ジゼルが心配そうに声を掛けてくる。それになんとか笑顔で応えた。
「な、なんでもないわ」
「そうですか? それならいいのですけど、今日のお嬢様はなんだか変ですよ。もしかして調子がお悪いとか? 医者を呼びましょうか?」
「いえ、本当に大丈夫だから。その、髪を整えたらひとりにしてくれないかしら。ちょっと考え事がしたくて」
気遣ってくれるジゼルに申し訳ないと思いながらもお願いする。
彼女は首を傾げつつも「分かりました」と素直に頷いてくれた。
◇◇◇
「それでは私は失礼しますね」
「ええ、ありがとう」
扉が閉まる。ジゼルが出ていき、ひとりになった。
部屋に自分以外誰もいなくなったことにホッとしたのだろうか。無意識に強ばっていた身体から力が抜けた。
「はあ……」
窓の側に置かれている揺り椅子に座る。
この椅子は長時間座っていても楽なので、読書をする際に愛用していた。
「まさか……過去に戻ってるなんて」
頬に両手を当て、呟く。信じられない思いでいっぱいだった。
「ホーク……」
愛しい人の名前を呼ぶ。誰もいないと分かっていても小声になるのは、悲惨な結末を知っているからだ。
ホーク・テイラー。ライラが誰よりも愛する人。
過去に戻ったというのなら、ライラと同じように彼も存在しているのだろう。
死んでいるのではない。生きている彼がこの世界にいるのだ。
「……今度は死んでほしくないわ」
自然と望みが口に出る。
ライラが何よりも望むこと。それはホークが生き残ることだ。
ジャックスに殺される未来を回避する。それこそが彼女の誰にも譲れない願いだった。
「だって彼は私のせいで死んだも同然だもの」
ホークを殺したジャックス。彼は父親から宛がわれた婚約者だったが、最初から話の通じないところがあった。
彼女がジャックスにいくら冷たい態度を取っても「私を意識させたいだけでしょう」とか「本当は私のことを好きだと知っています」などと言ってきて、意味が分からなかったのだ。
ライラは自分のものだと豪語する気持ちの悪い男。
それが彼女にとってのジャックスだった。
どうして彼が駆け落ちすることを知ったのかは不明なままだけれど、ライラを取り返そうとホークを殺し、追いかけてくるくらいだ。
ライラが自覚していた以上に執着されていたのだろう。考えるだけで怖気が走る。
そしてそれだけの執着を向けられているのなら、今世で同じことが起こっても不思議ではないと思った。
つまり、またホークは殺される。
「そんなの嫌……」
どうすれば、ホークは死なずに済むだろう。
どうすれば、ジャックスに殺されずに済むのだろう。
頭が沸騰するくらい考える。そうして出した答えはとても簡単なものだった。
「……そうか。私がジャックスと結婚すればいいんだわ」
目から鱗が落ちたような心地だった。
でも間違っていないと思うのだ。ライラが素直にジャックスと結婚すれば全ては丸く収まる。
ライラが妻になればジャックスはホークを狙わないだろうし、そもそもライラと関わらなければホークが死ぬこともない。
「どうせ……次もジャックスと婚約することになるだろうし」
時が戻ったからといって、別の相手が宛がわれるとは微塵も考えなかった。
一年程度でそこまで未来が変わるとは思えないし、そもそも父親が言っていたのだ。
ジャックスは以前からライラのことが好きだったようだ、と。
以前というのがどれくらい前かは分からないが、すでにジャックスに目を付けられていると考えて間違いないだろう。
更に言うのなら、相手は同格の公爵家でしかも父と同じ現国王派。ジャックス以上の相手がそうそう見つかるものとも思えない。
ライラの相手はジャックスで決まりなのだ。
「ジャックスのことは嫌いだけど……」
愛する人を殺した男だ。世界がひっくり返ったところで好きになれるはずがない。
だが、ライラが我慢すればホークは平和に生きていけるというのなら。
「私、あの人と結婚するわ」
唇を噛みしめ、己に言い聞かせるように決意を告げる。
ホークと幸せになりたい気持ちがないと言えば嘘になるが、ジャックスがいる以上それは不可能だ。
あの気持ちの悪い男はライラが己以外と結ばれることを絶対に許さない。
前回の生で、彼女はそれを痛感していた。
「よし」
方針は決まった。
ジャックスと結婚して、ホークとは関わらない。
そしてホークと関わらないと決めたのなら、彼と出会うことになる来週の仮面舞踏会は欠席しなければならなかった。
「仮面舞踏会……申し訳ないけど休ませてもらおう」
生きているホークをひと目見たい気持ちはあるが、ライラはもう決めたのだ。
ホークに死んでほしくない。そのために自分にできることをするのだ、と。
ライラはどうしたって彼が殺されたと聞いた時の絶望をもう一度感じたくはないのだから。
あの時の絶望は今もライラの胸にあり、塞がらない大きな穴となって存在している。
やり直しの機会をもらえたからといって、なくなるものではないのだ。
「お願い、生きて。そして幸せになって」
願うのはそれだけだ。
ライラは手を組み、神様に祈った。
このやり直しをくれたかもしれない神様に。
どうか与えられた機会を上手くいかせますようにと強く願った。
◆◆◆
仮面舞踏会を欠席しようと決めたライラだが、話はそう上手くはいかなかった。
仮面舞踏会であろうが主催者に参加の可否を連絡するのは当然で、そもそもすでに出席すると返事したあと。
直前で欠席するのは失礼になるし、父親の顔にも泥を塗ることになる。
仮病は医者に診せれば一発でバレてしまうだろうから使えない。
打つ手なしで、結局出席するしかないという結論になってしまった。
「……失礼にならない程度に参加して、さっと帰る。他に方法はないわ」
仮面舞踏会でもできるだけ目立たないよう気配を消して過ごそう。
ホークと出会ってしまう可能性については、前回、彼とどうやって出会ったか覚えているので回避できるはず。
ライラの記憶では、初めて会った時、彼は確か一時間ほど遅れてやってきていた。
用事があったとか、そんなことを言っていた覚えもある。
つまり、一時間以内に帰ればホークと遭遇せずにすむのだ。
焦る必要は全くない。
「大丈夫。きっと上手くいくわ」
不安は消えないが、行くしかないのだから出たとこ勝負で頑張るしかない。
そうして瞬く間に時は過ぎ、あっという間に仮面舞踏会当日となった。
◇◇◇
侯爵家の一階にある広間を開放して行われた仮面舞踏会。
オッド侯爵は人望があることで知られており、現国王派、王弟派に関係なく大勢の貴族たちが参加していた。
皆、それぞれ仮面を付け、更に女性は扇を持って顔を隠しながら談笑している。
知り合いなら声や体つきで分かるものだが、指摘しないのがマナーだ。
知らない振りができないのなら、仮面舞踏会には来てはいけない。それが暗黙のルールだった。とはいえ、自然と仲の良い知り合い同士でつるんでしまうものなのだけれど。
「……」
広間を見回し、小さく息を吐く。
予想通り、ホークはまだ来ていないようだ。
このまま仮面舞踏会を楽しんでいる振りをしながら過ごそう。三十分も居れば十分。あとはそっと抜け出せばおしまいだ。
音楽が流れ始める。ダンスの時間が始まったようだ。
それぞれパートナーを見つけ、踊りを楽しんでいるのを眺める。
オッド侯爵の屋敷は分かりやすく派手な造りではないが、落ち着きある内装が歴史を感じさせる。
広間も品よく造られていて、高い丸天井や壁の装飾を見ているだけでも楽しかった。
(そろそろ時間かしら)
広間の壁に飾られた柱時計を確認する。
仮面舞踏会が始まって、ちょうど三十分。予定通りだと思いながら、広間の出口に向かって歩き出す。
ホークが来るまでまだ時間はある。仮面舞踏会に出席することにはなってしまったが、無事、彼に遭遇せずに帰れそうだと心から安堵した。
(これでもうホークと会う可能性はない。あとはお父様がジャックスとの婚約話を持ってくるまで屋敷で大人しく過ごせば……)
そうすれば、ミッション完了。婚約さえしてしまえば、ライラが何もしなくても勝手に結婚することになるだろう。
(さようなら、ホーク)
感傷的な気持ちになりながら、心の中で呟く。
あとはどうか彼が幸せになってくれるようにと願うばかりだ。
「……」
音楽と人々の密やかな笑い声が響く広間を静かに出た。
侯爵家の玄関ホールを通る。そこにも多くの人がいて、仮面舞踏会の雰囲気を楽しんでいた。
玄関ホールは吹き抜けとなっていて、壁にはたくさんの絵画が飾られている。
床には趣味の良い幾何学模様の絨毯が敷かれ、美術的価値の高い壺が置かれていた。贅沢にも生花が活けられている。
それらを全部無視し、玄関扉に向かった。
「もうお帰りですか?」
扉の前にいた執事のひとりがライラに気づき、声を掛けてきた。
それに返そうとした時だった。
「――あの」
後ろから男の人の声がした。反射的に振り返る。
名前を呼ばれたわけではなかったが、なんとなく自分のような気がしたのだ。
「はい。――あ」
振り返るのではなかったと後悔した時には遅かった。
ドクン、と心臓が大きく跳ねたのが分かる。
仮面越しの青い瞳がライラを捕らえていた。
周囲から音が消える。
人々のざわめきも広間から漏れていた音楽の音も聞こえない。
スポットライトでも当たっているのではないかと思うくらい、彼だけが輝いて見えた。吸い寄せられるように見つめてしまい、視線を外せない。
目の前の人物に一瞬で意識の全てを奪われ、息をすることもできなかった。
「ああ……」
その人は黒の夜会服に身を包んでいる。
深みのある滑らかで光沢のある漆黒が彼の金色の髪によく似合っていた。宝石が鏤められた派手な仮面を被っているが、ライラが見間違うはずもない。
ライラを呼び止めたのは、会わないと決めていたホークだった。
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