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暗殺令嬢のみだらな悩み わんこ騎士団長に懐かれすぎて任務失敗です! 1

第一話

 

 外は嵐。
 淡い光に照らされたベッドの上で、二色の髪の男が黒髪の女に覆いかぶさっている。
 滑らかな石壁の部屋に置かれた、大きめのベッド。天井に埋め込まれた照明用の明光石はすり減っているのか、灯りが点いたり消えたりする。
 光が消えるたびに闇が満ち、光が戻れば汗ばんだ二人の肌が浮かび上がる。
「……っあ、あまり、激しくしないで……っ」
「してないよ? むしろ僕は、ものすごく我慢をしているんだから」
 嘘だ、と女は思う。
 だって、揺さぶられるたびに壁際に置かれた鉄の椅子が揺れ、がたがたと音を立てているからだ。
「ひっ、あ、やだ、また、中で大きく……んぁぁっ」
 女がひと際高い声をあげながら背中をのけ反らせた。華奢な背中には、右肩から左脇腹にかけて引き攣れたような傷がある。
「この傷痕、僕は好き。気持ちよくなると、薔薇の花色になるところが、特に」
 男は背後からつかんだ女の細い腰を引き寄せながら、背中の傷痕に舌を這わせる。
 女の背中に、パタパタと汗の雫が落ちていく。
「あっ、あ、奥、だめ……っ」
「だめ? 本当? こんなに気持ちよさそうなのに?」
「ちが、あ、ひぁうっ」
 いきなり、男が女の肩口に噛みついた。
「やだ、噛まないで、あ、待って……!」
 女の柔らかな肌に男の歯が沈みこんでいく。血こそ流れてこないが、甘噛みでは済まされないほどの力で噛まれ、女は耐えきれずに悲鳴をあげた。
「そんなに締めつけたら、痛い」
 強風により、窓枠がガタガタと軋む。
 その音をかき消すほど大きな嬌声と肉を打ちつける音、そして獣のような荒い息づかいが部屋中に満ちている。
「はぁ、気持ちよすぎて僕、気を失いそう」
 掠れた声とともに、男の腰が一段と速く動き出す。女は男に背を向けたまま、シーツを強く握りしめた。
「もう、いきそう?」
 男は汗を飛び散らせながらも、女を気遣う素振りを見せる。体格の異なる男に後ろから激しく突き上げられ、女はひどく消耗しているように思えた。
「も、イッて、るの、ずっと」
「そっか。僕も限界。そろそろ」
 女の身体が小刻みに痙攣し始める。男は女を貫いている己の剛直を引き抜き、濡れて光るそれを見ながら、嬉しそうに笑う。
「嵐はまだまだやまないから、朝までこうしていられる。ずっと」
 男は再び、ゆっくりと女の中に自らを沈めた。女は仔犬のような悲鳴をあげ、むずかるように頭を左右に振っている。
「んぁ、だめ、無理、もう、あぁう……っ」
 また達したのか、女はがっくりと全身の力を抜いた。だが、男の腰はまだ動きを止めない。惚けたような女の顔が、快楽と絶望に染まっていく。
 蜂蜜のように甘く濃密な気配が満ちた部屋の中では、ただ二人の影だけが激しく揺れていた。

 

 


 真っ暗な室内。
 レイトリーン・サウラは息を潜めながら、背後に向かって手招きをする。
 その直後、毛足の長い絨毯を踏みしめる気配がした。
「ニーシャ、ここを照らして」
 小声で囁きかけながら、引き出しに付けられた鍵を指さす。
 数秒ののち、淡い光が鍵を照らした。
 ──でこぼことした凹凸のある、黒鉄の鍵。中央には紫の魔石がはめ込まれ、どこか禍々しい光を放っていた。
「さすが、帝都一の大商会。つけている魔法錠の質が違うわ。とはいえ、ただ〝開けにくい〟というだけでは私を阻むことはできないのよね」
 探知魔法を封じ込めた指輪をかざし、鍵の詳細を調べる。
「うん、致死性の罠が仕掛けてあるわけではなさそう。ただ高い魔石を使えばいいってものじゃないんだけどね、頼んでいる警備会社の質がいまいちなのかなぁ。どっちにしても、こんなところにお金をかけられるなんてうらやましい。ね、ニーシャ」
 振り返ったレイトリーンは、相棒のニーシャの頭を優しく撫でた。
「クゥン……」
 返ってきたのは、小さな鳴き声。
 くすんだ黒色の毛をした一匹の大型犬が、淡く発光する魔石が先端に付けられた折り畳み式の簡易ライトをくわえながら、レイトリーンをじっと見つめている。
「さぁ、どうしようかな。〝眠り蛾の粉〟の持続時間はそんなに長くないし、あんまり時間をかけていられないわ」
 魔法錠を壊すには、まず鍵に付けられた魔石を破壊しなければならない。相性の悪い別の魔石を使って魔力の衝突を起こす方法が〝一般的〟だが、今回はその方法を使うことはできない。
 魔石同士が反応し始めてから壊れるまでには三分ほどの時間がかかる。
 一秒でも早くことを済ませなければならない〝盗みを働いている最中〟の三分は、通常の三十分に値する。そして今はまさにその盗み中。したがって、今回は違うやり方で鍵を開ける必要がある。
「こういう時は、コレの出番ね」
 レイトリーンは迷うことなく、小さな青い魔石をポケットから取り出した。
 石の内部では、青白い炎のようなものがゆらゆらと揺れている。
 この石はサウラ家に代々伝わる製法で作られた〝共鳴破砕石〟。それをそっと紫の魔石に押し当て、まるで友人に対するような気安さで魔石に話しかける。
「さぁ、〝この子〟と一緒に歌って」
 次の瞬間、青い魔石の中の炎が激しく揺れた。
「いい子。とっても歌がお上手ね」
 十数秒ののち、紫の魔石の表面に細かいひびが走り始めた。共鳴破砕石は、相手の魔石の波長に瞬時に同調する。そしてそのリズムを狂わせ、自分の波長に強制的に合わせてから一気に力を逆流させることで急速に崩壊をもたらす。
 三十秒も経たないうちに、紫の魔石は音もなく粉々になり黒鉄の鍵からばらばらと砕け落ちていく。
「よし、これで鍵が開けられるわ」
 レイトリーンは壊れた魔石をそっと払いのけ、鍵を外して引き出しを開けた。そして、中に入っていた鹿革の表紙の手帳をそっと取り出す。
「あった、裏帳簿。あえて金庫じゃないところに隠したまではいいけど、詰めが甘いのよ。ね、ニーシャ」
「……ワン」
 愛犬ニーシャはごく小さな声で吠えたあと、成功を喜ぶようにふさふさの尻尾を振っている。
 が、楽しそうに左右に振られていた尻尾の動きがぴたりと止まった。
「……ニーシャ? どうしたの?」
 ニーシャは鼻面に皺をよせ、部屋の外を睨んでいる。
「まさか、ばれた?」
 愛犬がまるで頷くように首を下に傾けた直後、廊下から複数の足音と怒号が聞こえてきた。
「魔力の逆流を感知した! 会長の部屋だ、全員来い!」
「……っ!?」
 レイトリーンは思わず手の中の共鳴破砕石を見つめた。この石の存在が知られているわけではないだろうが、魔力を逆流させて魔法錠を破壊するという方法を他にも考えついていた者がいたのだろう。
 そしておそらく、魔力の逆流を感知する体制を整えていたのだ。
「やだ、詰めが甘かったのは私のほうだったってこと? 焦らずいつもの方法でやっていれば、見つからなかったのね」
 とはいえ、これは結果論だ。時間がなかったのは確かだったし共鳴破砕石を使ったことに後悔はない。
 そして、今真っ先にやらなければならないことは。
「ニーシャ、逃げるよ!」
 言うなり、レイトリーンは薬指にはめている指輪を回し両腕に強化魔法をかけた。そして目の前にあった大きな椅子を持ち上げる。
 窓ガラスに、椅子を振りかぶる焦げ茶の髪と目を持ったそばかす顔の女が映った。その顔を砕くかのように、窓に向かって全力で椅子を放り投げる。
 強化された筋力で投げつけられた椅子は窓ガラスを粉々に砕き、その破片が星くずのように夜空で煌めくのが視界の端に見えた。
「やっぱり普通のガラスだったか。こういうところをケチっちゃだめよね、魔防ガラスか強化ガラスにしていれば侵入者(わたし)を逃がさなくて済んだのに」
 レイトリーンは床を蹴り、割れた窓から外に向かって飛び出した。そして焦げ茶の髪をなびかせながら、屋根伝いに全力で駆けだす。
「こっちだ! 追え!」
 背後に聞こえる、追手の声。
「あら、対処が早い。魔力逆流を感知されたことといい、今回は優秀な人が指揮官にいるみたいね」
 ──感心しながら呟いた次の瞬間、背中にぞわりと寒気が走った。とっさに腰へ手を回し、愛用の鞭をつかんで背後に振るう。
 魔獣《鋼尖鷲》の嘴と羽毛を使った、伸縮自在なレイトリーンの専用武器。一閃する鞭の先端は、周囲に金属音を響かせながら平べったいなにかを瞬時に叩き落とした。
「うわ、飛刃じゃない……! ってことは、敵にアーモン共和国の人間がいるってことね。これは、ちょっとまずいかも」
 レイトリーンの背に、冷たい汗が流れる。
 遠い東の大陸にある巨大国家アーモン共和国。国土は恐ろしく広いのに、大半は山と森。他国と比較してもあまり文明が発達していない印象だが、世界でも類を見ないほどの高い戦闘能力を持つ民族がいる。
 彼らを傭兵として〝輸出〟することが主な収入源といっても過言ではない。
 ゆえに、裏社会では『相手側にアーモン共和国出身者がいた場合、報酬を増額』といった取り決めを事前に交わすこともあるくらいなのだ。
「やだ、彼らを雇うのにお金がかかったから、他が杜撰だったのかもー!」
 足元の不安定な家屋の屋根をひた走り、時折背後に鞭を振るって襲い来る白銀の刃を叩き落とす。その一方でレイトリーンは頭を目まぐるしく回転させ、この状況からどうやって逃げ出すかを必死になって考えていた。
「ごめんね、ニーシャ! 私が油断したせいだわ。でも、あなただけは私が守ってみせるからね」
 ともに駆けるニーシャの様子をうかがうも、その大きくしなやかな身体には傷一つついていない。
「もう少し頑張ってね。時計塔まで逃げたら、霧玉を使って切り抜けるから」
 ニーシャはひらひらと華麗なステップを踏みながら、敵の攻撃を躱している。
「それにしてもしつこいったらないわ……きゃっ!?」
 緊張と疲労からか、攻撃に対する反応が一瞬遅れた。
 飛来した刃がレイトリーンの右腕をかすめ、鋭い痛みが走る。
「痛っ……!」
 よろめいた弾みで屋根の溝に足が引っかかった。がくん、と上体が前につんのめり、しっかりとしまっていた裏帳簿が、胸元から飛び出していく。
「……っ!?」
 帳簿(これ)を失うわけにはいかない。とっさに体勢を低くし、帳簿を落下する寸前で受け止めた。ほっとしたのも束の間、視界の端にもう一閃、銀の飛刃が迫ってくるのが見える。
 真っ直ぐ、右の眼球に向かってくる細く長い白銀の刃。レイトリーンは瞬時に判断し、手にした裏帳簿を前方に放り投げた。
「ニーシャ、それをくわえて逃げて! 父さんに渡して!」
 ──サウラ家に生まれた時から、命を失う覚悟はできている。
 だが任務だけは、なんとしても完遂させなくてはならない。
(ごめんなさい、お父さん、お母さん、ブローニッド……)
 愛する父と母、そして妹の姿が次々と瞼の裏に浮かぶ。
 もう逃げきれない、と諦めた次の瞬間、ニーシャが一直線に駆け込んできた。大きな体躯で高く跳び、咆哮とともに牙で飛刃を叩き落とす。
「ありがとう、ニーシャ! 行こう!」
 諦めかけた心を奮い立たせて体勢を立て直し、裏帳簿を拾って、レイトリーンは愛犬とともに全力で駆けた。安堵とも違う、なんともいえない感情に鼻の奥がつんと痛くなる。
 この相棒がいてくれたおかげで、自分はここまで生きてこられたのだ。
 ──そう。〝あの時〟も。
 夜風になびく愛犬の毛並みを見つめながら、レイトリーンはふっと頬を緩めた。

 ********
 
 レイトリーンの生まれた家、サウラ家は特殊な家だ。
 一応、伯爵家ではある。とはいえ、はるか昔に没落しているため領地など持ってはいない。
 ただ〝爵位を持っている〟というだけだ。貴族年鑑の片隅に家名は記載されているものの、今は家族で骨董店を営んでいる。
 しかし完全なる自営業の一般家庭かと言えばそうではない。財政状況が厳しくなってきた曽祖父の代から、サウラ家は皇家の命令で表には出せないいわゆる〝裏の仕事〟を請け負うようになっていた。
 祖父母が亡くなったあと、一人息子だった父フィスは裏の仕事を辞めようとしていたらしい。生涯独身を貫き、自分の代で没落させようとした企みは、母ミアンの登場であっさりと覆された。
 仕事で人身売買組織に潜入した若き日の父は、その組織の〝商品〟であった母に一目惚れをし、本当はボスだけ仕留めればよかったものを、組織そのものを壊滅させてしまった。
 美貌の母は自身の両親を殺されたうえで誘拐されていた。父は一人ぼっちになった母をそのまま連れ帰り、熱烈なアプローチを繰り返してその心を見事に射止めたのだという。
 両親の出会いは素敵だと思うが、おかげでレイトリーンも二つ下の妹も裏稼業に身を置くことになってしまった。
 母は戦闘訓練を受けていないため、戦力にはならない。ゆえに、父と姉妹で分担をしつつ任務をこなしている。
 頼りになる相棒犬、ニーシャは元野犬だ。だが仔犬の頃に見つけて飼っていた、というわけではない。
 それはレイトリーンが十歳になった時。
 訓練の一環としてわずかな食料と銃弾が六発だけ入った銃、ナイフ一本という軽装備で山の中に放り込まれたことがあった。
 期間は、十日間。
『うぅ……こわいよぉ、お父さん、お母さん……!』
 物心ついた頃から過酷な訓練を受けていたとはいえ、さすがに両親から離れて暗い山の中で一人ぼっちで過ごす、ということは今までにない。
 けれどどんなに泣いたところで、十日経つまで父が迎えに来てくれることはないのだと、幼心にもわかっていた。
 レイトリーンは山葡萄や野草、食べられる茸などを食料にしながらなんとか五日間はしのいだ。
『あ、ウサギさんだ』
 六日目、ぴょこぴょこ歩く可愛らしい野兎を見かけた。木の実が豊富な山だからか、兎は丸々と太っている。
『お腹すいたけど、ウサギさんは食べられないよ……。猪だったらよかったのに』
 自分勝手なことを思いながら、また山葡萄でも取りに行こう、と踵を返したレイトリーンはそこでぴたりと足を止めた。
『……あ』
 ──いつの間に接近されていたのだろう。目の前に、見上げるほど大きな熊が立っていた。
『っ!』
 熊が右手を大きく振りかぶる。レイトリーンは素早く背後に飛んだ。
『わあぁっ!』
 信じられない風圧に、レイトリーンは思わず両目を瞑る。
 それがまずかった。
 着地の直前で目を閉じたせいで、足元が大きくよろめいてしまったのだ。地に倒れ伏したレイトリーンの背が、熱湯を浴びたように熱くなる。
『きゃあぁーっ!』
 熊の爪でひっかかれたのだ、ということは幼いながらも理解できた。
『やだ、いたい、こないで!』
 両親を呼ぶ余裕もなく、レイトリーンは泣き叫ぶことしかできない。眼前に迫る、鋭い爪の生えた毛むくじゃらの手。
 震える手で銃をつかみ出し、熊に向ける。だが熊は怯むことなく牙を剥き出しながら獣臭い息を吐いていた。
 もう駄目だ。
 そう思った次の瞬間、レイトリーンの脇腹になにかがぶつかってきた。そしてその勢いのまま、横に吹っ飛ばされるようにして地面に転がる。
『いたっ! え、なに? 今のなに?』
 目をあげると、熊とレイトリーンの間に黒灰色の毛並みを持った大きな犬が立ちはだかっていた。犬は、熊に向かってしきりに吠えたてている。
『犬さん……』
 野生の熊は、案外と犬を苦手としているという。この熊も例にたがわず、吠える犬を前に戦意を喪失したのか、森の奥へ走り去って行った。
『ありがとう、犬さん!』
 大きな犬に抱き着くと、頬を優しく舐めてくれた。目を覆うように伸びている毛をかき分けると、穏やかな光をたたえた水色の瞳と目が合った。
『素敵な色。お母さんの持ってる水宝石(アクアマリン)の指輪みたい』
 犬はずっとレイトリーンに寄り添ってくれて、残りの日数もそのままともに過ごした。そして最終日。泣く泣く犬と別れたレイトリーンは迎えに来た父へ事情を説明した。
『熊に襲われたら、犬さんがたすけてくれたの! お父さん、犬さんをうちで飼ってもいい? レイトリーン、ぜったいに自分でお世話するから!』
 父は最初、渋い顔をしていた。ペット、というのはある種の弱みにもなる。だが必死に頼み込み、最終的には了承してもらった。
 そしてレイトリーンは即座に森へ向かい、水辺で微睡んでいた犬に思い切り抱き着き、驚く犬の毛並みに鼻先を埋めながら満面の笑みを浮かべた。
『私のお家に一緒に行こう! 私たち、もう家族なんだよ。よろしくね、犬さん。ううん、ニーシャ!』
 ──〝ニーシャ〟はブリオングロード帝国語で〝勇敢な者〟という意味だ。
 成長したニーシャは超大型犬であることがわかった。だがレイトリーンを助けてくれた時の体躯は、熊に遠く及ばない。そんな自分の何倍もある猛獣に恐れることなく突っ込んでいった英雄に、これ以上なく相応しい名前だと思っている。
 そうして、晴れてサウラ家の一員となったニーシャだが、ずっと自由な生活をしていた野犬だったからか、鎖で繋がれるのだけは嫌がった。だからレイトリーンは報酬でもらった、己の目と同じ色の翠玉(エメラルド)をはめ込んだ首輪をつけるだけに留め、あとは自由にさせている。
 ニーシャは基本的に日中、家にいることはない。
 けれど、夜になると必ず帰ってきてレイトリーンと一緒に眠る。
 過去に一度だけ、一晩帰ってこず翌日に泥だらけで帰ってきたことはあったが〝外泊〟はその時だけだ。
 ニーシャと暮らすようになって十三年。昼に出かけ、夜に帰って来る生活習慣は今も変わっていない。
 黒毛と、のちに垂れた耳の一部が灰色になった〝英雄〟は、二十三歳になったレイトリーンのもっとも信頼できる相棒であり、また心許せるたった一匹の親友でもある。

 ********

 温かい紅茶を注ぐ音が、静かな朝の空気に溶け込んでいく。
「それで、あやうく帳簿を持って帰れなくなるところだったんだけど、そこはニーシャが上手く助けてくれたの」
 ──朝食の席で、レイトリーンは昨日の任務の報告をしていた。これは、報告を兼ねて必ず家族で揃って食事をする、という父の方針による。
 食卓の上には厚切りの塩漬け燻製肉に目玉焼き。焼きトマトとマッシュルームに母が家庭菜園で育てている香り豊かでみずみずしいサラダ用の香草が添えられている。
 焼きたてのソーダブレッドが湯気を立て、テーブルの中央には黄金色のバターと蒸留酒で煮込んだ夏蜜柑のマーマレード。これも母の手作りで、レイトリーンの大好物でもある。
 仕事の翌日は、母がその時の当番だった者の好物を必ず一品、朝食に出してくれるのだ。疲労と命の危険から帰還した身としては、母のそんな心遣いが本当に嬉しい。
 レイトリーンはほんのり笑みを浮かべながら、サクサクとしたパンを割りバターとマーマレードをたっぷりとつけた。
「大変だったんだね。っていうかあの商会、アーモン人を雇ってたの? そんなこと依頼書には書いてなくなかった?」
 妹のブローニッドが、レイトリーンが書いた報告書を読みながら驚いたように両目を見開いた。
「うん、書いてなかった。だから私もすごくびっくりしたわ。帳簿を手に入れる時の鍵開けがばれた時点でなんだか変だな、とは思ったんだけど」
 このたびの依頼は帝国からのものだった。いつもなら対象者や対象物について、ざっくりとした調査内容が記載されているのだが、今回は備考欄にはなにも書かれていなかったのだ。
「なんにせよ、お姉ちゃんが無事でよかったよー。お父さん、いくら帝国からの依頼っていっても、これは文句つけといたほうがよくない?」
 ブローニッドの言葉に、父は厳しい顔をしながらもゆっくりと首を横に振った。
「今回の依頼は、宰相閣下からの直接依頼だったからな。さすがに文句を言うことはできない」
 帝国宰相クインシー・バラは有能だが冷酷非情な人物として有名だ。うかつに抗議などしようものなら、サウラ家など適当な理由をつけて瞬く間に潰されてしまうだろう。
「そっかぁー。……あーあ、ここまで使い捨て感を堂々と出されると萎えるよねー」
 ブローニッドは不貞腐れた顔で、綺麗にカールした金色の髪を弄っている。
「そうだ、お姉ちゃん。髪と目の色だけじゃなくて顔もちゃんと変えた? お姉ちゃん面倒くさがって髪の色くらいしか変えなかったりするからさぁ、アーモン人の護衛に顔を見られてたらちょっとまずいんじゃない?」
「大丈夫。今回はなんだか胸騒ぎがしたから、髪と目を焦げ茶にして顔にそばかすもつけておいた。追われたのは屋根に出てからだし、まともに顔を見られていないと思う」
 レイトリーンはサラサラとした〝金髪〟を一房、指でつまんだ。
 ──仕事の時は必ず、〝変化〟の魔石を埋め込んだ指輪をつけて容姿を変化させている。
 これまでのレイトリーンはブローニッドが言っていたように、髪と目のどちらかしか変えない、ということが多かった。
 それは面倒だというのも理由の一つだが、顔を見られるような失敗をするわけがない、という自信に基づいたものでもあった。
 だが、今回は徹底して容姿を変えた。それは本当に気まぐれではあったが、今思えば〝虫の知らせ〟というものだったのかもしれない。
「ともかく、レイトリーンが頑張ってくれたおかげで裏帳簿は無事に手に入った。朝食が終わったら、父さんは宰相閣下にお会いしてくるよ」
「はぁい、いってらっしゃい」
 レイトリーンは機嫌良く、目玉焼きにナイフを入れる。仕事の翌日は休み、と決まっているため、仮に父が再び新しい依頼を受けたとしても、それを担当するのは父かブローニッドのどちらかだ。
「あ、お姉ちゃん。ニーシャの散歩、わたしが行ってこうか?」
「え? ニーシャの散歩?」
「うん。なんか今日は珍しく家にいるからさ。でもお姉ちゃんは疲れてるでしょ?」
 ほら、と目で示すブローニッドの視線を追った先には、ニーシャが澄ました顔で丸まっているのが見えた。
「やだ、本当。どうしたの、ニーシャ。出かけないなんて珍しいじゃない。どこか怪我でもした?」
 慌ててテーブルを離れ、愛犬のもとに駆けつける。
 長い毛並みに手を突っ込んで探るも、特に怪我をしている様子はない。
「昨日は予想外の相手に追われたり戦ったりしたから、疲れたんじゃないの? ニーシャはずいぶん長生きだから、もういいおっさん犬だしね」
「なによ、おっさんじゃないわよ。まだまだ若いよね、ニーシャは特別な犬なんだから」
 ニーシャは〝そうそう〟とでも言うかのように、目を細めふさふさとした尻尾を振っている。
「家にいたい気分の時だってあるんじゃないかな。そうだ、せっかくだから朝ごはんが終わったらお散歩に行こうか。どう?」
 普段が放し飼いのせいか、ニーシャを連れて散歩に行くことはほとんどない。
 けれどせっかくの機会だし、たまには飼い主らしく散歩をしてみるのもいいのでは、という気分になった。
「ワン!」
 ニーシャは元気よく立ち上がり、レイトリーンのスカートの端をくわえて引っ張る。
「わぁ、やる気満々じゃない。お姉ちゃん、早く朝ごはん食べて行ってあげなよ」
「わかってるってば。あともう半分だけ、パンを食べたら行ってくるわ」
 そう言いながら、残っていたソーダブレッドを二つに割り最初の倍量ほどのバターをすくって手際よく塗りつける。
「ちょっとお姉ちゃん、バターつけすぎじゃない? 太るよ?」
「平気よ。昨日五キロくらい痩せた気がするの」
「いや、痩せてないからー」
 姉妹で笑い合う、この時間も大好きだ。
 レイトリーンは幸せな気持ちに包まれながら、分厚いバターをまとったパンを口の中に放り込んだ。