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悪役令嬢の取り巻きAですが、王太子殿下に迫られています。⑧[熱砂の皇子編]上 1

第一話

 

 灼熱の夏は、すでにはじまっていた。

     *

「カイル! カイルどうして!? ここから出して!」
 私は何度も扉を叩いた。
 けれど部屋の扉は固く閉ざされ、返る声はなかった。
 あのあと――王城が火に包まれ、イザベラお嬢さまが皇国へと去ったあと――追いかけようとした私を、カイルは東翼の宮殿のこの一室に閉じ込めた。
「今ならまだ追いつくかもしれない、王都か、それがだめなら国境の検問で――一秒も早くお嬢さまを旦那さまから引き離さないと! カイル!!」
 ――悪役令嬢には悪役令嬢にふさわしい道がある。
 そう言って私のもとを去ったイザベラお嬢さま。燃えさかる王城、夏の夕暮れ。奪われた暁の冠。銀水色の髪をなびかせて、婉然と。
 なぜごじぶんが悪役令嬢だと知っているのか。私は一度たりとも言ったことはない。そんなこと知らなくていいと思ったから。じぶんがひとを虐げた挙げ句、破滅する運命にあるだなんて。
 知れば己を縛る呪いとなる。そんな未来は私が全力で阻止する。お嬢さまはお嬢さまの思うままに、のびのびと生きてくれればいい。
 それが、なぜ。
(決まっている、旦那さまが教えたんだ)
 前公爵ヴァレリウス。私たちの長年の敵。前政権の支配者。今また、皇国でなにかを企んでいる。
 なぜ旦那さまがそれを知っていたのかは、わからない。でも、前世のゲームアイテムも持っていた。彼は前世や転生の秘密を、なんらかの形で知っている。
 すべての混乱の元凶はヴァレリウスだ。全部旦那さまが仕組んだことに決まっている。
(だって、お嬢さまの意志なはずがない! お嬢さまが、あんな酷いことするはずない。私を置いていくはず、ないんだ!)
「カイル、カイル……!! 誰か扉の外にいるの? 王太子殿下を呼び戻して! エマがお話があるとお伝えして! イザベラお嬢さまを助けにいかせてと!」
 扉の外は衛兵が守っているはずだ。王太子カイルに命じられて、私をここから出すまいと。
 どうしてカイルが私を閉じ籠めるのかわからない。あの直後お嬢さまを追いかけようと走り出した私の手首を掴み、この東翼の宮殿まで引きずってきて、無言でこの部屋に放り込んだのだ。王城滞在中いつも過ごす私の部屋に。
「どうして!? 今すぐ、お嬢さまを助けに行かなきゃいけないのに……!!」
 胸が引き裂かれる思いで声を振り絞ると、
「――それで?」
 低く冷たい声が、扉の外から返った。
「イザベラを追って、きみも皇国へ行く気か?」
「カイル……」
 扉に打ちつけた拳から、力が抜けた。
 今戻ってきた、という感じではなかった。声は、扉を伝って聞こえる感じがした。彼は扉に背をつけてもたれかかっているようだった。
 すこし、寒気を覚えた。
 私が叫んでいるあいだ、ずっとそこにいたの? 私はもう十分近く扉を叩いていたはずだ。そのあいだ、なにも応えず、ただ黙って? 背をつけた扉を叩かれながら、彼はなにを考えていたのだろう。
「カイル……、お願い、ここから出して。王都の関所か、最悪国境か、今ならまだ――」
「まだ、間に合う? きみはわかっているはずだ。ヴァレリウスが仕組みアデライードがお膳立てしたなら、彼らは国内ではけっして捕まらないと。だからきみは言ったんだ、『イザベラを取り返しにいく、皇国へ』と」
「…………」
 私は唇を噛んだ。そうだ。あのとき瞬時にそう口走った。そう悟っていた。
 あの抜け目ないアデライード女伯が旦那さまたちを逃がす手筈を整えたなら、それはきっと国内では捕まらない。確実に国外脱出する手段を講じている。おそらく、彼らの最終目的地まで追わないといけない。
「皇国へは行かせない」
「カイル……!」
 私は悲痛な声で訴える。
「どうしてわかってくれないの? お嬢さまがじぶんの意志であの父親についていったはずがない! 脅されたか、騙されたかしたのよ。きっと今ごろ苦しんでる。でなきゃお嬢さまが、私を捨てていくはずない……!」
「それで今度は、きみが俺を捨てていくのか?」
 無感情な声が返った。
 私は言葉を失う。扉越しに、うろたえる。
「そんな……、カイル、そんなんじゃない、私はただ……」
「そういうことだ。きみはあのとき言った。イザベラが皇国に去るならじぶんも行く、と。無意識の言葉だったんだろう。イザベラは憐れんだ顔をしていたよ――俺に」
「それは……」
 視線を落とす。言ったかもしれない。必死で、お嬢さまを引き留めたくて。お嬢さまと離れ離れになりたくなくて。
「きみはあのとき、俺のことなど頭にもなかったんだろう」
 カイルの声は静かだった。
 私は心臓がふるえるのを覚えた。どうしてか、体の芯から寒気がして仕方ない。
 私は、私と彼とを隔てる扉に、手のひらをあてた。カイルが背をつけているであろう、扉に。
「カイル……お願い、この扉をあけて。顔が見たい。どうか顔を見て話をさせて」
 しばらく、沈黙があった。
 彼はすでに黙って行ってしまったのではないかというほどの長い静寂があって、やがて扉が細くひらいた。
 彼の身体と扉の隙間を不意打ちで突破できるだろうかと考えたけれど、その空隙はあまりに細く、無理そうだった。本当にそうしようと考えていたわけではなく、可能かどうかを見ただけだったけれど、カイルは私の視線がなにを測ったか見て取った。
 バタンと、荒々しくはなく、だが意志的な強固さで扉は閉められた。
「カイル、私……」
「言わなくていい」
 カイルは私を見下ろした。
 ブルーサファイアの瞳は冷たかった。
 長身の彼が体が触れるほど近くに立つと、私はほとんど真上を見上げるように彼を仰がなくてはいけない。いつにない圧迫感を覚えた。
「わかっていた」
 カイルは静かに言う。
「きみは最後には俺を選ばないのだと。きみと愛し合っているときも、いつも心のどこかでそう感じていた。いつかきみは俺から逃げていくのだろうと。いつも」
 私は立ち尽くした。彼がなにを言っているのかわからなかった。
 私はこんなにも彼を愛しているのに、いつだって大好きで大好きでたまらないのに、カイルだってそのことを知っているはずなのに。私のなにが彼にそんなことを言わせているのかわからなかった。
 でもカイルは、責めているというのでもなかった。ただ、事実を淡々と述べているように見えた。その静けさが、怖かった。声を荒らげてなじってくれたほうが、まだましに思えた。私は不安に駆られる。
「カイル、私は……」
「カイル王太子殿下! 畏れながら殿下に申し上げます、急ぎご指示を仰ぎたいと、宰相閣下が!」
 戸惑いがちに口をひらきかけたとき、扉の外から臣下の息せき切った声がかけられた。火をかけられた正宮殿は、今も消火活動中だ。王都も火の海だという。
 王太子であるカイルは、私などにかかずらっている時間はないはず。こうして彼をここに引き留めているのは、鋼のごとき責任感の塊である彼の足を引っ張っている、と感じた。
「カイル……殿下、ここから出してくれないなら、せめて私にもなにかお手伝いを……。王妃さまは? 身重のうえにこの混乱では、身の回りのお世話をする者も……」
「俺がきみを自由にすると思うのか?」
 彼は冷笑した。
「そうやってまた俺を騙す気か? ヴァレリウスを捕縛したときのように。きみは『大切なお嬢さま』のためならなんでもする女だ」
「カイル、なにを言っているの? 今はそんなときじゃ……」
「ああ。そんなときじゃない。俺は王太子としての責務に戻る。きみはおとなしくここにいるんだ」
「カイル……!」
「言っておく。イザベラは国宝である暁の冠を盗んだ。いや、強奪したというほうが正しい。司祭が昏倒しているのが発見された。イザベラは今日聖堂で司祭と会うと言っていたな? 西の嘆きの塔では幽閉中のギルバート兄王子が毒を盛られた。イザベラの姿が目撃されている。彼女が父親に連れ去られた被害者だとは認められない」
「そんな……」
 私は膝から力が抜けていくのを感じた。暁の冠を手にしていたのは見たけれど、司祭さまに危害を加えた? ギルバートに毒を盛った?
「嘘よ。なにか事情が――」
「あるのだろうな。いかなる犯罪者にも」
 カイルは無慈悲に言った。イザベラお嬢さまはカイルにとっても友人なのに。ほんの数時間まえ学園で、お嬢さまも家族だよって優しく言ってくれたのに。
「イザベラを取り戻す方法は、俺が考える。きみはなにもしなくていい。この部屋でおとなしく待っていろ」
「そんなわけにはいかない! あのかたは私のご主人で、親友で、世界でいちばん大切なお守りすべきかたで――。ねえカイル、なおさら待ってられない! こんなところでぐずぐずしてられないのよ! お願い、お嬢さまのところへ行かせて」
 彼は微動だにしない。ただ、私を見ている。
「殿下、お早く……!」
 部屋の外からは臣下の焦る声がする。
 窓の外は、夜だというのに仄明るい。正宮殿も西の嘆きの塔も、まだ夜空を照らして燃えているのだ。この東翼の宮殿には火の手は及んでいない。風向きのおかげか、きな臭い煙も届かない。
「この部屋にいろ。安全だ」
 カイルは低い声で命じ、私のあごを指でつかんだ。無理やり上を向かされる。
「……!」
 唇で唇をふさがれる。
 それは、冷たいキスだった。
 彼の唇も、指先も、氷のように冷たかった。彼は凍えていた。
「……っ、ふ……!」
 そして、残酷なまでに荒々しいキスだった。
 唇を割られ、舌が分け入ってくる。なまなましい粘膜で蹂躙される。苦しい。息ができなくて、私は顔をそむけようとした。けれどその唇をカイルはまた捕らえて塞ぐ。逃がさない、という意志を込めて。
「……っ、……」
 私は彼の服を掴む。
 苦しい。呼吸まで奪われる。
 彼は私になにも考えさせまいとするかのように、幾度も唇を重ね直す。
 この一年間、私たちは何十、もしかしたら何百回とキスをかわした。優しいキスも、小鳥のようにかわいらしいキスも、想いをぶつけ合うような激しいキスも。そのどれとも違う。彼のキスはいつだって優しくて、どんなに情熱的なときでさえ、とろけるように私を甘やかした。
 なのにこのキスは、私を罰するかのよう。
 私を押さえつけ、屈服させるためのキス。
 涙が頬を伝う。
 それでも彼の舌で舌をくすぐられると、深く愛された幾夜もの記憶が呼び起こされる。彼の狎れた口づけは、私の頭をくらりと酔わせ、背すじがぞくりとした。思わず彼にしがみついた。頭が朦朧とする。
「エマ……、行くな」
 口づけの合間に、低い声。暴発する感情を紙一重のところでかろうじて抑えている、そんなギリギリの声だった。
 私は動けない。彼に抱きすくめられ、カイルに搦め捕られ、動けない。
「は……」
 糸をひいて、唇が離れた。
 涙で霞む目で、彼を見上げる。
 ブルーサファイアの瞳は、私を鋭く射貫いていた。その冷たい目は、ほとんど私を憎んでいるかのようだった。
「カイ……」
「俺から逃げることは許さない」
 低く宣告して、彼は部屋を出ていった。
 追いかけようとしたが、扉の両脇を守る衛兵の長槍が交差され、私の進路を塞いだ。カイルは振り向かなかった。
 扉が重々しく閉まる。
 私は力が抜けて、へたり込んだ。
 涙がとまらなかった。


  * * * * *


「エマ嬢と婚約破棄すべきです」
 翌日。
 国王の御前会議で大臣のひとりがそう言った。根まわしは済んでいるらしく、ほかの閣僚たちも厳めしく頷いた。
 上座に据えられた王太子の椅子から、王太子カイルは無言でそれに応えた。彼はまだ若かったが、天賦の威厳によって、その無言は雄弁だった。
 静かに、だが重量のある視線を与えると、同調していた閣僚たちは冷や汗をかいて目を伏せた。
 ――そう来るとは思っていた。
 昨日の今日とは、予想以上に早かったが。
 発言した大臣が、今さら発言を引っ込めることもできず、続ける。
「畏れながら、王城及び王都を放火したのは、エマ嬢の養家たる公爵家です。エマ嬢は謀反人の娘ということになります。王太子の妃としていかがなものかと」
「謀反人と近縁だというなら、王室もそうだが」
 前公爵ヴァレリウスは、前女王の甥である。数代遡れば王統直系に繋がる。
「お戯れを……」
 大臣は顔をしかめた。
 そう、戯れだ。つまらぬことを言った。内心己が焦っていることを、カイルは自覚する。
 エマとの婚約破棄は、もしこれが我が事でなければ、妥当だと判断しただろう。臣下たちの弁は、ゆえなきことではない。逆臣の家族を、次期国王の妃にするなど。
「まあ、その件はあとで良かろう。さきにヴァレリウス及び公爵家への処断を決めねばならぬ」
 隣の玉座から、父王が鷹揚に口を挟んだ。場をとりなすように、ことさらゆったりと閣僚を見わたす。
「幸い、皆々が夜を徹して働いてくれたおかげで正宮殿の火は消し止められた。アーシェラ王妃も無事だ。礼を言う」
 王太子に睨まれて肝を縮めていた閣僚らが、やれ助かったとほっとした顔をする。
 だがカイルは、父の鷹揚さが政治的振る舞いに過ぎないことを知っている。父の本質は、苛烈だ。長年屈辱に甘んじてヴァレリウス政権下で雌伏の時を過ごし、前女王ごと政権を転覆したほどに。
 雪の一夜の動乱、と語り継がれている。
 まだ一王子であったカイルもそれに加わった。父王はまだ王太子であられた。しんしんと雪の降る夜だった。前女王の寝所に兵を挙げ、剣を閃かせた。頼りのヴァレリウスは外遊中で、国外だった。
 雪の照り返しが、父の顔を凄絶に夜闇に浮かび上がらせていた。鬼気迫る貌(かお)だった。あの夜、雪は大勢の血で赤く染まった。
「のう、カイルよ」
「は」
 声をかけられ、カイルはかるく頭を下げる。
 ――父王が俺に御味方してくださるとは限らない。
 肚のなかで、そう警戒する。父王が大事なのは、己の後継者としての王太子カイルであり、息子の個人的幸せなどではない。当然だ。あまたいる王子王女たちのなかで誰より、いやおそらく唯一、愛するアーシェラ王妃の子として父王の愛情を受けてはいても。
(父王陛下のご信頼と愛情とを、履き違えてはならぬ)
 彼はつねにそう己を戒めてきた。
 だが、
(今あえて、履き違えねばならぬ)
 そうも思っている。――エマを失わぬために。
「国家反逆罪、擾乱罪。罪状は並び立てればきりがありませぬが、ヴァレリウスは極刑に処すべきでしょう」
 閣僚らが順に述べ立ててゆく。
「王城に火を放つなど、王国史上類を見ぬ大逆罪だ!! 国家への冒涜である!」
「伯爵アデライードも加担しているそうではないか。両家は即刻取り潰しにしたうえ、一族郎党に至るまで厳罰をくだすべきです」
「だがこの大罪人たちをどう捕縛する? 皇国へ引き渡しを求めるか?」
 ――皇国、という言葉が出たとたんに、一同は苦々しい顔になる。
 かつて栄華を極めた南の大国。砂漠とオアシスの国。
 数百年前の最盛期には、その支配圏はアンフェルム王国含む北方諸国や遥か東方にまで及んだ。現在は、たび重なる内紛に国力は衰えている。
 それでも、今なお大陸の南半分を治める大国だ。
 ――名を、オル=フュゼウス皇国という。
「内政干渉ととられることだけは避けねばならぬ。ただでさえ皇国は、我ら北方諸国への侵略の口実を欲しがっているというのに」
「その北征計画を皇帝に献案した者こそが、ヴァレリウスだというではないか」
「なぜ奴は外国の宮廷で、そうまで力をもつに至ったのだ、しかもこの短期間で! 公爵家のお家騒動のあと、新公爵イザベラが監視していたのではなかったのか。やはり最初からグルだったのだ! となればエマ嬢もその一味で――」
「いや、皇国は古来、外国人政治家の登用がさかんだ。むしろ諸外国から人材を集めることで、領土を拡大してきた。あの有名な人狩り政策をはじめとしてな。国教に改宗しさえすれば、外国人だろうが奴隷だろうが、妃や宰相にもなれるという国だ。むろん、皇族という神のごとき絶対的な存在のもとにだが――」
 そこで、閣僚たちがカイルを見た。
 彼の褐色の肌。見るにあきらかな、皇統の証。
 彼の母親はオル=フュゼウス皇国から亡命してきた、前々帝の皇女だった。カイルは皇孫にあたる。仮想敵国の血を引く皇子。
「それにしても……」
 と、その話を憚るように、閣僚のひとりが話を戻した。
「いかにヴァレリウスといえど、あの大国でのし上がるにはあまりに短期間ではないか。そのような大規模な軍事政策を献策できるのは宰相や将軍クラスであろう」
「かなり前から密約があったのかもしれぬな。万一アンフェルム王国から亡命する事態が起こったときのために、用心深く手筈を整えていたのかもしれん。しょせん前女王陛下の威光を恃みにした傀儡政権、長くは続くまいと思っていたのではないか。若いころは諸外国を遊学していたし、そのころからひそかに皇国の宮廷にも出入りしていたのかもしれぬ。政権にあったときも、どういう背景があるのか個人的な外交関係がやたらひろかった」
「ふん、悪の枢軸のお仲間だ」
「ヴァレリウスが北征計画を立てたとなれば、目的はなんだ。我がアンフェルム王国への復讐か」
 閣僚たちが、一様にしばし口をつぐんだ。ここにいる者たちは、時の権力者であったヴァレリウスに反旗を翻し、現国王についた者たち。真っ先に首を刎ねられるだろう。
「いや……それもあろうが、やはり皇国内での地位固めではないか。現在、皇統派と軍閥派とに二分しているという。外国人なら軍閥派の支持を集めるのは常套手段だ」
「私の情報網によれば、そのヴァレリウスとおぼしき新参外国人は、このたび第七宰相として閣僚入りしたといいます。それが事実ならば――」
 場に緊張が張り詰める。
 玉座にある父王が、こめかみをトンと指で叩いて言った。 
「つまり、仮想敵国の重臣を当国に引き渡せと要求する――ということになるな。外務大臣、国際的にいかなる問題が発生しようか」
 外務大臣は、恭しくこうべを垂れた。
「畏れながら申し上げます。一国の臣、まして宰相を犯罪者として身柄の引き渡しを要求することは、その国の政府の正当性に疑義があるということになり、容易には認められぬでしょう。かねての緊迫した国際状況を鑑みれば、むしろ積極的に我が国の外交圧力と見なし、宣戦布告をも引き出しかねぬかと」
「宣戦布告……」
 閣僚らが口々に繰り返す。
 王太子カイルもまた、その重みを胸中に繰り返す。
 それは、アンフェルム王国がなんとしても避けねばならぬ事態だった。当のカイルこそが、その侵攻を未然に防ぐため近隣諸国に呼びかけ、五か国同盟を築いたのだった。
(憎らしいほど周到な男だ)
 奴に手出しすれば、世界の覇権国に返り咲きたがっている皇国に、戦争の口実を与えることになる。奴は幾重にも己を守る保険をかけている。
 ヴァレリウスのつねに遊びに興じているかのような傲岸な顔を思い出す。その顔は最後に会ったとき、秘薬で若返っていた。四十歳ほどから、二十代後半へ。皇国に戻ったときどう説明するのかだけ、すこし興味があるが。
「私が思いますに――」
 と、宰相が初めて発言した。父王の右腕であり、雌伏時代からの盟友。カイルの親友にして腹心クロードの父親でもある。
 彼はいつもの鉄面皮でこともなげに言った。
「皇帝はすでにヴァレリウスの傀儡なのではありますまいか」
「――――」
 一同が絶句する。
「なぜそう思う」
 父王が冷静に下問した。
「暁の冠を盗んでいった、という点から」
 宰相は答えた。
「ご存じのとおり、暁の冠には五色(ごしき)の宝石が嵌まっております。太陽王――初代国王が太陽の光を五つ拾って嵌めた、と我が国の神話にはある。そしてあくまでも伝説であり諸説ありますが、うち一つは南方、つまり皇国に由縁のある石とも言われている。皇国より失われし宝玉。神話の真偽はこの際どうでもいいでしょう。現皇帝の政権は、けっして盤石ではない。皇統派、軍閥派、さらにはその内部でも分裂しており、政情不安は今なお続いている」
「ふむ。現皇帝をすげ替え、自派の擁する皇帝を立てたいと、各派が虎視眈々と狙っているわけだな。どの派から次の皇帝が出てもおかしくない。と同時に、誰が皇帝でも決め手に欠ける。国家には物語が必要だ。血統、正義、栄光といった物語が。無論、現皇帝にとってもな。己の政権の正統性を示すための揺るがぬ権威。現状、それが欠けている。ヴァレリウスはそこに目をつけたというわけか」
「ご明察にございます、陛下」
 示し合わせたようになめらかな質疑だった。
「これを上手く利用すれば、長らく政情の混乱する皇国に、まさに一石を投じることができましょう」
 と、彼は背後に控えている官僚に目配せした。官僚が進み出て、手にしていたものを宰相に手渡す。布がかかっている。
 宰相はその布を取り払った。
「おお……!!」と閣議室に悲痛な声が満ちた。
 カイルもまた思わず椅子から腰を浮かした。
 それは暁の冠だった。
 ただし、五色の宝石すべてが、無惨にもくり抜かれていた。ナイフで無理やりこじり取られたのか、冠には無数の傷がついていた。
「焼け跡に落ちておりました」
 黒い煤のついたそれを、宰相は無感情に示した。傷つき、煤で汚れ、宝石を抉り取られた繊細なティアラは、凌辱された乙女のごとく見る影もなかった。
 カイルは傷ましげな顔になるのを辛うじて抑えた。
(エマの冠だ)
 奥歯を噛み締める。
 暁の冠、王太子妃のティアラ。一週間後、それを聖堂に飾り、彼女と婚約式を挙げるはずだった。数年後の結婚式では、彼女はそれを戴冠し、俺の妃になるはずだった。それが、なんと無惨な姿に。
 ぐら、と胸の奥が煮え滾る。
 なぜ、わざわざこのような真似を。盗むだけでは飽き足らず、宝石だけくり抜いて冠は捨てていくという、あえて尊厳を破壊するがごとき所業を。ヴァレリウスの嘲弄する顔が目に浮かぶようだ。
「初代王が南で得た白の石は、一説には皇帝の証たる宝玉、『白光の石』ともいわれております。失われた至宝を、千年ぶりに授かりし皇帝。これ以上はない権威の物語だ。己の擁する皇帝に、ヴァレリウスは白の石を与えるつもりです。奴の意のままになる、傀儡皇帝に」
「取り返さねばならぬ!」
 カイルは口走った。
 宰相はじめ、閣僚らが一斉に彼を見た。
 そう、口走ったのだ。常に寡黙で、公の場では理性によってのみ発言する王太子が、感情だけでものを言った。
 彼は口をつぐんだ。臣下のまえで視線を床に落とすことだけは、しなかった。
「もちろんだ、王太子よ。暁の冠は我が国の国宝である」
 隣で父王がフォローしてくれる。カイルは、己が平常でないことを自覚していた。