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祖国を滅ぼした暴君皇帝の花嫁候補にされましたが、実は亡国王女なのでバレたら人生終了です! 3

第三話


 数日前のこと。
 執務室に現れたメルヴィからとある報告を受けたヴァルグレオンは、黒く鋭い瞳を丸くしていた。完全に虚を突かれた表情だった。
「皇妃候補十六名、迎賓宮に出揃っております。もっとも、私の所感で極秘に選定を重ねておりますので、現実的な候補は六名程度です。陛下のお手を煩わせる時間はだいぶ短縮されたと思います」
「……なんのことだ?」
 そう訝ったら、メルヴィの横にいるアーベルがこそっと耳打ちした。
「義兄上のお妃選びですよ」
「ん?」
 目を丸くして腹違いの弟を見た。
 アーベルは、前皇帝の愛妾マルゴットの息子である。
 ヴァルグレオンが神託制度を廃したことで実力主義社会の到来を期待し、母とともに隠棲するのではなく、ヴァルグレオンに仕えたいと申し出てきたのだ。
 働きたいと言っているのに無下にするのもなんなので、メルヴィの下につけてやったところ、おとぼけ皇帝と現実主義の参謀の間で、アーベルは絶妙なクッション役を果たしてくれていた──のだが。
 今回については、そのクッションは緩衝材たりえなかった。
「ほう! 覚えておられない! だいぶ前にお話ししましたよね? 権力争いを繰り広げる中央の大貴族を黙らせるために、地方から皇妃候補を選出すると。布告内容を練りに練って、陛下にもご確認いただいたと思いますが!? 各地の統治者に通達して候補を選出させ、ようやく集め……この作業に半年近くを要しているんですよ? それを覚えておられないとは! いやいや、地上最大の権力を持つと言われる帝国皇帝ともあろうお方が、ははっ、まさかそのようなお戯れを」
 そう言われてヴァルグレオンは記憶を過去に飛ばし、そんなこともあったような……という、あやしい記憶を引っ張り出してきた。
「──本気だったのか?」
「まさか、冗談だったとでもおっしゃるのですか?」
 不穏な空気を察し、メルヴィの明るい碧眼に陰りがよぎる。
「本気にする奴がいるか」
「いえ、陛下。洒落にもなりませんよ。とにかく、一時のお戯れだったとしても、各地から候補のご令嬢たちがすでに集っております。今さらなかったことに──なんて言おうものなら、皇帝ヴァルグレオンの威光が地に落ちますので、最後までお付き合い願いますからね! 陛下のご要望通り、豪の者と思われるお嬢さまがたを選び抜いております」
 呆れ気味のメルヴィに、ヴァルグレオンは眉を寄せた。
「豪の者ってなんだ」
「──『帝都の貴族たちに何を言われても堂々と振る舞える、豪の者が望ましい』と、義兄上がおっしゃいました」
 隣でささやくアーベルを尻目に、メルヴィは笑いながらキレている。
「──これだから! 女性に対して『豪の者』とかいう、わけのわからない条件をつけ、無理難題を私に押しつけておきながら!? 思いつきで適当なことを口になさるのは、いい加減におやめください。いつもいつも、陛下のその一言に我ら臣下一同、昼も夜もなく駆け回っているんです!」
 メルヴィがぷりぷり怒りながら退出するのをアーベルがあわてて追いかける。それを見送るヴァルグレオンは、ふと護衛のグラノスに目を向けた。
 すると、忠実な護衛騎士はさっと目を逸らして頭を下げる。
 なるほど、自分はたしかにそういう会話をしたようだ。
 こと政務や軍務となれば、ヴァルグレオンの頭脳は明晰に働くが、それ以外の事象に関してはほぼ無能である。
 皇妃云々については政務のうちに入るかもしれないが、自分のことには疎く、帝都でさんざん皇妃の座を巡る騒動を見たり聞いたりしてきたので、それについて真面目に考えることを心が拒否していたのだった。
 メルヴィの言う通り、本当に地方から年頃の娘たちを呼びつけたのなら、今さら追い返す必要はないが、その中から誰かを選べと言われても、まるでやる気は起きない。
 ──暗黒帝と呼ばれる己を受け止めきれる女性が、この世に存在するはずがないから。
 地方から集めた令嬢たちは、迎賓宮に寝泊まりさせており、最初の十日間は自由に過ごさせ、メルヴィとアーベルのふたりで彼女たちの様子を観察していると聞いている。
 ヴァルグレオンが令嬢たちと直接対面するのは、その後の夜会でのことらしい。
 ところが、少年期を戦場で過ごしてきたヴァルグレオンは、社交というものがとことん苦手だ。
 皇帝主催の夜会など、これまで一度も開催したことはないし、大貴族たちからの招待にも応じたことはない。どこか一ヶ所でも足を運んでしまったら、またそれが争いの種になるからだ。かといって、全部の招待を受けられるほど暇ではない。
 新年のパーティくらいは士気を高める意味でも開催させているが、皇帝主催というより帝国主催で、貴族たちの社交ではなく、騎士たちの労をねぎらう無骨なものに傾きがちだった。
 そんな体たらくなもので、今回の皇妃選びも消極的どころか、ほぼやる気がない。
 ヴァルグレオンは心の拒絶のまま、考えることを素直にやめたのだが、その数日後、庭園で彼女と出会った。
 黒縁の眼鏡をして、くすんだ緑色の質素なドレスを着た娘だった。
 おそらく、今回の皇妃選びに推挙されてきた娘だろう。帝都に住む貴族令嬢は、こんな虫が出そうな場所で本を読んだりしない。
 淡い栗色の髪は、美しく結い上げるでもなく無造作にリボンで括っただけで、飾り気は一切ない。
 でも、木陰のベンチに座り、膝の上に置いた書物を読む姿は凜としていて、なぜかヴァルグレオンの目を引いた。
(何を読んでるんだ? おそろしく分厚いが……)
 辞書か何かと見紛うほどの厚さだ。
 とはいえ、これから遠乗りに出かけるところだったので、ヴァルグレオンはそれきり彼女への興味を失い、郊外まで愛馬を走らせた。
 遠乗りから戻って昼食を摂り、夕方まで騎士たちの訓練に付き合って汗を流した後、馬を厩舎へ戻すべく庭園を横切ったとき、朝見た令嬢が同じ姿勢で本を読んでいるのが目に入ったので、思わず馬を止めた。
 しかも、朝はこれから読みはじめるというところだったが、もう終盤にさしかかっている。本のページは彼女の左手側に積み重なっていた。
「まだいたのか!?」
 驚きが言葉になってヴァルグレオンの口から飛び出したが、彼女も相当驚いたらしく、飛び上がって顔をこちらに向けた。
 大きな黒縁眼鏡の下で、オリーブ色の瞳がまん丸になっている。何かの小動物を思わせる様子で、つい笑いそうになって咳払いすると、何を読んでいたのかを尋ねた。
 すると、得意満面の彼女は「帝国統一史です!」と、嬉々として答えた。
 ヴァルグレオン自身は皇子という立場だったから、義務として、その本を歴史の教師に教わりながら子供時代に読み込んだ。
 しかし、強要されたわけでもない若い娘が、好んで手に取る本ではないだろう。
 歴史の話をする中で、現皇帝が神託制度を廃止した理由──自分自身が引き起こしたキブレス動乱について、彼女が言及したときは身構えた。
 だがこの娘は、世間の酷評を真に受けず、ヴァルグレオンの抱える事情に思いを巡らせる言葉を口にしたのだ。
 皇帝批判にならないように、あわてて言い繕った可能性もあるが、彼女の何気ない一言に、ヴァルグレオンは思わず自分の心臓のあたりをつかんでいた。
 そんな娘がこの世に存在したことに驚きを隠せなかったのだ。
 ──この時点でヴァルグレオンの興味を引いてしまったので、クローディアの目論見は早々に失敗していたわけだが、もちろん、お互いにそんなこととは知る由もない。
 そのときは名前も聞かず、こちらも告げることなく別れたのだが、それからもたびたび遭遇することになった。
 時間ができると、ヴァルグレオンの方から無意識に足を運ぶようになっていたから。

 

  * * *

 

 青年騎士との遭遇があった翌日、クローディアはこげ茶色の地味なドレスを着て、皇妃候補の令嬢十六人を集めたお茶会に参加していた。
 会場は広い庭園の一角で、辺りには庭師が丹精込めて世話をしている花々が咲き乱れている。
 ただし、この会に主催者はいない。お茶会自体が、皇妃候補たちを見定める試験みたいなものだろう。
 無秩序な場において、統率力を発揮できるような女性こそが皇妃にふさわしいということに違いない。
 どの女性も美しく、聡明そうな顔立ちをしている。各国で選りすぐりの才媛だ。
 メイドたちが配膳を終えて下がると、さっそく静かな戦いの火ぶたが切って落とされた。
 この戦に勝ち抜く必要があるなら、かなり緊張が走る状況だが、クローディアは合格する必要がない。ここぞとばかりに王都で流行りの甘味に一極集中していた。
(あぁ……ふわふわしてて、おいしい……っ!)
 スポンジよりも歯ごたえはあるものの、口に入れるとふわっと蕩けるケーキは、これまでに食べたことがない食感だ。
 これがまたミルクを注いだ紅茶とよく合い、天にも昇る心地である。
 両隣のご令嬢たちは微笑を浮かべながらも互いに牽制しあっていたが、クローディアひとり、まるで他人のことなど気にせず、心の赴くまま食欲を満たしていた。
「よくお食べになりますのね」
 隣で引きつり笑いを浮かべている令嬢に言われて、クローディアは黒縁眼鏡の奥でにっこり笑う。
「ええ! とてもおいしくて、ほっぺたが落ちそうです! 皆さま、あまりお召し上がりにならないのですか?」
 いくら女性同士のお茶会だろうと、会話そっちのけでケーキに食らいつくものではない。他の令嬢たちも顔を引きつらせているが、やはり気にせずせっせと甘い欠片を口に運び続けた。
 そんな中でも、統率力を発揮しはじめた女性がいる。マルリヤ公国のエセル公女だ。
 帝国西南部に広がる草原地帯がマルリヤ公国で、勇猛果敢な騎馬隊で知られている。
 統治者の娘であり、クローディアをはじめとした単なる爵位持ちの娘とは一線を画す存在だった。
 騎馬民族らしく快活で、凜とした風貌は目を引いた。きっとサバサバしていて、話せば気持ちのいい女性だろう。気難しそうな皇帝ヴァルグレオンも、この公女なら気に入るのではないだろうか。そんなふうに思わせる何かを持っている。
 少なくとも、あの皇帝補佐官の青年の目には、合格点に達して見えているに違いない。
 エセル公女に対抗するように自我を見せはじめた令嬢もいたが、やはり王族の貫禄は伊達ではない。彼女のおおらかな笑みに嫌みも対抗心も吸い込まれてしまい、効果を発揮することはなかった。
(エセル公女で決まりかな)
 来週の夜会で、皇帝がエセル公女を見初めれば、晴れてクローディアはお役御免だ。数日ほど帝都を楽しんでからゆっくりミレニアに帰還すればいい。
 故国から亡命して以降、のんびりする時間は与えられなかった。今回はちょっとした小旅行を贈られたと思えば、この面倒なお役も楽しんで終えることができる。
 お茶会もたけなわになってきたときだ。
「失礼いたします」
 そう言ってお茶会に乗り込んできたのは十七人目の令嬢だった。
 今回、皇妃候補として帝都に滞在しているのは十六人と聞いているが、急遽人数が増えたのだろうか。
 だが、彼女の自己紹介で、それがただの闖入者であることが発覚した。
「お初にお目にかかります。わたくし、シーローズ帝国元老院筆頭、シュレイア公爵家の長女セシリアと申します。どうぞお見知りおきくださいませ。ご挨拶だけでもと思い、僭越ながら参上いたしました」
 要するに、呼ばれてもいないのに乗り込んできたということだろう。
 シュレイア公爵家は、帝国の名門貴族として広く名が知られている。
 元老院は帝国の重要な政策や法案について議論・助言を行う、年長者や有力者によって構成された政治機関のことで、シュレイア家はその筆頭格だ。
 そのご令嬢ともなれば、王族に匹敵するほど地位の高い女性ということになる。
 つややかな銀色の髪、挑発的な灰色の瞳は神秘的で、顔立ちはやや幼いものの、おいそれと近づけない気品が具わっていた。
 一定方向に揃いつつあったお茶会の空気が、セシリアの登場で見事に壊されてしまった。
「ここにいる方々は、皇帝陛下の妃候補とお聞きしています。ですが、帝都の礼儀に慣れていない方も多いようですね。皇妃は帝国の顔。ふさわしい振る舞いを心得ていない方々には、少々荷が重いのでは? 田舎では、茶器の持ち方も独特ですものね。陛下の御前でそのような所作をなさるおつもりでいらっしゃるのかしら?」
 皇妃候補たちは、セシリアの物言いに対して言い返したり黙り込んだりと、それぞれの反応をしていたが、クローディアだけは意に介さず、相も変わらず口が忙しい。
 やがて、自分のために用意されたケーキ類はすべて平らげ、紅茶もすっかり飲み干すと、満足して言った。
「ああ、お腹いっぱい! ごちそうさまでした」
 すると、それを聞きつけたセシリアが、扇で口許を隠しながら眉をひそめる。
「まぁ……帝都では、お茶会で満腹などとは申しませんのよ」
「そうでしたね! でも申し訳ありません、あまりにおいしくて感動してしまいました。これを作ってくださった料理人の方に最上級の感謝を」
 そう言って食後の祈りのポーズをとったら、セシリアに上品な笑顔で嘲笑された。
「あなた、どちらのお国の方かしら」
「はい、ミレニア公国ハニエル伯爵家のローデリアと申します。セシリアさま」
「帝都のケーキがお気に召したようで何よりですわ。ただ、皇妃としての責務は、甘味に通じているだけでは務まりませんのよ。ミレニア公国のハニエル伯爵、だったかしら。帝都ではあまり耳にいたしませんわね」
 そんな忠告に、クローディアはちょっとだけ目を上げてセシリアを見て、にっこりと満面の笑みを浮かべた。
「我が家についてお知りになりたいですか!? ハニエル伯爵家は、帝国に併合される以前から、ミレニア王国東部を治めている地方領主です。軍事力も政治力も強くはありませんが、薬草と鉱石の供給地として国を支えてきました。領内には古代神殿の遺構が点在し、代々の当主はその保護と記録管理を担っています。第四代当主は神殿文書の保存に尽力し、王国史編纂局に資料を提供したという記録もございます。また、帝国との交易路の中継地として……」
 語り出すと止まらないのは、クローディアの性格である。もちろん家庭教師として、働く家の歴史には精通しているから、嬉々として知識を披露した。
 なにしろせっかく得た知識なのに、当のハニエル家令嬢ローデリア本人にはちっとも響かないのだ。一緒に語りたいことがたくさんあるのに。
 だが、さすがに素を出しすぎて周囲が凍りついていることに気づき、あわてて咳払いして居住まいを正した。
「セシリアさまのような聡明な方こそ、正攻法で陛下のお目に留まるよう努力されるべきかと存じます。ライバルを蹴落とすより、魅力を磨くほうが建設的ではないでしょうか」
 そう言って締めくくりに微笑すると、頬を赤らめてセシリアは扇を静かに閉じる。それを握る手に力がこもって震えていた。
「ご忠告、感謝いたします」
 彼女が踵を返してお茶会の場から急ぎ足で立ち去ると、誰からともなく、ほうっと息をつく音が漏れた。
 緊張の走っていたお茶会の場に、ようやく安堵の空気が広がったのだ。
 クローディアはその様子を眺めると、立ち上がった。
「お腹もいっぱいになりましたので、わたくしもそろそろ失礼させていただきます。皆さま、どうぞごゆっくり」
 スカートをつまんで一礼すると、クローディアもそそくさと会場を後にして、図書館へとまっすぐ向かった。
 まだまだ読みたい本がたくさんあるのだ。一刻も時間を無駄にしたくない。

 その頃、このお茶会の場から少し離れた茂みの陰。
 令嬢たちの会話を肴に、ひとり優雅にお茶をしていたメルヴィが腹を抱えて笑い転げていた。
 セシリアは現在、シーローズ帝国内の未婚令嬢のうち、ヴァルグレオンの腹違いの妹たち──前皇帝の側室の娘たち──に次ぐ高位にある。
 そして、おべんちゃら好きの取り巻き貴族たちから『帝都の薔薇』などと呼ばれ、持ち上げられている鼻持ちならない小娘である。
 帝都には五つの公爵家があり、未婚の娘がいる家はシュレイア公爵家とダレスト公爵家のふたつだけだが、ダレスト公爵の娘は幼年だ。
 しかも、皇帝の義妹たちは全員、母親とともに地方に下がらされているから、実質、セシリアが帝都で上位独占状態である。
 むろん、皇妃争いには公爵家のみならず、帝都の侯爵家、伯爵家も参戦しているが、そういった背景からセシリアが増長している現状なのだ。
「ああ、おもしろかった! ミレニア公国のハニエル伯爵令嬢、か。うん、おもしろい。あの図太さと、ド正論を嫌みなくぶん投げる爽快さ。あれくらいでないと、陛下のお相手は務まらないだろうな」
 思い出すだけで笑えるので、しばらく爆笑の発作を抑えるのに苦労したほどだ。
「いやはや、セシリア嬢もあれで少しは謙虚になればいいが……いや、無理か。あの子はなにしろ『帝都の薔薇』だからなあ」
 セシリアは、昨年のデビュタントで初めて皇帝の視界に入って以来、怖いもの知らずにも皇妃の座を狙いはじめた。
 周囲には、皇帝陛下が自分に笑いかけてくださったと吹聴しているようだが、捏造か勘違いのどちらかだろう。
 その割に、当のヴァルグレオンに接触するわけでもなく、外堀固めの工作に必死だった。
 その家族も娘を応援すべく、周囲を蹴落とし悪評をばら撒き、ヴァルグレオンに帝国貴族への忌避感を植えつける一助を担ったのだ。
 まだ十六歳と若いのに、高位貴族のいやな部分を煮詰めて濃くしたような存在になりつつある。
 ぜひ最後までハニエル伯爵令嬢に張り合ってもらい、誰にも折れないその鼻っ柱をぽっきり折られるといいのだ。
 薔薇は薔薇でも、棘だらけの薔薇では思わぬ怪我をすることもあるだろう。皇妃たるもの、他者を傷つける存在であってはならないのだから。
 なるほど、皇帝の言う『豪の者』とは言い得て妙かもしれない。まあ、言った当人は忘れていたわけだが。
 こうして、クローディアの意図とは裏腹に、推し令嬢として皇帝補佐官に記憶されてしまったのだった。

  *

 それからもクローディアは変わらず、天気のいい日はいつものベンチで読書をした。
 ヴェルロゼアに滞在できるのもあと数日。読みたい本をすべて読むのはとうてい無理だが、少しでも多くの本を読んでから帰りたい。
 キブレスの王女だった頃は、自国の歴史を自国の視点から学んだが、ハニエル家で家庭教師をするようになって、初めて他国からの視点で歴史に触れた。
 また、外からキブレス動乱を繙くと、違った面が見えてくるので興味深かった。
 歴史の当事者として心が痛むのは否めないが、クローディアは物語の渦中で右往左往する存在ではなく、当事者でありながら傍観者であることを好んだ。
 亡命先のミレニア公国は、帝国本国やキブレス聖王国から遠いため、動乱の詳細を盛り込んだ書物にはほとんど出会えなかったが、ここ皇宮図書館には、多角的な視点からキブレス動乱を記した書物がたくさんある。
 まるで乾いた砂に水が染み込むように読み漁った。
「またここにいるのか。今度は何を読んでいる?」
 そして、毎日ではないものの、夕方になるとたまにあの騎士が通りかかって、クローディアが読んでいる本の解説をしてくれる。
 二回目に会ったとき、去り際に名前を聞いたら、レオンという名を教えてくれた。
 この三度目の邂逅では、クローディアの隣に腰を下ろし、手拭いで汗を拭きつつ軽く談笑するようになった。
 もちろん、彼はクローディアが皇帝の花嫁候補であることを知っているので、隣に座るといっても、適切な距離は保ったままだ。
「レオンさまは本当に博学ですね。騎士ではなく学者でいらっしゃるとか?」
「まさか。退屈な講義を聞くのは苦痛な性質だ。まあこの程度、帝都の人間であれば誰でも知っている」
「帝都の教育はそこまで水準が高いのですね。私も帝都の学院で学んでみたいです」
「──ここに残ればいいのでは?」
 意外そうに言われたが、色々な理由からそういうわけにもいかない。
「や、それはちょっと。早くミレニアに帰らないとみんなが心配しますし」
 本音をぽろっとこぼしたら、レオンは笑った。
「皇妃候補に手を挙げて来たんだろう? 目的を達することなく撤退するのか?」
「あ……。こんなことを言ったら不敬にあたるかもしれませんが……レオンさまだから言いますね。実は大公閣下のご命令で、逆らうわけにはいかないので来ました。でも、私のような不適合者は、皇帝陛下もさっさと見限ってくださると思いますから、気軽な帝都見物のつもりなんです」
 数日の滞在で帝都の空気にだいぶ慣れてきたせいで、クローディアはついつい内心ダダ漏れ状態で言ってしまった。
 だって、噂のような圧政の空気はどこにもないのだ。
 それに普段から『家庭教師のクレア』として気の抜けない生活をしていたので、誰も素の自分を知らない帝都なら、のんびり羽を伸ばして過ごせる。
 とくにこのレオンという騎士は、クローディアが失言をしても聞き流してくれるし、歴史に詳しくて説明も丁寧でわかりやすい。
 尊敬できる人物だと認識しているせいか、彼に対しての警戒心が薄れがちだった。
 案の定、重大かつ不敬な告白をしたにもかかわらず、レオンは苦笑するだけだ。
「おかしいな。皇妃候補の推挙にあたっては、気が向かない者に無理強いをするなという内容だったと思うが」
「えっ、そうだったのですか!? それは聞いていません。大公閣下がその部分を読み飛ばしたのでしょうか……」
 もしレオンの言うことが本当なら、クローディアのみならず、ハニエル伯爵家が迷惑を被ったことになるわけだが……。
「あなたはミレニア公国の出身だったか。前皇帝の正妃はミレニア人だったが、亡くなった後、ミレニア出身者は中央の政界から弾かれた格好になっている。おそらくミレニア大公はそれを憂い、今回の皇妃選びを復権の好機と捉えたのだろう。少しでも中枢に食らいつきたくて」
 そう言われて心の底から納得した。思いがけず帝国中枢にミレニアの人間を送り込む好機が訪れたものの、皇妃候補になりそうな適材がいない。
 そこで『未婚で特定の相手がいない』という最低限の条件を満たしていたローデリアに、渋々白羽の矢を立てたのだろう。候補を出せば、確率は低くとも可能性が生まれる。
 でも、口にしたのは別のことだった。
「レオンさまは、為政者の気持ちを的確に洞察されますよね。先日うかがった初代皇帝の思惑だけでなく、ミレニア大公閣下の目算まで」
「シーローズ皇帝の場合は、それが帝国の公式見解だし、ミレニア大公の目算とやらは俺の推測にすぎない。合っているかは当人に聞いてみないとわからないぞ」
「それはそうですが、かなり納得できました。そうだ、レオンさまは皇帝陛下とお会いしたことがありますか? どんな方でしょうか」
 帝都に来てからそろそろ一週間が経つのに、未だに皇帝ヴァルグレオンについての知識が更新されていない。目の前の騎士はヴェルロゼアの庭園に出入りできるくらいだから、きっと皇帝の為人を知っていると思ったのだ。
「どんなと言われても。そうだな……気に入らない臣下は、目を合わせただけで粛清されるらしい。処刑場の壁には、彼のために命を落とした者の名が刻まれているとか」
「……」
「それから、皇宮の地下には拷問室があって、そこに入れられた反逆者は一晩で人格が変わるそうだ。なんでも、皇帝の命令で魂を抜かれる儀式があるとかないとか。おまけに、皇帝が笑ったら世界が滅ぶという予言がある。だから誰も皇帝の笑顔を見たことがない」
「──さすがに冗談ですよね?」
 荒唐無稽で信じるには値しないと思うが、レオンは真顔で言っている。
「さあ、どうだろうな。今回の皇妃選びに関しても、皇帝はまるで興味はないようだから、下手なことをしたら処刑されるかもしれないぞ」
 そんな脅し文句を言いながらも、目で笑ったから嘘だろうと察しはつくが、皇帝ヴァルグレオンに関してはあまり洒落にならないのが恐ろしいところだ。
 クローディアが押し黙ったら、レオンはひとしきり笑ってから立ち上がった。
「さて、俺はこの辺で」
 レオンが立ち去ろうとしたので、クローディアは思わず彼の背中に声をかけていた。
「あの、レオンさま。帰郷する前にまたお会いできるでしょうか。あ──その、また歴史のお話を聞かせていただけるかな、と……」
 振り返ったレオンの精悍な顔を見て、あわてて言い訳をした。皇妃候補としてここに滞在しているのに、誤解されるような発言をしてしまったからだ。
 でもレオンはさして気にした様子もなく、軽くあしらってくれた。
「約束はしないが、運がよければな」
 レオンの大人の対応に深く安堵し、クローディアは去り際の騎士に微笑を向けた。

  *

 帝都にやってきてから十日が経ち、今夜はいよいよ皇帝ヴァルグレオンと対面する夜会が行われる。
 皇妃候補の令嬢たちは前夜からそわそわして、ドレスの総点検を行ったり、侍女と髪型について念入りに打ち合わせしたりと浮き足立っていたが、クローディアだけは普段と変わることのない生活を送っていた。
 今日までの間に、皇帝補佐官メルヴィたちによって、ある程度の候補は絞られているだろうし、今さらじたばたしたところで、結果にそう大した影響はないだろうと踏んでいる。
 そんなクローディアはといえば、この十日間、読書以外のことは何もしなかった。
 全員参加のお茶会以外、自分から開催することもなかったし招待も断った。社交活動は一切してこなかったので、皇妃に必須の能力『社交性』のなさは十分に喧伝できたと思う。
 あとは夜会に出席して無事お役御免となり、晴れて帰国の途に就く──という算段だ。
 悪目立ちをする必要はないが、競って自分を飾り立てるつもりもない。
 ドレスはハニエル伯爵が仕立ててくれた灰色の地味なものだし、本物のローデリアお嬢さまが日頃から保証してくれている『地味な黒縁眼鏡』も装備品のひとつに加えている。
 皇妃と言えば、社交界の華だ。女性たちの憧れの対象でいなくてはならないが、こんな地味めドレスの眼鏡女子ではそれも叶わない。
 華やかさもなければ、視線を集める力もない。
 ここに来てから、ないないづくしの不適合ばかり叩き出してきたので、候補にすら挙がらないはずだと、すっかり安心しきっている。
 ──とはいえ、内心ではそれほど落ち着いていられなかった。
 そわそわの理由はもちろん、父を手にかけた皇帝といよいよ対面することになり、緊張や恐怖といったたくさんの感情が入り乱れているせいだ。
 帝都の空気が思ったより緩く、毎日楽しく過ごしていたので気が抜けがちだったが、クローディアは今、父親の仇のお膝元にいるのである。
 考え込むと心が乱れてしまうので、心を鎮めるために今朝も早くから図書館に駆け込み、どうしても読みたいと厳選した本を借りてきた。
(私の任務は何もしないこと!)
 そう自分に言い聞かせて、時間になるまで心から読書を堪能した。

  *

 一方の皇帝ヴァルグレオンである。
『社交嫌いは、唯一にして最大の陛下の欠点です! だからいつまでも暗黒帝なんていう悪口が消えないんですよ!』
 ヴァルグレオンの即位から五年、参謀にして補佐官のメルヴィは、この台詞を何度口にしてきたことだろう。
 残念ながら、皇帝の欠点は年々増えていって、今では『社交嫌いが唯一の欠点』とは言えなくなっているが、大きな欠点であることに変わりはない。
 ゆえに、どうせ今日も皇帝が沈鬱なため息をついていると思い、大広間が盛況になりはじめた頃、覚悟して彼の私室を訪れたわけだ。
 しかし、意外なことにヴァルグレオンは素直に夜会服に袖を通していた。
 いかに皇帝の社交嫌いについて説教してやろうかを考えていたので、この様子を見たメルヴィは大いに驚き、碧色の瞳をひん剥いたほどだ。
「陛下、今日はいかがされましたので?」
 そう尋ねはするものの、なんとなく心当たりがあったのでニヤリと笑みを浮かべた。
「嫌だからと避けて通るわけにはいかないのだろう」
「ですです、ご理解くださりありがたく存じます。あの娘がお気に入りですか? ミレニア公国のハニエル伯爵令嬢」
 具体的に名前を出したが、ヴァルグレオンは否とも応とも言わず、いつもの取りすました顔をしている。
 自分の仕える皇帝の表情を崩すのはとても難しい。
 先日、皇妃候補全員参加の茶会で、ハニエル伯爵令嬢がシュレイア公爵家の娘をやり込める様子に膝を打ったのは、まだ記憶に新しかった。
 鼻持ちならない公爵家のお嬢さまは、父親の権力をちらつかせて同年代の令嬢たちを傘下に取り込み、邪魔になると感じた相手は徹底排除しようとする悪い癖を持っている。
 あんな底意地の悪い娘、皇妃になどとんでもないと思っていたので、あの黒縁眼鏡の令嬢がシレッと退治してくれたのは痛快だった。
 それに、訓練帰りのヴァルグレオンが、庭園で読書中の彼女とたびたび言葉を交わしている様子は、茂みの陰からしっかり観察済みである。
 戦に明け暮れていた主人が、どんな女性を好むのかなんてまるで知らなかったが、ヴァルグレオンが自発的にあの眼鏡の令嬢の傍へ寄り、なんだか楽しそうに談笑しているのを見て、雷に打たれたような衝撃を受けたものだ。
 会話の内容までははっきりと聞き取れなかったものの、漏れ聞こえてきたのは、帝国の歴史とか、神託がどうのこうのといった、お堅めな言葉だった。
 ヴァルグレオンと言えば、少年時代は死神と揶揄され、文字通り帝国中の戦場を駆け回っていたから、腕力恃みの脳筋と思われがちだが、実際は幼少期から学問をみっちり叩き込まれてきた秀才でもある。
 そんな彼だからこそ、相手女性の知性や教養といった点がツボなのかもしれない。
 大変よい流れであるとにこにこしながら、メルヴィは皇帝に告げた。
「ハニエル伯爵令嬢なら先ほど大広間に到着され、さっそく健啖家ぶりを発揮されておりましたよ」
 そう報告してもヴァルグレオンはぴくとも反応しなかったが、普段の「行きたくない」「面倒」といった不平不満が一言も漏れ出なかったので、その内心など推して知るべしである。
「本命がすでに決まっているのはおめでたいことですが、はるばる帝都まで来てくださった他のご令嬢たちにも同等の機会がないと紛糾するでしょうから、陛下には全員と踊っていただきます。悪しからず」
「全員だと!? 何人いると思ってるんだ」
 さすがに無表情を取り繕えずにヴァルグレオンが吠えたが、メルヴィは涼しい顔で答えた。
「十六名ですね。ワルツを延々と演奏させますので、こちらで見計らって次々に相手を交代させるようにいたします。陛下はうまくお相手の令嬢をエスコートしていただければ」
 陛下の体力なら大したことではありませんよと笑い、渋面のヴァルグレオンを夜会会場である大広間へと連れて行った。

  *

『皇妃候補たちと皇帝ヴァルグレオンの対面』というから、関係者のみで行われる小規模な夜会と思いきや、開催されたのは帝都の名門貴族も招いての、格式高いものだった。
 クローディアは、元王女とはいえデビュタントも果たさないうちに故国を追われたし、そもそもキブレス聖王国は荘重な神権国家で、華美なパーティとはあまり縁のないお国柄だった。
 こんなにも華々しいパーティに参加するのは生まれて初めてなので、緊張と好奇心で胸がいっぱいだ。
 しかし、候補の令嬢たちに向けられる帝都貴族の目は、好奇心以外に嫉妬や怨嗟、侮蔑、嘲笑といった悪意のほうが圧倒的に多く見受けられる。
 だがきっと、これも皇妃選びの試験のひとつに違いない。
 地方から集めた令嬢では、帝都に住む海千山千の貴族を相手取るのはかなり分の悪いことに思えるが、これを乗り越えられないような女性では、そもそも皇妃として皇帝に並び立つ資格が与えられないというわけだ。
 皇妃候補の条件に精神的な強さもしれっと明記されていたが、このことを指していたのかもしれない。
 もっとも、クローディアは勝ち抜く必要がないので気楽なものだ。
 最初は緊張してしゃちほこばっていたものの、同じ皇妃候補の女性たちの気合いの入った表情を見た途端、自分がこの争いから一抜けしている事実にほっとした。
 その代わり、クローディアにとって重大な『皇帝と顔を合わせる』という試練があると思うと、とても空腹では臨めない。
 腹の底に力をためる必要があるので、立食形式で供されているたくさんの料理に立ち向かうべく、壁際に寄っていた。
 最初は意気込んで食べはじめたのだが、帝都の食べ物は何もかもがおいしい。
 ラヴズは距離的に故郷のキブレスに近いせいもあって、料理自体が懐かしかったり、味付けが似ていたりして、とにかく口に合うのだ。
 教養や儀礼はさんざん身につけてきたが、料理はしたことがない。故郷の味を再現する術はなく、食に関しては諦めるしかないと思っていたから、機会があるうちに食べておきたかった。
 こうしてお上品に、でも旺盛な食欲を発揮して料理を制覇していたが、きっと緊張に対する一種の逃避行動なのだと思う。
 背後がざわついた瞬間、皇帝ヴァルグレオンが現れたことを告げるラッパが鳴った。
「────!」
 たちまち心臓が凍りつき、クローディアの喉はまったく食べ物を通さなくなっていた。
 華やかな曲を演奏していた楽隊も手を止め、皇帝の登場に大広間はしんと静まり返る。
 集まった人々が、整然と頭を下げる様子を視界の隅に収めながら、クローディアも恐る恐る皇帝のいる方向に向き直った。
 でも、恐ろしくてとても顔を見ることはできず、視線は床に固定される。
 この日が来ることは最初からわかっていたはずなのに、いざとなったら呼吸が苦しくなるほど鼓動が速くなった。
 やがて、静まり返った広間に、皇帝の重厚な声が響き渡る。
「諸卿、ご苦労。今宵は存分に楽しむがよい」
 呆気に取られるほどそっけない挨拶が済むと、楽団がふたたび陽気な音楽を奏ではじめた。
 でも、彼の第一声を聞いた途端にクローディアはオリーブ色の目を見開き、床に固定していた視線をそっと上げ、遠くにいる皇帝の姿を目に焼きつけていた。
 聞き知った声だったのだ。
 御座まではかなり距離があったが、ここからでもしっかり皇帝ヴァルグレオンの顔が視認できる。声と同様、顔にも見覚えがあった。
(レオンさま──!)

 

 

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