戻る

占い師に国王への恋心を相談したら女装した本人でした!? 秘密の官能レッスンでとろとろに手なずけられてます 1

第一話

 

 クローネヴァルト王国の王アレクシスは、麗しい顔にわかりやすい不機嫌を張り付けて王宮を歩いていた。
 アレクシスがそんな顔で歩いているのは特に珍しいことでもないため、すれ違う文官や貴族たちはこうべを垂れ、見えないようにため息をつき『また誰かが陛下の執務の邪魔をしたのだろう』と推測した。
 実際それは正しく、アレクシスは急用とも思えぬくだらない用事を引っ提げてやってきた貴族令嬢に執務室を進呈し、自身は別室で仕事をするために移動をしているところである。
(まったく、察しの悪い者ばかりで気持ちがささくれ立ってしまった。特に令嬢はやんわりと言えば気付かないし、率直に言えばすぐ泣く)
 そんな令嬢たちは総じて『陛下は冷たい』と言うが、アレクシスにしたら女性こそ情がない。
 どうして彼女たちは嘘をつくのか。
 アレクシスは女性には舌が二枚あると感じている。
 舌を使い分ける理由は処世術であったり、その場限りの言い逃れであったり、様々だ。
 しかし嘘を許されないアレクシスにとってそれは、裏切りで卑怯で最悪な行為だった。
(いや、よく考えたらそれは男もか。綺麗で優しそうな皮を被っているだけで、本質は男も女も変わりない)
 誰しも自分が可愛い。
 いい暮らしをするために、体面を守るために、欲望を満たすために足掻く。
 それ自体を否定する気はないが、だからといって偽ることは許されない。
 常に正しくあれと家庭教師に言われて育ったアレクシスは、人が嘘をつくということを知ってから、他者に対して容易に心を開かなくなった。だからこそ本心を隠して自分に取り入ろうとする女性たちの狡猾さや不透明な態度には、とりわけ強い嫌悪感を抱いていた。
 そんな彼が見つけた気分転換が庶民に紛れて街歩きをすることなのは、皮肉なものだ。
 しかし権謀術数渦巻く王宮を離れ、誰も自分を知らない場所に身を置くことは、今やアレクシスにとって大切な時間となっている。
 街は深呼吸できる唯一の場所だ。
 王宮ではたとえひとりでも深呼吸するどころか、気を抜くことすらできないのだから。
(私は随分と女々しいな)
 通りに並ぶ建物のガラスに映る自分の姿を横目で見る。
 帽子を目深に被っていて顔は見えない。
 もしも帽子の下にある、いかにも手入れされている輝く金髪を見れば人々は立ち止まって視線を注ぐに違いない。
 キリリとした眉に涼しげな青い瞳、すっと通った鼻梁、薄いが形よく口角が上がった唇。
 それぞれのパーツがここしかないと言わんばかりにあるべきところに収まっていて、説得力のある美を形作っていた。
 アレクシスは誰が見ても美形と言うほどに恵まれた顔面を持って生まれてきた。
 それは若いころ三国一の美女と評判だった母親譲りで、涼しげに整っていて男臭さは感じられない。
 それに着痩せするためすらりとスマートで、颯爽としている。
(……鍛えても筋肉が付きにくいなんて、男として頼りなく見える)
 騎士団長のように筋骨隆々の逞しさに憧れを持っているアレクシスにとって鏡はコンプレックスを刺激するものでしかなかった。
 素敵だと顔を褒められることも、アレクシスにとっては褒め言葉にならない。
 しかし男らしいとおべっかを使われるのも気分が悪い。
(結局私の精神は二十三にもなって、まだ成熟しきっていないのだ……情けない)
 こんなことで民を導くことができるのかと気が滅入ったアレクシスの足は、無意識のうちに三番街へ向かう。
 そこに馴染の店があるのだ。

 クローネヴァルト王国の王都エフィダの三番街は、貴族街と庶民街の緩衝帯となっている。
 ゆえに様々な身分の者が行き交い不思議な熱気と活気がある。
 しかしそれも裏通りに入ると途端に喧噪が薄れた。
 ただ通りを入っただけなのに空気まで入れ替わってしまったような、どこか違う世界に迷い込んでしまったような心地がする。
 その瞬間が毎回面白くて、アレクシスは肩を竦め口角を上げた。
 王宮街や裏通りが安全なのは国が安定している証拠だ。
 アレクシスはそれを毎回確認に来ているのだ、と自分に言い訳をする。
 三番街の裏通りにひっそりとたたずむ『占いの館 黒猫姫』は予約制のうえ、オーナーの気分次第で臨時休業することもあり混雑することはほぼない。
 店先で騒ごうものなら、オーナーがへそを曲げて『今日はもうやめた』と店を閉めてしまうのだ。
 そんな貴族商売のようなことをしても、オーナーに占ってもらいたいという客はどこからともなく店の噂を聞きつけてやってくる。
 アレクシスは身体を斜めにして『黒猫姫』と隣の店の隙間の細い小路を入った。
 そこに従業員用の通用口があることを知っているのだ。
「邪魔するぞ」
 扉を開けて一声かけると、うとうとしていたらしい従業員のアスターが顔を上げた。
 店内は神秘さを演出してか、昼間でもカーテンが引かれていて、眠るのに最適な環境なのである。
 彼は膝に占いの館の店名の由来である黒猫を載せていた。
「あ、アレクさんじゃないですか。お久しぶりですね」
 従業員にそう言われるほど、アレクシスは顔なじみだ。
 立場的にはオーナーの知人と友人の間くらいと自負している。
「ああ。マダムは仕事中か?」
 オーナーのマダム・ノワリスは占いの館唯一の占い師。
 気分屋で多趣味で気が短いため、足を運んでも留守のことがしばしばある。
「ええ。ちょうど今日最後の占い中で、そろそろ終わるころだと思います。お待ちになりますか?」
 アレクシスが頷くと、アスターは名残惜しそうに黒猫を膝から下ろし茶を淹れに行く。
 せっかく寛いでいたのに、と少し不機嫌そうに目を細くした黒猫の頭をアレクシスは長い指で優しく掻く。
「やあメテオル、君は今日も美しいな」
 決して人間の女性には言わない言葉を投げかけると、黒猫――メテオルはそこじゃないわと言わんばかりに小さな顎を上げ、喉を撫でるように催促する。
 猫相手ならこんなご機嫌取りも気にならないのにと口元を緩めてソファに腰かけると、アスターが湯気の立ったカップをトレイに載せてきた。
 メテオルもアスターも、そしてマダム・ノワリスもここではアレクシスに過剰に気を遣わない。
 それがアレクシスにはとても居心地がいいのだ。
 しばらくすると扉が開いた音がして、マダム・ノワリスが現れる。
 占い師らしく黒っぽいゆったりした衣装に、同じく黒いベールを被っている。
 神秘性を高めるようなベールは相手からは顔が見えないが、被っている本人からは相手がよく見える特別製とのことだ。
「あら、アレク。来ていたのね、お久しぶり」
 アレクシスの来訪を知ったマダム・ノワリスは女性にしては低い声で挨拶をすると、だらしなくソファに腰を下ろした。
「あぁ、疲れた! まったく歳には勝てないわ。高いヒールが日ごとにつらくなってきて」
 年齢不詳のマダム・ノワリスは上背があるうえに目を見張るような高いヒールの靴を愛用しているため、腰が痛くなるのだと訴える。
「もう少し低い、普通のヒールを履けばいいのでは?」
 アレクシスの言葉にマダムは嫌そうに顔をしかめた。
「あらいやだ、普通なんてなんの面白みもないじゃない! 私は神秘的な雰囲気込みで商売をしているのだから、それじゃ駄目なのよ」
 そう言うとマダムはすっくと立ち上がり、アレクシスに向かって手を差し伸べる。
 手が重なると強く引かれ、それが立ち上がるようにとの合図であることを知る。
 言われた通り立ち上がると、視線がほぼ同じになった。
「ほら、見てちょうだい。高いヒールがあれば男性であるあなたと肩を並べることもできる。年齢も、性別すらも不明の占い師マダム・ノワリス。古の魔女のように黒猫を従え、人の未来や悩みをぴたりと言い当てる」
 そのままステップを踏んだマダムは一節踊ると、身体の疲労を思い出したのか再びどっかりとソファに腰を据えた。
「高いヒールはレディの戦闘服の一部よ……軽々しく脱げと言わないでちょうだい」
「……言いませんよ」
 靴を脱げとは、婉曲なベッドへの誘い文句でもある。
 いくらマダムが相手でも、そんなことをアレクシスが言ったら大変なことになってしまう。
「まあ、そうね。王様がそんなこと言っていいのは未来の王妃様だけだものね」
「――マダム、それは」
 冗談めかして言われたそれを咎める。
「あはは、大丈夫よ。ここには私とアスターとあなたしかいないのに」
「だが、口が軽くなるのは困る」
 お忍びで来ているアレクシスにとって、秘密の漏洩は致命的なのだ。
 冗談でも口にするのは避けてほしいと目で訴えると、マダムは肩を竦める。
「金髪に青い目なんていかにも王族でございって顔をしていて、いまさらそんなこと言う? いやなら来なければいいじゃない」
「……っ」
 強気なマダムの言葉にアレクシスは言葉に詰まる。
 彼がマダムのところに息抜きに来るのは、ここが絶対的に安全だからである。
 王族と知っていてなお、マダムが変わらぬ態度でいるのはマダムが王族の扱いに慣れているからである。
 マダム・ノワリスは前王妃……つまりアレクシスの母親マルグリートの相談役だった。
 極度の不安から邪(よこしま)な占い師たちに傾倒し、国を傾かせかけた王妃を一喝し目を覚まさせ、王妃に群がる似非占い師を一掃した功績は大きい。
「アレク坊ちゃん、王様になったのに市井の占い師ひとり御せないようじゃ駄目じゃないの。あなたも早く信用できて共に国を支えていく伴侶とか、そういう大事な人を見つけなさいな」
 あまりに的を射た発言にぐうの音も出ない。
 アレクシスは眉間にしわを寄せる。
(そんな人がすぐに見つかるのなら苦労はしない! しかし伴侶が必要なのは事実……)
 王族として、そして国王として妻を迎えて後継を作ることは義務。
 一般的には爵位の高い方から条件に合いそうな女性を探していくものだが、女性に対して強い警戒心を持っているアレクシスは、その条件がかなり厳しい。
(王族に生まれたからには自分の好みなど二の次で、国益や身分が重要だということは百も承知しているが……)
 だがどうしても王位に就いている自分に群がる令嬢たちが隣にいる姿を、思い描くことができない。
(その時、私はどんな顔をしているのだろうか)
 アレクシスが深刻な顔をして俯いてしまったことで、その場の空気がぎこちなくなる。
 空気を入れ替えようとしたのか、アスターが窓を細く開ける。
 もちろんメテオルが出られない程度の細い隙間だ。
 しかしなぜか黒猫はその細い隙間からぬるりと外に出てしまったのだ。
「あっ、メテオル駄目だよ!」
 思わずアスターが声を荒らげると、それに驚いたメテオルがものすごい勢いで走り去った。
「馬鹿、アスター! すぐに追いかけるわよ!」
「はい、すみません!」
 マダム・ノワリスはベールをかなぐり捨てるとアスターと共にメテオルを追いかける。高いヒールを履いているとは思えないほどの走りっぷりだ。
「ちょっと待て、店はどうする……!」
 遠ざかる背中に声を掛けるが「今日はもう終わりだからー!」と細く声が聞こえてきただけで、だからどうするか等はわからずじまい。
(まあ、予約はさきほどの客で終わりだと言っていたしな)
 もう客が来ることはないだろうと高をくくったアレクシスは、二人が戻ってくるまで大人しく留守番をしていようと思い、ソファに腰かけ深く凭れて息を吐く。
 肺が空っぽになるまで吐くと、自分の中に淀んでいた澱が一緒に出ていったような気持ちになる。
「……本当にそうなら悩みなんてなくなるだろうに」
 独り言ちたアレクシスの耳に表の扉鈴がチリリと鳴ったのが聞こえた。
 てっきりマダムとアスターが戻ってきたのかと思ったが、二人とは違うか細い声で訪(おとな)いを告げられ飛び起きる。
「こんにちは……」
(は? 客、だと?)
 完全予約制なのに、と慌てたアレクシスはマダムの留守を告げて帰ってもらおうとしたが、万が一正体がバレてしまったら大変だと気付く。
 ここは貴族街と庶民街の中間ゆえに、貴族が足を運ぶこともあると聞いている。
 もし自分の顔を知っている者がいたら騒ぎになってしまう。
 どうするべきか悩んだアレクシスは、マダムが置いていったベールに目を止めた。
 これで顔を隠して後日また来るように言えばいいのでは。
 深く考えている暇はない。
 時間を掛ければそれだけ不審がらせてしまう。
(迷ったら、やれ!)
 アレクシスはマダムのベールをひっつかむと店内へ続く扉を開け、顔だけ出して対応した。
「あの、すまないが……」
 顔を覗かせたアレクシスに、客は振り向いてから顔をパッと輝かせた。
 まだ年若い女性は地味な色合いのワンピースを身に纏い、手には小さなバッグを持っていた。
 長い黒髪のせいか後ろ姿からは古風な雰囲気を感じるのに、振り向くとまるで薄暗い店内に明かりが灯ったかと思うほど整った顔立ちだった。
 それは彼女の瞳のせいかもしれない。
 薄暗い店内でも僅かな光を集めて放つような、引き込まれそうな神秘的な青い眼をした彼女はアレクシスを認めると深々と頭を下げた。
「マダム・ノワリス、お会いできて光栄です!」
 屈膝礼ではなく会釈をしただけだが、それでも相手に対する敬意に溢れた挨拶に、アレクシスは気圧されてしまった。
 美しい艶のある黒髪がはらりと肩を滑り落ち、顔を上げるとその背や腕にしとりと沿う。
 彼女の方が黒いベールを被っているような錯覚に、アレクシスは目を瞬かせた。
(なんだ? ……目が離せない)
 艶々しい漆黒の髪に陶器のような滑らかな頬、そして魂を吸い込まれてしまいそうなキラキラした青い瞳。
「あ、……ああ、どうも」
 つい間抜けな返事をしてしまったあとに、自分がとんでもないことをしたのだと気付く。
(しまった、マダム・ノワリスと呼びかけられたのに肯定するような返事をしてしまった……!)
 それも客に見惚れて、である。
 不意を突かれたとはいえ、あまりにお粗末。
 なんとか挽回しようとするが、笑顔を浮かべていた客の顔が暗く萎れていく。
 ギョッと息を呑むとキラキラした青い瞳が涙で潤み始めた。
「なっ、どうしたの……よ。なにを……泣いている……の」
 取ってつけたような女言葉はいかにも怪しげだったが、客はそれどころではないのか不審に思った様子はない。
「あっ、すみません……ちょっと安心してしまって」
「安心……?」
 ベールの中で眉間にしわを寄せる。
 険しい顔をすると、いかにも男性的な表情になるのだが、ベールのお陰で気付かれない。
 しかし『どういうことだ』という雰囲気が漏れてしまったらしく、客は口を開きかけて、また閉じる。
「あ、あの……込み入った話なのですが……」
 客がチラチラと周囲を気にするような素振りを見せたことで、アレクシスはここが占いの館であまり他人に聞かれたくない話をすることもあるのだと思い出す。
「――では、こちらへ……、あ、ちょっと待て」
 ここまで来て涙目の女性を放り出すことはできない。
 アレクシスは素早くマダムの衣裳部屋に入ると、頭からかぶるタイプのゆったりとしたドレスを拝借してから令嬢を中へ案内した。
(乗りかかった舟だ。それに、個人的にとても……気になる)
 気になるのは彼女がなにを占いにきたのかなのか、それとも彼女自身なのかアレクシスには判断がつかなかった。

 ――もう、どうしようもないわ。
 レティシア・ヴィレルは進退窮まっていた。
 父の死後伯爵家を継いだ叔父には致命的なほど経営能力がなく、いくらレティシアが補佐したところでどうにもならない状況だった。
 それだけならまだなんとかしようがあったものの、浅慮な叔父はレティシアに内緒で怪しげなところから借金をして伯爵家を立て直そうとした。
 レティシアが借金の存在に気付いたころには負債は雪だるま式に増えており、自力でなんとかできるものではなくなっていた。
「すまないレティシア……こんなつもりじゃなかったんだ。良かれと思って」
 優しく気弱な叔父は彼なりに兄の跡を立派に継ぐために努力したが、実力が伴わなかったことが残念で仕方がない。
 項垂れる叔父を詰ることもできず、レティシアは無力感で身体が重くなるのを感じた。
(わたしが男だったら……いえ、せめて早く婿を取っていたら……)
 家を守るなら社交界デビューしたと同時に相手を見繕うべきだったのに、自分の恋心を諦めきれずに消極的になり機会を逃したのはレティシアの咎だろう。
 今からでもなんとかできないかと思ったが社交界に強い伝手があるわけでもないし、ヴィレル伯爵家が窮しているという噂はもう広がっているかもしれない。
 そんな家に婿に来てくれる奇特な人物がそうそういるとは思えず、近付いたところで遠巻きにされるのがオチだ。
(ああ、もう……どうしたら)

 遠縁に援助を依頼しても返事は芳しくなく、ならば見合いをセッティングしてもらおうと働きかけても相手が見つからず八方塞がり。そんなヴィレル伯爵家に、借金返済への提案がもたらされたのはそのころだった。
 それはまるで狙いすましたようなタイミングで、何者かの意図を疑わずにはいられなかった。
 話を聞くと借金以上の金額を融資する見返りに、あるものが欲しいとのことだった。
 本来ならうまい話には裏があると警戒して然るべきなのだが、藁にも縋りたい叔父はすぐに飛びつき安堵してしまった。
「ああ、これで兄上に顔向けできる。レティシアにこれ以上苦労を掛けずにすむ」
 そう言われてしまったレティシアはどうしても「いやだ」ということができずに口を噤んだ。
 叔父だって悪気があったわけではない。
 心からヴィレル伯爵家の行く末を案じ、レティシアの幸せを願ってくれている。
 それが痛いほどわかった。
 だから条件を示されたとき、レティシアは反対せず少しの猶予を願った。
 どうしてもやりたいことがある、と。
 そうやってレティシアは王都エフィダの三番街にある占いの館『黒猫姫』のドアを叩いたのだった。

 マダム・ノワリスが占いをする部屋に令嬢を案内すると、彼女は物珍しそうにきょろきょろする。
 その様子からアレクシスはこれが初めての客だと推理した。
(あれが最後の客だというのはマダムの勘違いか……初めての客なら誤魔化しようはあるな)
 さきほどの客が帰ってからまだそれほど時間が経ってないせいもあり、室内にはマダムが好んで焚く、リラックス効果のある香りが漂っていた。
「こちらに……ごほん。おかけに、なって」
 咳払いをしてからアレクシスは口調に気を付け柔らかく話すことを心掛ける。
 ここで疑いを持たれては、自分の正体までバレかねない。
 アレクシスはマダムの所作を思い出しながらゆっくりと言葉を紡ぐ。
「それで、今日はどんなお話を? なにがあなたをそんなに悩ませているの?」
 為政者として民の心を掴む話法は心得ている。
 目の前の令嬢も見えざる手に心臓を掴まれたようにハッとして顔を上げた。
「あ、あの……、わたし……っ」
 勢い込んで話そうとした彼女は、思いが大きすぎるのか喉を詰まらせたように眉間にしわを寄せると、俯く。
 そしてポトポトと涙を零した。
「す、すみません……! こんなつもりじゃ……!」
 慌てて手で目元を擦ろうとした令嬢を見て、アレクシスは立ち上がり側に寄って膝をつく。
 驚いた令嬢の手を取ると落ち着かせるように優しく撫で、鷹揚に頷く。
「悲しい涙はここで全部流してしまいなさい。夜空の星のようにきらきらしたあなたの瞳には笑顔がよく似合う……わ」
 思ったことをそのまま口にしただけだったが、令嬢は青い目をまん丸に見開いたあと頬を紅潮させた。
「ま、マダム・ノワリスからそう言われると……面映ゆいです」
「ふふ……、お上手。でも涙は止まったようね。ではまずあなたのお名前から伺おうかしら」
 女言葉に慣れてきたアレクシスは、令嬢の下まつ毛に宿った涙の滴を指で優しく拭うと向かいのソファに戻った。
 令嬢は一瞬きょとんとしたあと、居住まいを正して「レティシア・ヴィレルと申します」と告げた。
 アレクシスはレティシアがどうして虚を突かれたような顔をしたのかわからなかったが、恐らく予約を取ったときに名乗ったのだろうと思い当たり、ジワリと嫌な汗をかく。
(しまった、違和感を持たれてしまった)
「レティシア……いい名前ね、あなたによく似合っているわ」
 動揺をきれいに覆い隠したまま、アレクシスは当然の流れのように「それで、今日はどんな相談なのかしら」と尋ねた。
『黒猫姫』は占いの店だ。
 しかしアレクシスは占いができない。
 だからレティシアになにかを占ってほしいと請われるのは不味いのだ。
 ゆえにアレクシスは自然な流れで『占い』と『相談』をすり替えた。
 相談ならば、アレクシスにも対応できる可能性がある。
 迷っていることに筋道を立ててやり、年長者として指針を与えることならできるだろう。
 しかしレティシアはそんな思惑があるとは思いもしないのか、アレクシスの思惑通り相談を始める。
「実は少し前に父が亡くなったため……我が家は叔父が継いだのですが」
 その叔父はあまり領地経営に明るくなく、借金を作ってしまったという。
(それは……マダムの占いや助言でどうにかなる問題ではないだろう)
 アレクシスはベールの下で眉を顰める。
 目の前のレティシアは物慣れない様子から箱入りではあるだろうが、世間知らずには見えない。
 この相談が的外れであるとは言い難く、どうしたものかと考えていると、話は思ってもみない方向に進んだ。
「叔父に融資をしてもよいと申し出てくださった方がいるのですが、融資の条件が……わたしが妾になることなのです」
 絞り出すように言うと、レティシアは膝の上に置いた手を強く握り締める。
「め、妾だと……」
 アレクシスが治めるクローネヴァルト王国は重婚や一夫多妻を公的に認めていない。
 だが貴族や裕福な商家では跡継ぎ問題にかこつけて、女性を囲うことは暗黙の了解となっている。
 アレクシスのもとにも最初から妾狙いで秋波を送ってくる女性が存在するし、妾を世話しようとにやけ顔で近寄ってくる貴族も多い。
 それが煩わしく、母も亡き父の妾問題で苦労をしたことを知っているため彼自身は妾には否定的だ。
(こんな初(う)心(ぶ)な令嬢が妾になど……!)
 レティシアに肩入れしそうになったアレクシスは、自分が今はマダム・ノワリスとしてレティシアに接していることを思い出し、一呼吸置いてから告げる。
「あなた、年はいくつなの?」
「二十歳です」
 それを聞いてアレクシスは眉を顰める。
 人生における花盛りと言っていい時期に、日陰者と言われる妾になるという選択肢を突き付けられるのは辛いだろうと感じたのだ。
「あなたは……レティシアはそれが嫌、なのね……?」
「それはもちろん嫌です……でも、生家が没落していくのを見るのは辛いことですし、わたしが我慢すれば丸く収まるなら……でも」
 キリリ、と唇を噛んだレティシアが顔を上げた。
 潤んだ青い瞳がまるで宝石のようにきらきらと輝いている。
(綺麗だ……)
 レティシアの瞳には様々な感情が浮かんでいた。
 悲しみ、怒り、諦め、そしてアレクシスがまだ知らない感情までも。
 一見して嫋(たお)やかで当主が決めたことに反抗しないように見えるレティシアに強い意志が宿っていることを感じ取ったアレクシスは、羨ましいと思った。
 なにが羨ましいのかと考えたアレクシスを現実に引き戻したのは、他ならぬレティシアの声だった。
「でもわたし、妾になる前に想いを告げたい方がいて……」
 もともと小鳥のさえずりのように耳に心地よいレティシアの声に熱が混じる。
 それを聞いただけで彼女が恋をしているのだとわかるほどに、想いが溢れていた。
(想う相手……、あぁ、レティシアの心はもう誰かのものだったのか……!)
 アレクシスの心が急に濃い靄に包まれる。自分の気持ちが掴めなくて居心地が悪くなった彼は、無意識に顔をしかめた。
「あー……、想い人のことを相談したいということ?」
 内容的にますます占いでなんとかできるような話ではないことを薄々感じたアレクシスは、できないと断る理由ができたことに半ば安堵しながら訊ねる。
「はい……マダム・ノワリスは前王妃殿下と懇意にされていたと聞いたものですから」
「母う、ごほん……前王妃に関係が?」
 急に身内の話になったため、アレクシスは怪訝な顔をする。
 顔は見えなくとも声にそれが表れていたのだろう、レティシアは申し訳なさそうに眉を下げる。
「お仕事と関係のないお話で本当に申し訳ないのですが……わたし占ってほしいのではなくて、マダム・ノワリスの知恵をお借りしたいのです。しがない元貴族の娘が国王陛下に想いを告げるにはどうしたらよいのでしょう?」

 思わぬ急展開に、アレクシスは頭の中が真っ白になった。
 ベールで彼の表情がわからないレティシアは、そうとは知らず堰を切ったように話し始める。
「わたし、デビュタントのときにほんの少しお目にかかった陛下のことが好きで好きで堪らなくて、どうにも諦めきれず……でも決して邪な気持ちではないのです! ただ、清い身体のうちにお慕いしていたことを陛下にお伝えするだけで……っ」
 清い身体。
 その言葉の意味を深く考えてしまったアレクシスは自分の脳内でレティシアが淫らに蕩けていくのを想像してしまい、慌てて眉間に力を入れた。
(な、なんてことを言うのだ、この娘は!)
 男女のことをなにも知らないわけではないのに、妙に照れ臭くなってしまったアレクシスは頬が熱くなるのと同時に、喉の渇きを覚え唾を呑みこんだ。
「……た、確かに王宮にいる陛下に謁見するのは難しいかもしれ……ないわね」
 高位貴族や役職持ちでも謁見の申し込みはなかなか通らない――というのもアレクシスが時間を作ってはこうして城下をウロウロしているためだ。
 公的にも私的にも会うのは困難と言っていい。
 かと言ってまったく機会がないかと言えばそうでもない。
 夜会や王宮主催の行事に参加することもあるし、伝手を辿るということも……。
 そこまで考えて、アレクシスはレティシアがそれなりに考え抜いてマダム・ノワリスのもとへやってきたのだと理解した。
「妾になるまで二(ふた)月(つき)猶予をいただきました……それまでになんとかならないでしょうか」
 二月は長いが、王との謁見であることを考えれば妥当な期間だ。レティシアのような立場でも伝手があればギリギリ望みが持てる。
 前王妃との伝手があり市井にも繋がりがあるマダム・ノワリスに縋った彼女の戦略も納得できるというものだ。
「――はぁ……そう、ねえ……」
 アレクシスは考えを整理するために、わざと意味のない言葉を発した。
 その言葉にレティシアが反応して顔を上げる。
「前王妃殿下ならいざ知らず、私も陛下とは直接懇意というわけではないから、あなた……レティシアがどれほど本気なのか、見定めさせてもらおうかしら」
 そう言うとアレクシスはマダム・ノワリスがいつもそうするように、顎に人差し指を当てて首を左に傾げた。