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祖国を滅ぼした暴君皇帝の花嫁候補にされましたが、実は亡国王女なのでバレたら人生終了です! 1

第一話


「姫さま、急いで!」
 老侍女のエリンに急かされて、寝起きに簡素な上着をまとったクローディアは、城の外で響き渡る怒号や剣戟の音を聞き、愛らしい顔をくしゃっと歪めた。
「何が起きたの? お父さまは?」
「帝国の死神皇子が……皇太子ヴァルグレオンが攻め込んできたのです! 今は一刻も早く城から脱出しなくてはなりません。暴虐な死神皇子が姫さまを捕らえに来る前に……!」
 理由は説明されたが、父については言及がなかった。
 でも、今はそれを追及している場合ではなさそうだ。
 現実味のないまま手を引かれて薄暗い廊下を走り抜け、いざというときのために用意された、カビと埃だらけの脱出路を抜け、城の外へと逃れる。
 通路は城の裏手の枯れ井戸につながっていて、そこから地上に出たが、深夜で真っ暗なはずなのに、背後の空が赤々と燃え上がっている。
「エリン……大神殿が、燃えているわ……」
 城の向こうで、大陸一歴史があり、大陸一美しいと言われるセレオスト神殿が業火に呑まれている。その上に輝く満月すら、炎の色を写し取ったかのように赤く輝いて見えた。
 それはさながら、この世界の秩序が失われていく様を表しているようだ。
 立ち止まって呆然とそれを見つめていたが、エリンに腕を引かれて我に返る。
「姫さま。聖王陛下は……お父上は真っ先に死神皇子の手にかかり、首級を挙げられたそうです」
「…………」
 その可能性については、脱出路を進みながら考えていたことだ。ズキンと心臓の鼓動が跳ねたが、自分の目で見たことではないので、俄かには信じられなかった。
「とても悔しいことではありますが、我がキブレスには、外敵を迎え撃つための軍はございません。その上、皇太子ヴァルグレオンの軍勢に対抗できる者も集団も、この地上に存在しません。今は姫さまが生き延びることだけを考えましょう」
「でも、私だけ逃げるなんて……」
「聖王陛下からも、いざというときは姫さまを連れて逃げろとのご命令を受けております。これは陛下のたっての願いでございます。それに、たった十四歳の王女殿下が戦乱から逃れるのを非難する者はキブレス聖王国には存在しませんし、それどころか大陸中どこを探し回ってもおりませんよ」
「でも、城のみんなは残っているわ」
「大丈夫です。ほら、主塔に白旗が上がっています。あれは降伏の印。ヴァルグレオン皇太子は非情な騎士ではありますが、降伏した者を冷遇する人物ではないと聞き及びます」
「だったら私も」
 だが、エリンは白髪の混じった頭を左右に振った。
「姫さまだけは違います。死神皇子の目的が奈辺にあるかはわかりませんが、姫さまは聖王陛下のご息女であり、その血を引く最後の継承者。もし、彼が世界の秩序を塗り替えるつもりなら、姫さまの存在は必ずや排除されるでしょう。ですから、逃げなくてはならないのです。皆、それを願って城に残っています。それに姫さまの身に何かあれば、エリンの命もありません。この老女を哀れと思し召して、今はお逃げください」
 母の生前から尽くしてくれる老侍女の言葉に、クローディアは折れた。
 手を引かれ、生まれ育ったキブレスの城を後にする。
 もう一度だけ振り返ったが、炎と煙に巻かれた美しい佇まいの神殿は、クローディアのオリーブ色の瞳にはもう映らなかった。

 

  * * *

 

「陛下、いい加減に妃を娶りましょう」
 皇帝筆頭補佐官であるメルヴィの発言に、親衛隊たちの間に緊張が走った。
 シーローズ帝国第六代皇帝ヴァルグレオンは、皇太子時代から各地の戦場を駆け回ってきた騎士皇帝である。
 剣を持たせたら彼に敵う人間はこの世に存在せず、立ち向かう敵には容赦なく刃を振り下ろして血の雨を降らせ、彼が駆け抜けた戦場は焦土と化すと言われる。
 そんな彼についたあだ名は『死神皇子』。
 ただ、彼のもとに集った騎士たちからは、『戦神』と崇められる豪傑だ。
 負けることを知らず、味方を犠牲にする作戦は取らない。意味のない戦にも加担しない。ヴァルグレオンが指揮しているというだけで、敵の士気を挫くことができる。
 何より、彼のもとにいれば生きて帰れる可能性が高い。
 騎士たちからは絶大な支持を受ける英雄だが、五年前、ヴァルグレオンは戦の余勢を駆って帝都に戻ると、今度は父皇帝に力ずくで退位を迫って辺境に幽閉した。
 それだけではなく、本来はキブレス聖王による神託の儀を経て即位すべきところ、聖王を討ち果たして帝位を簒奪したのだ。
 即位後は、反目する貴族や役人たちをことごとく粛清し、恐怖による圧政で人々を震え上がらせた暴君だ。
 結果、ついたあだ名は『暗黒帝』。
 そんな恐ろしい皇帝であるにもかかわらず、情勢が安定して以降、無意味に粛清された者はいない。それどころか、各地で横行していた役人の不正は激減、犯罪は減り、枯渇しかけていた国庫は豊かさを取り戻しつつある。
 この状況を肌で感じた貴族たちは今や、ヴァルグレオンの安定した統治にすっかり安心しきり、我こそはと皇帝の腰巾着を狙って、醜悪な権力争いを繰り広げはじめた。
 とくに夜ごとどこかで開かれる夜会では、皇妃の座を巡って争いが勃発し、大小さまざまな騒動が巻き起こっている。
 しかしヴァルグレオンは、家名ばかりで才覚に乏しい者を容赦なく一蹴しており、あわよくば皇妃にと年頃の娘を差し出してくる貴族たちには、露骨な怒りを向けている。
 そんなお冠なヴァルグレオンに結婚を勧めるなど、正気の沙汰とも思えない暴挙だ。
 提案された皇帝は、怒りはしていないが、目にかかった黒髪をかき上げ呆れた顔をした。
「この状況で誰を娶ったところで、別の火種が生まれるだけだろう」
「とはいえ、一生独身でいるわけにはいかないですし、放っておくと結婚や後継ぎ問題が激化します。あっ、どうせ結婚するなら、愛想のない陛下と違って社交的な女性がいいですね」
 暗黒帝を前にしても物怖じしない皇帝補佐官に、ヴァルグレオンは苦虫を噛み潰した顔をする。
「別に帝位を継ぐ者が、俺の血を引いた子である必要はない。世襲でしかなかった、形ばかりの神託制度は廃した。帝位など、就きたい者が就けば……」
「ああ、だめです陛下! そんなことを軽々しく口にされては火種どころか猛火でぼうぼうです。絶対におやめください。せっかく陛下の治世が安定してきたところなんですから」
 皇帝の陰でさんざん尻ぬぐいに駆け回ってきたメルヴィは半泣きで訴え、黙って控えている親衛隊たちに「しーっ」と人差し指を唇に当てて口外を禁じた。
 だが、親衛隊長の徽章をつけた赤毛の若者が、キリッと皇帝に顔を向ける。
「……口を挟むことをお許しください。陛下の後継など、この世界に存在しません。帝位にふさわしい者は、陛下ただひとり。玉座はヴァルグレオン陛下のためにこそあります」
 この若者は、即位前からヴァルグレオンの神技のような剣の腕に憧れ、主に倣って華々しい戦果を挙げてきた。
 即位後は皇帝の身辺警護のみならず、諜報活動や密命の遂行、現地での対応まで、政務の裏で必要とされる実働を一手に引き受けている有能騎士だ。
 ただ、ヴァルグレオンに心酔するあまり、ときどき発言が過激なのが玉に瑕だった。
「グラノス隊長、そういうのは心の中だけでお願いします」
 メルヴィがため息をつき、ヴァルグレオンは苦笑して立ち上がった。
「……ともかく、貴族たちの派閥争いにはうんざりだ。どうしても妃を娶れと言うなら、帝都貴族の派閥に属さず、中央と無関係な属国や地方の令嬢から選べ。そうだな、帝都の貴族たちに何を言われても堂々と振る舞える、豪の者が望ましい」
「豪の者って……。なに言ってんですか陛下」
「俺の妻になる者には、ともに地獄に落ちる覚悟が必要だからな」
 明らかにやる気のないヴァルグレオンが長い脚で颯爽と執務室を後にすると、グラノス以下、親衛隊もそれに従った。
 彼らを見送るメルヴィは腕を組み、首を傾げる。
「そこまで課す必要が? とりあえず条件に当てはまりそうなご令嬢方を集めますか……」
 そうして、草稿を作り上げた。


★シーローズ帝国皇妃候補募集条件★

年齢 十六歳から二十六歳程度の未婚者
資格 王族・貴族・準貴族・地方領主の娘など、一定の教養と礼儀を具えた者
  心身ともに健康な者
  帝国の秩序と皇帝の方針に理解を示し、前向きに寄り添う心の余裕を持つ者
  帝国の多様な文化や価値観に柔軟に対応できる者
  いかなる状況に直面しても、品位と自尊を保てる精神的強靱さを具えた者

応募 各国・各領の統治者により最大二名まで推薦可能
   ※婚約者、恋人、子がいない者
   ※本人の同意を得た上で推薦すること
備考 応募者全員に対し、謝礼金及び帝都往復の旅費を支給する
  落選者には帝都滞在中の文化・社交活動に係る費用について、
  上限額の範囲内で実費支給する


 当然といえば当然なのだが、この文書が布告されたのち、帝都に住む大貴族たちからの反発はすさまじかった。
 とくに、元老院の筆頭シュレイア公爵家からは、布告を発したメルヴィの首を締め上げんばかりの猛抗議がきた。
 シュレイア公爵家には十六歳の息女がおり、皇妃の座を射止めるべく日夜、一族総出で周到な根回しに励んでいたのである。
 夜会では他家の令嬢を徹底的に貶める噂を流し、皇室関係者には付け届けを欠かさず、『名門貴族こそ帝国の柱』と吹聴し、夫人は社交界で娘の美徳と才覚を語り歩いている。
「ですから、そういう欲に塗れた貴族の争いを見たくないがゆえの、今回の措置です。皇帝陛下のご意向ですので、どうぞご理解ください」
「何を言う、理解などできるものか! 帝国の未来を担うのは、我ら帝都の名門貴族であるはずだ!」
 その怒声を前にしても、メルヴィは表情を崩さず、淡々と頭を下げる。
「ご意見は承りますが、推薦枠は属国・地方領に限るとは明記しておりません。ご息女の推薦を希望される場合は、規定に則り申請いただければ──」
「申請しても、どうせ落とすつもりだろうが。各国の統治者による推薦? つまり帝国本国からの推薦者は、皇帝陛下ご自身ということではないか!」
「んー、陛下直々の推薦をいただけないのであれば、そもそもが無理な話だったのです。いくらここで怒鳴り散らされましても、陛下のご意思は変わりませんよ。どうぞ、お引き取りを」
 皇帝筆頭補佐官の執務室で息巻くシュレイア公爵ににっこり笑いかけ、メルヴィは扉を指し示す。
 公爵は顔を真っ赤にしてメルヴィをにらみつけたが、ここでどれだけ叫んだところで、この狡猾な補佐官の意見を変えることは困難──いや、不可能だと判断したのだろう。
 ドスドスと足音を立ててシュレイア公爵が退出した。
「やれやれ、しばらく大騒動が続きそうだな。陛下が適当に候補を指名してくだされば、こんな大ごとにならずに済んだのに……」
 この先、想像もつかない揉め事が山積するのだろう。とりあえず、それだけは想像がついた。

  *

 ところ変わって──シーローズ帝国最東部に位置するミレニア公国。
 明るい白壁の部屋でふたりの若い女性が書物を開き、勉強の真っ最中だ。
「およそ百五十年前、戦乱で分裂していたこの地域を、元傭兵のシーローズが軍事力で統一して『シーローズ帝国』を興しました。お嬢さまの住む、ここミレニア公国も帝国の属国になります。シーローズは秩序と真実を重んじる人物で、セレオストという秩序の神を深く信仰していました」
 今日の授業は、ローデリアお嬢さまの大嫌いな歴史だった。
 クレアが家庭教師になって何度も何度も教えたものの、肝心のローデリアは右から左。
 そこで原点に立ち返ることにし、子供向けの薄い歴史書を片手にシーローズ帝国の歴史を語って聞かせていた。
「ですが、武力だけでは人々の信頼を得ることは難しい。そこで重要な役割を果たしたのが、南の山岳地帯にある中立国『キブレス聖王国』です。キブレスはセレオスト神を主神とした神権国家で、統治者は『聖王』と呼ばれ、政治を行うと同時に、神殿で宗教的な役割も担う存在でした。帝国の成立に際して、この国の承認が大きな意味を持ったのです」
 そう説明しながらもクレア自身、「なぜ当時はキブレスを属国化せず、中立国として対等の立場に置いたのか?」という疑問を残している。
 現在は残念なことに、旧キブレス聖王国は皇帝の直轄領になっていると噂に聞いた。
 しかし、当のローデリアは本を開いたまま、あくびを噛み殺していた。宗主国どころか、自国の歴史にも興味がないご令嬢だ。
「面倒だとは思いますが、この国に関する重要な話なのです。もう少しだけ辛抱して聞いてください」
「聞いてるわよ」
 頭には残っていないようだが……。
 さすがに十七歳になってまでこの体たらくでは、嫁のもらい手がない。
 ミレニア公国では、先年まで貴族の結婚が相次いでいたのだが、ものの見事にその結婚ラッシュに乗り遅れてしまったのである。
 歴史嫌いが原因というわけではないだろうが、嘆いたローデリアの両親──ハニエル伯爵夫妻が、「苦手分野もみっちり叩き込んでやってくれ」とクレアに頼み込んできたので、なるべく簡素を心がけて説明している。
 格式高い貴族は、妻には礼儀作法だけではなく、教養も求めるものだ。
 それに、この国にいる以上、知らないでは済まされない。根気強く教えるしかなかった。
「帝国統一以降、皇帝をはじめ、各国の統治者が即位するには、キブレス聖王による神託の儀式が必要になりました。このミレニア公国でも、大公閣下は神託により任命されています。とはいえ儀式は形式的で、帝国の内情は世襲です。よほど問題のある人物でなければ、神託は世襲の統治者を認めてきたのです。こうして帝国とキブレスは対等な立場として関係を保ってきましたが──」
「五年前まではね。知ってるわよ、そのくらい。でも、皇太子時代の暗黒帝は、キブレスを滅ぼして神託の儀式も廃止したじゃない。将来の帝位は約束されていたのに、前皇帝陛下をわざわざ失脚させて地方に追いやったのでしょう? キブレス聖王を亡き者にした挙句、大神殿を焼いたなんて、とんだ暴虐皇帝だわ」
 クレアは意外な思いでローデリアの顔を見た。これまでは、いくら説明してもそもそも聞く耳すら持っていなかったのに。
「──それは『キブレス動乱』と呼ばれる、近代史における大きな事件ですが、同時に、語ることは禁忌とされていますね」
「どう評価しても、暗黒帝の批判になってしまうものね。でも、属国の王の任命も、暗黒帝の思うがままなんでしょう? 帝都は暗黒帝の圧政でまさに地獄のようだと聞いたわ。その点、このミレニアは帝都から一番遠くだし、安心ね」
 きっと、昨夜出席した夜会で、他のご令嬢たちの会話を聞きかじったのだろう。
 いくら他人の受け売りだろうと、社交界に出ればこの程度の知識は必要になるから、それをきっかけに興味を持ってもらえればクレアとしても十分だった。
 とはいえ、この内容を繰り返し教えるのは、自分の心の傷を抉るようで、少々つらくもあるのだが……。
 クレア・キース、十九歳。本当の名を、クローディア・ラー・キブレスという。
 十四歳の頃、当時皇太子だったヴァルグレオンがキブレス聖王国に攻め入ったため、命からがら遠くミレニア公国まで逃れてきた、キブレスの元王女である。
 ミレニア公国は、キブレス聖王国で彼女の侍女だったエリンの生まれ故郷でもある。
 亡命から五年。ここでは『キブレスの王女』という身分、『クローディア』という名を捨てて、ハニエル伯爵令嬢ローデリアの家庭教師クレアに身をやつし、住み込みで働く日々を送っていた。
「ですが、このミレニア公国は現皇帝陛下のお母上の出身国ですよ」
「えーっ! ミレニアの女性があの暗黒帝を産んだの!? こう言ってはなんだけど、とんでもない怪物を産み出しちゃったのね……」
 帝都から最も遠く離れたこの地では、皇帝はまるで悪魔のように語られているが、皇太子時代は死神皇子と呼ばれていたくらいなので、あながち誇張とも言えなかった。
 とはいえ、現皇帝の悪口を言うなど恐ろしくてクレアには真似できない。
「それにしても、昨日の夜会はとっても素敵だったわ! 私も早くあんな夜会を開催できるようになりたいから、歴史の勉強は後回しにして、夜会のマナーを勉強しましょうよ」
 一瞬で話題がすり替わったので、クレアはずり落ちそうになった黒縁眼鏡をあわてて直した。もう皇帝の話には飽きたのだろう。
「いけません、ローデリアお嬢さま。夜会を主催できるほどのレディは、家の歴史のみならず、帝国のことも含めて、さまざまな話題に対応する教養が求められます。主催者が返答に困って沈黙してしまっては、招いた方にも失礼ですからね」
「もう、クレアは真面目すぎるのよ。だから私とふたつしか違わないのに、家庭教師なんてやってるのでしょうけど。地味よ、地味だわ! 若くて美しい時期はあっという間に失われていくのよ? その太い黒縁眼鏡も地味だし、髪型も地味だし、何もかもが地味すぎるわ! 今度一緒に夜会に行きましょうよ。ドレスも貸してあげるから」
 どんな会話をしていても、だいたいここに話題が帰結する。
 淡い栗色の髪をひとつに束ね、太い黒縁の眼鏡をかけて、質素に目立たないように過ごしているせいか、ローデリアお嬢さまからは、いつもいつも「地味だわ」と耳に胼胝ができるほどうるさく言われていた。
 だが、地味でいいのだ。『祖国を追われた悲劇の王女』などという重苦しい過去を背負って、涙ながらに暮らしていくのは性に合わないのだから。
 それに、皇帝ヴァルグレオンに生存を知られた場合、身の安全の保障がない。
 まだ死にたくはないので、残された命を全うするため、こうして地味な家庭教師に擬態して生きているのだ。
 父を殺した皇帝に対しては無心でいられないが、復讐を考えるのは、無謀を通り越した夢物語だった。
 皇帝ヴァルグレオンの率いる騎士団は、世界最強と謳われる精鋭揃い。誰が逆らったり戦を仕掛けたりできるというのだろう。
 そんな負け戦が確定している復讐戦を企てて、キブレス聖王家に忠誠を誓う騎士たちを死地に赴かせるわけにはいかない。
 第一、クレアが信仰しているセレオスト神は、秩序を求める神だ。
 現皇帝の治世になって秩序が整いつつあるこの世界に復讐を持ち込んだら、こちらが秩序の破壊者となってしまうだろう。復讐は私怨であり、秩序の破壊につながるため、神の意志に反するのだから。
 それに、父の死に様も、ヴァルグレオンの暴虐も、この目で見たわけではない。
 キブレスの聖王である父からは常々「自分で確かめていないことは、むやみに鵜呑みにしてはならない」と教えられてきた。
 実際、聖王や王女という身分を知って近づいてくる者たちの中には、やさしい言葉を発しながら、心で嗤うという二面性を持っている場合が多かった。
 何より、あの夜、ヴァルグレオンの手にかかって死んだのは聖王ひとりだけ。
 神殿に火を放って城にも攻め入ったはずの彼だが、キブレス側の降伏を受けてか、誰ひとりとして命を奪われた者はいなかったのだ。
 父の言葉とその事実を鑑みると、皇帝ヴァルグレオンがただただ無慈悲な悪魔だとは思えず、むしろ何か別の意図があったのではないかとさえ思えてくる。
 それに、父はクローディアの親である前に、一国を統治する為政者だ。政争で命を落とす覚悟は当然持っていたし、クローディアに対しても、万が一のことがあっても、王という立場にいる以上、私情を超えた先で命のやりとりがあると教えていた。
 そのときは徒に敵を憎むのではなく、それ以上の命が失われることがないよう考えるのが、聖王家に生まれた者の責務であるとも。
 結局、自分がその場から逃げることで、民に無条件降伏を強いる結果になってしまったけれど……。
 歴史の狭間で翻弄されているちっぽけな自分の変遷に思いを馳せて、クレアは苦笑した。
「……では、せめてドレスの色だけは選ばせてください。地味な色で」
「もうっ、私が地味な色のドレスなんて持ってるわけないでしょう!?」
 しかし、苦笑していられたのはそのときまでで、翌日、とんでもない災禍に見舞われて天を振り仰いだ。
 一介の家庭教師にすぎないクレアが、なぜか皇帝ヴァルグレオンの皇妃候補として、帝都まで出向かなくてはならなくなったのだ……。

  *

 事の始まりは、大公宮に出仕していたハニエル伯爵──ローデリアの父が持ち帰った、大公からの一通の勅命書だった。
 二十六歳の皇帝ヴァルグレオンには妻がいない。そのため、帝国中から広く皇妃候補を募集するというのだ。
 すべての属国・属領の中から、各地の統治者の裁量で二名まで候補を推薦することができるらしい。
 そしてその条件は、『教養と礼儀を具えた適齢期の未婚者で、婚約者・恋人・子がいない者。さらに、皇帝の方針に理解を示し、柔軟性と精神的強さを兼ね備えていること』という内容だった。
 そこでミレニア公国の大公は、その候補にローデリア・ハニエルを指名したらしい。
 先年の結婚ラッシュのおかげで、未婚かつ相手が定まっていない令嬢の数が少ないがゆえの人選だろうか。
 しかし、皇妃ともなれば『教養』の箇所は避けて通れない。ローデリアの一番弱い部分でもある。
「ああ、なんということだ。辺境の弱小伯爵家に皇帝の妃候補など、荷が勝ちすぎる!」
 伯爵の嘆きはもっともである。でも、帝国の命令を受けた大公の指示だ。無視などできるはずがない。
 両親に呼び出されて、皇帝ヴァルグレオンの妃に──という話を聞かされたローデリア自身も、卒倒寸前で目を剥いていた。
「私が暗黒帝の妃ですって……!? いやよお父さま。暗黒帝は慈悲もない暴君だと聞くわ。そんなところに行って、もし何かがあったら私、きっと殺されてしまうわ──!」
 なぜか家族会議の場に同席させられたクレアは、口を挟まずに静観している。しかし、皇帝がいくら悪評高い人物だとしても、無用の殺生はしないだろうと内心で異議を唱えていた。
 遠くミレニア公国にも、現皇帝の統治が安定していることは伝わってきているし、もし彼が噂通りの暴君だったとしたら、距離的に遠いとはいえ、属国のミレニア公国にだって影響はあるはずだ。
 でも何事もなく、世の中はごくごく平和だった。
 どうなるのだろうと、家族会議の行方をじっと見守っていたのだが、ふと手で顔を覆って泣いていたローデリアがこちらを見た。
「そうだわ。クレア、私の代わりに帝都に行ってくれないかしら」
「な……何をおっしゃるのですか、ローデリアさま。大公閣下はローデリアさまをご指名になったのですよ? 名代など立てては大公閣下のみならず、皇帝陛下もお怒りに……」
 思わぬ飛び火に黙っていられず抗議したが、ローデリアは名案とでも言いたげに顔を輝かせた。さっきのはただの泣き真似だった。
「名代じゃなくて、『ローデリア・ハニエル』としてクレアが代わりに行くの。身代わりよ、身代わり。だって、各国からひとりかふたり候補を出すってことは、候補の女性は大勢いるのよね? 全部の国がふたりずつ選んだとしたら、えーっと……」
「帝国は現在、本国以外に三つの属公国、七つの自治領で成り立っておりますので、本国を入れるとしたら、最大二十二名です」
「そう、最大二十二人いるわけよ! 皇妃はひとりだけなんだから、クレアが行って候補から落ちてくれば問題ないわ」
 またしてもずり落ちそうになった眼鏡を直しながら、クレアは嘆息した。
「そういうことであれば、ローデリアお嬢さまが直々に出向かれても問題ないかと……」
 皇帝の前で素のままに振る舞えば、自然と落選させてくれると思うのだが。
「いやあねえ、私が直々に帝都まで出向いて、悪魔のような皇帝にこの美貌を見出されたらどうするの? その点、クレアなら地味だから、万が一にも暗黒帝の目に留まることはなさそうだし! どう?」
 とても失礼なことを言われているのはわかった。
 ツッコミどころが満載で、どこから料理してやればいいのか迷うほどだが、少なくともローデリアの前向きさと精神の強靭さは見習うべきところがある。
「お言葉を返すようですが、もし皇帝陛下が外見を厭わない方だった場合はどうなるのですか? 伯爵さまからうかがった条件の中にも、容姿についての言及はありませんでした」
「その点は大丈夫。クレアの舌先三寸で皇帝を煙に巻いてしまえばいいのよ」
「舌先……」
 現実味のないめちゃくちゃな提案だ。却下してほしいとハニエル伯爵夫妻に目を向けたが、夫妻はなぜか期待の目でこちらを見ている。
 止めるどころか、後押ししてきそうだ。
「いえ、身代わりが露見した場合の危険性を考慮してください。私ひとりの命で済むならともかく、このハニエル伯爵家も、皇帝陛下ならびに大公閣下からもご不興を買うのは必定です。下手をすれば伯爵家が消滅するかもしれません。そして、その結果に私は責任を負うことはできません」
「しかし、クレア。ローデリアは箱入り娘で、世間知らずなところがある。意図せず皇帝陛下のご意向に背くような振る舞いをしてしまったらと思うと……親としても気が気ではない。その点、クレアは立ち回りもうまいし、年齢の割に如才ない。クレアが帝都に行っている間は、ローデリアは邸の中で静かに過ごさせ、身代わりが明るみに出ないよう最大限の注意を払う。物見遊山で構わないので、ローデリアの代わりにどうか……!」
 まさか伯爵からも懇願されるとは思わなかったので目が点になった。皇帝や大公の命令に身代わりを差し出すなんて、普通は考えられない。
 冷静なはずの伯爵にまでそんな誤った判断をさせてしまうほど、帝国皇帝の名は重く、そして恐ろしいものだった。
 とはいえ、これはきっぱり断るべきだ。でも、夫人まで目を潤ませながらクレアを拝んでいる。
「……クレア。これは、我が家の命運を懸けた最後の手段なのよ。大公閣下のご命令に背くことはできないけれど、ローデリアを帝都に送り出すには、あまりに未熟で、危険が多すぎるわ。あなたが行ってくれれば、推薦の体裁は保たれ、陛下のご意向にも沿えるわ。これはあなただからこそ頼めることなのよ。ハニエル家の名誉を守るために、どうか力を貸してちょうだい……!」
(親バカ!)
 愕然としてクレアは頭を横に振る。この期に及んで、娘の未熟さを盾にして他人に責任を押しつけるとは──。
 しかし、家庭教師として、やる気のない生徒の意欲を高めてやることができていないので、その点は不甲斐なく感じる。
「身代わりが発覚したときの危険は考えないのですか?」
「クレアがそんな下手を踏むとは思っていないよ。ほんの数日、帝都を見て楽しんでくればいいから。往復の旅費も出していただけるし、候補者が帝都で遊ぶ場合の費用も、皇帝陛下が持ってくださるらしいし」
 クレアはもう一度嘆息すると、期待の目を向けてくる伯爵家の親子を見て、肩を竦めた。この親子の圧ときたら。
 それでも、若輩であるクレアを家庭教師として迎えてくれた恩義はある。
 ローデリアが心配するような悲劇はまず起きないと思うが、もし彼女の身に何かがあったらクレアも同時に失職してしまう。
 それに、ミレニア公国に残って結果にやきもきするくらいなら、自ら落選しに行ったほうが早いかもしれない。
(皇帝の顔を見てみたい……っていう本音も、ちょっとだけ……)
 無慈悲に聖王を殺害したヴァルグレオンがどんな人物なのか、この目で確かめるまたとない好機でもあった。
 候補からは落選するにしても、多少は皇帝と言葉を交わす機会くらいあるだろう。
 彼がどんな人物なのか、父を手にかけた男の一端でも知ることができたら、危険を冒してでも帝都に出向く価値はある。
「……わかりました。最善を尽くしますが、もし身代わりが露見したときの対応だけ、しっかり準備をお願いします」
 そう言ってから(早まったかな……?)と不安になったが、伯爵家の親子三人から感謝の言葉を雨あられと降らせられて、乾いた笑いを浮かべるしかなかった。