謹んでヤり逃げさせていただきます2 一途なオオカミくんは番の女騎士を生涯愛し尽くしたい! 1
エミリア・サーストンは狼騎士団【ウルフナイツ】の詰所に届けられた今日の新聞に目を落とした。
『バンクス侯爵家 次の当主は誰!?』
大きな見出しの横に、それよりもやや小さな文字で説明がつけ加えられている。
『次代の候補は二人 後継者問題いかに?』
記事に目を通しながらエミリアは「ふうん」と小さな声で唸った。
老齢のバンクス侯爵、ロデリック・ワージントンが亡くなったのは二か月近く前のことだ。侯爵は独身で嫡子がいなかったので、傍系男子の誰かが爵位を継ぐことになる。だが、いつまで経っても遺言状が公開されたという話がなく、次の当主についても何も発表されないままであった。
そんな中でも、次期当主候補は二人に絞られているようだ。
「ふむふむ」
エミリアは記事を目で追いながら机の引き出しから缶を取り出し、それを開けた。これは騎士団から支給されている携帯食で、中身は塩味のクラッカーだ。張り込みの際に現場へ持っていくものだが、こうして口が寂しいときにおやつ代わりに食べることもある。
クラッカーをポリポリと齧りつつ記事の先を読もうとすると、エミリアの机にフレッド・アンブローズがやってきた。
「エミリアさん。あの、そろそろ……」
柔らかな微笑みを浮かべている後輩を、エミリアはじっと見つめる。
以前は彼がこんな風に遠慮がちに話しかけてくるのが煩わしかった。エミリアはフレッドを一方的にライバル視していたから、低姿勢なところがかえって癇に障ったのだ。
でも、彼との関係は変わった。
するとどうだろう。いまのように話しかけてくる彼は、捨てられることを恐れ、主人の機嫌を窺う犬にそっくりなことに気がついたのだ。
その様子はどこか哀れを誘う。だが同じくらい愛しくもある。きっと、カワイソカワイイというやつだ。
そんなことを考えつつクラッカーを飲み込むと、もう一度フレッドが言った。
「エミリアさん? あの、そろそろ準備をしないと……」
「あっ、もうそんな時間?」
そう答えて立ちあがり、騎士団の団長であるパーシヴァルのほうへ視線を向けた。彼は「わかっている」とでも言うようにエミリアとフレッドに向かって頷いたので、エミリアは簡単に机の上を片づける。
「じゃ、行こっか」
「はい」
フレッドがそう口にした途端、フィニアスがはやし立てた。
「おっ、ラブラブってやつだな! ヒューヒュー!」
こっそり詰所を出るつもりだったのに、フィニアスが騒いだせいで皆がこちらを見る。
エミリアはキッとフィニアスをひと睨みしてから「行こ!」と言ってフレッドの袖を引っ張ったのだった。
「もう、フィニアスのやつってば、むかつく!」
詰所から廊下に出たところでエミリアは口にした。
「あんな風に子供っぽくからかうことないと思わない?」
「そうですか?」
フレッドに訊ねたが、彼はエミリアとは意見が違うらしい。
「俺は、宣伝になって嬉しいですけど」
「……宣伝?」
「はい。俺と、エミリアさんが交際してるって言いふらしてくれてるわけでしょう? 副団長のおかげで、エミリアさんに悪い虫が寄ってきません」
エミリアとフレッドが交際を始めたことに、真っ先に気づいたのはパーシヴァルだった。だが彼は「仕事に支障がなければ騎士団内の恋愛でも問題はない」という考えだったので、二人の間で何かが変わることはなかった。
しかしフィニアスに交際がばれると、あっという間に団員たちに話が広まってしまったのだ。もちろんフィニアスが面白がって言いふらしたからである。
エミリアはそれを苦々しく思っていたが、フレッドはそうではないようだ。からかわれるたびに、どこか嬉しそうにしている。いまもそうだ。こういう風にストレートに感情を表されると、エミリアは弱い。
「な、何言ってるの。悪い虫なんて……」
そんなものが寄ってきたためしはない。
「エミリアさんが気づいていないだけだと思いますよ。俺たちの交際のこと、残念がっている男はきっといます」
「まさかあ」
「いえ、これからだってわかりません。だから、宣伝には力を入れていかないと」
フレッドはそう言ってエミリアの手をとり、宿舎のほうへ向かって歩く。
時折すれ違う他団の騎士たちが、つないだ手をじろじろと見てくる。すごく気恥ずかしかったが、フレッドの手を振り払う気にはなれなかった。
エミリアたちは、これからもっと大げさに宣伝しに行くつもりなのだから。
フィニアスに交際がばれて騎士団内に二人の噂が広がったとき、フレッドの行動は速かった。彼はエミリアの両親に、結婚を前提にした交際の許可を得に行ったのだ。次はエミリアがフレッドの実家に連れていかれて……デクスター侯爵でもあるアンブローズ家と、サーストン家の婚約話はあっという間にまとまった。
そしてフレッドは二人の婚約をもっと周知しようとして、夜会の予定を入れまくっている。今日も仕事を早めに上がって、とある邸宅の夜会に参加することになっていた。
「エミリアさん、俺の腕につかまってください」
夜会の会場は、イースター伯爵家。古くから続く家柄で、広大な領地を持つ、ルージェン王国を代表する貴族家の一つだ。大勢の参加者が見込まれているので、フレッドは「婚約周知にふさわしい」と判断したようだ。
「う、うん。私、変なところない?」
エミリアは自分の姿を見下ろした。ドレスは宿舎のメイドに手伝ってもらって身につけたものだ。騎士団に身を置いているとドレスを着る機会があまりないので、露わになった背中や胸元が気になって仕方がない。
「すごく綺麗ですよ」
フレッドはそう言いながらエミリアの頭からつま先まで眺め、今度はつま先から視線を上げていき……胸のところで一瞬目を留め、微笑んで先ほどと同じセリフを言った。
「すごく綺麗です」
「そ、そう……?」
この胸の谷間はパッドを左右に二つずつ詰め、コルセットを締めあげて作ってもらったものである。フレッドは突如現れた谷間に違和感を抱いているに違いない。しかし彼がそこに言及することはなかった。
自分としてもこの谷間には違和感ありまくりなのだが、気にしていると猫背になってしまいそうだ。エミリアはすっと姿勢を正し、フレッドの肘に手をかけたのだった。
ホスト夫妻や知り合いに挨拶を済ませた後、ダンスホールへ向かう。フレッドはそこで踊っている人たちを眺めながら、社交界での有名人をエミリアに耳打ちして教えてくれた。
「赤いドレスの女性はドーリー男爵夫人です」
「その名前聞いたことあるかも」
「はい。孤児院や教会に多額の寄付をしている方です。それから、奥のほうにいる胸ポケットを紫のハンカチーフで飾っている男性……貴族ではないんですけど、近いうちに爵位を買うんじゃないかっていう噂が流れてますね」
なんでも、その爵位に付いてくる領地がデクスター侯爵領の近くにあるとフレッドは言う。だから、顔と名前を覚えておいたほうがいいらしい。
「なるほど。覚えること、結構あるのね」
「あとはここのイースター伯爵家の親戚で……あ、疲れちゃいましたか?」
確かに頭に詰め込まなくてはならないことがたくさんある。しかしいろんな人の顔と名前を覚えておけば、何かの捜査のときに役に立つかもしれない。エミリアは首を横に振った。
「ううん。結構楽しいわよ。それに、このお屋敷の立地や間取りも気になるかも!」
エミリアはダンスホールの奥にある窓に目をやった。その先には広い裏庭があり、それほど高くない塀を隔てた場所に別の屋敷が建っている。
捜査で何度かこの辺を通ったことがあるが、裏の屋敷は空き家になって久しかったはずだ。そう告げると、フレッドが頷く。
「幽霊屋敷だっていう人もいますね」
単に管理する人がいなくて放置されているだけらしいが、それを気味悪く思う人が多いのだろう。主にゴシップを扱う新聞記事に、幽霊の目撃談が何度か掲載されたことがあった。
「そうそう。幽霊の話を利用して、悪い輩が住みついたりすることもあるじゃない? もうちょっと塀を高くするとかしておかないと、防犯的な心配があるわよね」
するとフレッドはくすっと笑う。エミリアは自分が仕事モードになっていたことに気がついた。
「あ、ごめん。夜会に参加してるのにこんな話……」
「いえ。つまんないって言われるよりずっといいです」
フレッドは「そろそろ踊りましょうか」と言ってエミリアに手を差し出した。
フレッドと踊った後、エミリアはパウダールームへ向かう。
部屋にいる女性参加者たちは化粧を直す者、踵の高い靴を脱いでくつろいでいる者、男性参加客の品定めをしている若い女性たち、様々である。
エミリアは鏡に姿を映して、ドレスや髪の毛が乱れていないかをチェックした。コルセットが苦しいうえに、ちょっと暑い。フレッドの元に戻る際、いったん裏庭に出て涼んでから行こうと考えた。
廊下に出たエミリアは、フレッドのいるホールへは向かわず裏庭と思しきほうへ向かった。角を曲がると直接裏庭へ出られる回廊があったので、そこから外へ出る。
ひんやりとした空気が心地良い。思い切り深呼吸したいところだが、コルセットが邪魔をして新鮮な空気をたくさん吸い込むことはできなかった。
これからも様々な夜会に参加していれば、この苦しさにも慣れてくるのだろうか。エミリアは忌々しい気分でコルセットのあたりに触れ、それから裏の建物に視線を移した。噂の幽霊屋敷である。
せっかく裏庭に出てきたのだから、幽霊屋敷も観察しておきたい。自分が目にした幽霊についての記事は、誰もいないはずなのにカーテンが動いたとか、物音が聞こえたとか、そういう話だった気がする。
エミリアは幽霊屋敷の窓に目を走らせる。二階の端のほうの部屋に、白っぽい布がかかっているのがわかる。あれが動いたというカーテンなのだろうか。エミリアは首を傾げた。
あれがいま動いたとしても、自分はそんなに驚かないと思う。なにしろ古い屋敷だ。隙間風の入る場所があっても不思議ではないからだ。それに隙間風が入るならば、猫やネズミ、コウモリといった生き物が棲みついている可能性もある。物音が聞こえてもやはりおかしくはないと思った。
きっと新聞社は新聞を売るために、大衆の好奇心をそそるオカルトっぽい記事をわざわざ作っている――そんなところなのだろう。そういった噂を利用して犯罪者の根城にされている建物もあるわけだが、ドレスを着たまま廃墟同然の建物へ調査に乗り込む訳にもいかない。
今度あの建物の持ち主を調べてみよう。とにかく、今日わかるのはここまでだ。エミリアはホールへ戻ろうと踵を返した。
そのとき、この屋敷と幽霊屋敷を隔てている塀のあたりでガサガサッという音がした。エミリアは歩みを止めて、音がしたほうを振り返る。その塀の近くには、剪定が少しばかり疎かになっている低木の茂みがあった。いまの音は、葉っぱが風で揺れたような軽い音ではなかった。
幽霊騒ぎを起こしている猫が、あの茂みに潜んでいる可能性があるのでは?
そう考えたエミリアは茂みに近づいていく。
「……猫ちゃん?」
声をかけたがなんの反応もない。まあ、人慣れしていない猫ならこちらを警戒するだろう。しかし「幽霊騒ぎは猫の仕業かもしれない説」を捨てきれないエミリアは、ドレスの裾が小枝に絡まないように気をつけながら、茂みを覗き込むようにした。
「猫ちゃん、猫ちゃ~ん」
ひょっとしたらイタチとかかもしれないが、猫ちゃんだったら嬉しい。
エミリアは茂みに手を伸ばし、邪魔な小枝を退ける。
すると、白っぽい塊が目に入った。それはこちらの想定よりもかなり大きい。
「ん……?」
不思議に思いながら月明かりの中で目を凝らす。
白っぽいものの質感は、つるんとしていて動物の毛皮には見えなかった。どちらかと言えば人の肌のようなものに見えた。
いや。「ような」ではない。人だ。
月に照らされた真っ白な尻。ここに、全裸の人間が潜んでいるのだ。
「えっ? へ、へ……」
――変態がいる!
エミリアは悲鳴を飲み込んでさっと一歩下がった。
全裸の人間は、茂みの中で頭を押さえて蹲るような姿勢をとっていたから、顔や髪の色はわからない。頭隠して尻隠さずという状態だが、腰や尻のラインは男のもののように見えた。
変態だ。変態がいる。
エミリアは息を止めてもう二、三歩下がる。
ここで変態をとっ捕まえてやりたい気持ちはあるのだが、いまの自分は丸腰である。変態が武器を隠し持っている可能性を考えると、いきなり飛びかかるのは危険だ。しかし大声を出して騒ぎを大きくすると、今度はホスト夫妻に迷惑がかかるかもしれない。夜会に全裸の変態が出たなんて新聞記事になってしまったら、ホスト夫妻はしばらく社交界の笑いものになるだろう。
エミリアはいまの自分ができることを一瞬で色々考え、結局はドレスの裾を翻してフレッドの元へ走ったのだった。
「おっと」
「わっ」
この角を曲がったらホールが見える、というところでフレッドと出くわし、ぶつかりそうになった。
彼は体勢を崩したエミリアの身体をさっと支え、こちらの顔を心配そうに覗き込む。
「どうしました? エミリアさんの足音……ただ事じゃないように聞こえたんですけど」
「う、うん。あの、あのね」
フレッドは人狼だ。普段はヒトの姿を保っているが、それでもたいていの人間より聴力も嗅覚もずっと優れている。彼は離れた場所からエミリアの足音を聞き取り、エミリアが慌てていることを悟ってこちらに向かっていたらしい。
冷静に考えると「そんなことまでわかるなんて、怖」となるところなのだが、いまのエミリアは冷静にはなれない。なにしろ、
「変態! 裏庭に変態がいたの!」
エミリアは周囲の参加客たちには聞こえないように声のトーンを落とし、でも真剣さが伝わる口調でフレッドに訴えた。
「え……?」
フレッドの眉間に皺が寄る。彼はさっと左右に視線を走らせた。
瀟洒なお屋敷に、たくさんのロウソクを使った贅沢なシャンデリア。大理石の床、繊細な模様の入った柱に着飾った人たち――どう考えてもこの華やかな場に変態は似つかわしくない。
しかし、ウルフナイツで数々の事件を担当してきた自分たちは知っている。変態はどこにでも出没するものなのだ。
フレッドは声を潜めてエミリアに訊ねる。
「それは、どういう類の……?」
「茂みの中に全裸で隠れてたの」
「全裸で……? あなたは無事だったんですか? 何もされてないですか?」
「うん。そいつ、こうやって蹲ってたから」
エミリアは件の変態がしていたポーズを身振り手振りで簡単に表現してみせる。
フレッドはエミリアと視線を合わせると、微かに頷いた。
「エミリアさん。現場に案内してください」
「わかった」
エミリアも呼応するように頷き、裏庭へ続く回廊へ向かう。
ふと、フレッドが口にする。
「ちょっと……変ですよね。露出狂って、普通は、その……自分を見せようとするものじゃないですか」
そういえば、そうだ。エミリアは考える。
「……前じゃなくて、お尻を見せたかったんじゃない?」
「でも頭を隠していたんでしょう? そうすると、相手の反応がわからないですよね」
たいていの露出狂は被害者の反応を楽しむ傾向にある。確かに、先ほどの変態の体勢ではこちらの反応を窺えない。エミリアはまた考えた。
「きっと、そういう変態行為は初めてだったんだよ。直前で度胸が無くなってやめた……とか?」
そう口にした後で、いくらなんでも屁理屈がすぎるかも、と思った。
エミリアはほかの理由を考えてみる。茂みで服を脱いでおきながら、隠れるように蹲らなくてはならない理由を。
「あ。追いはぎに遭ったとか!」
「イースター伯爵家の夜会で追いはぎですか?」
「う、うーん……」
変態はどこにでも出没するが、追いはぎがこういった場に現れるとは考えにくい。それに服をはぎ取られて困っているならば、茂みから顔だけ出すようにして他人に助けを求めればいい。
そのとき、ちょうど裏庭の茂みが見えてきた。エミリアは視線をそちらに走らせ、フレッドに「あそこの隅の茂み」と教える。
すると彼は足を止め、茂みに近づくのを躊躇った。
「エミリアさん。あなたが見た変態は……一人でしたか?」
「え? た、多分」
「エミリアさんから見えないところに、もう一人潜んでいたとは考えられませんか?」
はじめはフレッドの質問の意図がわからなかったが、エミリアはフレッドと茂みを見比べ「あ!」と声を発した。
逢引き。
夜会を抜け出して、茂みでいちゃいちゃしていたカップルの可能性だ。それなら顔を隠していたことにも、全裸だったことにも納得がいく。
……いや。全裸……?
エミリアは首を傾げた。
「こういうとこで隠れていちゃつくのに、全部脱ぐ?」
「あ。それも、そうですね……」
自分の説があっさりと覆されたことに気づいたフレッドは、残念そうに声のトーンを落としたが、エミリアは持論の展開を続けた。
「使うとこだけ出せばよくない?」
「ン゙っ……ちょ、ちょっと……エミリアさん……」
フレッドは何かが喉に詰まったみたいに咳き込み、それから真剣な声音でエミリアに告げる。
「エミリアさん。ほかの男の前では、そういう話はしないでくださいね」
「そういう話って……? あ、ちょっと待ってよ」
フレッドが言うだけ言ってすたすたと茂みのほうへ向かって行くので、エミリアは彼の後に続いた。
彼は茂みの少し手前で足を止め、耳を澄ませ、鼻を利かせた。そしてエミリアを振り返る。
「いまは茂みの中には誰もいません」
「えっ」
「でも、何か……誰かの残り香はあります」
フレッドはそう言って茂みに近寄り、小枝を退けて中を覗き込む。
地面に近い場所の枝が折れ、茂っていた短い雑草も潰れているように見えた。潰れている部分の広さは、ちょうど成人男性一人分のスペースだ。
「確かに、人間の男……若い男がさっきまでここにいたようですね」
「それって、つまり……」
つまり、エミリアがフレッドを呼びに行っている間に、どこかへ行ってしまったということだろうか。
「ええー、逃がしちゃった」
さっさととっ捕まえればよかった、と呟くとフレッドがエミリアの肩を抱いた。
「一人で危ないことはしないでください。相手は何がしたいのかわからない奴なんですから」
「うん。今日はドレス着てるし踵の高い靴だから、捕り物劇には不利だもんね」
「いえ、そういうことじゃなくてですね……俺が言いたいのは……」
フレッドはそう口にした後「あれ?」と背後を振り返った。
「ホールのほうがなんだか騒がしいです。ちょっと不穏な感じですね……」
ちょうど音楽の演奏が止んで、エミリアにもざわめきが聞こえるようになった。彼の言うとおり、人々が談笑しているような和やかな雰囲気のものではなかった。
エミリアはハッとしてフレッドに告げる。
「変態がホールに現れたんじゃない?」
「それだったら、もっと悲鳴とか聞こえると思うんですけど……でも、異変があったことには違いなさそうです。行ってみましょうか」
ホールに戻ってみたが、大きな騒ぎがあったようには見えなかった。ただ参加客の立ち位置や視線をよく追ってみると、彼らは二人の青年を遠巻きに観察し、ひそひそと噂話をしているようだった。
「ほら、あれだろ? ……バンクス侯爵家の……」
エミリアの近くにいた男の人がそう口にしたのが聞こえた。バンクス侯爵家。最近、どこかで聞いたような単語だ。どこで聞いたのだったか。エミリアが考えていると、フレッドが耳打ちしてくる。
「あそこで対峙している二人、バンクス侯爵家の後継者候補みたいですよ」
「あっ。ああー……」
エミリアは頷いた。そうだ。後継者問題で揉めている家だ。跡継ぎを設けぬまま当主が亡くなって、次の当主候補が二人いるという話だった。
次の当主候補らしい二人の青年を、エミリアは見比べてみる。
一人は茶色の髪を後ろに撫でつけ、光沢のある青い夜会服を身に着けている。彼は眉間に皺をよせ、忌々し気な目つきで黒髪の青年を睨んでいた。
もう一人の青年のほうは、黒くて長い髪をうなじの少し上のところで結って一本にまとめている。小脇に上着を抱え、チャコールグレーのジレを身に着けていた。その下に着ている白いシャツの胸元のボタンは、一つだけくつろげてあった。茶髪の青年に比べ、だいぶカジュアルな着こなしである。
黒髪の彼は自分を刺すような視線に対し「まいったな」とでも言いたげに肩をすくめた。
その仕草が気に障ったらしい。
「おい、クラーク。このオレを馬鹿にしているのか!?」
茶髪の青年は、怒ったように声を荒げた。
対してクラークと呼ばれた黒髪の青年は再び肩をすくめ、やる気のなさそうな微笑みを浮かべる。
「え? 馬鹿にする? まさかあ」
それは彼の見た目や仕草にふさわしい、どこか脱力したような口調であった。
「それならおまえのふざけた態度はなんだと言うんだ!! まさかおまえは、自分がバンクス侯爵になれるとでも思っているのか?」
「それは僕が決めることじゃないし、君が決めていいことでもないよね」
「お、おまえは……!」
彼らの様子を窺っていた参加客たちがひそひそと口にしだす。
「ねえ……このままケンカがはじまったらどうする?」
「ホスト夫妻を呼んできたほうがいいんじゃない?」
いまの場面を見た感じでは、後継者候補の二人の関係性はすこぶる悪い。茶髪の青年はカッカしてクラークに突っかかっている。しかしだからと言ってクラークも簡単に当主の座を譲るようには思えなかった。
周囲のざわつきが気になるのだろう。クラークは顔をあげて左右を見渡す。
「ねえ、ダリル。僕はパーティーに水を差したいわけじゃない。これでお暇するよ」
彼が踵を返すと、ダリルは「おい、逃げるのか?」と口にした。しかしクラークが振り返ることはなかった。クラークの通り道を開けるようにして、参加客の列も割れる。
エミリアはクラークの姿を観察した。着こなしは砕けているが、衣類の質はいいものだし、歩き方にも品がある。髪を縛っているくすんだ水色のリボンは、瞳の色に合わせたものなのだろう。よく似合っていた。
クラークがこちらに近づいてきたので、エミリアは一歩下がって彼のために道を開けようとした。
しかしクラークはエミリアの目の前で立ち止まる。そしてエミリアの隣にいるフレッドと、しばし見つめ合った。
エミリアは見つめ合う二人の男たちを眺めながら、そういえば彼らの雰囲気はどことなく似ているな、と思う。肌の色はフレッドのほうが浅黒いが、黒髪の質は見た感じそっくりだ。それにクラークの瞳は、光の加減によってはフレッドと同じ灰色にも見える。
そんなことを考えていると、クラークがエミリアのほうへ視線を移す。
「お騒がせしちゃって、ごめんね」
そう言って彼はウインクし、去っていった。