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傾国美女はやりなおしたい! 破滅回避の契約結婚のはずが、冷酷宰相にめちゃめちゃ溺愛されています 1

第一話


 優しいけれど力なき王。
 美貌だけが取り柄の妃──。
 二人とも、真面目に国政を行っているつもりだった。
 不都合な真実を知らされていないだけだったと気づいたときには、すでに手遅れで……。
 家臣の言葉が正しいか間違っているか──それを判断できなかった為政者が廃されるのは当然の成り行きだった。

「スチュワート様。この道を使えば宮廷の外へ……財務大臣が馬車を用意してくれているはずです!」
 王妃エディスは夫である国王の手を引いて、ランタンの明かりだけを頼りに薄暗い地下の隠し通路を進んでいた。
「あぁ……どうしてこんなことに。暴動が起こるほど民草が貧しい生活を強いられていたなんて……誰も、誰も……教えてくれなかった!」
 嘆くスチュワートの顔色は悪く、歩みは遅い。
「今は先へ進みましょう」
 一年前、妃となったばかりの頃、エディスは王族と信頼できる家臣だけが知っているという、宮廷内の隠し通路の場所を教わっていた。
 そのときはまさか実際に使用することになるとは思いもしなかった。
 油断すると、恐怖で泣き出してしまいそうだ。
 それでも、意気消沈した国王スチュワートをこれ以上不安にさせるわけにはいかず、エディスは自分を鼓舞しながら、どうにか前へ進む。
 細い通路から急に開けた場所に出る。宮廷からの脱出を手伝ってくれる家臣が灯してくれたのか、壁にはいくつかの松明が掲げられていた。
「古代の神殿遺跡……。あと少しで地上に出られるはずですよ、スチュワート様」
 ひびが入った女神像や石でできた無数の柱があるその場所は、行き止まりになっているようにも見える。
 けれどここにも隠し扉があるはずだ。
 ようやく反乱軍に取り囲まれた宮廷から脱出できるのだ。
「国王陛下、王妃陛下……お待ち申し上げておりました」
 奥まで進むと、兵を引き連れた財務大臣ギャラガー侯爵が待ち構えていた。
「ギャラガー侯爵! あぁ、よかった……」
 ここまでスチュワートと二人きりで、さすがに不安だったから、エディスは頼れる臣の姿に安堵した。
 彼の手筈で都の外に出て、親国王派の所領まで逃げれば、そこから再起を図れる。
 ギャラガー侯爵は、そのルートを確保するために奔走してくれていた。
「……」
 ギャラガー侯爵が無言のまま笑みを浮かべている。
 そしてなぜか、彼の周囲にいる兵士たちが剣を構えた。
「ギャラガー、どうしたのだ……?」
 スチュワートもおかしいと感じたのか、エディスの手を握ったまま歩みを止めた。
 後方を確認してみるが、二人を追ってくる者などいない。だったら、彼らは誰に剣を向けているのだろうか……。
 エディスは咄嗟にスチュワートよりも前に出る。
「あなたたち、剣を収めなさい。この方をどなたと心得るのです!」
 エディスは声を張り上げる。
 無言を貫く兵士たちに代わって口を開いたのは、ギャラガー侯爵だった。
「もちろん、もうすぐ廃される無能なグレイヴォーン王国国王スチュワート陛下であらせられます。我々は、国を傾けた暗君に剣を向けているのですよ」
「無能な……国王……?」
 わけがわからず、エディスは聞き返していた。
「王妃陛下……あなたが民からなんと言われているのかご存じですか?」
 その問いに、エディスは答えられない。
 民の言葉を聞く機会など、王妃にはなかったのだ。
 けれど、評判がよければ宮廷が反乱軍に取り囲まれるはずがない。それだけは、なんとなくわかっていた。
「王妃エディスは、若き王を誑かし、贅沢をするために税率を上げ、自身と生家のために金を湯水のように使う傾国の美女。……とんでもない悪女なのですよ」
「……ギャラガー侯爵、あなたは!!」
 エディスは王妃になってから、自分でなにかを決めたことがほとんどない。
 貧乏男爵家出身のエディスは、上流階級の常識を知らず、貴族から選ばれた高位女官の助言に従っていたのだ。
「一度着用したドレスは二度と身につけず、宝飾品もすぐにお気に入りの女官にあげてしまう。……王家に寄生する一族……身に覚えがないとは言わせませんよ」
 確かに、そうとも取れる行動をエディスはしていた。
 けれど、エディスに宮廷内での振る舞いを教え、ドレスや宝飾品を選んでいた高位女官とは、財務大臣の妻──ギャラガー侯爵夫人なのである。
 それなのになぜ、エディスはこの男に断罪されているのだろう……。
「もう一度言いましょうか? 国民を飢えさせ、税を搾り取った傾国の悪女……それがあなたです」
 エディスが、公式行事で同じドレスを二度着用しようとしたら、女官たちに「王妃の威厳が損なわれる」と言って止められた。
 宝飾品も、数回使ったら女官に下げ渡すものだと習った。
 生家についても同じだ。王妃を輩出した家が貧しい暮らしを強いられていたら、王家が信頼を損なってしまうという理由で、生活資金が国庫から支給されるのは当然だと聞いていた。
(私はなにも知らない……決めていない……。それなのに……)
 けれど、本当にこれでいいのだろうか、という疑問は、今までに何度も抱いていた。
「私は財務大臣として、陛下が強引に進められた税の引き上げに異を唱えることができませんでした。ですが、良心の呵責に耐えられなくなり、立ち上がる決意をしたのです!」
「嘘よ! だってあなたは……この国は豊かだと……そう、言ったじゃない」
 この国は豊かで、民があまり金を持ちすぎると反乱に繋がる。
 政策として税率を上げないと、国が瓦解する──そんな説明で、税率を上げるように進言したのは、ほかでもない財務大臣ギャラガー侯爵本人だった。
(私たち……この男に嵌められたんだわ……)
 エディスは確かに愚かだったのかもしれない。
 それでも、この男がわざとスチュワートに圧政を行わせて、エディスに散財させたのだということは理解できた。
 そしてギャラガー侯爵はきっと、圧政から民を解放した英雄になるつもりなのだ。
「では……宮廷を取り囲む兵は、ギャラガーの……? いったいいつから裏切っていたんだ!? それに我が弟……王弟はどこだ……?」
 スチュワートが声を震わせ、膝から崩れ落ちた。
 臣の裏切りを知り、彼もまた絶望しているのだ。
 それでも彼は幼い王弟のことを気にかける。まだ八歳の王弟は、先にギャラガー侯爵の手配で逃げていたはずだった。
「さあね? ……ハハハッ! ウィンスソーン公爵がいないおかげで、随分すんなりと事が運びましたよ」
 ジョシュア・ウィンスソーン──彼はスチュワートの叔父にあたる若き公爵だ。
 半年前まで宰相を務めていたが、方針の違いから度々スチュワートと衝突し、辞任に追い込まれていた。
 そして現在、ジョシュアは大使として隣国へ赴いている。
 今にして思えば、あからさまな左遷人事だった。
(ウィンスソーン公爵は……陛下と私の愚行を止めようとしてくれていたの……?)
 自分たちが間違っていたのなら、それに反発していた者のほうが正しかった。
 そんな簡単なことすら、わからなくなっていたのだ。
「楽しいおしゃべりの時間はもう終わりです。さようなら、国王陛下。そして愚かな王妃よ……」
 ギャラガー侯爵が手をかざすと、数人の兵がスチュワートとエディスに向かって突進してきた。
 ドンッ、という衝撃と同時に、エディスは地面に倒れ込む。
 あとから腹部に猛烈な痛みを感じ、自分が剣で貫かれたことを知る。
「……うぅ……い、痛い。……陛下、お逃げください……っ」
 必死に言葉を発するが、目がかすみ、スチュワートの姿が見えない。
 近くでうめき声だけが聞こえる。それでスチュワートも斬られたのだと悟った。
 身体が動かず、夫のほうに顔を向けることすらできない。
 ぼんやりと、ひびが入った女神像だけがエディスの瞳に映っていた。
(女神様……ごめんなさい。私は、本当に愚かな妃でした……。きっと、最初から王妃になる能力も資格もなかったんです……民と、宰相に謝りたい……)
 若き国王と身分の低い妃──二人が、厳しく諫めてくれた宰相の言葉を信じていたら、こんなことにはならなかったのに。
(……もし、生まれ変わることができたのなら……今度は……)
 もう一度、身体に衝撃が走る。
 とどめを刺されたのだと理解するより前に、エディスの鼓動は止まった。

  ◇ ◇ ◇

「──それで、どうして私は生きているのかしら? しかもほんの少しだけ若返っているし」
 エディス・ラヴクラフト十八歳。
 艶やかでまっすぐな金髪に大きめの青い瞳を持つ男爵令嬢である。
 肌はきめ細かく白いのに、頬と唇はほんのり赤く色づき健康的な印象……自分で言うのもなんだが、麗しくも可愛らしい容姿をしていた。
(さすがは将来の傾国の美女……)
 私室にある鏡台を覗き込んで、エディスは思わずため息をついた。
 その理由は自分の容姿に見とれたからではない。約二年後の破滅を知って、憂鬱になっているからだ。
 エディスは、奸臣ギャラガー侯爵に裏切られ死亡したはずだった。それなのになぜか男爵邸の私室で目を覚ました。
 両親に、自身の年齢や今日の日付を忘れてしまったなんて言えなくて、現状を把握するまでに半日を必要としたのだった。
 混乱した頭が整理されていくと、十八歳の今が本当で、妙に現実的な長い長い夢を見ていた気もしてくる。
(……でも……この記憶は夢にしては鮮明すぎるし、一向に目覚める様子はないから今が夢とも思えないし)
 記憶にある二年後の破滅が夢なのか、それとも今が夢なのかがわからず、挙動不審になっていた。
 結局、どちらも本物であると思うことにした。
 そして、じっくり悩んでいたら、あっという間に二日が経ってしまったのだ。
「私は……スチュワート様……いいえ、国王陛下とは絶対に結婚しない!」
 それが悩んだ末に出した結論だ。
 若き国王スチュワートは、エディスより二歳上で、現在二十歳のはずだった。
 焦げ茶色の髪と瞳──温和な印象の青年で、実際にとにかく優しい人だ。
 互いに未熟でおままごとの恋愛だったかもしれないけれど、エディスにとっては初恋の人である。
 現在のエディスは不思議な心境だった。十八歳の心の中に、未来の記憶が植えつけられたという状態なのだろうか。
 三日前までスチュワートが夫だったという感覚がある一方で、国王陛下は雲の上の存在という認識もある。
 一つ言えるのは、彼を大切に想う心はまだ持っているということだった。
 けれど、だからこそ必ず不幸になる結婚からは逃れるべきだと結論づけた。
(なぜ時が戻ったのかはわからないけれど、再び王妃になっても……私の意志なんて、きっと無視されるわ……)
 エディスには、そばに仕える者を自分で選ぶ権利さえなかった。
 宮廷に入ったときにはすでに、高位女官でありエディスの指導役だったギャラガー侯爵夫人が選んだ者に周囲を固められていたせいだ。
 侯爵夫人を含めた高位女官たちの言葉を、エディスは振り返る。

『男爵家出身の王妃陛下は、王族や高位貴族のしきたりをご存じないのでしょう。……すべて、わたくしの言うとおりになさってください』
『仕えている女官たちには、定期的に陛下の宝飾品を下賜なさるとよろしいでしょう。王妃陛下が臣から好かれれば、それだけ国王陛下の治世も安定いたします』
『まあ、王妃陛下! これが贅沢だとおっしゃいますの? ……おかわいそうに。この程度のお品ものは商人の娘でも持っているというのに』
『民の暮らしを見てみたい? 尊いお姿を卑しい者に晒すなんて……王家の品位が損なわれます!』

 仕える者は、エディスを甘やかしつつ、そんな言葉で言うことを聞かせていた。
 そして、たとえ彼女たちの言葉が罠だとわかっていても、社交界で大きな力を持つ夫人たちにエディスは逆らえない。
(国王陛下も、私と同じだわ……。そう、私たちはあやつり人形で……意志を持っていたとしても糸を断ち切ることなんて不可能なのよ……)
 今にして思えば、温和なスチュワートはギャラガー侯爵の傀儡だった。
 ギャラガー侯爵のほか、甘い言葉で惑わす者を重用し、厳しかった宰相を左遷してしまったのはスチュワートの弱さだ。
 そして彼が国王としての発言力を持てなかった原因は、彼の若さと、一目惚れで選んでしまった妃──エディスにあるのだった。
 本来、国王の助けとなるはずの妃が、美しいだけの貧乏男爵令嬢だったのが、スチュワートの治世における致命傷となる。
 だからエディスは絶対に、彼と結婚するわけにはいかないのだ。
 やり直し前の記憶が、エディスの考えを客観的にしてくれる。
 彼を守りたい気持ちや、憧れはあるけれど、絶対に結ばれなければならない相手というこだわりを持たずにいられるのは、彼に恋をする前に戻ったからだろうか。
「……エディス。そろそろ支度をしないと間に合わないわよ」
 母の声だった。今日はとある伯爵家主催の舞踏会に参加する予定だから、着替えや化粧を手伝いに来てくれたのだ。
「はい、お母様」
 返事の直後にカチャリと扉が開き、質素なデイドレスの上にエプロンを着けた母が入室してきた。
 四十代だが、エディスとは姉妹のように見える。エディスは母親似なのだ。
「ほら、さっさと自分でドレスを持ってきてちょうだい」
 ラヴクラフト男爵家のタウンハウスには使用人がいない。
 この家を所持するだけで手一杯の貧乏貴族だからだ。
 代々の所領は洪水被害が起きやすい土地だった。少し資産をため込んでも、水害対策のためにむしろ借金をする羽目になる。
 ずっとその繰り返しだったという。
 ラヴクラフト男爵家は、不要な土地を押しつけられた、哀れな家なのかもしれない。
 エディスは母に言われたとおり、クローゼットからドレスを取り出す。
 そして二人で協力して、着替えをするのだった。
「本日は国王陛下もいらっしゃるのでしょう? 精一杯のおしゃれをしなければ」
 その言葉に動揺して、心臓がドクンと音を立てる。
 じつは一ヶ月ほど前、エディスはすでにスチュワートと出会っているのだ。
(あぁ、どうせなら……出会う前に戻りたかった……!)
 スチュワートは初対面となったガーデンパーティーでエディスに興味を持ち、これまでに二度、宮廷へ招いている。
 お茶を飲みながらおしゃべりをしただけなのだが、ただの男爵令嬢が国王の私的な茶会の席に呼ばれた時点で、相当注目を集めているはずだ。
 貧乏ゆえに、社交の場への招待状などほぼもらえなかったエディスのもとに、伯爵家からのお誘いがあったのもスチュワートの影響だ。
 彼に取り入りたい貴族が、あえてエディスを招き、スチュワートと自然に会話ができる機会を設けているのだった。
 本来のエディスなら、スチュワートに会えるこの日を楽しみにしていたのだが……。
(そもそも最初のガーデンパーティーは、ギャラガー侯爵家が主催していたのよね。私たちの出会いは、仕組まれたものだった)
 ギャラガー侯爵の陰謀は、すでに始まっている。
 娘を持たないあの男は、御しやすく容姿が整った令嬢を厳選し、あえて自分が主催する催し物の場に招いたのだ。
 おそらくは、犬猿の仲である宰相ジョシュア・ウィンスソーン公爵の派閥に属する令嬢が、妃候補となる事態を防ぐためだ。
 そんな政治的な事情を知らずに、エディスはギャラガー侯爵を信用してしまった。
 彼は、身分の足りないエディスの後ろ盾となる。おかげで身分差のあるスチュワートとの結婚はすんなりと進むのだ。
 その代わり、エディスは義父に等しい彼とその妻の言葉に逆らえなくなっていく。
(すべて……罠なのに……。この結婚に反対する方ほど、じつは陛下の未来を案じておられた。私のせいで、陛下はその方々からの信頼を失い……余計にギャラガー侯爵を重用するようになってしまう……)
 エディスは大して賢くない。
 想像力が足りなかったから、自分が行き着く先が破滅であることが予想できなかった。
 けれど実際に愚かな失敗をしたあとならば、さすがにその原因を分析することくらいはできる。
「エディス? コルセットが苦しかった?」
 考え事をしながら着替えをしていると、母が心配そうに顔を覗き込んできた。
「お母様……」
「なあに?」
「私が……国王陛下とはこれ以上お近づきになりたくないと言ったら、お父様とお母様はどうなさいますか?」
「あなた……どうしたの? 何度かお目にかかっただけで『王妃になれるかも!』って、あんなに浮かれていたくせに」
 母は人差し指でエディスの頬をツンツンと弄び、娘をからかった。
「それは、まわりがなにも見えていなかったから……」
 母はエディスを鏡台の前に座らせた。
 それから櫛を手に取り、まっすぐな金髪を優しく梳いていく。
「きっと苦労すると思うの。……だから本音を言うと、喜ばしく思う気持ちよりも、心配が先に来るわ」
 意外な答えが返ってくる。
 これまで母は、ひたすらに娘を応援してくれていた。
 スチュワートに見初められたことを素直に喜ぶ娘を、不安にさせないためにそうしていたのかもしれない。
 エディスが冷静になったから、母の態度も変わったのだろう。
 ラヴクラフト男爵家は、両親と兄とエディスの四人家族だ。
 平凡で善良だった家族は、エディスのせいで贅沢三昧の悪辣一家とされてしまう。
 エディスはそれをどうにか防ぎたかった。
「私としては身の丈に合った平凡な幸せを願いたくなるけれど、好きな方との恋を応援したいとも思っているの」
「そうだったんですね……? 私、なにも考えていなくて……」
「まあ……エディスがどう考えていても、国王陛下から望まれたら辞退できないし、お気持ちが変わられたら妃にはなれないんだけどね? つまり私たちに決定権はないわ!」
「うぅ……! それは、そうなんですけれど……」
 母は愚かなエディスとは比べものにならないほど、いろいろな予想をしていたのかもしれない。
 生家の人々は、王妃となったエディスの名義で勝手に送られてくる金品をどんな気持ちで受け取っていたのだろうか。
(家族のためにも……なんとかしなきゃ……)
 母の指摘どおり、エディスには決定権がない。
 スチュワートに無礼を働き嫌われたら、妃候補ではなくなるはずだ。
 けれどそんなことをしたら、国王の不興を買った家になってしまう。
 それに、ギャラガー侯爵の計画を台無しにしたら、どうなるのか……。
(本当は舞踏会なんて行きたくないけれど……陛下に嫌われるのはダメで、でも好かれたら王妃になって人生が詰んでしまって……あぁ、どうしたら!)
 病欠も考えたけれど、そんなことをしたらスチュワートが見舞いに来て、事態が悪化してしまうかもしれない。
 とにかくエディスは今夜、スチュワートから逃げるわけにはいかないのだった。

  ◇ ◇ ◇

 エディスは兄ショーンと一緒に馬車に乗り、舞踏会の会場となる伯爵邸にたどり着いた。
「それにしてもエディス。母上のお古をよくぞここまで着こなせるものだな」
「お褒めに預かり光栄です、お兄様」
 エディスはおどけてみせた。
 ローズピンクのドレスに、美しい編み込みを入れてハーフアップにした髪、年齢に見合った薄い化粧……今夜も装いは完璧だ。
 年代物のドレスだが、母とエディスで手直しをしたので、古くささは感じない。
 きっと、この場にふさわしい一品に見えているはずだ。
「……あぁ、ものすごく緊張してきた」
「お兄様が緊張してどうするんですか!」
「恐れ多くも、国王陛下にご挨拶をさせていただくかもしれないんだぞ?」
 ショーンは先ほどから、燕尾服の袖口やタイを頻りに気にしていて落ち着きがない。
 それも仕方がないのかもしれない。
 これまで、ガーデンパーティーのときは父、宮廷へ招かれたときは母がそれぞれエディスに付き添っていた。そのため兄がスチュワートと直接言葉を交わす機会は、今夜が初となるのだった。
「それにしても……エディスはよく、そんなに余裕でいられるよな?」
「私も緊張していますよ」
「嘘をつけ」
「本当ですって」
 エディスは兄とは違う理由で緊張していた。
 スチュワートはすでに、エディスへの好意を隠していない。きっと今夜もダンスに誘ってくるのだろう。
 エディスはそれに応じ、けれども妃になれないことを彼にわかってもらう必要があった。
(円満に解決しなきゃ……)
 これはエディスだけではなく、スチュワートやショーンの未来にも関わってくる、まさに命を懸けた戦いだ。
 舞踏会が始まり、一曲目のダンスは今宵のパートナーであるショーンと踊る。
 終わったタイミングでさっそくスチュワートが近づいてきた。
「やあ、エディス……! よい夜だね」
「国王陛下にご挨拶申し上げます」
 以前よりもきっとうまくなっているカーテシーで、スチュワートに挨拶をした。
 巻き戻った時間は約二年。スチュワートの外見的な変化はあまり感じられない。
 けれど死の直前の疲れ果てた表情から一転し、元気な様子を見せてくれる。
 安堵するのと同時に、エディスの胸はせつなさで締めつけられた。
(私は国王陛下の笑顔を……守らなきゃ……)
 あんな状況には二度となりたくない。
 けれどそのためには、これ以上彼から好かれるわけにはいかない。
 好意を持っている相手とあえて距離を置く経験なんて、これまでしたことがないから不安だった。
「かしこまらないでくれ。……そうだ、そちらの紳士を紹介してくれるかな?」
「はい陛下。……こちらは私の兄、ショーンでございます」
「ショーン・ラヴクラフトと申します。国王陛下にご挨拶をさせていただく機会を賜り、恐悦至極に存じます」
「ああ、これからよろしく頼む。……確か、ショーン殿は私より一歳上のはずだよね?」
「は、はい。さようでございます」
「これからもラヴクラフト男爵家とは親しくありたいと思っているんだ。だから、気楽にね?」
 スチュワートは寛容だが、迂闊でもあった。
 本来ならば、高位貴族を差し置いて男爵家と親しくするなんてあり得ない。
 エディス個人への興味から、その家族まで特別扱いするという宣言にも思える。
「はは、は……はい……光栄です」
「妹君にダンスを申し込む許可をいただいても?」
「もちろんです」
「ありがとう。……それでは、エディス・ラヴクラフト嬢。次のダンスは私と踊ってくれるだろうか?」
「はい、陛下」
 差し出された手をそっと取る。
 するとスチュワートは、手袋越しに触れるか触れないかの距離で、エディスの手の甲にキスをした。
 舞踏室に集まる者たちの注目を浴びながら、エディスはスチュワートに導かれ、部屋の中央まで進んだ。
 スチュワートの動きに合わせ、音楽が奏でられる。
 二人は、この舞踏室の主役だった。
 エディスはターンをしながら、前回の気持ちを思い出す。
 以前のエディスは、夢を見ている気分でこのひとときを過ごした。
 尊き方から姫君のように扱われ、周囲の人間から羨望のまなざしを向けられている。
 自分が特別だから、そうなったのだと思っていた。
(違うわ……私が特別に、扱いやすいから……)
 だからエディスは、スチュワートの表情を曇らせるとわかっていても、自分の気持ちを告げずにはいられない。
 ダンスを終えると、スチュワートに誘われ、彼のために用意された休憩室に案内された。
 果実水を飲みながら、歓談の時間となる。
(今しかない……)
 エディスは心を落ち着かせるために一気にグラスの中身を飲み干してから、スチュワートをまっすぐに見据えた。
「国王陛下。今日は、お誘いいただけたこと、大変光栄に思います」
「うん。私も君のイブニングドレス姿が見られて……とても嬉しく思うよ」
「陛下……あの……」
 今のエディスは王妃でも妻でもなく、彼の民でありただの男爵令嬢だ。
 だから言葉がなかなか出てこない。
「なんだろう?」
 スチュワートが首を傾げる。エディスの知っている彼よりも、少し子供っぽい態度だった。
「私……は、力のない男爵家の娘です。本来、陛下と直接お話をさせていただくことすら、遠慮すべき立場の者で……」
「なにを言うんだ。そんなことはない!」
 明るく確信に満ちた声だった。
「陛下とこうしてお話をさせていただくようになってから、私なりに将来のことを考えてみたのです」
「うん……それは、いいことだ……」
「陛下は先ほど、私の兄に『ラヴクラフト男爵家とは親しくありたい』とおっしゃいました」
「そうなってくれたらいいと……私は願っているよ」
「……私も、個人としては陛下にお目にかかれるひとときを楽しみにしておりました。これからもそうでありたいと願っています。……でも、陛下をお支えできるだけの力を持っておりません」
 求婚されたわけではないから、妃という言葉は使えない。
 それでもきっと、エディスからの拒絶であることを理解してもらえるはずだ。
「そんなことはないよ、エディス」
 スチュワートはテーブル越しに優しくエディスの手を取った。
 きっと本気でどうにかなると思っているのだ。
 流行病で先の国王と王妃が亡くなり、急に王位継承が決まってから半年。
 彼はまだ、国王の役割をわかっていない。
「いいえ……陛下。私は、無力です。高位貴族のご令嬢と同等にはなれません」
「しきたりも、知識も……これから学んでいけばいい。じつは、ギャラガー侯爵も必要ならば応援してくれると言っているんだ」
「ギャラガー侯爵様……」
 すでにスチュワートがギャラガー侯爵を信頼していることが伝わってくる。
 エディスは自分の身体が見えない縄で縛られて、身動きが取れなくなっている錯覚に陥った。
「最初は大変かもしれない。けれど私が支えるから……君はなにも心配しなくていいんだよ」
 支えるつもりの相手に、できないとは言えない。
 努力する気がないだけだと思われてしまいそうだ。
(違うんです……国王陛下。私だけではなく……あなたも大貴族に抗う力を持っていないの……。それは、努力でどうにかなるものではないの……)
 嫌われていい相手に対してなら、もっと言い様があったはず。
 あるいはエディスの身分が高ければ、違う方法が取れただろう。
 結局、その後も説得を続けたが、笑顔で励ますスチュワートを説き伏せることができなかった。
 なにを言っても、重責を担うことを自覚して後ろ向きになっているだけだと誤解されたまま、語らいの時間は終わってしまった。
(ダメ……完全に失敗だったわ……)
 母の言うとおり、エディスには決定権などなかった。
 それは未来に起きることを予見できるようになっても、一切変わらない。
 自分の無力さを思い知るだけだった。
 仕方なくエディスは、適当な言い訳をして休憩室から離れた。
 真面目なスチュワートは、確実に妃として迎える算段がつくまで求婚をせずにいてくれる。今日、決定的な言葉を言われなかっただけ、まだよかったのかもしれない。
「あぁ……少し休みたいわ……」
 本当はすぐにでも、舞踏室にいるはずの兄と合流するべきだけれど、今は一人になりたい気分だ。
 休憩室から舞踏室へと戻る途中の回廊から、庭園のほうへ進む。
 しばらく歩いていくと小さな噴水があった。
 エディスはその縁に腰を下ろし、水が落ちる音を聞く。
(そういえば前回もここで休憩したんだった。……それで確か……)
 前回、この噴水のある場所に来た理由は、スチュワートからわかりやすい好意を向けられて、浮かれていた頭を冷やすためだった。
 エディスはこの場所で、とある人物と出会うことになる。
「……エディス・ラヴクラフト男爵令嬢だな?」
 突然声がかけられて、エディスはビクリと身を震わせた。
 ただし相手は誰だかわかっている。
「……は、はい」
 返事をしてから慌てて立ち上がり、低頭する。
「顔を上げていい。こうして話をするのは初めてだ。……私はジョシュア・ウィンスソーン。今は宰相のお役目をいただいている者だ」
 黒髪に黒い瞳。長髪を一つに結んでいる気品のある美しい青年──現在二十八歳の彼は、つい半年ほど前まで「王弟殿下」と呼ばれていた。
 先代国王の弟で、スチュワートの即位に伴い王室から離れ、今は初代ウィンスソーン公爵となっている。
 王位継承権は、現在六歳のスチュワートの弟に次いで第二位。
 先代国王が急逝したとき、未熟な部分のあるスチュワートではなく、王弟ジョシュアを王に推す勢力もあったと聞く。
 けれどジョシュアは、王位継承順は年齢を理由に安易に覆していいものではないと言って譲らず、宰相としてスチュワートを支える道を選んだ。
(そして私は……この方にとんでもなく嫌われているのよね……。でももしかしたら、協力してもらえるかも)
 直前まで、彼に遭遇する可能性を失念していたエディスだが、むしろ好機のような気がしてくる。
 おそらくこの出会いは偶然ではない。ジョシュアはエディスと接触するために、一人になる機会をうかがっていたに違いないのだ。
(……宰相閣下のお考えと、私の目標は同じはず……)
 嫌われ役をしつつも、ギャラガー侯爵の魔の手からスチュワートを守ろうとしていたのが彼だった。
 やり直しの世界では、敵の敵は味方──という理論で仲間になれる可能性があった。