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大嫌いです旦那様! 呪われ令嬢は婚約をぶち壊した腹黒公爵に蕩けるほど甘く愛される 1

第一話

 

 


 仮病でも使えば良かったのかしら。ランメリア・セルリアンはそうぼやきたくなった。
 今日は、建国記念式典だ。女神が大陸に降り、魔法で魔物を打ち払い、のちの王となる男と結婚した日。それを祝うべく、王家がその宮殿で夜会を主催する。招待されるのは各地の貴族当主とその令息・令嬢で、夜通し華やかな時間を過ごす。
 今がまさしく、その時間だ。見上げた天井には夜空の魔法がかけられ、現実の夜空よりも星が瞬き、ホールを華やかに照らし出す。交響団が美しい音楽を奏で、誰もが楽しそうにダンスや歓談に興じる。ソファつきの円卓には果物や、季節の肉料理や魚料理といった豪華な食事が並ぶ。その光景はどれもこれも、貧乏なセルリアン家では到底縁がない貴重なものだ。
 それでももう一度思った、仮病を使うべきだった、と。でも、もう遅い。
「お義姉様、お義姉様!」
 義妹の弾んだ声が聞こえる。顔を上げれば、マルティーナがある若い男の腕を引っ張って、嬉しそうに笑いながら早足でやって来るところだった。その姿を、式典に参加している貴族の、特に男の視線が追う。
 無理もない。マルティーナの艶のある紫色の髪は、揺れれば花びらが舞うよう。同じ色の瞳は宝石のよう。少し幼さの残る甘い顔立ちに、胸元を大胆に開いてウエストは細く絞ったドレス。そんな姿を見れば、なんて華やかで美しいと誰もが思うだろう。
 ふ、と自嘲の笑みを零してしまいそうになりながら、自分のくすんだ青い髪を一房持ち上げた。
(……私とは似ても似つかない)
 マルティーナは、七年前──ランメリアが十二歳のとき、継母と共に現れた。そのとき既に実母が亡くなって六年が経っていた。だとして、父が突然見知らぬ女性を連れてきて、そしてマルティーナを娘だと告げたときのショックは忘れられない。
 嘘だと思いたかった。だってランメリアとマルティーナは年がひとつしか変わらないから。幼い頃亡くなった大好きな母親を、父が裏切っていたと思いたくなかったから。
 マルティーナなんか妹じゃない──そう泣いて父に縋ったのが、自分が泣いた最後だったように思う。あのときの父はなんて言ったっけ。もう忘れてしまった。
「お義姉様、アルフェン様よ」
 マルティーナは、ほら、とアルフェン・ピアニ伯爵令息の腕に手を添わせる。その先ではダークブラウンの腕輪がシャランと音を立て、思わず視線を背けた。表情を変えてしまわないよう、下唇にだって力を入れた。
「もう、こんなときくらいきちんと挨拶に来てくださればいいのに」
「やあランメリア、やっと会えたね」
 癖のあるブラウンの髪と瞳に、穏やかな顔つき。少年がそのまま青年になったようなそばかすは、同年齢なのに彼を少し幼く見せる。
 彼は、マルティーナの現婚約者にして、ランメリアの元婚約者だ。
 そのアルフェンは、少し照れたように頭の後ろに手をやった。
「君はちっとも社交パーティーにも顔を出さないから、挨拶する機会もなくて。なんだか会う度に綺麗になるね」
 ぎゅ、と思わずドレスの端を握りしめた。この男は、まだそんなことを言うのだ。こちらは、顔を見る度にキリキリと胸の奥が痛むのに。
「……恐れ入ります。アルフェン卿はお元気ですか」
 短く息を吸い、一息に言葉を吐き出す。それなのにアルフェンは穏やかな表情を崩さない。いつもどおり、単なる旧知の相手に接するように笑う。
「ああ、変わりなくやってるよ。そうだ、向こうに父もいるんだ、挨拶をさせよう」
「いえ、結構です。現魔法研究長官に、そうしていただくのは畏れ多いですから」
 だから、頼むから目の前から立ち去ってほしい。そう願うのに、二人はそれを許してくれない。
「まあ、お義姉様ったら。アルフェン様はお義姉様が気遣わないでいいようにしてくださっているのに」
「いいんだよマルティーナ。それよりランメリア、何も食べてないじゃないか。せっかく来たんだ、ちゃんと楽しもう」
 アルフェンは片手を挙げ、侍女にグラスを持ってこさせる。いえ結構、と拒絶する前に、手にグラスが押し付けられた。マルティーナもグラスを手に取り、にっこりと微笑む。
「私達は未来の夫婦で、お義姉様はその義姉なんですもの。祝いの席にぴったりの乾杯じゃありませんか」
「まったくもって、そのとおり。さあ、ランメリアも」
 こちらは掲げずにいるのに、アルフェンが無理矢理グラスを合わせてくる。カチン、とグラスが軽快な音を鳴らした。
「君にも女神の祝福がありますように」
 大陸の常套句が、こんなにも似合わぬ場面があるだろうか。グラスに口をつけながら、深い溜息を吐いた。
 アルフェンに突然婚約を破棄されたのは五年前のことだった。それだけではない。アルフェンは、あろうことかマルティーナとの婚約を決めた。
 貴族には魔力が流れていて、子々孫々その魔力を受け継ぐ義務を負う。これに関連して、正教会は、五つの魔法属性の相克同士の婚姻は望ましくないだとか、婚前交渉をしてもいいが魔力血統を純粋に保つために姦通は許されないとか、様々な原則を設けている。そのうちのひとつが、当主になることができるのは男児のみ、という原則だ。
 アルフェンに恋心があったわけではない。しかし、セルリアン家には男児がいない。だから長女のランメリアが婿を取って、夫人として彼を支えなければならない──そう教育されてきたし、ランメリア自身も、幼い頃からそう責任を感じてきた。特に、十三年前に母が亡くなってからはその思いが強くなった。きっとタイミングもあったのだと思う。アルフェンとの婚約が決まったのは、母が亡くなった直後だった。大好きな母がいなくなって悲しくて堪らなくて、自分の責任とか存在意義とか、そんなことを考えていなければ寂しさに押し潰されそうだったから。アルフェンと結婚して、そしてアルフェンがセルリアン家を継いでくれれば、きっと母は喜んでくれる。そう信じるくらいしか、前を向く方法がなかった。
 そうして十年近く自分を叱咤してきたのに、それが突然この手を滑り落ちた瞬間の、虚無感といったら。
 しばらく、呆然としていたと思う。自分はセルリアン家を継がなければならない、それがセルリアン家の長女である自分の義務だ。でもアルフェンに婚約破棄されてしまった。“婚約破棄された令嬢”なんて、誰が結婚したがるだろう。父は変わらず、セルリアン家を継ぐのはランメリアだと言って当主の仕事を任せてくるけれど、これから何ができるというのだろう。
 不幸中の幸いというべきなのは、その頃にはもうマルティーナが来て数年経っていて、その横暴への諦めがついていたことだ。胸に落ちた暗い気持ちは「これからどうすればいいのかしら」くらいで、マルティーナに婚約者を奪われただのなんだの、そんなことは思わなかった。
 逆に言えば“セルリアン家を継げる目途がたたなくなった”ことだけは重く心に伸し掛かり、アルフェンとは極力顔を合わせないようにしてきた。アルフェンが訪ねてくるときは決まって遠い領地に出かけ、時には泊まり込んだ。ただ年に一回、建国記念式典だけは避けられない。そしてアルフェンは必ずランメリアに挨拶する。毎年毎年、顔を合わせることになる。
 だから、建国記念日こそ一年の中で最も気分の悪い日と言っても過言でなかった。
 一頻り歓談した後、アルフェンは「そろそろ挨拶回りが必要だ」とホールの中心を示す。主宰たる王には、順繰りに貴族が挨拶して回っているのだ──もちろん、互いにパートナーを連れて。
「ええ、参りましょう。では、お義姉様、またあとで……」
 アルフェンが一歩離れた隙に、マルティーナはそっと、ランメリアの耳元に口を寄せた。
「一体いつまで、婚約破棄のことを気にしていらっしゃるの? 私達の結婚式では、きちんとしてくださいね──その身なりも」
 ランメリアが着ているのは、マルティーナから半ば強引に押し付けられたお下がりだ。淡いピンク色にレースをふんだんにあしらった、甘く幼いドレス。マルティーナも、似合わないと分かっていて勧めたに違いない。自分でも分かっていたけれど、でもこれ以外に、外に出るためのドレスがなかった。
 無言でいると、マルティーナは鼻を鳴らし、アルフェンの手を取って歩き出す。その後ろ姿をじっと見つめた。
 マルティーナが着ている派手なドレスは流行の最先端で、貧乏セルリアン家では、到底買えないドレスだ。少し前からお気に入りのドレスが見当たらないと思っていたのだけれど、どうやらあれはあのドレスに変わったらしい。
 ずっとそうだ。マルティーナと継母が来てから、ずっとそう。継母とマルティーナは、父に妻と娘として迎えられ、以来セルリアン家ができる以上の贅沢を許されてきた。つまり、セルリアン家は家財をなげうって、二人の幸せに尽くした。これだけは、と大事に抱えていたものさえ、少し目を離した隙になくなってしまった。そしてマルティーナと継母が美しく着飾る糧となってきた。
 それはきっと、マルティーナは父の血を引いていて、また父は二人に負い目があるからだ。その考えに至ったとき、もう、何もかもどうでも良くなった。継母にいびられても、マルティーナに我儘を言われても、そしてそれをすべて受け入れるよう父に言われても、反発する気になれなくなった。どうせ、自分はセルリアン家を継ぐためだけにいるのだ。これからは、少しでも領地の状態を良くして、土地目当てでもなんでもいい婿が来てくれるよう働いておこう。父が足を悪くして、いよいよ当主の仕事はほとんど任されるようになって、社交パーティに出向く暇もなくなった。自分はもう、ずっと、セルリアン家を残すためだけにいればいい……。
(……だからせめて、一人になりたい)
 そう自分を励まして、何年経つだろう。もう疲れてしまった。もう何もかも投げ出したい。今だってそうだ、体裁も何もどうでもいいから、この場を去ってしまいたい。
 ──なんてことができたら、どんなに楽だろう。どれだけそんなことを思っても、でもセルリアン家のためだ、と思わずにはいられない。
 ふう、と溜息をつきながらも、顔を上げる。今はまだ、高位貴族が王に挨拶をしている。セルリアン家という弱小伯爵家の、しかも当主名代の小娘が一人で挨拶をさせてもらえるのはまだまだ先だ。このまま一人で待っておかなければならない。妙齢の令嬢が一人で立っているなんて、恥さらしもいいところだとしても……。
「ランメリア」
 そのときかけられた声に、今度こそゲッと呻く羽目になった。
 アルフェンよりさらに会いたくない男の声だ……。でも確か海外赴任中では、何かの勘違いでは──そう自分に言い聞かせながら振り向いて、予想どおりの男に苦虫を噛み潰す。不敬の極みだという自覚はあった。しかし彼は、欠片も気分を悪くした素振りなく微笑む。
「やっぱりそうだ。こんばんは、ランメリア」
 柔らかく暖かい初夏の風のような声に、その声がぴったり似合う甘いマスク。透き通るように美しいシルバーブロンドと、それに似合う優しい面差し。瞳は深紅で、優しい雰囲気を理知的に引き締める。濃紺の宮廷服の胸では、王宮屈指の高位官僚・魔法部次官を示す徽章が輝きを放つ。
 会うのは三年ぶり。しかし、その美貌は変わらないどころか増した。
 眩暈を感じ、もう一度呻いてしまう。
「……バーンシェナ公爵」
「よそよそしいね。昔のように気軽に呼んでくれればいいのに」
 ロイド・エル・バーンシェナ公爵はそう微笑み──。
「ね、子羊」
「あなたはそんな失礼な愛称で呼ばないでください!」
 昔のように、ランメリアをそう馬鹿にした。
 今までの憂鬱な気分など吹っ飛んだ。この人は相変わらず失礼な──! と、ある意味元気になり、カッカと怒りながらロイドに向き直る。公爵相手と心得ながらも、つい腰に手を当てて憤慨した。
「いい加減にしてください、私はもう十九歳なのです! 子羊なんて呼ばれるいわれはございません!」
「そうか、もうそんな年か。最後に会ったときは十六歳だったものね」
 ロイドはわざとらしく、手入れの行き届いた顎を撫でた。手入れが行き届きすぎて、鬚など生えない体質なのではないかとさえ思える綺麗な肌だ。いや、実際そういう体質なのかもしれない。
「三年も会えなくて寂しかったでしょ、ラム」
「だから呼び方を改めてください。それに、寂しくなんてありませんでした。この三年間、ロイド様がいなくてどれほど平和だったことか!」
 何を言っても、ロイドは涼しい表情を変えない。
 ロイド・エル・バーンシェナ公爵。ランメリアと僅か五歳しか離れない若さだが、立派なバーンシェナ公爵家の当主だ。
 バーンシェナ公爵家は、通称“深紅の魔法使い”と呼ばれるほど魔法と頭脳に優れ、代々深紅の瞳を受け継ぐ。バーンシェナ公爵家が魔法長官を輩出した年は、戦なしに国が繁栄し、仮に戦をしても負けなしとまで言われる。
 ロイドは、数日前、新たにその当主に就任した。僅か二十四歳で当主としては異例の若さだが、もともと十年弱前から王宮にて魔法官を務め、その辣腕ぶりをいかんなく発揮してきた有望株で、能力的な違和感は全くない。加えてその美貌、文句なしの家柄。非の打ち所がないゆえに、あらゆる令嬢と夫人がその虜である。中にはロイドに見初められたいがために頑として未婚を貫く者さえいる。
 彼は平魔法官のときにセルリアン領を担当し、ランメリアと共に領地の監査を行っていた。二人は長く知り合いで、しかしロイドはこの三年間、海の向こうの国へ外交官として遣わされていた。つまり会うのは三年ぶりだ。
 そのロイドを、ランメリアは毛嫌いしている。だから、ロイドが外交官の身分になると知らされたときはしばらくぶりに大喜びした。心から「ご栄転おめでとうございます!」と花でも贈りたい気分だった。
 それなのに、また戻ってきた。しかも、慣れた手つきで腰に手を回してくる。すかさず叩いたけれど、逆に強く抱き寄せられた。
「まあまあ、そう強がらず」
「強がりではございません」
「強がりな君も可愛いけどね」
「だから強がりではございません」
 何をどう抵抗したって、この男はやめてくれまい。仕方なく体での抵抗はやめ、その顔を睨みつける。長身のロイドは、近くにいると睨みつけるだけでも大変だ。
「大体、いい加減に立場を弁えてください。ロイド様は今や公爵、未婚の伯爵令嬢に構うとあらぬ誤解を生みますよ」
「そういえば当主就任祝いをもらってないな」
「おめでとうございます、謹んでお喜びを申し上げます」
「口づけのひとつでも」
「そこらの犬とでもどうぞ」
 結局、今回も敵わずホールの中心へとエスコートされる。ロイドの隣は癪だし、その隣に立って王に見えるなんて屈辱もいいところ……、いや……そうとまでは言えないどころか逆だ。本来、小娘が当主名代を名乗って王に見えれば「当主に余裕はなく、もちろん男児もいない危うい貴族です」と告白するようなもの。それが、ロイドがいるだけで途端に「公爵が目をかける貴族とその令嬢」に早変わりする。感謝してもしきれない、身に余る光栄と言っても過言ではない。なんなら、早く式典から帰ることもできて一石二鳥だ。
 もしかしたらロイドは、ランメリアが所在なさげに立っているのを見て、憎まれ口を叩くふりをしてエスコートを申し出てくれたのかもしれない。ちらと、ランメリアはその横顔を見上げる。涼しい表情に、“ありがとうございます”と一言口にしようかと悩んで──でもこんな男のすることを信用してなるものかと考え直した。きっとただの気紛れだ。
 ホールは中心に行けば行くほど賑やかに、そして華やかになる。そこにロイドが一歩踏み入れれば、気付いた一人が振り向き、それにつられて二人、三人、やがて会場中の人が振り向いた。ロイド様、と誰かが甘くその名を呼んだ。
 そして当然ながら、その目は隣にいるランメリアにも向けられる。それだけで、自分の顔からげっそりと生気が抜けていくのが分かる。だからこの男の隣はイヤなのだ。
「それでランメリア、まさか俺がいない間に婚約者の一人や二人、できてないよね?」
「ええええ、あなたのお陰で一人もできませんでした」
「それなら良かった。ダンスを申し込んでも断る理由がないね」
「ロイド様である時点で断る理由しかございません。それでいて、相手がロイド様なので断ることができません」
「持つべきものは権力だね」
「あなたにだけは権力があってほしくないと、こういったことが起こる度に思います」
 ロイドは悠然と、ホール内でランメリアを連れ歩く。その爪先が向かうのは王の面前だ。
 王といっても、そこに座すのは、ロイドと二つ、三つしか変わらない若い王──リュシア元第一王子だ。先代王は、ほんの一年と少し前に崩御し、先日喪が明けたばかり。リュシアは、その先代王とは似ても似つかぬ彫像のように美しい容姿の持ち主で、金髪を前王妃から、碧眼を先代王からと、いいとこ取りをしている。
 そのリュシアの前で、ロイドが恭しく傅き、ランメリアも共にカーテシーを披露する。
「ご無沙汰しております、陛下」
「先日も執務室に来たばかりだろう、ご無沙汰もなにもあるか」
 王らしからぬ軽口は親しみやすさの裏返し、リュシアが支持される理由のひとつだった。しかし、各貴族によく目を配ることも、第一王子という立場に文句なしの太鼓判を押した。
 そのリュシアは、まだ鬚も薄い顎を撫でながら「しかしお前に陛下と傅かれる日がくるとは」とぼやく。
「年月とは怖いものだな。それでロイド──いやバーンシェナ公爵、一体いつ婚約した」
 出た! 頭を下げたまま顔を引きつらせてしまう。だからイヤだと言ったのに!
「いえ陛下、彼女はセルリアン伯爵令嬢ランメリアです」
「……なるほど? 顔を上げるがいい、セルリアン伯爵令嬢」
「……恐れ入ります」
 まったく、ロイドのせいで余計なことが……。そっと顔を上げると、若き王の美しい碧の瞳と目が合った。
 噂のとおり、そしてかつての建国記念式典で見かけていたとおり、大変美しい王子──いや王だ。ロイドの美貌とはまた種類が違うが、美形と紹介されて期待を裏切られる人はいないだろう。
 その美貌の主にじろじろと見られて、少々たじろいでしまう。なにか、セルリアン家に問題があるのだろうか。
 ややあって、リュシアが口を開く。
「……伯爵は息災か」
「お気遣いいただき大変恐縮です、陛下。はい、変わりなく」
 が、出てきたのは名を覚えていてもいなくてもできる程度の挨拶。何かの勘違いだ、と頭を下げ直す。
 リュシアはそっと視線をロイドに戻した。瞬き、口を閉じ、また開き直す。
「……美しい娘だ。大事にするといい、公爵」
「大変恐縮です」
 続く別の貴族がやって来て、その組に王の前を譲る。離れながらロイドの手も引きはがそうとしたが、まるで貼りついているかのようにびくともしない。キッ、とロイドの顔を睨みつけた。
「やっぱり陛下も変な反応をなさっていたじゃありませんか。またあらぬ誤解が生まれたらどうするんです!」
「いいじゃないか。陛下に挨拶するのに隣に誰もいないのは格好が悪いもんだよ」
「だとしても私である必要はないですし、私は誤解を招く冗談をやめていただきたいと言っているのです」
 ロイドはいつもそうだ。ぷんぷんと憤慨しながら、しかし手を引かれるのを合図に、音楽に合わせてダンスを踊る。悔しいが、ロイドはダンスも上手い。しばらくぶりに社交パーティに出て不安だったけれど、ロイドのリードの前ではその心配がなくなる。
「それより、ここ三年、どうだった? 元気にしてたかな、ランメリア」
 ダンスのためにぴたりと体を密着させながら、まるで恋人のように囁いてくる。その甘さが腹立たしく、下唇に力を入れた。
「ええ、まあ。それなりです」
「そうか。それなら良かったよ、少し痩せたように見えたからね」
「出会いがしらになにを見ているんですか?」
「それはもちろん、可愛いランメリアの顔を。頬がこけてしまったような気がする」
 腰に回された手が背中に滑り、体が傾けられる。合わせてロイドも腰を折って、まるで情熱的な口づけでも交わせそうな姿勢……周囲の令嬢がはっと息を呑む気配がした。
 まったく、鬱陶しいことこの上ない。しかめ面で応えた。
「年寄りは若い娘を捕まえて頻りに言うそうです、痩せすぎだと。ロイド様もそれでは?」
 くっ、とロイドが喉から笑い声を零した。腰を抱き寄せながら腕も引き、もとのとおりにランメリアを立たせる。
「相変わらずだね、ランメリア。安心したよ」
「それはなによりです」
 夜会に限らず、パートナーでない相手と踊るのは一夜に一度だけ。音楽の区切りがつき、やれやれとロイドの手から解放されようとして──逆に掴まれた。げっ、とまた顔をしかめるのに、指先に口づけを落としてくる。バーンシェナ家に代々伝わる深紅の瞳と目が合った。
「じゃあ、浮気はしちゃだめだよ、ランメリア」
「浮気もなにも、ロイド様は私の何でもありません」
「またまた」
 そんなこと言って。艶っぽい微笑みと共に、ようやく手が離された。
「あのう、ロイド様?」
 そこへ、控えめな声で、ただしかなり強引にマルティーナが割り込んだ。
 その勢い、突き飛ばされたかと錯覚するほど。いや、現に突き飛ばされたのかもしれない。履き慣れないヒールで蹈鞴を踏んでしまった。
 マルティーナは、寄せた胸を腕でさらに寄せて強調しながら、ロイドの顔を覗きこむ。婚約者のアルフェンはどこかに置き去りにしてきたらしい。
「大変ご無沙汰しております、ロイド様。三年ぶりでしょうか?」
「……ああ、マルティーナね」
「まあ! 覚えていただけているなんて! 私、ロイド様が留学なさったときは、本当に寂しくて寂しくて、何度もお手紙を送りましたのよ」
「ああごめん、忙しくてね。セルリアン伯爵はいらっしゃらないんだね、また今度挨拶に行かないと」
 ほとんど無視に近い形で話題を変え、ロイドはわざとらしく周囲を見回した。しかしマルティーナはめげず、するりとランメリアの腕に腕を絡ませてくる。 
「ええ、今夜は仲良し姉妹と母とで参りましたの。ねえ、お義姉様?」
「……そうね」
 マルティーナは、人前ではよく“大好きなお義姉様なの”と喧伝する。最初はなぜかと思っていたけれど、「異母姉に懐く可愛らしい子」と評されているのを聞いて納得したことがあった。
「それでロイド様、よろしければ、私と踊っていただいても?」
「ごめんね、他への挨拶がまだなんだ」
 ロイドは優しい微笑を崩さないまま肩を竦める。マルティーナは頬を膨らませた。
「では、その後では? せっかく三年ぶりにお会いできたのですから」
「悪いんだけれど、少し忙しくてね。まだ帰国して間もないものだから」
 当時から、ロイドはマルティーナとつかず離れずの距離を保っている。邪険にしないし、素っ気なく接するわけでもない。ただ、ランメリアのことをからかって遊ぶのと比べると、どうにもその態度は冷たく見える。
「久しぶりにランメリアの顔も見られただけで、よしとしよう」
 今だって、こうして、ランメリアの髪を掬いあげて口づける。髪への口づけは「またすぐに会いに来ます」という意味だそうだ。
 でも、それを大真面目に取り合って憤慨しては、ロイドの思う壺。結局、いちいち反応するからからかわれてしまうのだ。今度こそ無視してやろうといつも思うのに、本人を前にするとついつい本気で相手にしてしまう。
 でも、今日こそ。ぷいっと顔を背けた。
「じゃあランメリア、また今度」
「ええ、また三年後くらいに」
 その指先は熱を失わず、優しくランメリアの髪を撫でていった。
 ランメリアにだけ微笑みを残して去ったロイドの後ろ姿に、マルティーナは唇を噛んだ。しかし、すぐに笑みを浮かべる。
「……ランメリアお義姉様、勘違いなされないほうがいいように思います。ロイド様がお義姉様に親しくされていたのは、あくまでセルリアン家を担当なさっていたから。今だって、その延長に過ぎません」
 魔法官は王の臣下とはいえ、担当領地の当主やその家族に嫌われては仕事はやりにくくなる。だからロイドがランメリアに優しくしていたのは仕事のためだと、マルティーナは言うのだ。ロイドは事あるごとにランメリアに甘く接するが、それはセルリアン領を担当していた頃の癖だと。
 で? という話だ。心底どうでも良かった。そんなことは、ランメリアのほうがよく分かっている。
「ええ、きっとそうね」
 まるで興味のない返事をしたランメリアを、マルティーナはじっと見つめ、ややあって腕を組み、扇で顔を覆い隠す。
「……そうですよ。よく、分かっておくべきです」
 まるで何かを企むように、そしてその企みを隠すように。
 そうして、ランメリア自身も挨拶回りを終え、そろそろ帰ろうかという頃、マルティーナにまた「お義姉様!」と呼ばれた。
「ねえお義姉様、お義姉様に紹介したい方がいるのよ。こちらへどうぞ」