縁談をぶち壊したい最強王女と過労気味の天才宮廷魔術師が甘いキスで国を救います! 1
王城の一室の窓から見える庭では、手入れされた草木が健やかに枝を伸ばしている。だが、その強い光のせいで世界が黄色く見えるほど、クレマンは疲弊していた。
この三日間を通じて、三時間ぐらいしか眠っていないからだ。
今日、このカルバレン王国には第二王女の婚約者候補となる、隣国・サリオン王国の王子ケネスが到着する。その使節団と、クレマンが局長代理を務める魔術政策局との話し合いが行われる予定だ。
その際にサリオン王国との魔術協定を結ぶこととなっているので、条文の作成を行っていたのだ。
カルバレン王国がある大陸では、魔術があたりまえに使われている。行政の全てに魔術が関わっており、魔術政策局は魔術に関する国家レベルの政策立案、管理監督を行う部署だ。
──昔は、魔術師がここまで官僚的に働くとは、思っていませんでしたけど。
クレマンは深いため息を漏らす。
それに、こんなにも書類仕事ばかり、ということも想像だにしていなかった。
魔術政策局は魔術の利用ルールを整え、法の整備を行う。
さらには、魔術が関わっていると思われる事件、事故への対応、魔術研究の推進、そして国際的な外交、協力業務も行っている。
書類仕事は山のようにあった。
魔術儀式の申請書類のチェックや、各国との魔術協定の文書作成。魔術由来の災害の報告書に、魔道具の更新費用や研究費の申請や、予算管理など。
他の行政機関と同程度の書類仕事は不可欠であり、そのおそるべき量がクレマンに集中しているのだ。
魔術政策局の局員は全て魔術師だが、魔術師はそもそも書類仕事が苦手なタイプが多い。そんな理由があるとはいえ、こんなにもクレマン一人に集中するのは、ひとえにその多才さが評価された結果でもあった。
国一番の魔術師。
なおかつ、社交的で弁も立つ。
面倒な調整仕事や複雑な文書の作成は、クレマンに任せておけば大丈夫。そんな空気が、局内にあった。クレマン自身も、できるだけ早く昇進したいという思惑があり、自分を評価してもらいたくて何でも引き受けた。
だが、さすがにこれ以上は無理だ。自分以外の人間でもできることは、局員に割り振りたい。そんなふうに思いはしたものの、国王や大貴族から直々に指名され、重要案件を任されることも多かった。
今回のサリオン王国との魔術協定も、その重要案件の一つだ。
国の利益を守るための交渉が求められている。
──だけど、無理は無理なんですよね……。
大量の書類が積みあがった机の前で、クレマンは魂まで吐き出すような深いため息をついた。
このままでは、仕事をしすぎて死んでしまう。他の局員に業務を分散させるといった抜本的な改革が必要なのだが、さすがにここまで余裕がなくなると、その指示をする時間すら惜しい。
寝不足で頭はボーッとするし、目もかすんできた。食欲もないから、ここ数日はまともに食べてもいない。
──だが、この先の三日間さえ乗り切れば……!
そろそろ、隣国の王子を中心とした使節団が、王城に到着したころだろう。
今夜の歓迎パーティで、クレマンは大規模な魔術イリュージョンを披露する予定になっていた。それで圧倒した後で交渉に臨めば、こちらにとっていい条件で魔術協定が締結できるはずだ。
しっかりと初回のここで、有利な協定を結んでおきたい。
──そのために……。
つらつらと考えていたクレマンだが、ふとどこかから呼びかけられた。
『今、そなたの願いを、ひとつ、かなえるとしたら?』
ひどく柔らかくて、さわやかな声だ。
耳で聞こえたのではなく、頭の中で響いたような感覚だった。
不思議とその声に警戒心はわかず、クレマンは本音を打ち明けていた。
「もう魔力を手放して、ゆっくり眠りたい」
それが、今のクレマンの偽らざる本心だった。
いくら国一番の魔術師であっても、眠くてたまらないし、そんな生活を十年も続けてきて、心身ともに疲労の限界だ。
デモンストレーション以外に魔術を披露することは、ここ数年していない。書類仕事ばかりだから、魔術の力がなくてもこなせるぐらいだ。
あまりの過労に全身が重だるく、頭痛に吐き気に食欲不振が続いていた。事情さえ許すのだったら、まずは温かいベッドに転がりこみ、思う存分眠りたい。
そんなクレマンの言葉に、声が答えた。
『その願いをかなえよう』
ふわっと、クレマンの全身が生暖かい空気で包みこまれた。途端に、全身にのしかかっていた重だるさが消える。
だが、次の瞬間、クレマンはハッと正気に戻った。
自分はいったい、誰と話をしていたのだろう。慌てて書類だらけの室内を振り返ったとき、目の端に何かが見えた。
ほんの一瞬だ。
瞬きする間に、それは空中でくるりと回転して消えてしまう。
銀色の毛をした、てのひらに乗るぐらいのリスのような生き物だった。つぶらな黒い目が可愛らしく、ふさふさの尻尾もあったような気がする。
──え?
クレマンはしばし、固まった。
動物は人語を解さない。それが、この世界の常識だ。
動物がしゃべっているように錯覚させる魔術を使うことは可能だが、ここは王城内の魔術禁止区域だ。
しかも魔術を使用した場合は、何らかの痕跡が残る。国一番の魔術師であるクレマンが、それを察知できないはずがない。
──今のって……。
直接頭に響いた声を思い起こす。知性と深みが感じられる、柔らかな声だった。
遠い伝承や、本の中でしか見聞きしたことがなかったが、あれは『世界のことわりが乱れるときに現れ、その危機から世界を救う』という瑞獣ではないだろうか。
──瑞獣がいきなり私の目の前に現れた? どうして?
瑞獣が現れるほどの世界の危機がこれから起きる。もしくは、起きている、ということなのだろうか。
その瑞獣に、自分が願ったことというのは──。
クレマンは焦りながら、軽く手を振ってみた。ここは魔術禁止区域だが、周囲を照らすぐらいの光球を作り出す魔術くらいなら、許可なしでも可能だ。その手順は、すでに身体が覚えている。
だが、光球は出現しない。原因は、体内にある魔力がごっそりと消えているせいだとわかる。
魔術を使う際には、そのエネルギー源となる魔力が必要となる。魔術師は常に魔力を体内に蓄えておく。そして、魔術師の身体を媒体とし、呪文として魔術式を唱えることで魔術は発動する。
だが、エネルギー源となる魔力が、今のクレマンにはない。
魔力がなければ、呪文を唱えたところで魔術は使えない。
クレマンの中には、いつでも無尽蔵に感じられるほどの魔力が蓄えられていたはずだ。その力によって、超人じみた書類仕事もこなせたというのに。
「何故だ」
うめくような声が漏れた。
だが、その答えはすでに頭の中にあった。
先ほど現れた瑞獣に願いを聞かれ、魔力を手放したい、と答えたからだ。瑞獣はその願いをかなえた。
だが、いざ魔力がないとなると、ひどい焦りと喪失感がクレマンに襲いかかった。
幼少期のときからこのかた、ひたすら魔術とともに生きてきたからだ。それなしで今後どうするのか、といった問いかけとともに、すぐそばに迫った具体的な危機に頭がいっぱいになる。
今夜、隣国の王子と使節団の歓迎パーティにおいて、クレマンは大規模な魔術イリュージョンを披露することになっていた。
そうすることによって、この後の魔術協定を有利に運ぶ算段なのだ。
なのに、クレマンから魔力が一切消えてしまったとしたら。
──代理。誰か、代理の者を……!
誰が適切かと考えてみたが、そもそも予定していた大規模イリュージョンはクレマン以外では魔術式が複雑すぎて使いこなせそうにない。どうにか似たようなものを披露できる局員もいるにはいるのだが、人手不足で出払っていた。それを急遽、呼び戻すとなると、もともとの任務の遂行に支障が出る。
──だとしたら、代替案は?
必死になって頭を働かせてみても、いい方法が思い浮かばない。
クレマンは呆然と、窓から王城の庭を眺めた。
まだ夕暮れ前であり、太陽の光は相変わらず暴力的だ。ギラギラとした光に照らし出された景色が、窓の外に広がっている。
クレマンがいるのは、王城の一角にある行政エリアの執務室だった。各エリアの間は高い壁で仕切られており、壁を挟んだ向こうには巨大な建物があり、そこには大広間、謁見室、会議室などの公共スペースがある。さらにその先には王族などが住まう城の居住スペースがあるというのだが、そこまでクレマンは踏みこんだことがないのでよくわからない。
執務室は庭に面していた。庭とは反対側に廊下があり、正式な移動や訪問には廊下側を使うのだが、城の構造に詳しい行政職員や使用人などが近道である庭を突っ切っていく姿をよく見かける。
エリア間を仕切る高い壁にはところどころに門があり、それ経由で行き来していた。
その高い壁には、埋めこまれた小さなアーチ型ドアが一カ所だけあった。だが、そのドアを使うことなく、三メートルはある高い壁の上をポーンと軽く飛び越えてきた人物がいた。
──え?
最初は、何かを見間違えたのかと思った。
だが、おそらくは女性だ。ドレスの裾が大きく開いたが、それを両手で上手に抱えこんで着地する。動きやすそうなドレス丈だが、陽を弾く布地の質の良さや心地良い開きかたからすれば、なかなかの仕立ての良さが感じられる。だが、それらを身につけられるはずの名家の令嬢が、壁を飛び越えたりするだろうか。
──くせ者か?
クレマンは思わず立ち上がった。
膨大な書類仕事に忙殺されてはいたものの、クレマンは国一番の魔術師であり、戦闘能力も高い。
城の中では滅多にその力を発揮することはないのだが、王城にくせ者が迷いこんだとあらば、捕縛するのはクレマンの役目だ。
だが、捕縛の魔術を繰り出そうと伸ばした腕に、まるで魔力が宿っていないことに気づいた。これでは魔術は発動しない。
そのことを自覚して、慌てて他の者を呼ぼうとしたその視界の先で、着地したばかりのドレス姿の令嬢が、庭にある巨大な岩に近づいていくのが見えた。
──何をするつもりだ?
思わず、その動きを追ってしまう。
それは王城の庭の中でも、一際大きな岩だ。横幅だけでも、大人が大きく手を開いた幅の五倍ぐらいあり、高さはその三倍はある。
彼女はひどく若く見えた。今は後ろ姿しか見えないが、蜂蜜色の髪は緩い編みこみにしており、そこに細いリボンや小花の飾りをちりばめている。ひどく可憐な姿だ。
ドレスは淡い桜色で、裾のほうに花の刺繍が散らされていた。
ウエストがきゅっと絞られており、ほっそりとした身体つきが強調されている。ドレスの袖は七分ぐらいだったので、動くたびに華奢な手首が見えた。
そんな姿だったから、彼女が巨大な岩の前に屈みこむ目的が、クレマンには全くわからない。
だが、目の前で彼女は、全身に力を入れてその岩を持ち上げていく。
その姿に、クレマンは驚愕した。
「……は?」
──何だこれは? 私は何を見ている?
彼女は巨大な岩を軽々と運び、壁の前にあったアーチ型のドアの前で巨岩を下ろした。そのとき、壁の向こうから悲痛な叫び声が、風に乗って聞こえてきた。
「姫さま! ファイエット姫さま……! どちらですか!」
「ファイエットさま!」
塀の向こうでは大勢の侍女や侍従が繰り出して、王女を探しているようだ。
クレマンは巨大な岩を下ろして満足そうにしている彼女の後ろ姿と、今まで聞いた噂話とを一致させた。ようやく合点がいった。
──これが、例のファイエット姫か。
今日やってきた隣国の王子の、見合い相手となる第二王女だ。
年齢は二十歳になったところ。愛らしくて見目が良いから、今までいろいろと近隣諸国との結婚話があったらしい。
毎回、いいところまで進むのだが、最後の最後で縁談は破綻する。それには、王女側に何らかの原因があるそうだ。その理由について、いろいろとクレマンたち官僚の間で憶測が流れていた。それらの何が真実なのか、クレマンには全くわからずにいたのだが。
その理由にようやく気づいた。
──とんでもない怪力だ。彼女を妻にして、機嫌を損ねたら、くびり殺されそう……。
結婚相手となる男は、生物的な恐怖を覚えるはずだ。
それくらい、目の前で発揮された怪力は圧倒的だった。
彼女は誰も壁を跳び越えられず、ドアを開くこともできないことを確認すると、くるりと壁に背を向けた。
それから、ドレスの裾を楽しげに翻しながら、クレマンのいる官僚の執務室が入った建物の前を走り抜けていく。
だが、そんな彼女を、クレマンは呼び止めずにはいられなかった。
彼女こそが、今のクレマンの窮地を救ってくれる相手だと、不意に気づいたからだ。
「もうしもうし! そこの美しい女性! 止まっていただけませんか……!」
そのような物言いが、城で要求を通すためには有効だということを、クレマンは十年にわたる官僚生活の中で習得している。
その声が聞こえたのか、まさにクレマンの執務室の窓の前を通過しようとしていた彼女は足を止め、数歩通り過ぎたところでくるりと振り返った。
桜色のドレスに包まれているのは、若くてすんなりとした肢体だ。
大きく澄んだ目はすみれ色で、顔立ちもとても愛らしい。目が合うと、屈託なく笑ってくれる。
「私のこと? 美しいって言った?」
近づいてくる動きは、子鹿のように軽やかだった。
王城の奥のほうから走ってきたせいか、頬が桜色に色づいている。卵形の輪郭は柔らかく、若さの中に大人の女性を思わせる色香が漂う。
まっすぐな鼻梁やふっくらとした唇も、何もかもがお世辞なしに美しかった。
ことさら印象的なのは、その瞳だ。未知のものに対する冒険心と好奇心にあふれている。
クレマンにとって、ひどくまぶしい姿だった。
執務室のすぐ外の庭に立った彼女に応じるべく、クレマンも窓際に移動した。
窓越しに、慎重に話しかけてみる。
先ほどは過労のあまり、瑞獣相手にろくでもない発言をしてしまった。
だが、二度と同じ失敗はしない。クレマンは切れ者で知られている。
「美しいお嬢様。どうか、この魔術師を助けてはいただけないでしょうか」
その訴えに、彼女は大きく目を見開いた。
──この人って、宮廷魔術使いのクレマンよね!
ファイエットは相手を凝視した。
王城の一角にあるこのエリアには、高級官僚が職務のために使う建物がいくつも建っている。
王城内に自分の個室をもらうのは、高級官僚にとっての夢だと聞いたことがあった。
この建物には等間隔に並んだ窓とドアがあり、それぞれが官僚の個室らしいが、ファイエットの感覚からすればどの部屋もとても狭い。のぞきこんでみても、その狭い空間には本棚や書類棚が所狭しと並んでいるばかりで、何も面白くなかった。
最初に好奇心を満たした後は、近づくことすらなかったエリアなのだけれど。
──ここに、国一番の魔術師がいるとは知らなかったわ。
興味津々で、室内を眺める。
窓枠がまるで絵画の額縁に見えるほど、中にいる彼は魅力的だった。
彼の肩の下まで流れ落ちているまっすぐな髪は、見るたびに絶妙に輝きを変える。その髪には、金とも銀ともつかない神秘的な色彩が宿っていた。
何よりドキドキするのは、その輝く瞳と目が合うことだ。
国一番の魔術師だと知っているからこそ、その目に魂まで見透かされそうで少し怖いけれど、にっこりと微笑まれると、その瞳の鋭さが和らぐのがたまらない。
だが、どこかうさんくささまで感じ取ったのは、その笑みに何らかの意図が含まれているからだろう。
口元は笑っているくせに、頭では冷静に何かを計算しているような。
それでも助力を求められたら、無下に断ることができないのがファイエットだ。
「私に助けて欲しいって言った?」
ファイエットは腰に手を当てて、窓から室内に呼びかける。
その怪力ゆえに、あらゆる力仕事を気さくに手伝ってきた。
男性が数人がかりで運ぶような木材の運搬や、倒壊した家屋の撤去。その下敷きになってしまった人々の救出。
第二王女であるファイエットがする仕事ではないと、何度も父である国王に呼び出されては、口をすっぱくして注意された。現場でも恐縮されるので、最近では顔や身分を知られていない場所でないと、あまり手伝えない。
それでも、自分にできることなら何でも手伝いたい。自分のこの怪力は、人々の役に立つために与えられた気がするからだ。
のぞきこんだ魔術師の執務室は、他のどの部屋よりも書類に埋もれていた。どこから部屋に入りこんでいいのかもわからない。書類のタワーで部屋が薄暗くなっているほどで、アリの巣のようにも見えた。
驚きながら室内をまじまじと眺めていると、魔術師は窓の横にあった縦長のドアを開いて、中と外の境目に立った。にこやかに話しかけてくる。
「あなたに手伝って欲しいのです。ちょっとややこしい話になりますので、中に入って、少しご相談願えませんか。私はクレマン・ウィルソン。魔術政策局の、局長代理で──」
「ええ、知ってるわ、クレマン。この国一番の魔術師!」
ファイエットは満面の笑みとともに答えた。
この国でクレマンのことを知らない人は、おそらくいないだろう。僻地で起きた大きな魔力嵐から、人々を救った英雄だ。
このカルバレン王国には、大陸のどの国よりも魔脈が通っていると言われている。
魔脈は魔力の供給源であり、大きなメリットがあるのだが、その流れが何らかの事情で滞ることがあるらしい。
そうなるとそこに過剰な魔力の吹きだまりが形成され、それが何らかのタイミングで爆発的に解消されたときに発生するのが、魔力嵐だ。
「あなたが鎮めた魔力嵐は、とんでもない大きさだったんですってね! 家々が吹き飛ばされ、空には巨大な竜巻が何本も発生して、稲妻が同時に百本落ちるほどだったとか! その嵐の中心に、たった一人で踏みこんで収束させたのが、十四歳だったあなたよ、クレマン」
『あなたのことは、よく知っているわ』
『その幼いころの活躍について、私も大いに感謝している』
そんな思いをこめて言ってみたのだが、クレマンは軽く肩をすくめただけだった。そのあっさりとした態度に拍子抜けしたが、今のような褒めそやしは耳にタコができるほど聞かされてきたのかもしれない。
それでも、苦笑を柔らかな笑みに変えて、ファイエットを室内に招き入れてくれる。
庭のアーチ型のドアは岩で封鎖したとはいえ、いつ侍女や侍従たちが自分を追ってくるのかわからない状況だ。ここの一室に入りこんだら、侍女たちも気づかないに違いない。
そう思ったファイエットは、これ幸いと室内に入りこんだ。
壁は本棚と書類棚に埋めつくされ、そこには魔術の本や書類がびっしりと詰めこまれている。書類や本は棚に入りきらず、床のあちこちに積まれているほどだった。
部屋の中央にある机は立派な黒檀製だったが、その上にも書類がうずたかく積まれている。
その黒檀の机を挟んで向かいに置かれた来客用らしき椅子が、どうにかファイエットが身を落ち着かせることができる唯一の場所らしい。
「そちらに」
クレマンがまさにその椅子をすすめてくれたので、ファイエットは素直に座った。
窓から自分の姿が見えてしまうかもと気にしていると、クレマンが立ち上がって、日よけの木製のシャッターを下ろしてくれる。
これで、侍女たちに見つかることはない。
「私を呼んだのは、この部屋の大量の書類を運びたいとか、そういうご相談?」
この部屋は書類が多すぎる。どうにかしたい気になっても、不思議ではない。
「いえ。そうではなく──」
クレマンは黒檀の机を挟んだ反対側にある自分の椅子に座り、憂わしげにそっと指先を組み合わせた。
そんな姿に、ファイエットはキラキラと目を輝かせる。何故なら、ファイエットのみならず、この国の多くの女性にとって、国一番の魔術師は憧れの存在だったからだ。
そのことを魔術政策局は何より理解していて、何か人々に周知させたいことがあるときには必ずクレマンを表に出してきた。
先日は王城内での魔術の使用制限について、魔術政策局主催の説明会があった。
貴族たちを対象にした会や、使用人たちを対象にした会など、いくつかの部門に分かれていたが、そのどの会も満員御礼で、入りきれない人々が廊下にあふれるほどだった。
もちろん、人々の目当てはクレマンだ。
国一番の魔術師であり、若くて眉目秀麗でもある。
彼はその長身に黒い魔術師ローブを身につけ、魔術を利用して壁に映し出した写し絵や文字を、手にした短い杖で指し示しながら説明していった。
戯れに繰り出してくれる魔術イリュージョンも相まって、見とれずにはいられなかった。
だから、ファイエットも都合がつくかぎり、せっせとそれらの講演会に足を運んだ。そんな女性が多かったから、講演会は毎回満席だったのだろう。もちろん王女の身分は明かすことなく、さり気なく人々に混じって、遠くからクレマンを見つめていた。
彼の指先から流れだす魔力は、黄金の砂のようだった。キラキラとまばゆく、その落ち着いた声の響きとも相まって、ファイエットを魅了した。
その憧れのクレマンが、目の前にいるのだ。
どうしても、じーっと見つめてしまう。
──だけど、何かが変だわ。
講演会のときのクレマンは、キラキラとした黄金の光で満たされていた。彼が何もせずとも、魔力がその身体から光となってあふれ出していた。だけど、今、目の前にいるクレマンはやけにくすんで見える。
魔力を持つ人々の姿は、ファイエットの目には少し色彩を帯びて見えた。中でもクレマンは特別キラキラしていたのに、今のクレマンは魔力を持たない普通の人のようだ。
それが不思議でますますじっと観察していると、クレマンは首を傾げた。
「何か?」
「え? いえ。何でもないのよ」
慌てて、ファイエットは両手を振った。
魔力の含有量が色彩で見えるというのは、とても珍しい例のようだ。だが、ファイエットには魔術は使えない。
そんな自分が、魔力について語るのはおこがましく感じられた。
そんなファイエットを、今度はクレマンのほうが注視してきた。
涼やかで鋭い目にのぞきこまれるだけで、ファイエットは緊張する。甘く響く声をかけられるのも。
「ファイエット姫。先ほど、大岩を持ち上げて移動させたところを目撃いたしましたが」
──きゃっ……!
反射的に飛び上がる。
これは叱られる前兆だと察したからだ。