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皇太子殿下はドSでオネエな『女王様』!?  卑屈令嬢ですが調教されて愛され妃に生まれ変わります 2

第二話

 

「え……?」
 宮殿を出る前とは似ても似つかない姿に、ラウラは思わず息を呑んだ。視線の先では、艶のある黒革の衣服が、街灯の光を浴びて輝いている。胴体にピタリと沿ったデザインは、鍛えられた体のラインを浮き彫りにしていた。
「ふふ、いい顔で驚いてくれるじゃない」
 呆気に取られるラウラの頬に触れ、クロードは愉悦の表情で口角を持ち上げた。その顔には、やはりと言うべきか厚化粧が施してあった。先ほど目にした不審な振る舞いは、思い違いではなかったらしい。変装だけでなく、早着替えのためのローブだったのだろう。
 そこまで理解が及ぶも、格式高い皇太子に女装の趣味があったとは夢にも思わず、ラウラは呆然とクロードを見つめた。そもそも、この服は女性用で合っているのだろうか。
 頭に疑問符を浮かべていると、視線の先で漆黒の衣装がきらめいた。こちらの考えを見透かすように、クロードがニヤリと笑う。
「ボンデージよ。SMをするための衣装。アタシ、この店で『女王様』をしているの」
「『女王様』……?」
 ラウラは聞き間違いを疑いながら、彼の言葉を繰り返した。頭のてっぺんからつま先まで、間違い探しをする要領で視線を遣るも、目の前の男はグノーブル帝国の皇太子で男性だ。露出の激しい衣装を着て化粧したところで、『女王様』にはなり得ない。
「どちらかというと、『王子様』ですよね……? 皇太子ですし……」
 言葉の真意が汲み取れず、無礼を承知で訝しむと、「コラ、ダメでしょ」と制された。
「お忍びなんだから、正体を明かすのはやめてちょうだい。お客さんの前でやったら、承知しないからね?」
 そう言って馬車の外を顎でしゃくり、クロードはラウラに向き直った。話から推測するに、素性を隠してこの店で働いているようだ。見たところ酒場でもあるようだが、だとしてもこの奇妙な服装と芝居がかった女言葉の説明がつかず、疑問はより深まっていく。
「ったく、飲み込みが悪いわねえ……」
 いつまでも状況を理解できないラウラに業を煮やしたのか、クロードは見かねた素振りでため息をついた。ゆるゆるとかぶりを振り、噛んで含める口調で説明を付け足す。
「世の中にはね、こういうのが好きな人もいるの! アタシはただ、そういう人たちの相手をしてあげているだけ。ずっと宮殿にいたんじゃ、堅苦しくて息が詰まっちゃうでしょう? 息抜きよ、い・き・ぬ・き!」
「は、はあ……」
 露骨に顔をしかめたまま、ラウラは歯切れ悪くうなずいた。なぜ一国の皇太子が身分を隠してまで『女王様』を演じる必要があるのか、相変わらず理解が及ばないものの、息抜きなのだと言われれば納得するより他はない。
 兎にも角にも、需要があるから商売として成り立っているのだ。なかば強引に自分を納得させ、ラウラは目の前の男を見るでもなくちらちらと盗み見た。
 何回見ても、目のやり場に困る衣装だ。そんなことを考えては、窓の外の店に視線を移す。どうしてお忍びでの息抜きに、自分みたいな女を連れてきたのだろう。あらゆる可能性を考えてみたが、皆目見当もつかなかった。
 狭い馬車の中、蛇に睨まれたカエルさながらに縮こまっていると、視界の端でエメラルドの双眸がギラリと光った。次の瞬間、クロードに顎を引っつかまれる。
「卑屈な目。だけど、怒りで今にもはち切れそう……」
 心の中を見透かされた気がして、ラウラの肩がぎくりと跳ねる。艶麗ながらも威圧的なまなざしに、底知れない恐怖を感じた。
「アンタ、本当は悔しくて堪らないんでしょ? それを認めたら心が壊れちゃうから、自分を卑下して誤魔化してる」
「なに、言って……」
 触れられたくない核心の部分を覗かれた気がして、その気はなくとも声が震えた。力強い手に押さえ込まれたこの状況では、逃げることはおろか、視線を動かすことすらままならない。
「女には興味ないんだけど、アンタはイジメたら面白そうね……」
 ぱっと手を放し、宝石のような双眸が弧を描いた。つかまれた顎の辺りがじんじんと熱を帯び、ラウラは頬を赤らめる。
 捕食者を思わせる、ぎらついた嗜虐の瞳。今すぐにでも振り切って逃げるべきだろうに、気付けば我を忘れて吸い込まれている。
「ふふ、焦らなくても、詳しい事情は話してあげるわ……」
 窓から見える店に目を投じ、クロードは妖艶な笑みを浮かべて言葉を継いだ。男とも女ともつかない色香を前に、ラウラは口に溜まった唾を飲み下す。

  ◇

 父王の戴冠十周年を祝う夜会の直前、グノーブル帝国皇太子であるクロードは不本意ながら呼び出しを喰らった。御年五十一になるユベルは自室のカウチに体を預け、わずかにずれた王冠に指先を遣る。
「――して、妃の候補は見つかったか?」
 聞き飽きた質問に、クロードはそっぽを向くことで答えを示す。
 それを見て、ユベルは長大息で応じた。落胆が過ぎるあまり、椅子からずり落ちそうになっている。相変わらず芝居がかった振る舞いに、クロードは人知れず鼻白む。
「縁談も見合いも、数えきれないほど用意したろう? めぼしい者すらいないのか?」
 信じられない、と言わんばかりに頭を抱える父王に、クロードは恬淡とした口調で「いません」と切り返す。
 周囲には打ち明けていないものの、女には興味がないのだ。いくら結婚を勧められたところで、ピンと来るはずがない。
「お前……二十七だぞ?」
「存じております」
「ワシがお前くらいの時にはな、結婚して、子どもだって作って、お前のオムツなんかも替えたりして……」
「存じております」
「いくら政に長けたところで、世継ぎを作らねば王族として認められんのだ。見ろ、近頃のサヴォイアを。お前がいつまでも所帯を持たないのをいいことに、立場を乗っ取るつもりだぞ!? あんな野心家な宰相、見たことないわ!」
「存じ……。ハア……」
「聞いておるのか!? ため息までつきおって!」
 ユベルは居住まいを正し、前のめりになって喚き散らした。
 立ち話で済むと踏んでいたクロードは椅子に腰かけるタイミングを失ったまま、棒立ちで父王の話を聞き流している。
「いいか? 今夜の式典で相手を探せ。そこそこの家柄で子どもさえ産めれば、とやかく言うつもりはない。このままでは、サヴォイアに足をすくわれるぞ!?」
 だから彼奴は宰相にしたくなかったんだ――誰に対してか分からない不満をつぶやきながら、皇帝はまたしてもずれた王冠に手を遣った。
 若い頃はぴったり塡まっていたものの、年の端には勝てないらしく、近頃はゆるくなっているようだ。戴冠直後に比べ、髪も減ったし体も萎んだ。それに反比例して、小言だけが増えていった。
「見たか? 奴が検討中の政策一覧……! 経済活性化や外交問題の中に、しれっと王位継承権の見直しを交ぜこんでおった……! お前から玉座を奪う気満々だ!」
 唾を飛ばして熱弁を振るうユベルを見下ろし、クロードは決まり悪く視線を逸らした。言われずとも、宰相のねらいには気付いている。
 父とそう歳が変わらないにもかかわらず、サヴォイアの野心は相当なものだ。既に宮中に確固たる派閥を作っているため、下手に排除することもできない。加えて、表面上はクロードの右腕を演じているから、余計に質が悪いのだ。
 妃と世継ぎができたところで、今さら宰相の暗躍を止めることは不可能だろうが、牽制にはなるだろう。
 そう考えれば父王の言う通り、今すぐにでも伴侶を見つけるべきなのだが、いまいち気が進まなかった。生まれてこの方、同性にしか性的興奮を覚えたことがないのだ。しかも、SMプレイに興じている時限定。
 立場にそぐわない性癖であることは自覚している。かといって打ち明けるわけにもいかず、クロードはのらりくらりとユベルの説教をやり過ごした。
 たとえ宰相がなにか仕掛けてきても、持ち前の機転で切り抜けられるだろう。
 楽観的な考えを自分に言い聞かせ、部屋を出る。そろそろ夜会の会場に向かおうかと考えていると、件の宰相と出くわした。
「これはこれは、クロード殿下」
 そう言って、ハゲワシを思わせる顔をした中年の男が、うやうやしく首を垂れる。骸骨に皮を巻いたとしか言いようがない体躯に、ぎょろぎょろと落ちくぼんだ双眸。薄ら笑いを浮かべてゴマをする姿は、見る者に「卑しい」という印象を抱かせる。
「何用だ、サヴォイア」
 父の忠告を頭の中で反芻しつつ、クロードは平静を取り繕った。
 実権を狙っているせいか、こちらもユベルに負けず劣らずの文句言いだ。しかも、父王のように諭すのではなく、重箱の隅を突くタイプだから始末に負えない。
 ――きっと、いつもの粗探しだ。
 なかばうんざりとした表情で、クロードは気取られないよう肩を落とした。そんなことなど知る由もなく、サヴォイアは意地の悪い笑みを浮かべる。
「先日のクレテイユ公国からの要請について、殿下はいかがお考えですかな?」
 丸まった背でこちらを見上げ、意地の悪そうな両目をゆったりと細める。王族の分家が治める近隣国から、治安悪化に関する相談を受けたのは記憶に新しい。そのことを思い出し、クロードはそつなく答えた。
「行商を通じて、危険な薬物が密輸されているらしいな。それにより犯罪が増加し、生産力が落ちていると報告を受けた」
 話によれば、催眠効果が強い薬品なのだという。酒に酔った酩酊気分が味わえることから、快楽目的での使用や婦女暴行を狙った悪用が絶えないと報告書に記されていた。
「グノーブルとしては、なにかしらの支援を講じる必要がありますが」
「まずは庶民の安全が第一だろう。犯罪抑止の警備隊を派遣し、相次ぐ食糧不足を解消すべく糧秣を配布する」
「それでは、薬物の密輸対策が後手になるのでは? 関所の整備こそ、早急に対処すべき事柄でしょうに!」
 ぎょろりとした目を見開き、サヴォイアは嬉々とした表情で異を唱えた。クロードは口を引き結び、「また始まった」と内心でつぶやく。
「他国から公国に入ってくるものはすべて規制。それこそが定石でございます!」
「密輸人が律儀に関所を通るはずがない。猫も杓子も規制では、国内の物資供給が滞るぞ。民が飢えれば、暴動や略奪の温床になる」
「しかし、それではいずれ、我がグノーブルにも件の薬が流入します。既に隣国で広がっているのですから、こちらに来るのも時間の問題かと」
「国政を優先しては、クレテイユを見捨てたと受け取られかねん。国は違えど、元はグノーブルの一部だ」
「『見捨てる』だなんて滅相もない。水際対策を講じているだけではございませんか。既に被害の及んだ隣国よりも、自国の防御を優先するのは当然の流れです。大公である伯父上様も、きっとご理解してくれるはずです」
 実際の年齢よりも老け込んだ口角を持ち上げ、サヴォイアは得意げに言葉を継いだ。意見を戦わせているようでいて、付け入る隙をうかがっているだけなのはいつも通りだ。
 ここでもし、クロードがこの男の意見を取り入れでもすれば、彼は嬉々として手のひらを返すだろう。公国の主である伯父貴のもとへ出向いては、「クロードはお前の国を見捨てるつもりだ」と吹聴するに違いない。
「立ち話で済ませていい議論ではない。廷臣を招集し、日を改めて話し合おう」
 クロードは挑発の類には一切乗らず、至って冷静な態度を貫き通した。
 この場で結論を急いだところで、余計な言質を取られるだけだ。サヴォイアは一瞬口惜しげな表情になるも、「御意でございます」と引き下がる。その後ろ姿を見て、クロードは吐き捨てた。
「ったく、ホント腹立つわ……! あのハゲジジイ……!」
 足早にその場を立ち去りつつ、くちびるを尖らせる。日頃のストレスが高じるあまり、ついつい「裏の顔」が出てしまった。
 ――そろそろ『お店』に顔を出そうかしら。
 街はずれに佇むSMクラブを頭に思い描き、クロードは肩の荷が下りたとばかりに愁眉を開いた。しかし、そのためには夜会を早めに切り上げなければならない。
 父王から妃を探せと命じられたばかりだったことを思い出し、途端に気分が重くなった。下ろしたばかりの肩の荷が、倍になって伸し掛かってきた気分だ。
 ――まあ、いいか。適当に探せば……。
 どうせ欲しいのは世継ぎの男児だ。愛し合う必要はない。
 はじめはお互い理解し合える関係を望んでいたのだが、周りとは異なる性癖を持ち合わせていることもあり、クロードの結婚観は冷めたものになっていた。
 事の発端は幼少期。文字が読めるようになった彼は文学に興味を示し、勉強の合間を縫っては本を読み漁る日々を送っていた。二次性徴を迎える以前だったため、異性に対する劣情はない。誰に対しても平等で、心優しい少年だった。
 にもかかわらず、出会ってしまったのである。屈辱と羞恥が織りなす、SMの世界に。
 意味が分からないなりに、幼いクロードは夢中で読んだ。そして、生まれて初めての精通を経験した。屈強な戦士が、『女王様』にひざまずく姿を想像しながら。
 古びた文学書を手に、クロードは妄想の世界に入り浸った。相手が凌辱に悶え、口惜しさで目尻を吊り上げれば吊り上げるほど、自身の股間も硬くなる。
 最高だった。自分も『女王様』になって、鋭い目つきで睨まれたかった。
 そして、男たちの猛々しいプライドを、根元からへし折ってやりたかった。その結果、相手が絶望で快楽に堕ちたとしても、そこで終わらせるつもりは毛頭ない。今度は別の角度から光をちらつかせ、反骨心を抱いたところで再び屈服させたい。
 惨めで情けない負け犬だという事実を、延々と魂の髄に刻み続けたいのだ。そうして腑抜けになった相手を、今度は慈愛の心で立ち直らせてあげたいと思った。そうすれば、また一から踏みにじることができるから。
 非力な生娘では、自身の望む凌辱には耐えられない。
 妄想を重ねていくにつれ、クロードは異性に見切りをつけた。心身ともに軟弱では、途中で壊れてしまう。それでは面白くない。そう考えると、やはり、屈強な男が望ましい。
 そうして二次性徴を経て成人する頃には、クロードの性癖はすっかりねじ曲がっていた。
 兎にも角にも、『女王様』になりたくて仕方なかった。『王子様』という、負けず劣らずの身分があるにもかかわらず。
 その熱量たるやすさまじく、城下の片隅にSMクラブがあると知った翌日には、お忍びで来店していたほどだ。若者特有のフットワークともいえるだろう。
『アバンチュール』と呼ばれる店の主人は、クロードを快く受け入れたばかりか、長年の夢を叶えてくれた。周りから理解されない性癖の人間が集う場所という都合上、詳しい事情は今まで一度も聞かれたことがない。そうした背景により、実は彼が皇太子であるということを知る者はいなかった。それから七年間、クロードは暇さえあれば、店に入り浸るようになっていた。
 貴族が集う夜会の会場に足を踏み入れながら、彼は最後に店を訪れた日のことを思い返した。あれは確か、ひと月ほど前の出来事だ。

「ちょっと、クロちゃ~ん。いつまでも飲んでないで、お客様に鞭打ってきて~?」
 漆黒のボンデージに身を包んだ店主の男――通称・ママ――にせっつかれ、クロードは気怠げに蒸留酒を呷った。目元の仮面が外れないようバーカウンターに突っ伏し、狸寝入りでやり過ごす。それを見て、ママは金切り声を発した。
「聞こえないフリしてんじゃないわよ、このおブス!」
 カウンター越しに、でっぷりとした腕が振り下ろされる。
 ママのチョップを脳天に喰らい、クロードは潰れたカエルみたいな声を発した。皇太子を演じている時は、こんなくだらないやり取りなど決してしないが、『女王様』の時だけは例外だ。
「なにすんのよ、おデブ!」
「いいから仕事しなさいよ、おブス! お客様、プレイルームで待ってんだからね!?」
 洗ったグラスを戸棚に戻しつつ、ママは奥の扉を顎でしゃくった。
 バーエリアの向こうはいくつかの小部屋とつながっており、そこで客とSMプレイを行うことになっている。クロードは「使用中」の札が掛かった扉を一瞥し、いけしゃあしゃあと向き直った。
「分かってないわね、ママ。あれは『放置プレイ』ってヤツよ。だから、さっさとおかわりちょうだい」
 そう言って、飲み終えたグラスをカウンターに差し出す。ママは目を吊り上げ、クロードの手の甲を引っ叩いた。
「サボってるだけじゃない! つべこべ言ってんじゃないわよ!」
「だってェ~、最近のM男、従順すぎてつまんな~い!」
 頬杖をつき、拗ねた子どものように口を尖らせる。慌ただしい王室を抜け出して行うSMプレイは、クロードにとって最高のストレス発散だ。しかし、近頃どうもマンネリになってきた。
 どいつもこいつもすぐに懐くし、思った通りの反応しか示さない。どうやって手懐けようか策を練りたいクロードとしては、いささか物足りない印象だ。
「アタシさ、もっとゾクゾクしたいんだよね……そう、滾りたいの! ねえ、ママなら分かるでしょ!?」
「うっさいわね! いい加減にしないと、先にアンタを『おしおき』するわよ!?」
 うだつの上がらないクロードに業を煮やしたのか、ママは壁に吊るされた鞭に手を伸ばした。成人男性の体長ほどの長さの一本鞭。拷問にも使われる、かなり本格的な代物だ。
「あっ、そろそろプレイルーム行ってきまーす……」
 愛用のバラ鞭を引っつかみ、クロードはそそくさと使用中の掛札のもとに歩みを進めた。

 そんなやり取りから早一か月。
 マンネリとはいえ、時が経てば店が恋しい。『女王様』をやっている時が一番、素の自分に戻れるのだ。窮屈な王宮生活だけでは、ストレスで気が狂いかねない。
 父王の言う通り、妃候補を適当に選び、さっさと店に行こう。今日こそは『アバンチュール』に顔を出すのだ。
 賑わう会場を闊歩しながら、クロードは人知れず心に決めた。ここ最近忙しかったものの、そろそろ顔を出さねばママに心配されてしまう。
 そのためには自身の性癖に理解を示してくれる、物分かりの良い令嬢を引き当てなければならないのだが、それがなにより難しい。
 いっそ『訳あり』の女の方が取引しやすそうな気がするも、どの令嬢にも難点は見当たらない。恋愛市場では大抵、条件のいい女性が目立つものだ。その中で逆を狙っているのだから、当然上手くいくはずがない。
「だから女はイヤなのよ……!」
 お門違いな八つ当たりをぼやき、クロードは父王に祝辞を述べた。ここでもまた、今日中に妃を選ぶよう釘を刺され、視界が絶望一色に染まる。
 適当でいいから――父は繰り返しそう言うも、その通りにして国が傾けば、「ごめんなさい」では済まされない。万が一、妃候補がSM趣味を言いふらしでもしたら……。
 考えるだけでも恐ろしくなり、クロードは背筋を震わせた。政敵・サヴォイアの勝ち誇った顔が、見たわけでもないのに脳裏をよぎる。成り上がりを夢見る宰相としては、皇太子のスキャンダルは願ってもない僥倖だろう。
 気を取り直して上級貴族に挨拶をしつつ、壁掛けの時計を盗み見た。
 思いのほか時間が過ぎている。このままでは『女王様』として鞭を振るう時間がなくなりそうだ。今日こそは、店に行けると信じていたのに。
 どうしたものか――頭を抱えていると、ダンスホールが騒がしいことに気が付いた。
「私、たくさん、我慢したのに……! なのに、ひどい……!」
 使用人と見間違うような地味な女が、派手に着飾った男女と言い争っている。話の内容から察するに、一方的な婚約破棄に異を唱えているらしい。感情の吐露が下手すぎて、見ているこっちが恥ずかしくなってくる。
 普段から言いたいことも言えず、我慢し続けてきたのが爆発したのだろう。泣き叫ぶ令嬢を見つめ、クロードは頭の中で冷静に分析した。『女王様』という職業上、人の内面を見抜くのには自信がある。
 ――この娘、いいんじゃない?
 降って湧いた閃きに、クロードは女の方へと歩みを進めた。
 どうせ、公の場で婚約破棄を告げられた令嬢だ。「捨てられた女」という汚名が晴らせれば、多少の取引には応じてくれるはず。
 加えて、根暗そうで口下手というのも都合が良かった。プライドが高い貴族令嬢と比べたら、扱いやすいことこの上ない。伯爵家出身なら、父王も渋々ではあるが納得するはずだ。
 わずかな時間でそこまで考え、クロードは痴話喧嘩をする三人の間に割って入った。 瞬間、怒りに震える深海色の瞳が視界をよぎり、悪寒に似た興奮が背筋を駆ける。
 ――イジメ甲斐のありそうな目……。
 ほのかに湧き上がる加虐心をやり過ごし、クロードは女を連れて会場を出た。

 

 

 

 不本意ながら足を踏み入れたSMクラブで脅迫まがいの求婚を受け、ラウラはクロードと婚約する羽目になった。
 両親はガスパルとの婚約破棄に失望するも、皇太子妃に抜擢されたという知らせに、諸手を挙げて喜んだ。無論、クロードの悪趣味は知る由もない。
 王宮への引っ越し準備を終え、ラウラは馬車の前で立ち止まった。娘の門出を祝し、両親が屋敷の前まで見送りに出ている。傾きつつある太陽は西の空へ沈み、周囲を赤々と燃やしていた。
「まさかラウラが、皇太子妃なんてねえ……」
 娘と同じ黒髪を揺らし、ラウラの母・シモーヌがしみじみとつぶやいた。その隣で、実父のトニがガハハと笑う。
「でかしたぞ、ラウラ! お前には取り柄がないと思っていたが、まさか皇太子に見初められるとは! これで我がアルディーヌ家も安泰だ!」
 明らかな暴言にもかかわらず、シモーヌは「そうね」と夫に微笑みかける。
 昔からこうだ。彼女はラウラを庇うような真似は一切しない。娘よりも、自分が夫から責められないことの方が、何百倍も大切なのだ。
「ドゥルー家の小僧も、今頃悔しがっているに違いない。あのクソガキ、前から気に食わなかったんだ!」
 したり顔で続けるトニに対し、シモーヌは意外だと言わんばかりに振り返る。
「まあ、仲良くしてらっしゃったではありませんか。『実の息子のようだ』と……」
「馬鹿め、それは単なる建前だ。お前には分からんだろうが、人付き合いってのは、とても難しいものなんだぞ?」
 ガスパルも裏でまったく同じ悪口を言っていたのを思い出し、ラウラはそそくさと馬車に乗り込んだ。自分なんかより、彼の方がよほど父の子に相応しい気がする。さっさと出発しようとしたところで、トニが思い出したと言わんばかりに切り出した。
「そういえば、ガスパル君から式の招待状を預かっていたぞ。近いうちに、リーナ嬢と結婚するそうだ」
 彼は懐から封筒を取り出し、キャビンの窓越しに手渡した。ラウラは心臓をつかまれたように飛び上がり、装飾の施された封書を受け取る。
 ――あんなことをしておいて、どういうつもり……?
 差出人の名を目にしただけで、夜会での記憶がよみがえる。公衆の面前で婚約破棄を宣言し、ラウラにこれ以上ないほどの恥をかかせたのは記憶に新しい。
 クロードから注意されたにもかかわらず、当人たちは反省の色もなく、結婚式の準備を進めていたのだ。睦み合う二人を思い浮かべ、ラウラははらわたが煮えくり返った。
 ――もっと、周りから非難されればいいのに……。
 棘だらけの鬱憤が、胸の中で膨らんでいく。どうして周囲から祝福されているのだろう。招待状を送っているということは、少なくとも両家の人間は結婚を認めたのだろう。
 こちらは長きにわたって虐げられてきたにもかかわらず、相応の報いすらない。それどころか、幸せをつかむだなんて。
 封筒を手に怒りを堪えているうちに、馬車は生家を後にしていた。招待状を破こうと手をかけるも、日没後の空の赤さに思いとどまる。
 燃えるような赤い空。闇夜の気配を孕んだ情熱の色は、クロードの髪色を彷彿させる。 裏の顔は悪趣味極まりないが、感情の制御ができなくなった自分を助けてくれたのは、紛れもない事実だ。
「どうして、私なのかしら……?」
 封筒を懐にしまい込み、ラウラは窓の外を眺めた。人通りのない田舎道。馬車の揺れる鈍い音が、耳の中でこだまする。じわじわと広がっていく夜の帳に身を預け、彼女は王宮に到着するのを静かに待った。