悪役令嬢の取り巻きAですが、王太子殿下に迫られています。⑧[熱砂の皇子編]中 1
(いま、エマって……)
正しく私の名を呼んだ、テノールの声。
その声の背後で、何人かの男性の叱声や、苦々しい声、言い訳じみた声が複数入り混じる。ガチャガチャと、牢の錠前の音も。
「早くお開けしろ! おい、そこの木っ端役人、なにをぼさっとしておる!」
「こ、これは太守さま、それに憲兵長官殿も……!? な、なぜ急にかような場所にお出ましに。開けろというならもちろん開けましてこざいますが、な、なんでまたこんな囚人ひとりのために、わざわざ……」
看守の別人みたいに媚びへつらう声がする。揉み手でもしてるのかという声だ。つづいて、ギイ……と金属が軋む音。鉄格子の扉が開く音だろうか。
「――エラ、探したぞ! ああ、無事でよかった」
エマです。
なんだ、たまたまか……。私の名を覚えたわけじゃなかったみたい。
でも、この声は。
知らない人の声や騒がしい音を背後に遮るように私のまえに現れた、ここ数日聞き慣れた、やわらかなテノールは。
「出ておいで、エル。私だ。……どうした?」
「…………」
私は壁づたいにそろそろと立ち上がった。
「イリヤ殿下……ですか……?」
カツン!と靴音が大股で近づいてきた。肩を掴まれ、私は反射的に身を竦めた。
「どうしたのだその目は! 真っ赤に腫れて……! 誰にやられた!」
「……う」
今まで堪えていた泣き声が、喉でくぐもった。そんなに腫れてるの? 今どんなふうになっているんだろう。
「どう、どうしよう殿下、私、もう一生、目が見えないかもしれない。どうしよう……! 看守に騙されて、ほかにもたくさんのひとが失明したって……!」
「ヤガの実か」
トレイに載っているそれを目に留めたのか、イリヤ皇子が苦々しい声でそう言った。
「太守、すぐに彼女の目を清潔な水で洗わせよ。医師も呼べ、今すぐにだ」
「は、は……! おい憲兵長官、この女性を水場へお連れしろ! 常駐医と、それから念のため私の侍医も呼んでくるのだ!」
すらりと命じたイリヤ皇子に、太守と呼ばれた男性は恐懼(きょうく)して部下たちに指示した。
「…………」
私はあっけにとられた。
なんでいきなりイリヤ皇子がこんな権力を行使できているのか、皆目見当がつかない。まさか大オル=フュゼウス皇国の皇子たる身分を明かしたわけでもないだろうに。彼は安全のため身分を隠して旅しているのだ。私のためにそんな危険をおかすはずない。
誰かに手を引かれ、どこかへ連れていかれる私の背後で、
「看守。――というのはおまえか?」
氷のように冷ややかな声がした。
「太守、これを借りるぞ」
「どうぞ、殿下の思し召しのままに」
「た、太守さま、長官殿、本官はなにも、あの囚人の女がじぶんで勝手にヤガを――うッ!」
肉を打ち据える鈍い音がした。その直前に、ヒュンと細長いものが振り下ろされる音もしていた。
「この私の召使いに、なにをした? 償いに、貴様の両眼を差し出すがいい」
「た、助け……、誰か……!」
床のごく低いところから、看守の声が聞こえる。倒れたのだろうか。
ふたたび打擲音。私を責め苛んだ野太い声は、呻き声から、やがて、お許しを、お許しを、という啜り泣きに変わっていった。
*
「探し出すのが遅くなってすまなかったね」
宿に戻って、イリヤ皇子は柔らかい声でそう言った。私の部屋だ。手を引いて、ゆっくり椅子に座らせてくれた。
私の目には、包帯が巻かれている。憲兵所常駐の医師が手当てしてくれたのだ。
腫れを引かせる薬が塗られ、さらにまぶたを覆うようになにかの葉っぱも貼られた。熱をとる効果があるらしい。朝と夜、貼り替えるようにとのことだ。メガネは今は、荷物にしまってある。
「大丈夫、数日すればまた見えるようになるよ。ヤガの実はたしかに刺激物だが、失明なんてそうそうしない。あの看守は嘘を言って、おまえを脅えさせたのだ。安心しなさい」
「殿下には、お手数をおかけして…………」
「そなたが夕食時になっても戻ってこないものだから、あちこち聞いてまわった。果物屋の女主人があそこまで連れていってくれたのだ。保釈金を取りに宿に戻ったり、下役人ではらちがあかないので太守の邸に押しかけていったりと、時間がかかってしまった」
「…………探してくださったのですか」
正直、放っておかれてもおかしくないと思ったのに。イリヤ皇子は、身分の低い者のことなんて歯牙にもかけないとばかり。
「あたりまえではないか」
優しい声が笑った。椅子に座らせた私の正面に跪いているらしく、向かいからほたほたと私の手をたたいた。急に触られてちょっとびくっとしたけれど、その手はあたたかかった。
「そなたは私の召使いだ。たとえ百人だろうが千人だろうが、主人たる私には、仕える者を守る義務がある。そなたの身と心の安全、そして誇りとを守る義務が」
「…………」
「つらい思いをしたな? もう大丈夫だ」
イリヤ皇子、と呼びかけたくて、でも泣き声が喉で詰まって、声が出ない。ありがたいやら、これまでの不安と緊張が一気に氷解するやらで、わんわん大泣きしたいくらいだった。
「泣いてはいけないよ。塗り薬が落ちるからね」
「は、はい」
ぐっ、と涙をこらえる。生理的な涙はもう止まっていた。あの焼けつくような痛みも、いくらか治まっている。まだヒリヒリするけれど、だいぶましだ。
「ありがとうございます……、なんと感謝申し上げたらいいか。私、まさかあの程度の物語をしているだけであんなことになるなんて、思ってもなくて……」
「ふつうはあんな程度で牢に入れたりはしないそうだ。少女の父親が言い立てた罪状とは関係なしに、別のルートが働いてそなたは投獄されたらしい。私の召使いだと知るや、手違いがあったようだと太守たちは詫びていた。もっとも、本当かどうかは疑わしいが。あの下劣な看守も常習犯だったようだし」
イリヤ皇子は侮蔑的にそう言った。あのあと看守がどうなったのかは、知らない。聞いても教えてくれなかった。
「私の不注意で、殿下にまでご迷惑をおかけして……。もしかして、皇子のご身分を明かされたのですか? 女装してまで、隠していたのに」
「もうよい、そなたが見つかってよかった。それに、そなたの話していた物語はどこの国、どこの村で話してなんら問題ない内容だった。私は窓辺で聴いていて、我が尊き姉上にでさえ、あのように生きてほしかったと願う、そのようなことしかそなたは話していない。牢に入れるべきはあの看守であり、そなたを冤罪で通報した父親だ」
「あの娘さんのことが気がかりです」
私はうなだれた。
「私のせいでひどく叱られたでしょうか。希望どおり学校に行けたらいいのですが……」
「冷たいようだが、そこまではそなたの関知するところではないよ」
イリヤ皇子は穏やかに言った。
「これから先、そなたはいくらでもアンフェルム王国とは違う状況を見るだろう。そのたびに足を止めていては、そなたは本来の目的を果たせない」
「そう、ですが……」
「そなたはイザベラという主人を救いに皇国へ行くのだろう? それがそなたの使命のはずだ」
「そのとおりです」
私は答えた。割り切れない思いや、やり切れなさとともに、それでもはっきり答えた。
お嬢さまに会う。
それだけを今は考えよう。
じぶんひとりの身を皇国に運ぶのでさえ、私はこんなにもままならないのだから……。
イリヤ皇子がいなかったら、私はなにがなんだかわからないまま異国の牢屋で一生を終えていたかもしれないのだ。そういう事例は、世間にいくらでもある。
じぶんもそうなるところだったのだ。今さらながらにゾッとする。
扉がノックされた。宿のひとだった。イリヤ皇子が、宿のおかみさんに私の入浴の介助をしてやってくれるよう手配していたのだ。
「いろいろあって疲れたろう。こんなひどい夜は、ゆっくり湯船につかって身体を休めたほうがいい」
知らないひとに裸を見られるのは恥ずかしかったけれど、イリヤ皇子の言うとおり、私はくたくたに疲れきっていた。さほど抵抗の気持ちも湧かず、お任せした。
顔も体も、汗やほこりまみれだった。なにより、肌や毛穴にまで、いやな体験や悲しい気持ちが汚れのようにこびりついている気がした。
あたたかい湯船につかると、ひどい出来事で負った心のささくれが、すこしはなだめられていくようだった。
お風呂を出るとイリヤ皇子はまだ部屋にいて、宿のおかみさんになにかお礼を渡したようだ。彼女が出ていくと、私の手をとり、ベッドまで連れていって、寝かせてくれた。
正直、目が見えない状態でひとに触れられるのは、いちいちビクッとしてしまう。せっかく世話してくれているイリヤ皇子にもさっきのおかみさんにも、申し訳なかった。目が見えないのが、こんなにも不安だなんて。
「ご親切にありがとうございます、イリヤ皇子。なにからなにまで……」
「うん、おやすみ。私は隣の部屋だから、なにか用があれば壁を強く叩いて呼ぶといい」
イリヤ皇子は優しくそう言って、私に夏の上掛けをかけた。
「殿下……、私、もしこのまま目が見えなかったらどうしよう」
「大丈夫」
ぽんぽんとイリヤ皇子は上掛けのうえから私の肩をたたいた。子どもをあやすように。
「ヤガの実で失明する者なんかいないよ。この村でも年に数人はうっかり者が粉のついた手で目をこすってしまうそうだが、みんなじきもとに戻ったそうだ」
「ほんとう?」
私はお医師にそんなこと言われなかった。
「本当。だから安心して眠りなさい。朝起きたら、良くなっている。もうひと晩寝たら、さらに良くなっている。私を信じて、明日の朝をたのしみにしていなさい」
「うん……」
ほとんど女装姿しか見ていないからだろうか、イリヤ皇子はイリヤ皇子というより、イスファランお姉さん、という感じがした。声は男のひとなんだけど、でも、話しかたが、より優しい。
「よくお眠り」
扉がパタンと閉まる音がした。ランプを消したかどうかは、包帯を何重にも巻いた真っ暗な視界では、わからなかった。闇。
イリヤ皇子はああ言ったけど、治らなかったらどうしよう。目の見えない体で皇国に辿り着けるだろうか。辿り着けたとして、お嬢さまを見つけることなんてできるのだろうか。いつかアンフェルム王国に戻ったとき、カイルは私をどう思うだろうか。
怖くて不安で、真っ暗で、包帯をむしり取りたくなる。
トントン、と壁が鳴った。ベッドの頭側。
イリヤ皇子だ。
不安に渦巻く思考から我に返り、慌てて私も、トントンと叩き返した。
すると、トン、トトン、トトトン、と今度はリズミカルな音が返ってきた。くすっと私は笑って、真似して同じリズムで返した。こうだったかな? はずむような、たのしいリズムだ。
それきり音はしなかった。
けれど、たのしい気分は残った。じぶんの口もとに、笑みが残っているのがわかった。
誰かがじぶんを気にかけてくれているというのは、こんなふうにそれを知らせてくれるというのは、なんて心強いんだろう。
(ありがとうございます、イリヤ皇子。おやすみなさい)
闇はさきほどよりすこしは優しかった。
朝。
ああ、目を開けるのがやっぱり怖い。
小鳥の声や、通りをゆく物売りの挨拶から、今が早朝だとわかる。
私はベッドに起き上がり、包帯を取ってみた。ぺり、と乾いた葉がまぶたから落ちた。
「…………」
見える。
落ちた葉の黒緑色も、よれた白い包帯も、この両手も、見える。壁紙のクリーム色も、窓枠の木目も、外の風景も見える。
「見える!」
私はベッドを飛び出した。部屋は朝の光で明るい。たったひと晩見えなかっただけなのに、生まれ変わったように世界が光り輝いて見える。洗面台の鏡を見に行った。
そして、
「ひっ」
息を呑んだ。
そこには、まぶたが何倍にも腫れあがって人相の変わった顔があった。試合後の拳闘士か、前世の怪談の女幽霊みたいだった。
「な、なにこれ……」
ひどい……、と喉から細く震え声が出た。鏡に映っているじぶんの顔は、あまりに可哀相だった。
上まぶたが目に覆いかぶさっている。見えるようにはなったけど、上まぶたと下まぶたの隙間はほんの数ミリしかあいていなかった。気づいてみれば、視界になにかチラチラと邪魔なものが映っているのは、じぶんの睫毛だった。まぶたが重くて視界にかかっているのだ。
「起きたかい? 朝食が来たよ。ああ、昨日よりずっといいじゃないか」
ドアをノックして、イリヤ皇子が部屋に来た。
「見せてごらん。うん、このぶんなら痕に残らなそうだ。治ってきている。良かったね」
「そ、そうなの……? 昨日はこれより、もっと酷かったの?」
「正直、どうなるかと思ったよ。薬が効いてよかった。大丈夫、今朝はずいぶんと可愛いよ」
「…………」
イリヤ皇子は私のもとの素顔を知らないからそう言うけど、これじゃお嬢さまに会っても私だとわかってもらえない。そのくらい、人相が違っていた。目が「3」ってリアルであるんだ……。
「包帯はあと数日は巻いていたほうがいい、綺麗に治るようにね。見えないで歩くのは難儀だろうから、さっき行き先が同じ荷馬車に交渉して、後ろに乗せてもらえることになった。積み荷にまだ時間がかかるそうだからそれを待って、昼前に発つよ。顔を洗っておいで。食事が終わったらまた包帯を巻いてやろう」
イリヤ皇子はそう言って、私をじぶんの部屋へ促した。そちらにふたりぶんの朝食が運ばれていた。
カリカリのベーコンと、目玉焼き。とろりとしたオレンジ色の黄身。お皿にあふれたぶんは、パンですくう。フォークに刺そうとしたミニトマトが転がっていき、追いかけて突き刺し直す。顔のことはショックだったけれど、でも、こうして目があくようになったのは、ありがたかった。
昨日見えなかったものが見えるようになっているのだから、腫れだってそのうち元に戻るはず。うん。くよくよしても治りが早くなるわけじゃない。むしろ遅くなる。
「よし! 殿下、出発は昼前でしたよね? それまでにしたいことがあるのです」
「急に元気になったね」
イリヤ皇子は微笑んだ。
「はい、おかげさまで元気になりました」
私も笑う。
「たしかに私には、横道に逸れている時間はありません。でも待ち時間なら、ある。やれることをやれるだけ、さくさくとやっちゃいましょう!」
*
私とイリヤ皇子は、二軒の家を訪ねた。
一軒目で話をつけたあとに向かった二軒目は、ある民家。仕事に出るまえに子どもたちに朝食を食べさせながら支度をして、という慌ただしい時間帯だった。
「はいどちらさん! 今忙しいんで夜にまた……、…………どちらさま?」
殺気立って玄関扉を開けたのは、声からして昨日のお父さんだった。
さぞ驚いたろう。イリヤ皇子は今日は男装で、旅装束とはいえ身分相応に身なりを整えていたから。
「我が召使いの目が見えなくなった。医師の見立てでは一生このままだという。どうしてくれる」
「ど、どうって……」
面食らい、彼は言葉を詰まらせた。私は朝のぶんの薬を塗り直したあと、また包帯をぐるぐる巻いていた。
イリヤ皇子は高慢に言い重ねた。
「余の所有するところのものを損なっておきながら、償いをせぬと? そなたが要らぬ讒言をしたせいで我が召使いはこのような身となったのだ。目の見えぬ召使いなど使い物にならぬ。補償をせよ」
「ザ、ザンゲンってなに……」
「お姉さん!」
昨日の空色の髪の少女の声がした。
「お姉さん、め、目が……、どうして……」
「そなたの父親のせいで、この者は一生目が見えなくなった。代わりにこっちの娘をもらっていくぞ」
「え!?」
「役立たずの召使いは置いてゆく。交換だ」
「ちょ、ちょっと待ってくれ、こんな目の見えない外国女を置いていかれても困るよ、いえ、困ります、でございますよ。あの……どちらさまで……?」
「私が何者かなどどうでもいいこと。下賤の者に名乗る名など持ち合わせてはおらぬし、知ればそなたのみならず一族郎党に至るまで首を吊られるしかなくなるのだからな。名乗らぬのは慈悲と思え、卑しき者よ」
「は、ははー……」
お父さんはあやふやな口調で、それでも芝居かなにかで見覚えたように畏まった。
(さすがだなあ、イリヤ皇子……)
身分を明かさずに、物腰と言葉だけでここまで説得力がある。カイルみたい。
「いえ、あの、でもこの娘は一家の働き手で、いなくなるとうちは飢え死にしてしまいます。下には小さい子どもが六人もおりますんで……」
「それが私になんの関係が? 交換もしない、詫びもしないとは、無知蒙昧の輩のこととて大目に見ておれば図に乗りおって! そなたが縛り首になるか娘を差し出すか、どちらだ!」
「し、縛り首……! も、申し訳もございません、お偉い人の召使いとはつゆ知らず……、おい、母さん! 母さん来てくれ、ちょっと! こいつ連れてかれちまうよ、どうしよう!」
「どうしようったって、あんた、どうしようもないでしょう。あの、こんな小汚い家においでいただいてすみませんです、太守さまのとこのお客人だとかで……?」
「この私が、あのような者の客人に見えるというのか? ほとほと無礼極まりない夫婦だ」
「す、すみません! なにも知らない貧乏人なもんで、お許しを……! あの、聞いたんですが、看守を牢にぶち込んだって……、いや、おぶち込みになられたって……? うちの家は、そのぅ、牢入りはないですよね?」
「入牢? それしか伝わっておらぬのか。余の所有物を損なっておきながらそれで済むと?」
「ご主人さま、看守はどうなったのですか?」
私はおそるおそる、演技半分、本心半分で訊いた。
「私は目が見えておりませんでしたが、身の毛もよだつ恐ろしい悲鳴が聞こえておりましたのはいったい……」
イリヤ皇子は包帯越しに私の両目にそっと触れた。
「そなたの目が見えなくなったのだから、贖いに差し出すべきものはひとつしかないだろう? ――正確には、“ふたつ”だが」
「…………」
……この一家の手前、ブラフだよね? まさかほんとうに看守の両目を? うう、聞くんじゃなかった。
一家も息を呑んだ気配があった。うしろのほうから、小さな子どもたちがはしゃぐ声、スプーンやお皿を鳴らす音もする。見えないけど、平和な家庭の光景がひろがっているだろう。
イリヤ皇子は、いと涼やかに言った。
「光神オル=フュズ・ェウスの法に則れば、役に立たなくなった召使いの代わりには、新しき召使いを贖うべし。この道理に従わぬのなら、そなたらのいずれかに看守同様ふたつのものの贖いを求めねばならぬであろう。ェウス・ヤーン」
「こ、こんな娘でよければどうぞ連れてってくださいまし!」
「ま、待ってよ!! お父さんお母さん、あたしこの男の人の使用人になるってこと? 旅のひとなんだよ? あたしこの家からも村からもいなくなっちゃうんだよ? いやよ、あたしをどっかにやっちゃわないで!」
「んなこと言ったってなあ……。父さんか母さんの目が見えなくなったら一家が路頭に迷うだろう」「元はといえばあんたが学校行きたいとかわがまま言い出すからこんな羽目になったんじゃないの。じぶんで責任取んな」
「そんな……!」
「娘よ、すこし向こうで話をしよう」
女の子の悲痛な声に、イリヤ皇子が穏やかに言葉をかぶせた。家の外へ連れ出された女の子はべそをかいている。
「あのね、驚かせてごめんね、嘘だよ」
三人だけになると、私は真っ先にそう言って安心させた。
「娘はこちらだよ。それは垣根だ」イリヤ皇子が体の向きを変えてくれた。これは失敬。
「嘘……?」
「これからする話は、断ってくれて構わない。今のまま、なにも変わらずお家にいることもできるよ。あのね、さっき太守さまのお邸を訪ねたの。というか、昨日のおばあさんのお家を訪ねたつもりだったんだけど」
「おばあさん……? ああ、太守さまのお母さん。大奥さま」
「そうだったのね。この村を発つまえに、なにか私にできることはないか聞きにいったの。それでいろいろ話しているうちに、足が悪いから世話係の女性がひとりいると助かる、できれば本好きの子がいいって。あなた、どう?」
「あたし……?」
「あのかたは物語が好きなのに、家族のなかにも夫人会のなかにも、話し相手がいないんですって。若いころから少しの時間を縫って読んできたという本がお部屋にたくさんあったわ。あなたなら話が合いそうだし、感じのいい娘さんだと言ってくれた。お給金は、今どこに勤めてるか知らないけど、この村ではいい水準の額が出せるって。でも急すぎる話だし、考えたいなら……」
「い、行きたいです、そこに」
女の子は勢い込んで言った。でもすぐ、悲しげな声になった。
「けどあたし、文字、読めない……。本好きの子がいいって条件に、合わないと思う。それに、このまえ太守さまを怒らせてしまったし……」
「それは追い追い、読めるようになればいい」
とイリヤ皇子が言った。
「彼女も歳をとって目が疲れやすく、長時間本を読むのが億劫だそうだ。いずれはそなたに読み聞かせしてもらいたい、そのために今から学べばよいと。彼女が文字を教えてくれるそうだ。それと彼女の住まいは邸の離れなので、太守と顔を合わせることもない。もしとやかく言われたとしても、老いた母の望みを取り上げるようなことまではさせない、と請け合ってくれた」
「そんな……、そんないい話、あるんでしょうか……」
女の子は不安そうに言った。
いま目のまえにある希望に無邪気に飛びつくには、十代半ばにして彼女は、がっかりしたり諦めたりすることのほうが多すぎたのだろう。
「あたし……、お父さんがなんて言うかわからないし……、弟や妹の世話もあるし、今の勤め先は嫌いだけどお父さんの口利きだから、怒るかも……。それにまた馬鹿な娘だって、頭が悪いって、今度は大奥さまをシツボウさせちゃうかも……」
「うん、これはめったに起こらない、良い話」
私は言った。
女の子のほうへと、両手を伸ばす。女の子は躊躇う気配があって、それでもおずおずと、手を握ってくれた。
彼女はじぶんを馬鹿だとたびたび言う。何人もが少女にそう吹き込んできたのだ。
「お姉さん、目が見えなくなっちゃったの……? あたしのお父さんが告げ口したせいで? あたしが学校に行きたいなんて言ったから、そのせいで無関係のお姉さんがとばっちりを……」
「ごめんごめん、それも嘘。一生じゃないよ、昨日だけ見えなかったけど、今朝起きたらもう見えるようになってた。まだちょっと腫れてるから包帯してるけど、何日かしたら治るって」
「でも、痛い……? 見えなくなったくらいだから、すごく痛かったよね……? 不便じゃない?」
「へっちゃらだよ」
私はおおきく笑った。
「ごめんねお姉さん、ごめんね……」
「あなたのせいじゃないよ、それだけは絶対に違う。運が悪かったの」
「悪いのはあの看守だ。その懲らしめは済んだ」
「う、うん……。あの、さっきの嘘ですよね? 看守の両目を……」
「娘よ、我々は今日この村を発つ」
イリヤ皇子は私の質問をスルーして言った。
「この者がこうしてそなたの学びや勤め先の世話をしたのは、ただの好意であり、そなたにとってはただの幸運だ。そなたが努力して掴んだものではない。ゆえに今を逃したら手に入らぬ。人生には不運がつきものだが、ごくごく稀に、こうした幸運が舞い込むこともある。幸運に怯まぬことだ、娘よ。不遇に慣れぬことだ。――さあ、そろそろ荷馬車が出る時間だ。そこまで来てくれている。我々は乗り遅れるわけにはいかない。ゆくぞ」
「あ、待って、あと一分だけ」
イリヤ皇子が肩を抱いて促すのを、慌てて制した。急に触らないでほしいな、びくっとするから。
「お姉さんは、このあとご主人さまに捨てられない? 治るんなら、大丈夫だよね?」
「捨てられないよ、大丈夫。……大丈夫ですよね?」
まあ、包帯が取れさえすれば捨てられてもべつにいいんだけど。今はちょっと困るかな。
「目の見えぬ者を放りだすような薄情者でも、光神の教えにそむく不徳者でもないぞ、私は。待っている、一分。もう五十秒だ」
「ここに旅行鞄があります」
私は慌てて彼女に話した。
「喩えね、あるとします。あなたはこれから、この鞄で旅をします。道には、岩のように大きなダイヤがごろごろ落ちており、あなたはそれを拾っては、じぶんの鞄に入れていきます。どんどん詰めていって、鞄の口まで、入れられるだけ入れた。さあ、この旅行鞄はもういっぱい?」
「……? 入れられるだけ入れたなら、いっぱいなのじゃない?」
「じつは違う。カラフルなちいさな宝石も落ちているのです。大きなダイヤの隙間に入れていきます。これでもういっぱい?」
「うーん、じゃあ、違、う……?」
「そう、違う。砂金も入れます。ダイヤと宝石の隙間に、サラサラと。さあ、口まで満たした。もういっぱい?」
「違う。と思う」
「そのとおり。水を注ぎます。キラキラ七色に光る水です。きっと防水加工の鞄なんだね。口まで注いだ。今度こそ旅行鞄はいっぱいです。さて、この話から言える教訓は?」
「え? えっと……、えっと、うーんと、隙間がないと思っても、見方を変えれば隙間はある? あ、希望がないと思っても見方さえ変えれば希望はある!」
「それもすごくいい考えかただね。けど、私が言いたかったのはちょっと違います。最初に大きなダイヤを入れなければ、それを入れる機会は二度とないということです。旅行鞄はあなたの人生。ダイヤは、あなたの人生で最も大切なものです」
これは受け売り。私が考えた話じゃない。私は語り部だから、古今東西の話を誰かに伝える。前世も含めてね。これはけっこう有名な話。旅行鞄とかダイヤじゃなかった気もするけど、たしかこんなふうな話。
「あなたにとって人生で最も大切なものは何ですか? 学問? 仕事? 家族? 愛情? 自由? 信仰? 世間体? どれでもいいのだけど、最初に入れるのはダイヤでなければならない。もしさきに砂金や水で鞄を満たしてしまったなら、人生はあなたにとって重要でない、優先順位の低いものばかりで満たされてしまう」
「どれを入れても重たい鞄だな」
イリヤ皇子がぽつりと言った。
「そうね、どれを入れてもうんざりするほど重い。でも、ならせめて、じぶんにとって価値があるものを背負って旅したい。ほかの誰が決めた価値でもない。これのためなら私は頑張れる、力が湧いてくる、どこまでも歩いていけるんだ、っていう荷物をね」
「うん……、はい。わかったわ、お姉さん。お話、わかったと思う」
女の子は考えるようにすこしのあいだ黙ってから、しっかり頷いた。見えないけど、口調や、伝わってくる気配で、それがわかった。