皇太子殿下はドSでオネエな『女王様』!? 卑屈令嬢ですが調教されて愛され妃に生まれ変わります 1
熱気が漂う薄暗い小部屋で、伯爵令嬢であるラウラ・ソフィア・アルディーヌは若い男と対峙していた。
相手はパーティ用の仮面にコルセットを模した黒革の衣装――ボンデージと呼ぶらしい――を身に着けただけという、破廉恥極まりない出で立ちだ。そこから発せられる謎の威圧感に、ラウラは首をすくめて縮こまる。
彼は自身を『女王様』と称していたが、その表情は地獄の大魔王と形容するに相応しかった。まさに「蛇に睨まれたカエル」さながらの状況だ。静まり返った室内が、嵐の前兆をほのめかしている。
ラウラは汗ばんだ手のひらを握りしめ、小刻みに肩を震わせた。
その拍子に椅子から滑り落ちそうになり、慌てて座面に手をつく。瞬間、ぬるりとした感触が手指を伝った。まごうことなき人間の素肌だ。そのことを改めて思い知らされ、彼女は顔を引きつらせる。
男はこれを『椅子』と言い張っていたが、どう見ても四つん這いの人間だ。
どこの馬の骨ともつかない青年が、なぜかこの部屋の『椅子』になりきっている。際どいパンティと猿ぐつわという格好からして、ろくな扱いを受けていないのは明白だった。
「ほら、アタシって、なにかとヒミツが多いじゃない?」
芝居がかった口調で足を組み替え、男はくつくつと喉を鳴らした。
妖艶に弧を描く薄いくちびるは、真っ赤な口紅で彩られている。彼もラウラ同様、『椅子』に腰かけていた。上背のある筋肉質な体を支えられるよう、こちらは固太りの頑丈そうな中年男性が選ばれたようだ。
生き血をすすったかのように赤い口元に目を投じ、ラウラは生唾を飲み込んだ。
次いで男の足元に視線を移し、床に並んだ大ぶりのろうそくをじっと見つめる。目の覚めるような緋色とふとましいシルエットは、魔界に生えた毒キノコを思わせる。
「こういう趣味に理解のある伴侶を探すとなると、なにかと骨が折れるのよ」
わざとらしく嘆息し、男は座ったまま赤いろうそくを手に取った。ちっぽけな灯りに照らされ、光沢のある衣服がギラリと輝く。一方、猛毒の蝶を彷彿させる形状の仮面からは、愉悦混じりの瞳が覗いていた。
今しがた自分にだけ打ち明けられた『ヒミツ』を頭の中で反芻し、ラウラは今すぐにでも卒倒してしまいたい気分に駆られた。物語のヒロインはなにかにつけて都合良く意識を手放すが、現実を生きる女はそこまで軟弱にできていない。そのことを恨めしく思いつつ、目の前の男に視線を遣った。
皇太子ともあろう者が、まさか街はずれの店でいかがわしい活動をしているだなんて。
蒼褪めるラウラのことなど気にも留めず、グノーブル帝国皇太子こと、クロード・ジル・ボナパルト=グノーブルはろうそくの炎に目を落とした。揺らめく炎と同じ色の前髪を掻き上げ、艶っぽく足を組み変える。
そのかたわら、ラウラは目の遣りどころが分からず、視線を泳がせた。
際どいハイレグカットのボンデージからは、脚の付け根なのか尻たぶなのか分からない肌色がちらついている。体に張り付いた漆黒のレザーは、元の生物が想像できないほど、悪趣味な輝きを放っていた。
「その点、アンタは物分かりが良いでしょう? 他のオンナたちみたいに、ギャーギャー騒いだりしないだろうし。ま、要するに『都合がいい』のよね」
奇抜な仮面の奥で目を細め、クロードはくつくつと喉を鳴らす。射抜くようなエメラルドの双眸。「宝石の女王」の名に相応しいその翠眼に、ラウラは一瞬呼吸を忘れる。
その拍子に、『椅子』の座面がかすかに揺れた。意識が引き戻され、ラウラは『女王様』に気取られないよう、椅子に扮する青年の顔色をうかがう。
四つん這いになった青年は細腕をわなわなと震わせ、蚊の鳴く声で呻いた。ラウラは女性の中でも小柄な方だが、それでも長時間背中に乗せれば疲れが溜まるはずだ。
居た堪れなさに胸を痛め、彼女は皇太子に向き直った。
早いところ彼の提案を断り、この場を終わらせなければと心に決める。そうすれば、椅子役の青年も解放されるに違いない。
「お言葉ですが、私には務まらないと思います。皇太子妃なんて――」
ラウラの言葉を遮らんとばかりに、クロードは手にしたろうそくをひっくり返した。
煮えたぎる蝋がボタボタと垂れ、彼の『椅子』が真っ赤に濡れる。見ればパンティからはみ出た尻や内腿が、鮮血の色で染まっていた。想像を絶するほど熱いのか、中年の男は猿ぐつわを食んだまま、身をよじって絶叫している。
「うるさい!」
蝋にまみれた臀部を叩き、クロードは自身の『椅子』を一喝した。鍛え上げられた腕を鞭のようにしならせ、脂と筋肉で肥えた尻に打撃を加える。
そのたび、紅色の蝋が花びらのように弾け飛んだ。ろうそくの色に染まっていたはずの皮膚が、今度は殴打の赤色に塗り替えられる。
社交パーティで見かけた皇太子とは、似ても似つかない暴虐っぷり。伯爵令嬢としてそれらに出席した時の記憶を引きずり出し、ラウラは目の前の男と重ね合わせた。
悪い夢を見ているにちがいない――顔を引きつらせながら考えていると、エメラルドの瞳がこちらを向いた。
「ねえ、今のアタシは『女王様』なの。ここではその単語、出さないでくんない?」
『その単語』とはもちろん、『皇太子』のことだ。身分を隠して活動しているのだと、店に入る前に釘を刺されたことを思い出す。
くびり殺さんばかりにねめつけられ、ラウラは「ごめんなさい……」とすくみ上がった。話を急ぐあまり、うっかり口を滑らせてしまった。
彼は店に足を踏み入れる折、庶民に扮してこの店――SMクラブというらしい――で働いていることを教えてくれた。客の男たちを容赦なくひん剥き、『女王様』として虐待の限りを尽くしているのだそうだ。もちろん、事前に合意は取っている。
ばれたら国が傾く一大スキャンダルだが、本人はそうしたスリル込みでこの職業を楽しんでいるのだという。公務の合間を縫って出勤しているため、活動が不定期なのが玉に瑕だが、それ以外は満足していると、店の前で話していた。
残虐な性癖と同性愛をカモフラージュするべく、彼はラウラに婚約を迫った。歳は五つ上の二十七。本人の男色嗜好はさておき、そろそろ世継ぎを作らねばならない年齢だ。
「不自由はさせないわ。アンタだって、公衆の面前で婚約破棄を宣言されて困ってたんでしょ? 利害が一致してるじゃない」
赤く腫れた『椅子』の尻をなでまわし、クロードはニヤリと片頬を上げた。
確かに、つい先ほど長年連れ添った婚約者に捨てられたばかりだ。皇太子妃という肩書きがあれば、婚約破棄の不名誉などいくらでも挽回できるに違いない。条件だけで判断すれば、願ってもない提案だ。この、筆舌に尽くしがたい悪趣味さえ除けば。
手酷い扱いを受けたにもかかわらず、クロードの『椅子』――もとい固太りの男は恍惚の表情で猿ぐつわを食んでいた。『女王様』が体勢を崩さない程度に腰を揺らしては、物欲しそうな目でクロードを見つめる。
「あら、欲しがりね。『椅子』のくせして」
視線に気付いたのか、彼は手にしたろうそくを床に置き、男の顎をくすぐった。それに応じて、でっぷりとした丸顔に、歓喜の赤色がねっとりと広がる。男はグフグフと鼻を鳴らすと、『女王様』の手に自身の頬を擦り付けた。
「イヤだわ、盛っちゃって。『椅子』はそんな声で鳴かないでしょう?」
睦み合う二人を前に、ラウラはおぞましさのあまり背筋が凍る。見てはいけないものを見ている気がして、もはや涙すら出てこない。目の前の光景は『異様』の範疇を通り越し、もはやグロテスクの領域に足を踏み入れていた。
どうして私がこんな目に――漠然と思考を巡らせるも、もっともらしい答えは出てこない。前世でどれほどの悪行を積めば、こんな地獄に巻き込まれるのだろうか。
そこまで考え、震える『椅子』で我に返った。青年は先ほどよりも苦しそうだ。いい加減、体力が限界に近付いているのかもしれない。
「あの……大丈夫ですか?」
クロードが自身の『椅子』に気を取られているのを見て、ラウラは青年に投げかけた。憐れな境遇に自分と似たものを感じ取り、憐憫のまなざしを向ける。
同意したうえでの行為とはいえ、きっとのっぴきならない事情があるのだ。でなければ、こんな情けない格好で、椅子のフリなんてするはずがない。
血を血で洗う古代帝国の時代ならともかく、今の時世にこの扱いは人権侵害もいいところだ。利発そうな青年の顔立ちに、義憤と罪悪感が掻き立てられる。
部屋に通された当初は緊張のあまり、疑問に思う余裕もなかった。しかし、人間を椅子にするという発想は、どう考えても常軌を逸している。
たとえ相手が皇太子であろうと、頭がおかしいとしか言いようがない。むしろ、国を牽引する王族だからこそ、ぶっちぎりのアウトだとすら思う。
「あ、あのっ……!」
ラウラは勇気を振り絞り、口火を切った。
皇太子相手に意見するには、伯爵令嬢という肩書きはいささか頼りないものの、こればかりは見逃せない。彼女は呻吟する青年を一瞥してから、くちびるを震わせた。
「あの、大変申し上げにくいのですが……」
「なによ、じれったいわね。さっさと言ってちょうだい」
見ていてイライラするとばかりに急かされ、ラウラは反射的に口をつぐんだ。幼い頃から臆病な性格で、強い態度を取られると、怖気づいて声が出なくなってしまう。
だからといって、虐待の片棒を担ぐのは気が引けた。民の安寧を願うことこそ、貴族の本懐。自分だって一応伯爵令嬢で、貴族の端くれだ。
「ふ、普通の椅子にしませんか? その、さっきから震えてて、か、可哀想です……!」
声が裏返りそうになるのを堪え、ラウラは途切れ途切れに言葉を発した。憐れな青年とクロードを交互に見つめ、上目がちに異を唱える。
クロードは訝しげに眉をひそめたものの、しばらくして合点がいったとばかりに顔で立ち上がった。彫刻を彷彿させるボディーラインを惜しげもなく晒し、凶器じみたピンヒールをカツカツと鳴らす。
「ごめんなさい。気が利かなかったわ」
こちらに歩み寄り、彼は申し訳なさそうに目を伏せた。
話せば分かる人のようだ。ラウラは恐縮した素振りで立ち上がり、「いえいえ、そんな……」と首を振った。変わった性癖を持っているからといって、残虐だと決めつけていた自分が恥ずかしくなってくる。
――なんだ。最初からはっきり言えば良かったわ。
心の中で独りごち、ラウラは胸をなで下ろした。きっと、物置きから普通の椅子を運んで来てくれるのだろう。この個室を出てすぐの大広間は酒場スペースになっていたから、そこから持ってくるのもいい。
愁眉を開き、ラウラは椅子役の青年を見下ろした。
これでもう、理不尽な扱いをされずに済む。久々に人の役に立てた気がして、胸がじんわりとぬくもった。これからはどうか、こんな怪しい店には近付かず、まっとうな人生を送って欲しい。
肩で息をする痩せぎすの青年を見つめ、ラウラは穏やかに目を細めた。
善良な庶民が幸福に向かって歩む姿を想像しながら、ささやかな自尊心を噛みしめる。なけなしの勇気を振り絞ったおかげで、他人を救うことができたのだ。充足した気持ちに浸っていると、突然、甲高い破裂音が耳をつんざいた。
「このブタぁ! 動くなって言ったでしょう!? アンタのせいで、お客様困っているじゃない! 『椅子』ごときが、アタシに恥かかせる気ィ!?」
腰に差した小ぶりの鞭を引き抜き、クロードはヒステリックに喚き散らした。本棚を掃除する際に用いる「はたき」を彷彿させる、房状の短い鞭だ。黒いレザーであつらえられたそれは、振り下ろすたびにおぞましい打擲音を鳴らしている。
当然、青年の尻は見るも無残に腫れあがった。残酷極まりない光景に、ラウラは堪らず悲鳴を上げる。鞭の先端がいななきを上げるたび、胃の辺りがキュッと締め付けられた。
「ちょ、ちょちょちょ……! なにやってるんですか! やめてください!」
これ以上の虐待は許すまいと、ラウラはクロードにしがみついた。しかし、圧倒的体格差の前ではまるで歯が立たず、鞭打ちは止まることなく続いていく。
「その人、なにも悪いことしてないじゃないですか! 可哀想ですよ!」
「ハア? 『可哀想』?」
クロードは鷹揚な口ぶりでラウラのセリフを一音ずつなぞると、高さ十センチのハイヒールで青年を蹴り飛ばした。痩せぎすの体躯は事切れたセミのように、ごろんと仰向けに転がっている。
「これのどこが『可哀想』なの? 悦んでるじゃない」
ちっぽけなパンティいっぱいに怒張した男根を容赦なく踏みつけ、クロードはラウラの肩を抱き寄せた。抱きかかえる格好で押さえつけられ、身じろぎはおろか、顔を背けることすら叶わない。
「ひぃぃぃ! な、なにして……!」
ラウラは震えあがって抗議するも、クロードは涼しい顔で聞き流している。その間も、漆黒のハイヒールは青年のブツを踏みつけたままだ。
プチンと潰れてしまいそうな力加減にラウラが不安を覚える一方、青年はグフグフと猿ぐつわを食んで喜んでいる。その脂下がった醜い顔は、この世の不条理を耐え忍ぶ健気な姿とはほど遠い。
「いけない子。アタシに構って欲しいからって、お客様の気を引いてたんでしょう?」
噛んで含める口調で、クロードは屹立を踏みつけた。それに合わせ、青年はニヤニヤとよだれを垂らす。
もう一方の『椅子』が可愛がられていることに嫉妬し、わざと苦しいふりをしてラウラを焚きつけたのだ。そのことを言外に察し、彼女はクロードの腕の中で顔を歪める。
理不尽に虐げられ、助けを求めているのかと思いきや、他人の同情心に付け込んでいただけ。「恩を仇で返す」を地で行く精神に、ラウラは怒りとも恐怖ともつかない衝撃を受ける。
「アンタのせいでアタシ、お客様に『虐待してる』って勘違いされちゃったわよ? 違うわよねえ? 被害者ぶってるだけで、アンタはこれが好きで好きで堪らないのよねえ?」
踏みつけるどころか今度は前後に扱き、クロードは目をらんらんと光らせた。気に入ったのか、青年は人間のものとは思えない嬌声を発している。
恥じらいもせず恍惚に耽る姿が見るに堪えず、ラウラは嫌悪感に打ちひしがれた。めまいがするあまり、幼い頃の記憶が脳裏をよぎる。
あれは確か、五歳の時だったか。両親に連れて行ってもらった曲芸団にいた猿が、こんな声で鳴いていた気がする――現実逃避がてら感傷に浸るラウラをよそに、クロードは悪役じみた哄笑を上げる。
「アハ、さっきより大きくなったじゃない! もしかして、見られて興奮しているのぉ? 貴族令嬢サマ相手に、ずいぶんとお行儀が悪いわね~?」
そう言って、彼は足の抽送を速めた。青年は感じ入るようにまぶたを閉ざし、腰をへこへこ振っている。
「ヤダ、まさか人前で『おもらし』するつもり? 生娘相手に、浅ましいことこの上ないわね。言っとくけど、お客様はアンタの汚物を見るために来たんじゃないのよ?」
仮面の奥で目を光らせ、クロードは男に罵声を浴びせた。ハイヒールから立ちのぼる熱気が、ラウラのスカートを伝って這い上がる。
「や、やめてください。『汚物』とか、そんな……悪口……」
罵倒の共犯に仕立て上げられている気がして否定するも、またしても聞き流された。クロードはラウラを抱き寄せたまま、青年を絶頂へと導いている。
青年は悦んでいるらしいが、初心なラウラとしては身の毛もよだつ光景だった。自分の発言がきっかけで、彼は辱めを受けている。
そもそも、見ず知らずの男の射精シーンなんか見たくない。
どうせ股間から体液が滲むだけだろうということは予想がつくが、心は全力で拒絶していた。目にしたら最後、女として大切な『なにか』が穢される気がして、歯の根が合わなくなってくる。
「やめて……! やめてください……!」
だんだん自分が折檻されているような気がしてきて、ラウラは金切り声で叫んだ。頭の中が白くなり、難しいことが考えられなくなっていく。
なぜ、こんな事態に陥っているのだろう。どうして、こんな理不尽がまかり通っているのか。それすらも、見当がつかない。青年に向けられていたはずの矛先は、気付けばこちらを向いている。完全にパニックに陥ったラウラは、ヒイヒイと喉奥を鳴らした。
この状況が耐えられない。許されたい。解放されたい。余計なことを考えている暇はなかった。彼女はなりふり構わず、甲走った声ですがりつく。
「謝ります、謝りますから! なんでも言うこと聞きます! だからもう、許してくださいっ……!」
目から大粒の涙をこぼし、ラウラはエメラルドの瞳に懇願した。
青年が可哀想とか、そんなことはもうどうでも良かった。自分だけが助かればそれでいい――そんな極限状態に追い詰められた彼女が、自身の迂闊な発言に気付けるはずもなく。
「へえ、『なんでも』?」
とどめとばかりに青年のペニスを踏みつけ、クロードは足を引いてこちらに向き直った。エメラルドを思わせる深い緑色が、薄闇の中でらんらんと光る。
「アンタ、おもしろい『オモチャ』になりそうねぇ……」
硬直するラウラの顎を持ち上げ、彼はまんざらでもなさそうに微笑んだ。
言わんとする事柄が汲み取れず、ラウラは目を泳がせる。自分もひん剥かれて椅子扱いされるのだろうか。いや、まさか。
クロードはうつむくラウラを見つめ、「こっちを向きなさい」とささやいた。ついでとばかりに耳に息を吹きかけられ、彼女は「ひゃん!」と間抜けな声で飛び跳ねる。
「『なんでも』言うことを聞くんでしょう? だったら、分かってるわよね?」
たくましい腕をラウラの腰に回し、クロードは穏やかに相好を崩した。皇太子妃になるよう、言外に圧をかけているのだ。具体的な言葉で告げれば『椅子』の男たちに正体がばれてしまうため、あえて遠回しに伝えているのだろう。
柔和な態度とはかけ離れた空気を察し、ラウラは顔面を引きつらせた。断ればこの場で絞め殺されかねない。引き受ける以外の選択肢はなかった。
「はい……。もちろんです……」
ラウラは蚊の鳴くような声で、不承不承にうなずいた。どう考えても脅迫なのだが、致し方ないと腑に落ちてしまうのは、場の雰囲気に呑まれているせいか、それとも。
真相が分からないまま、彼女は愛想笑いで取り繕う。
生家の自室にて、ラウラ・ソフィア・アルディーヌは慌ただしく身支度を整えていた。手持ちのドレスを次々に体へ当てがい、「あれでもない、これでもない」と首を振る。
パーティの装いに一律の答えなんかないのに、必死で正解を探しているのだ。砂漠に落とした針を探すような不毛さに呆れたのか、侍女のロミが嘆息する。
「お嬢様、早く決めてください。ガスパル様がお見えになります」
「そう言われても……」
右往左往しながら、ラウラは姿見に映るドレスを見つめた。やはり自分には派手すぎる。顔を見るなり、「野暮ったい」と罵られるのがオチだ。
「やっぱりロミが選んでちょうだい……。私のセンスじゃ、とても……」
「そう仰って、仕立て屋に一からデザインさせたではありませんか。正直、どれを選んでも同じ……じゃなくて、お似合いだと思いますよ」
「でも、私には華やかすぎるわ。こういうのは、もっと可愛い方じゃないと、着こなせないっていうか……」
「黒と茶と紺しかないのに、華もへったくれもありません。祝いの席くらい、貴族らしく着飾ってください」
ため息交じりの返答に、ラウラはビクッと肩を揺らした。鬱陶しい――実際言われたわけではないのにそうしたセリフが聞こえた気がして、鏡越しに侍女の顔色をうかがう。
事実、ロミの言う通り、ドレスは地味なものばかりだった。
こんな色を着た令嬢が会場を歩いていたら、祝うつもりがないのかと自分でも顔をしかめてしまいそうだ。今宵は皇帝の戴冠十周年の式典だから、なおのこと失礼のないよう、美しく着飾る必要があるのに。
「ねえ。ロミはどういうのがいいと思う……?」
ラウラは『正解』を求め、恐る恐る振り向いた。
他の令嬢は許されても、自分が赤やピンクといった色をまとうのは間違っているような気がしてならない。一般的な貴族としては模範的な選択だとしても、自分だけは例外なのだ。明確な根拠があるわけではないものの、ラウラはそう思い込んでいた。
せめてヒントを提示してくれればそれに従うのだが、生憎ロミは忙しそうに装飾品の準備に徹している。コバエの羽音より小さいラウラの声は、どうやら聞こえていないらしい。 聞き返そうか迷ったが、面倒くさがられるのが目に見えているため、仕方なく自分で選ぶことにした。
本来なら、年下の侍女ほど気楽な相手はいないはずだが、自尊心の低いラウラにはそれすらも難しいのだ。普段からおどおどした態度ばかり見せていたのが良くなかったのか、近頃はロミにまで邪険に扱われるようになっている。
「いい加減、さっさと決めてください。御髪をまとめる時間がなくなります」
出来の悪い子どもを急かすがごとく、ロミは険のある口調で腕を組む。うねりの利いたロングヘアゆえに、セットに時間がかかるのだ。その剣幕に、ラウラは「ごめんなさい」と慌ただしく目の前のドレスを選んだ。着付けを手伝ってもらい、鏡台の前に腰を下ろす。
「あの、本当にごめんね、ロミ。私のせいで……」
いつものモノトーン調のドレスに目を遣り、ラウラは逡巡気味につぶやいた。毛量が多くまとまりのない髪と、色彩の乏しい地味な衣装。鬱々とした表情も相まって、鏡の中の自分はいつにも増して辛気臭い。
「今日こそはガスパルに怒られないといいけど……。ほら、私ってどん臭いでしょう? だからいつも、『ウザい』とか『ダサい』って言われちゃうのよね。あは、あはは……」
仏頂面の侍女を笑わせようと、ラウラは得意の自虐ネタを披露した。
なけなしの勇気を振り絞ったにもかかわらず、ロミはこちらを見向きもしない。そのことに焦りを感じ、ラウラは引きつった笑顔で言葉を重ねる。
「ああ、違うの。『ダサい』って叱られるのはあなたのヘアメイクが悪いって意味じゃなくて……。むしろ、ロミのセンスはいつだって完璧よ? でも、その……私自身が、野暮ったかったりするじゃない? 見ていてイライラする、というか……」
早口でべらべらとまくしたてるも、鏡の中のロミは相槌はおろか、表情一つ動かさない。毛量が多いラウラの黒髪に目を落とし、職人のように黙々と取り組んでいる。
ラウラは自分が幽霊になった気がして、おずおずと視線を下げた。頭まで動かすとロミから大目玉を喰らうため、下げるのは目線だけに留める。深海によく似た群青色の瞳が、自己卑下の感情で陰鬱に濁っていく。
――なにか気に障ることを言ったかしら。しゃべりすぎが良くなかったのかも。
答えの出ない自問の嵐に、ラウラは頭を悩ませた。ひとたび口を開けばいつも、頭の中では反省会だ。自身を責める声がどこからともなく飛んできて、消えてしまいたい気持ちに駆られる。
「あ、えと、ロミ……? ごめん、なさいね……?」
鏡越しに侍女の顔色を盗み見ながら、ラウラはか細い声でつぶやいた。ロミはその言葉さえも受け流す。
単に忙しくて主人の卑屈に構っていられないだけなのだが、ラウラがそれに気付くことはない。むしろ、お得意の自己卑下をいかんなく発揮し、「どうせ私なんて……」と貧相ななで肩をよりいっそう落とすのだった。
そうこうしているうちに準備が終わり、ロミは忙しなく部屋を片付け始めた。使わなかったドレスやジュエリーをクローゼットに戻しているのだ。
「わ、私も手伝うわ……!」
ラウラは先の失言――というほどでもないが、彼女はそう思い込んでいる――を償うべく、慌てて鏡台から立ち上がる。
二人でやった方が早く終わるし、なんならロミには座って休憩してもらおう――脳内で筋書きを立てるも、相手は「やめてください!」と気色ばむ。
「私はお嬢様付きの使用人です! 奥方様にこんなところを見られたら、仕置きどころじゃ済まないでしょう!?」
奥方様というのは、ラウラの母親のことだ。確かに、金を払って雇った侍女が自分の娘をこき使っていたら、怒り心頭だろう。気位の高い伯爵夫人とくれば、なおさらだ。
指摘されて初めてそのことに気付き、ラウラは再び「ごめんなさい……」とこうべを垂れた。ロミは別段返事もせず、「頼むから黙って座っていてくれ」とでも言いたげに睨みを利かせる。いよいよ居た堪れない気分になり、ラウラは口を引き結んだ。
ちょうどその時、大広間から聞き馴れた談笑が聞こえた。
その中に自身の苦手とする声が交じっていることに気付き、ラウラは思わず肩をすくめた。部屋に籠っていたい衝動に駆られるも、そうすればもっと酷い目に遭うのは火を見るより明らかだ。
彼女は小さくため息をつき、地味なドレスと重い足を引きずった。長年連れ添った婚約者、ガスパル・イヴォン・ドゥルーに会うために。
大広間でラウラの父親と立ち話をしていたガスパルは、彼女を見るなり深いため息をついた。同じ伯爵位でドゥルー家の次期当主である彼とは、子どもの頃からの付き合いだ。親同士が決めた婚約なのだが、当人らの相性は最悪といっても過言ではない。
「こういうのってさ、俺が来るのと同時に出迎えるのが普通だろ?」
相変わらず、気の利かない女だな。棘のあるセリフを付け加え、ガスパルはラウラの父親に別れを告げた。目下の者には辛辣だが、上にはとことん愛想がいいのだ。
こういった振る舞いを近頃では「モラハラ」と呼ぶのだと、知識としては知っている。しかし、ラウラの周辺にはこの手の男性しかいないため、別段疑問には感じない。
ガスパルをはじめ、父も祖父も横柄を理不尽で煮詰めたような強者ばかりだ。きっと、妻や娘を馬鹿にしなければ、呼吸すらできないのだろう。巨大魚は泳ぎ続けなければ死ぬのと同じ理屈だ。
こうした背景により、ただでさえ卑屈なラウラの性格は、手の施しようがないほどに歪んでしまった。
不気味な深海を思わせる群青の瞳は、いつも相手の顔色をうかがっている。そのくせ、常にやり場のない鬱憤を溜め込んでいるから、ふとした瞬間に大爆発してしまう。
とはいえ、怒りを表に出すのはあまり得意ではなかった。ゆえに、爆発といっても、幼子の癇癪みたいになるのが関の山だ。子どもなら「微笑ましい」で済まされるが、二十歳を過ぎた女の感情表現としては、痛々しい印象が拭えない。
「ところでその服、お前が選んだの?」
表に停めた馬車に向かう道すがら、ガスパルが訊ねた。ラウラは自身のドレスに目を落とし、「違います……!」と咄嗟に嘘をつく。
「流行りのデザイナーに作ってもらいました。髪や装飾の組み合わせは侍女に……」
視線を右に左に泳がせ、受け答えをする。実際にドレスを選んだのはラウラだが、仕立ててもらったのは事実なので嘘ではない。怒られそうな気配を察知したため、さりげなく他者に責任を押し付けた。
そんなことは露知らず、ガスパルは小馬鹿にする態度でフン、と鼻を鳴らした。道端のゴミを見るような目つきでラウラを一瞥し、嘲笑交じりにまぜ返す。
「腕利きの仕立て屋でも、素材の悪さは隠せないんだな」
素材とはつまり、ラウラのことである。ひとしきり馬鹿にして満足したのか、ガスパルは機嫌良さげに馬車を目指した。男性にしては小さい後ろ姿を見つめ、ラウラは人知れず胸をなで下ろす。
――よかった。今日は間違えなかったようね……。
うっかり「自分で選んだ」なんて口にしたら、この十倍は非難されていただろう。ガスパルはラウラの容姿以上に、彼女のセンスに失望しているのだ。ラウラはついさっきまでドレス選びに散々頭を悩ませていたことなど忘れ、愁眉を開いた。
仕立て屋とロミには申し訳ないが、誰だって我が身が可愛い。これもまた、鬱屈した日常を切り抜けるラウラの処世術だ。単なる姑息とはわけが違う。
そうこうしているうちに馬車に着き、待機していた御者がキャビンの扉を開けた。瞬間、乗り口から鮮やかなドレープがちらつき、ガスパルは声を弾ませる。
「リーナ、待たせたな!」
キャビンいっぱいに広がった桃色のドレスを丁寧に掻き分け、ガスパルは若き令嬢の隣に飛び込んだ。カロリング男爵家令嬢、リーナ・オデット・カロリングその人だ。ラウラより一つ下の二十一歳で、顔もスタイルも人形みたいに愛らしい。
「あっ、リーナ嬢……ごきげんよう」
またこの人と一緒なのね――出かけた言葉を飲み込み、ラウラは控えめなカーテシーで挨拶をした。それに気付き、リーナは無言で片手を上げる。使用人をあしらうような振る舞いだ。こちらは格上の伯爵家の令嬢で、正式な婚約者にもかかわらず。
釈然としないまま、ラウラはキャビンのタラップに足をかけた。婚約者がいる身でありながら、ガスパルはこの女とねんごろだ。かれこれ一年は経つだろう。
無論、浮気はこれが初めてではない。性的魅力が欠けているのを言い訳に、ガスパルはラウラに手を出してこず、多数の令嬢と関係を持った。
しかし、いずれも長く続かなかったことを鑑みれば、リーナとは真剣な交際を続けているのだろう。はじめはコソコソ逢引きする程度だったが、近頃は開き直って堂々としている。これでは、どちらが婚約者なのか区別がつかない。
それだけラウラを舐め腐っているということなのだが、下手に指摘して婚約破棄でもされたら目も当てられないため、耐え忍ぶ以外の選択肢はない。もし破談にでもなれば、父親から「一家の恥だ」と糾弾される。
「おい。裾、踏むんじゃねーぞ」
ガスパルに釘を刺され、ラウラは慎重に馬車へ乗り込んだ。大輪のバラをひっくり返したようなドレスがキャビンいっぱいに広がっており、足の踏み場が見当たらない。質素極まりないこちらの衣装を、少しは見習って欲しいところだ。
仲睦まじく談笑する男女と、その隅に座る冴えない女。
車内は疎外に満ちていて、一人でいるよりも数段孤独だ。慣れたシチュエーションではあるものの、心はいつまで経っても追いつかない。ガスパルのことなど今さら好きでもなんでもないのに、それでも胸が苦しかった。
王宮に着いてからも、ガスパルはラウラには目もくれず会場を歩いた。もちろん、隣で腕を組んでいるのは男爵令嬢のリーナだ。膨れ上がったドレープが、彼女の自意識をこれでもかと体現している。
裾を踏まないよう注意を払いつつ、ラウラは小さくため息をついた。羨ましくもなんともないが、自分はこういった衣装に縁がないまま生涯を閉じるのだと思うと、もの悲しい気分になってくる。
その後もラウラは二人の後ろをついて歩いたが、途中三回くらい彼らの侍女に間違えられた。服装が地味すぎるせいだが、なけなしの自尊感情を打ち砕くには充分だ。
――どうして伯爵家で正規の婚約者である私が、男爵令嬢(リーナ)の使用人だと勘違いされなきゃいけないの……?
卑屈といえど、プライドはある。表に出さないだけで、ラウラにも「悔しい」という感情はあるのだ。
和気あいあいとスパークリングワインを呷る二人をねめつけ、ラウラは言葉にできない不満を募らせた。そんなことなどつゆ知らず、ガスパルは脂下がった笑顔でリーナの腰に腕を回す。
「ごらん、リーナ。陛下のお出ましだよ」
「まあ、隣にいらっしゃるのは皇太子のクロード殿下ね? ここからでも分かるくらい、背が高くて素敵だわ」
飲み干したシャンパングラスを給仕に渡し、リーナは前のめりに目を輝かせた。視線の先には精悍な顔立ちの皇太子が佇んでいる。燃えるような赤髪に反して思慮深く、近年は外交の場でその手腕を振るっているともっぱらの噂だ。
クロードは父王に祝辞を述べたのち、観客らの声援に応えた。その姿に熱視線を送るリーナを見て、ガスパルは口を尖らせる。
「おいおい。妬かせるなよ、リーナ」
「うふふ。拗ねるだなんて嫌だわ、ダーリン」
しなを作って腕を絡ませるリーナを見て、ラウラは思わず顔をしかめた。
すぐそばに正規の婚約者がいるにもかかわらず「ダーリン」呼び。今に始まったことではないものの、この女、完全に喧嘩を売っている。
呆気に取られていると、二人はダンスホールへ繰り出した。
もちろん、ラウラは誘われない。生憎、この世には男一人、女二人で踊るダンスは存在しないのだ。
リーナとステップを踏むガスパルを呆然と眺め、ラウラはようやっと危機感を覚えた。 今まで機嫌を損ねないよう目をつぶってきたが、このままでは普通に捨てられてしまう。そう思わずにはいられないほど、目の前の彼らの行為は非常識極まりなかった。
婚約者を差し置いて浮気相手と踊るなど、決してあってはならないことだ。並みの感性を持つ貴族令なら、怒髪天を衝く勢いでキレるだろう。前回まではラウラに配慮してか、彼女が見ている前ではダンスホールに行かなかったことを考えると、なにかしらの含意を訝ってしまう。
これではいよいよ破談まっしぐらだ。ダンスホールから戻ってくる二人を見つめ、ラウラは慎重に言葉を選んだ。
「あ、あの……ガスパル……」
控えめな呼びかけに、彼はうろんげに顔をしかめた。
「なんだ、お前か」
「あっ、ごめんなさい。邪魔して……」
「いいけど。なんの用?」
「あの、もしよかったら……私とも、踊らない…………?」
視線を泳がせ、しどろもどろに提案する。
かなり下手に出ているが、婚約者からの「お誘い」なんて、別段珍しいことではない。 むしろ、良識ある男なら喜んで受け入れそうだ。しかし、ガスパルは目を吊り上げて声を荒らげた。
「嫌だよ! 身のほどを知れよ!」
「いや、『身のほど』って……。私、一応、婚約者……」
「なにが悲しくて喪服女連れて踊んなきゃいけないんだ! 俺まで辛気臭いと思われるじゃねえか!」
「も、喪服じゃないわ、多分……。前に赤色のドレスを着たら『馬鹿っぽく見えるから、もっと地味なやつにしろ』って、言ったじゃない……」
「人のせいにすんなよ! お前はなに着ても似合わないんだから、他に言いようがないだろう!?」
「そ、そんな……」
人前でどやされ、ラウラはすっかり萎縮してしまった。だいぶ理不尽な言われようだが、あながち間違いではない気がして、言い返せずに二の足を踏んでしまう。
逡巡したのち、ラウラはガスパルを睨み返した。
普段ならここで大人しく引き下がるが、今日ばかりは負けられない。貴族令嬢として生まれた以上、親が取り決めた婚約は守らねばならないというのがその理由だ。貴族の端くれとして、いたずらに家名を下げられるのは耐えがたい。
「こ、婚約者は私よ……! アルディーヌの名に傷をつける行為は……み、見逃せないわ……!」
涙が出そうになるのを堪え、ラウラは声を震わせた。矜持を貫いた達成感よりも、「言ってしまった」という絶望の方が上回るところに、彼女の矮小な人間性が表れている。 そして次の瞬間、最も恐れていた言葉が会場全体に響き渡った。
「皆さん、聞いてください! ガスパル・イヴォン・ドゥルーはこの場をもって、ラウラ・ソフィア・アルディーヌとの婚約破棄を宣言します!」
高らかな声に続き、静寂が辺りに立ち込める。どこからともなくヒソヒソと話し合う声が飛び交い、好奇のまなざしが集まった。
「ど、どうして……?」
困惑を隠せず、ラウラは目を丸くする。ガスパルは「当たり前だろ」と言わんばかりに、リーナを抱き寄せた。
「お前のことなんか、はじめから眼中にないし」
そう言って、彼はからからと哄笑する。その隣で、リーナも堪えきれずに「フフッ」と吹き出した。あまりにも惨めな仕打ちを前に、ラウラはこぶしを震わせた。
大事にされていないことなど、はじめから分かりきっていた。
それでも、家のために耐え続けてきたのだ。「仕方ない」と自分に繰り返し言い聞かせて。自分のような女は愛されないから、粗末に扱われても「仕方ない」のだと。
「ふ、ふざけないで……!」
淀んだ深海色の瞳から大粒の涙をこぼし、ラウラは顔を歪めた。
腹の底は業火のごとく煮えているのに、胸の奥はひえびえとしている。海底から湧き立つあぶくのように、やり場のない怒りが膨れ上がった。
「私、たくさん、我慢したのに……! なのに、ひどい……!」
ぶるぶると体を震わせ、ラウラはガスパルにつかみかかった。
彼だけではない。両親や侍女、その他大勢から軽んじられて生きてきた。長年溜め込んだ鬱憤が、血潮となってこの身を焦がす。どうして自分ばっかり、こんな扱いなのだろう?
この世のすべてが憎かった。でも、なにが憎いのかまでは分からない。
言葉にもならない声で喚き散らし、ラウラは腕を振り上げた。獣のようだと、自分でも思う。昔から、感情のコントロールは苦手なのだ。特に怒りは。だからこそ、ずっと我慢し続けてきたのに。
このまま殴れば暴力沙汰だ。理性の声が中耳に響くも、振り上げた腕は止まらない。瞬間、何者かに手首をつかまれた。
「祝いの席で痴話喧嘩とはいい度胸だ。もっとマシな余興は思いつかなかったのか?」
燃える赤毛の男が、冷たい目でこちらを見下ろしている。ガスパルはすらりと伸びた長身を見上げ、「ク、クロード殿下……」と顔を引きつらせた。
「ドゥルー卿、今日は皇帝の戴冠記念のパーティだ。婚約破棄の会見がしたいなら、日を改めた方がいいだろう」
「も、申し訳ありません……」
縮こまるガスパルとリーナを一瞥し、クロードは付き人に目線を送った。会場から連れ出せという合図らしい。すごすごと立ち去るガスパルらを見届け、彼は初老の男に言葉を投げかける。
「宰相、俺はアルディーヌの令嬢を屋敷に送る」
「そんな……! 殿下がなさるようなことではございません……!」
「興が削がれた。外の空気が吸いたい」
そう言って、クロードはラウラを引きずって踵を返した。宰相はもの言いたげに顔をしかめたものの、特に追いかけるでもなく、大仰にため息をつくだけだ。
「それだけ地味なら、変装は不要だな」
廊下を抜けて物置きらしき小部屋に入り、クロードは振り向き様につぶやいた。言わんとする意味が分からず、ラウラは訝しげに小首を傾げる。
「あの……助けてくださり、ありがとうございました」
しかも、送迎まで――と言いかけたところで、クロードは古ぼけた黒いローブを手に言葉を遮る。
「勘違いするな。貴女のためではない」
そう言って大判のローブを羽織り、顔を隠すようにフードを被る。彼はこちらに背を向けたままローブの中でごそごそ動いてから、何事もないと言わんばかりに振り向いた。
「よし、いいぞ。馬車に乗ろう」
足早に物置きを抜け出し、厩舎へと進んでいく。ラウラはクロードを見失わないよう、小走りで暗い夜道を進んだ。
どうして変装するのか疑問を抱くも、付き人もなく行動していることを考えれば納得できた。私用で宮殿を出る際は、素性を隠さねばならないルールでもあるのだろう。
クロードは御者にそれっぽい偽名と用件を伝えると、そそくさとキャビンに乗り込んだ。黒いローブが功を奏し、皇太子であることはばれていない。
そこまで徹底して隠れて行動する必要はあるのか疑問に思いながら、ラウラは向かいの席に腰を下ろした。沈黙に気まずさを覚えつつ馬車に揺られるも、宵闇に浮かぶ景色で我に返る。
「あれ……?」
小首を傾げ、ラウラはうろんげに目を凝らした。
アルディーヌ領の方角ではない。そうこうしているうちに、夜道は飴色で彩られた繁華街へと姿を変えた。酒場に賭博場、客引きの娼婦など、貴族令嬢には馴染みのない光景が広がっている。
「あの、殿下……?」
さすがに不安になり、ラウラは無礼を承知で投げかけた。その声には目もくれず、彼はこちらに背を向けている。フードで顔を隠しながら、化粧でもしているかのようだ。そこまで考え、「いや、まさか」とかぶりを振った。庶民ならともかく、クロードは国家の象徴たる皇太子だ。化粧をしているかもしれないだなんて、想像するだけでも不敬に当たる。
物思いに耽っていると、馬車が停まった。街はずれにポツンと佇む、見るからに怪しげな店の前だ。
「――着いたわね」
瞬間、ばさっと音を立て、古びたローブが床に落ちた。
現れたのは、コルセットを思わせる奇抜な衣装――。