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軍人皇子と後宮の薔薇 囚われ令嬢は運命の愛で咲き誇る 1

第一話


 薔薇の匂いがする。
 モニカ・シルヴェスターは、目隠しのせいで視界を閉ざされた中、鋭くなりはじめた嗅覚に辟易していた。
(好きな香りだけど、緊張を緩めるわけにいかないのよね)
 両手は前で縛られており、縄の先を掴まれている。角を曲がったり、方向感覚を失ったりするたび、ぐいっと引っ張られる。
 きっとこれから向かう先は、場所を知られてはいけないところなのだろう。
 モニカは最初こそ、道順を覚えようと思ったが、やはり何も見えないのは痛すぎた。
「ほらっ! 歩いて歩いて!」
 後ろから特徴的な甲高い声がかかる。女のものではなく、やたら高音の男のものだった。
 その叱責は、自分に向けられたものではなかった。
「ご、ごめんなさいっ」
 友人であるウィルマの弱々しい声がした。
「やめなさいっ! ウィルマに乱暴しないで!」
 モニカが鋭く叫ぶと、ぐいっと強く縄を前に引っ張られて、思わず転倒しそうになった。
「あなたも静かになさい。もうじき、引き合わせの部屋に着きますから」
 前から響く声も、やや高くはあるが、男のものだ。
「止まりなさい」
 しばらく進むと、前方から声がかかった。縄を引っ張られる前に、モニカはぴたりと立ち止まった。
「ここに入ったら、目隠しを取ってあげる。とても高貴な方々がお待ちだから、中では大人しくしていなさァい」
 さらに前の方から、キリキリとした、神経質な声がした。耳を覆いたくなるが、あいにくと拘束は解いてもらえそうにない。
「さあ、行きましょう」
 それに比べると、自分を引っ張っていた方の人間は、比較的落ち着いている声だと、そんなことをモニカは思った。
 ギィ……と、扉の開く音がした。
 ざわざわと、人の話し声がした。男のものだ。複数人いる。それらはよくある、低い男のものだ。
 中に入ると、絨毯のようなものの上に跪かされた。
 すすり泣く声はよりはっきりと、左右から聞こえてきた。ウィルマの声かどうかはわからないが、どちらも若い女性であることには変わりない。
 しゅるり、と、目隠しが解かれた。モニカは俯いたまま、すぐに目を開けた。
 緋毛氈の赤が視界に満ちる。
 下を向いているのに闇に慣れてしまった目には眩しすぎて、瞼を瞑りかけてしまう。だがそれは無様だと思って、少しでも早く光に慣れようと努めた。
(思ったより私、冷静ね。本当に、自分が嫌になるわ)
 必要のない時に、泣いたり笑ったりすることなんてできない。必要を感じればすぐに泣けるし、笑ったりもするのだけども。
「顔をあげよ」
(冗談じゃないわ。この私に偉そうに命じるなら、むしろ堂々としてやる)
 モニカは誰よりも美しく映えるように、豊かな金髪を揺らして凛と背筋を伸ばした。
 だがその直後、視界が捉えた人物に釘付けになった。
(──赤い、瞳?)
 三メートルほど先、五段上の壇上に、五人の男がいた。皆横並びで、仰々しい黒檀の椅子に腰掛けている。
 だがモニカは一人の男とだけ、まるで火花が散ったかと錯覚するほど強烈に視線がぶつかった。この距離で見えるはずのない眼の色まで、鮮やかに飛び込んでくるほどに。
 彼は、左から二番目の席に腰を下ろしている。
 座っていてもわかる、すらりとした長躯。だが決して貧弱ではない。しっかりと毛氈に両脚をつけ、堂々と背筋を伸ばしている。決して居丈高に見せようとしておらず、その姿勢こそ自然体であるかのようだった。
 黒衣をまとっていても、逞しいとわかる胸板。肩幅は広く、いかにも力強い。
 だが単なる武辺者に見えないのは、鼻梁が通って涼やかな顔だからだ。黒い髪は短く、少し外へ跳ねて癖があるが、それが見苦しくなく、様になっている。
 何よりも、切れ長の赤い眼は──何者をも圧倒するような、輝きが見えた。
「…………」
 どれほどそうしていたのだろう。
 まるで自分とあの男だけが閉じ込められた、そんな世界の中にいるかのようだった。そう思えたのは、彼も自分へ一心に視線を注いでいるからだ。
 ドク、ドク、と、身体中の脈が激しくなっていく。
(いったいどういうことなの……今まで、こんなことなかった)
 男の目線に囚われたまま、記憶が一気に頭の中で流れ出す。
 なぜ、グリーンベルト王国の不自由なき貴族令嬢にして、王国の薔薇と呼ばれるこのモニカ・シルヴェスターが、ここにいるのか。
 あの優雅で退屈な日々が、一気に変わってしまったあの夜のことを、モニカは走馬灯を見るように思い出していった。


 ◇ ◇ ◇


 一ヶ月前──。
 グリーンベルト王国、王都アッシュ・ヒル。
 春の盛りの貴族街では、多くの邸宅が競うように、庭や門を花々を用いて美しく彩らせていた。
 その中でも、シルヴェスター伯爵の別邸の黒い門には、ひときわ瑞々しい赤薔薇が巻かれている。徒にあれこれ飾るよりも、いっそう荘厳さと優美さを引き立てていて、誰もが目を奪われる。
 それは、この別邸の主にもいえることだった。
「モニカ様、本日はお招きいただいてありがとうございます」
「私、楽しみで楽しみで、昨日は眠れませんでしたわ」
「お気軽にと仰っていましたのに、マッカラムのカップにカリュオンの皿、あちらの絵画はロビンス画家の新作? まぁ、なんと見事な……」
 華やかな装いの令嬢達が、ソファーに腰掛けて口々に礼を述べて、賞賛する。
 それらをまずは全て受け止めて、モニカ・シルヴェスターは、自慢げに見えないよう、それでいて謙遜ぶらないよう、ほんのりと唇の両端をあげた。
「こちらこそ、皆様がおいでくださって嬉しいわ。精一杯おもてなしをしようと思って、張り切ってしまいました」
 目を細めて語れば、彼女達は頬を薔薇色に染める。
 彼女こそ、この別邸の主だ。
 少なくとも、今日招いた面々は、モニカに対して好意的な令嬢しかいない。もっとも、心の奥深いところでどう思っているかは、あえて探らないようにしている。
 深く追及すれば、人の心は頑なになってしまう。そうさせては、もう彼女達はモニカに対して好感を抱くことはなく、挽回は困難になる。
 いわば、気遣いというものだ。
 そうやって構築してきた人間関係だが、居心地はさほど悪くない。
 令嬢達はみな、見目が可愛くて綺麗だ。食器や絵画にしても、単に有名で高価だから揃えているのではなく、自分自身が美しいと認めたものしか置いていない。
 身に纏っているアフタヌーン・ドレスも、明るい赤色を基調に白を差し色とし、ドレープの形が計算し尽くされたデザインで、輝く金髪と大きな碧い目のモニカの華やかな風貌をより際立たせていた。
 ぷるんとした唇を彩るリップは、最新の調合色だ。
 こういった品々を、シルヴェスター家に売り込んでくる商人は多い。
 父か母がいる時しか出入りをさせないため、粗悪品を売りつけようとする者は来ない。高品質で最先端の化粧品が、わざわざ商人を呼びつけずともシーズンごとに持ち込まれる。ドレスや宝石も同様だ。
 出入りの商人はどこの貴族の家でも、一人や二人は抱えている。信頼の高い商人は、やがて評判が高くなって王族の御用達にまで昇格していく。
 そうなると、彼らの中で取引する貴族のランク表ができあがってくる。歴史や地位は、実はあまり関係ない。
 商取引で重要なのは金と信頼だ。金払いがいいだけでなく、審美眼がしっかりしている客にこそ、彼らは本物を持ち込んでくれる。
 シルヴェスター家は、そのランクでも、かなり上位なのだ。
 もちろん、商人達がそのランクについて明け透けに話すことはないが、少なくともアッシュ・ヒルで大きな商売をしている者達にとって、シルヴェスター家に出入りできるのは名誉なことだった。
 モニカは、家族の中では一番多く買い物をしている。
 金の出所は、まず両親から与えられる小遣い。そこへ成人後に経営を任されている領地からの収益。
 それだけでは全てを賄えないので、投資で稼いでいる。
 投資の情報源はあちこちにある。
 今ここにいる令嬢達とのおしゃべりも、決して馬鹿にはできない。噂話の中には、大きな金脈が眠っていることがあるからだ。
 両親は金の使いどころが上手い人達だ。人脈を維持するためにも、使うときはしっかり使っている。しかし堅実な姉は贅沢を好まず、弟は学問に夢中で嗜好品に興味を持っていない。よって商人らも、姉と弟には積極的に売り込んではこない。
 このままでは、父と母の顔を立てていても、彼らの死後は「旨みがない」といって、これまで懇意にしていた商人達が離れていってしまう。
 そうなると、新たに売り込んでくる商人達はシルヴェスター家の人間をみくびって、程度の低いものが持ち込まれるようになる。審美眼が養われていなければ、品質を見抜くことすらできなくなる。
 買い物は貴族にとって、一種の投資なのだ。
 だからこそモニカは『あなたの商品を信頼している』という態度を見せ、取引のある商人達のやりがいを引き出すようにしている。信じているから良い品を持ってきなさい。そうすれば今後も損をさせない、任せておきなさい、と。
 そんな役目を、自然とモニカが引き受けることになった。
「そういえば、ワーナー子爵家のウィルマさんは?」
 ふと、令嬢のうちの一人が気遣うような顔で、疑問を投げかけた。
「あの方も呼ばれていますの?」
 別の令嬢が眉を顰めて、モニカが答える前に、重ねるように問いかけてきた。
 天然を装って訊ねながら周りの反応を楽しんでいる令嬢より、遠慮なく眉を顰めてみせる素直で不躾な令嬢のほうが、モニカはまだ好感が持てた。
「ええ。そろそろ来られると思います。道が混み合っているかもしれませんし」
 モニカが答えると、令嬢達が扇子を手に、心持ち身を寄せ合いだした。
「安物の馬車では、苦労も多いでしょうからね」
「辻馬車ですらないかも。徒歩かもしれませんわ」
「いっては悪いですけど、お立場というものがありますのにねぇ」
 モニカは沈黙していた。彼女達は気づいていないのだ。客を侮辱するということは、茶会の主催者を侮辱するのと同義。
 そんな簡単なことがわからないとは、なんと無邪気なのだろう。
 だから彼女達はむしろ、善意でいっている。そうあるべきと、周りから教わってきたのだろう。つまるところ、まだまだ幼いのだ。たとえ肉体が成熟していたとしても。
 実に、微笑ましいではないか。
 きっとウィルマも、この気持ちを理解してくれるだろう。あの娘は、そういう子だ。
 するとノックが聞こえて、控えしていたメイドが対応に行った。
「モニカお嬢様、ワーナー子爵家のウィルマ様がご到着です」
 その言葉に、令嬢達は「噂をすれば影ですわ!」と笑った。
 だが足音が近づいてくると、彼女達はしんと黙った。
「モニカ様、お、お、遅れまして申し訳ありません!」
 部屋に入るなり、ウィルマは深々と頭を下げた。重たげな黒髪をせっかく綺麗に結い上げただろうに、勢いよく頭を動かしたせいで、一房がはらりと解けた。
 きっちりと膝に置いたウィルマの手元が、きらりと光った。右手の中指に、モニカの目の色によく似た碧く大きな宝石の指輪が嵌められている。
 デザインは時代遅れを通り越して骨董品だが、実の母の形見なのだというそれを、ウィルマはいつも身につけている。
「せ、せっかく、お呼びいただいたのに! 道が混んでおりまして、馬車が立ち往生してしまったのです」
 くすっと、気遣い上手を装っていた令嬢が笑った。モニカが咎めを含んだ視線を向けても気づかない。
 だがウィルマは、嘲笑など気にもかけず、ひたすらモニカに頭を下げたままだ。
「なので、まずは私だけ走ってまいりましたっ!」
 その言葉に、ドッと笑いが起こった。モニカだけは、その輪に加わらずにウィルマを見つめた。
「モニカ様への手土産一つ持ってこないできたのですか?」
「慌てすぎですわ。どうせ遅れるならもっとゆっくりいらっしゃればいいのに」
「いっそのことおいでにならないほうがよかったのでは?」
 次々と令嬢達が、今、モニカの心情を汲んで私達が代弁していますとばかりに、したり顔で語りかけていく。
「従者が後から追いかけてきます。その者に預けておりますので、もうしばらくお待ちください! とっても美味しいお菓子なんです!」
 令嬢達はくすくすと笑う。だが、本当に気づいていないようだ。
「どうしても、モニカ様に……召し上がってほしくて……」
 ウィルマは、彼女達のことなど最初から眼中にないようだった。
 真っ直ぐすぎる謝罪は、全て、モニカ一人に向けられている。
「楽しみだわ。ウィルマが持ってくるお菓子、私は好きよ」
「っ! はい! ありがとうございますっ!」
 勢いよく頭をあげたウィルマが、この上ない笑顔を向ける。
 さすがに毒気を抜かれたのか、令嬢達は黙り込む。モニカは、ふふっと微笑んだ。
「さあ、ウィルマ。こちらに来て座って」
「はい!」
「皆様も、今、紅茶を淹れ直させますわ」
 ウィルマがいそいそと、モニカの隣に腰を下ろした。
「しょうがない子ね。よっぽど慌ててきたのね。髪、直してあげる」
 モニカは、ウィルマの乱れた髪を一房手に取った。
「あっあっ、申し訳ありません!」
「いいのよ。謝罪はもう充分よ」
 自分の髪を結い上げるのは、信頼できる侍女に頼んでいるが、人の髪に触るのは嫌いではない。
 何より、ウィルマの髪質は自分のとは全く違っていて、触れていて心地よかった。
 これ見よがしに櫛で梳く必要はない。さっと髪飾りを外し、素早く束ね直す。
 ついでにモニカはテーブルのミニ薔薇を一輪手に取って、重たい黒髪を彩るように挿してやった。
 これだけで、かなり垢抜けた印象になる。
「まぁ、モニカ様はさすがセンスがおありですわ」
 ほうっと、不躾な令嬢がため息をついた。彼女は本当に素直だ。さっきまで自分がウィルマが来ることに嫌味をいったのを、すっかり忘れている。
「あら、ありがとう」
 モニカが微笑みをそちらに向ければ、令嬢が頬を染めた。
「──モニカ様、ありがとうございます」
 ぽそっと、隣からウィルマの控えめな声が聞こえた。
 視線を戻せば、俯いている彼女も頬を染め、睫毛を震わせていた。
 皆、可愛らしい。美しくて愚かで、幼い。だからこそ、面白い。
 ウィルマはその中でも、ストレートに好意を寄せてくれるから、他に比べて特別に目をかけているだけ。
 誰も気にとめていないが、手にずっしりと重みを感じる黒髪は、グリーンベルト王国の社交界でも随一の美しさだ。艶やかで引っかかるところがないから、結い上げてもすぐに崩れてしまう。
 モニカは、自分にない美しさを持つ者が、何よりも好きなのだ。そんな者が自分を愛してくれるなら、これ以上のことはない。
 だから、だろうか。
 グリーンベルト王国の薔薇と謳われる美貌に、王族に連なる血筋や地位がありながら、未だ己の伴侶たり得る男には、巡り逢えていなかった。
『美しい薔薇には棘がある。だが、モニカ嬢のはもはや針だな』
 高望みだなんだと陰口をいわれていても、これだけは譲れない。
 気づけば、二十二歳。
 この国の貴族令嬢で、二十歳を越えて婚約すら決まっていないのは、本人に問題があるとか、親のせいだとかいわれてしまう。
 モニカの両親はそんな噂を気にする人達ではないが、いつまでも甘えてはいられない。
 そんなことぐらいは、頭の中ではわかっていた。


    ***


「夫にするなら、一国の王がいいわね」
 燦々とした陽射しを遮る木陰で、紅茶を口にしながら、モニカがいった。
「美しいだけでも優しいだけでも金があるだけでもダメ。どれか一つでも欠けていたら、私がきっと我慢できない」
「じゃあ、モニカ様自身が、モニカ様とご結婚できればいいのに」
 ウィルマが深刻そうにため息をつく。彼女はモニカの、そんな悩みすら真剣に聞くのだ。
 この願いをウィルマに話すのは、これが初めてではない。二人きりになった時に、何度もいっている。このやりとりもその分だけ繰り返しているのだ。
「そうね。それが一番だわ」
「ええ、そうですとも!」
 ここはアッシュ・ヒルの郊外、テイパー地方にある保養地だ。
 王族直轄地で、かつてユースラー教という宗教の力が強い地域だった。
 だが数年前、ユースラー教のもっとも大きい神殿のトップが、傍流の王子と共謀して恐ろしい事件を引き起こした。
 神殿が密かに製造していた無色透明の毒薬『エクターネテルの美酒』。
 それを用いて、当時の国王を毒殺したのだ。
 その結果、傍流の王子が王位に就いた。殺された国王には、跡継ぎがいなかった。
 モニカの父と母、そして叔父にあたる人物は、この事件を追っていた。
 そして真相が明らかになった。
 手の者を王城に送り込み、怪しまれないように毎日少しずつ、かつ自己治癒が間に合わない量を飲ませていたことが発覚した。
 さらにユースラー教は世界規模の人身売買に、直接関与していたこともわかった。
 神殿長は逮捕され、今は僻地で開拓労働を課せられている。
 共謀者だった先代の国王は退位し、今では幽閉状態らしい。この一件に加えて子もいなかったため、王家の血を引く血筋の者から、新たに女王を選出した。
 多くの神殿が解体され、土地は王家に返還された。
 ここもその一つであるが、現国王である女王が整備し、保養地として開放したのだ。土地の権利は王家にあるが、建てられている屋敷は比較的安く借りられる。
 シルヴェスター家や、モニカの母の実家であるブロンソン公爵家の人間は、滅多に来ない。神殿との因縁もあるが、ここよりもずっと風光明媚な保養地を、自家の領地として持っているのが最大の理由だった。だからそもそも屋敷を借りる必要がない。
 それでもモニカがここにいて、屋敷の中でなく湖畔近くで、地面に敷いたシートの上でお茶をしているのは、ウィルマに誘われたからだ。
『あの、テイパーに行きませんか……? 私、屋敷を借りてみたんです……』
 先日の茶会の後、二人きりになった時に、ウィルマが震える声で打ち明けてきた。
 モニカは最初驚いた。
 彼女の父ではなく、彼女自身が屋敷を借りたことに。
『以前、モニカ様が投資の手ほどきをしてくださったおかげで……一日、お屋敷を借りられるだけのお金ができたんです。ぜひ、ご一緒していただけないかと思って……』
『それはいいけど、なぜ私を? ご家族と行けばいいではないの』
『モニカ様と一緒がいいのです。だって私、四年前の御礼を……できてないので……』
 ウィルマがいうのは、きっと出会った時のことだ。

 四年前。モニカは十八歳。
 社交界にデビューして一年が経った頃だった。
 モニカは、あからさまないじめの現場を見てしまった。
 今時、あんなのは物語の中でしかありえないと思っていた。
 ある貴族の屋敷の裏庭で、一人の気弱そうな令嬢を取り囲んで、四方八方から嫌味を浴びせて、ついには笑いながら扇子で小突きだす。
 あまりに非現実的で、反応が遅れてしまったものの、一息つくと口を開いた。
『──あら、いやだ。捜していたのよ、あなたを』
 モニカは悠然と微笑んでみせ、周囲の女達を黙らせた。そして静かに近づいて、名前も知らない令嬢の手をそっと取った。
『こんなところにいたのね。さあ、行きましょう』
『あっ、あの』
『では皆様、ごきげんよう』
 もはや囲っていた女達が誰だったのか、確認すらしなかったが、どうでもよかった。美しくない人に割く時間はない。
 だが、あの輪から連れ出した令嬢には、心惹かれるものがあった。重く美しい黒髪。ふんわりとした金髪の自分にはないものだ。
 だから、助けた。とはいえ、その場に居合わせたのはたまたまだったし、声をかけたのも気まぐれのようなものだったが。
 名前も家もわからない相手であるが、モニカと顔見知りであるとわかれば、他の者達もあんなあからさまないじめはしてこないだろう。もっとも、助け出したこの令嬢もまた、モニカが誰なのかわかっていない様子だった。
『さて、誰もいないわね。あなた、名前は?』
 人目がなくなってから、モニカは訊ねた。これも何かの縁だと思った。
『……ウィルマ……。ワーナー子爵の、娘、です』
 子爵の名前は知っている。
 こんな娘がいたのは知らなかったが、きっと社交界に出たばかりなのだろう。
 よく見れば、前髪がやたら長いものの、その隙間から見える瞳は大きかった。
『そう。私はモニカ・シルヴェスター。父は伯爵よ』
 モニカも名乗り返す。
『今日から、あなたと私はお友達よ。もし今後あんなことがあったら、すかさず私の名前を出しなさい』
 これで少しは、ウィルマと名乗った令嬢も、社交界で過ごしやすくなればいい。
(父や母が聞けば、迂闊なことをとお怒りになるかしら。でも、悪いことをしたとは思えないのだから、すぐにお許しくださるわ)
 シルヴェスター家と繋がりがあると誤認させたのは、少々軽率だったとは思う。しかし、あの場ではそうするのが手っ取り早かった。
 何よりも、見て見ぬふりは、美しくないではないか。
『モニカ様……ありがとうございます。一生をかけて、あなたにご恩返しをします』
『ご恩? よしてちょうだい。私とあなたは、お友達なのだから』
『で、ですが』
『この程度、貸し借りにならないわ。それに私、あなたのこと気に入ったのよ』
『え……私を?』
『だってあなた、小突かれているあいだ、全く怯んでいる様子がなかったから』
 自分でいっておいて気づく。そうだ、このウィルマという令嬢は、しくしくと泣いている様子はなく、ぐっと強い瞳で耐えていた。そんなところが、気に入ったのだ。
『だから、これからはもっと堂々としていなさい』
『……ありがとう、ございます!』
 思えば、あの時のウィルマの蕩けるような笑顔に、モニカの心はいっそう動いてしまったのかもしれない。
 ワーナー子爵の娘だとわからなかった理由は、後に判明した。
 彼女は養女なのだという。子爵は慈善活動の一環で、ウィルマを引き取ったらしい。指輪は、実の母の形見だそうだ。
 やがてウィルマは、モニカの一番の友人となった。

 そして、今に至る。
「夫──でもそうなったら、私、モニカ様に嫉妬してしまいます。ご結婚なさったら、こんな風にお出かけできませんもの」
 ウィルマが、これまた真剣に悩んで唸っている。さすがにモニカは、小さく吹き出してしまった。
「もうウィルマったら。どこまで本気でいってるの。冗談よ、冗談」
「私はいつだって本気です。だって、確かに王様でもなければ、モニカ様には釣り合いませんわ。それなら、まだ私、諦めもつくかもしれません」
「面白い子ね。でも無理な話だわ。今、この国をお治めになっているのは女王陛下だもの。私が男なら、王配になることを望んだかもしれないけど」
 しかし、男なら自分はどんな人間になっただろうか。全く想像がつかない。
 ふと、ウィルマを妻にしただろうかとも思ったが、それもまたイメージできなかった。彼女は大事な友人とは思うが、それ以外の何者でもない。
「モニカ様をお妃様に迎えられる王様は、この世界中で一番幸せな御方ですわね」
 ウィルマが、ほうっと呟く。その頬はほんのりと赤い。
 なのに、彼女の指に嵌めてある碧い宝石の指輪は、きらりと冷たく光った。親指の爪ほどの大きさがある石は中が空洞で、ちょっとした小瓶になっているそうだ。
「その幸せな王様とやらが、いないのよ」
「いいえ、きっとどこかにいますわ。たとえ今すぐは無理だとしても」
 どこか惚けたような顔をしていたウィルマが、すっと目を細めて微笑む。
「モニカ様は、王の妃となりますわ。必ず」
 芯の通った声だった。
 何度も何度も繰り返したやりとりの中で初めて聞く、確信を持っているかのような言葉に、モニカは心がざわついた。
「あなた、占いなんてできたりするの?」
「いいえ。これは占いではありませんわ。決められた未来ですのよ」
「……。ふふふ、いいわ。面白い。じゃあまだしばらくは、独り身を堪能しましょ。だって王妃になったら、やることがいっぱいあるはずだもの」
 モニカが笑うと、ウィルマも笑った。
 きっとこれは他愛のない、夢見ることを許された女である自分達の、楽しいおしゃべりにすぎない。許されなくなる日が、世の令嬢達より少しばかり遠いだけ。
 だから、まさかすぐに事態が急展開するなど──思いもしなかったのだ。

 その日の夜。
 ウィルマの借り上げた屋敷へ、人買いが入り込んだ。
 慣れない部屋だというのに、ふしぎと熟睡していたモニカが目を覚ました時には、すでに粗末な荷馬車に押し込められていた。大声を出そうにも、猿轡のせいでできなかった。
 ウィルマも一緒だった。美しい黒髪が乱れて、頬にも額にも貼り付いていた。
 汗だけではない。涙をたくさん流したのだろう。先に目覚めていたらしい彼女の目は真っ赤だった。
 彼女の名を呼ぼうとした。
 だが直後、背中に衝撃を受けた。蹴られたのか殴られたのかはわからないが、モニカは再び目の前が昏くなった。
(──揺れが激しい。ちゃんと舗装されていないのね)
 シルヴェスター家と、母の実家であるブロンソン家の領地は、どこも綺麗に整備されていた。
 土地を広げて金を儲けることばかり考えていては、領民の暮らしは豊かにならないのだと、父は幼いモニカによく語って聞かせていた。
(お父様のいう通りだわ。領民あっての、私達ですもの。忘れてはいけない)
 意識を手放す直前、なぜかそんなことを、モニカは思い出していた。