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かつて一夜を共にした異国の皇子様の執愛から逃れられません 1

第一話


 アデルは窓からさしこむまぶしい西日のせいで目を覚ました。
(晴れてる……? 雨……、やっと、あがったのね……)
 見慣れない部屋で、馴染まない紫煙の香りに包まれている。
 ハッと気づいて隣を見やると、激しい通り雨のあいだじゅう抱き合っていた男は、アデルではなくシーツを抱えて穏やかな寝息をたてていた。
 ――まだ、彼に起きられては困る。
 アデルは裸のままそっと寝台から抜け出し、急いでカーテンを閉めた。寝台を照らしていたオレンジ色の光は遮られ、部屋は心地よい薄暗さを取り戻す。
 気怠い身体を引きずって、アデルはそのまま静かに着替えを始めた。
 床に脱ぎ捨てられた下着と、抜け殻になっていた外出着のドレスをひろって、ため息をつく。
 いつもなら侍女に任せる着替えも、今ばかりは自分一人で身につけなくてはいけない。
 さいわいこの宿には小さな姿見があったので、なんとか自力でコルセットを締め直してドレスを着ることができた。
 ――早く、早く。彼が目を覚まさないうちに。
 シルクのガーターリボンは焦るアデルをからかうみたいに震える指をすり抜ける。
 苦労して結び直し、ブーツの編み上げ紐を締め、アデルは最後にもう一度、鏡で自分の姿を確認した。
(このキスマークが、最悪だわ)
 鏡に映る自分が、青い瞳を細め、ぐっと眉を寄せて不快感をあらわにした。
 下着(ビスチェ)でふっくら押し上げられた胸の谷間に散る赤い痕。
 癖のない銀色の髪を手ぐしで整え、なるべく胸元に集めてなんとかごまかす。
 屋敷に帰ったら、すぐに着替えよう。
 そうしないと、いつまでたっても思い出してしまう。
 この赤い痕が、ベッドで眠っている男にどのようにしてつけられたのかを。さんざん彼を受け入れた下腹部はまだ甘く疼いている。
 背後でぎしりと寝台が鳴って、アデルは薄暗い部屋を振り返った。
 寝返りをした男は――フェイロンはまだ、シーツを抱いて眠っている。
 最後に目に焼き付けようと思ったわけでもないのに、彼の寝顔から目が離せなくなる。
 見惚れるほどに長い睫毛が縁取る、切れ長の一重。
 すっきりとした鼻梁と薄い唇。細く三つ編みに編んだ長い黒髪は、裸の背中からベッド下にまで垂れている。
 寝顔ですら息を呑むほどに端整なのだから、彼が目を覚ましたら大変なことになってしまう。
 あの神秘的な黒い瞳に見つめられるだけで。
 低くて甘い声で名前を呼ばれるだけで。
 アデルは忘れようと努めた恋に、もう一度、落ちてしまうところだった。
(でも今度こそは……私から、彼を捨てるんだ)
 アデルは強く唇を引き結び、眠るフェイロンから無理やり視線を引き剥がした。
(少しは傷つくかしら。五年前の、私みたいに)
 眠る彼の名前を呼ぶことはしない。
 それはもう、アデルの人生に必要のない音だからだ。
(私の初恋。これで、終わりにするんだ)
 滲んだ視界を、手の甲で一度だけぬぐう。
 顔を上げたときに、まるきり別人のようになれたらいいのに。
 長い長い雨があがるように。
 窓の外の夕日が沈んで新しい朝が来るように、アデルの心も生まれ変わればいい。
(……さようなら)
 アデルは足音をたてないよう慎重に部屋を横切り、数時間滞在しただけの宿の扉を静かに閉めた。


 ◇ ◇ ◇


 ――今日も、また雨。
 執務室の窓を叩く雨音を煩わしく思いながら、アデルは黙々と羽根ペンを動かし書類にサインをし続けた。
 フレイル王国の辺境クラランテ領では、社交シーズンの始まる春季に入ってから二か月ものあいだ、例年以上の大雨が降り続いている。
 長雨は作物を枯らし、交易の足を鈍らせる。
 そのため領主名代を務めるクラランテ伯爵令嬢アデルは、社交もそこそこに、領民たちから届く山積みの嘆願書に目を通しては領内を奔走する日々を過ごしていた。
 妙齢の女性の過ごし方としてはふさわしくないけど、社交を断るのにこれ以上の口実はない。多忙であればあるほど雑念も消える。アデル本人はそんな日常に満足していた。
「アデルお嬢様、お手紙が届いておりますよ」
 執務机に向かっていたアデルは羽根ペンの動きを止め、入室した老執事をじっとり睨みつけた。
「アンバー? いつも言っているけど、今は私がクラランテ領主名代よ。お嬢様ではなく、旦那様とお呼びなさいな」
 長年仕えてきた老執事は、そんな彼女のことをまぶしいものでも見るかのように目を細めて笑顔をつくる。
「私にとってお嬢様はいつまでもお嬢様でございますゆえ」
「んもう。……それは、絵葉書?」
 差し出された銀盆からカードを手に取る。
 触れた紙がしっとりと湿気を含んでいるように感じるのは、降りしきる雨の中、今まさに屋敷に届いたばかりということだろうか。
 アデルは裏へ表へとカードをひっくり返して眺めた。
「旅先のお父様から、ではないのよね?」
「ええ、こちら、差出人の書かれていないカードでございます。以前は定期的に送られてきましたが……三か月ぶりでしょうか、このようなものが届くのは」
「いいえ。六か月よ、アンバー」
「おやおや、時がたつのは早い。どうりで私も年をとるはずです」
「これ、不思議なイラストね……川……いいえ、滝かしら?」
「こちらはきっと、隣国ペイスンの大水車でございましょう。私も実物を見たことはございませんが、旦那様が……クラランテ伯爵が、外交官としてペイスンを訪れたときの話をお聞きしたことがございます」
「お父様が? ふぅん……。大水車かぁ……。涼しげでいいわね」
 切り取られた外国の風景に気を取られたのは一瞬。
 アデルはそっと絵葉書を机に置くと「さぁ、次にサインをしなくてはいけない書類はなに?」と、机に山積みの決済待ち書類を前に姿勢を正した。
 アデル・クラランテといえば、フレイル王国の外交官であるクラランテ伯爵の一人娘で、多国語を話すことができる聡明で美しい令嬢として社交界で評判だった。
 冷たい月光色の髪色をしたアデルのことを、フレイルの銀花とか、月から下った真珠姫なんて呼ぶ者もいたぐらい。
 そのアデルはいまや二十三歳、独身。ちょっと引きこもり。
 女と花の盛りは短いと戯曲にも謳われているとおり、今のアデルときたら、父親の代わりに領地を切り盛りしたがる変わり者として貴族や領民たちから面白がられているに違いなかった。
 そもそもクラランテ家といえば外交官の父を筆頭に、慣習に縛られない変わり者ぞろいとして社交界で有名な一家だ。
 アデルの近況を聞いた友人たちが「アデルは普通のレディでいるのが窮屈なのよね」と納得してしまうのもそういう理由があるからだ。
 自分の性分を言い当てられていい気はしないけれど、こうして執務机に向かっていると、たしかに彼女らの言うとおりだと実感してしまう。
(領民を想って行動する生活のほうが、伯爵令嬢として過ごす日常より、ずっと楽しいのよね……自分でも意外だったけど)
 パーティに行けばアデルの訪問に喜んでくれる人はたくさんいた。けれど、アデル自身は特別に人付き合いが上手だったわけではない。
 その証拠に、独り身で領主名代として忙しくしているアデルを気遣ってくれる友人は片手で足りるほどしかいない。それを寂しいと思うひまもないのがちょうどいい。
 今のアデルは人付き合いよりも、自分自身を育てることでいっぱいいっぱいなのだ。
 もっと知りたい。調べないといけない。
 寝ても覚めても、アデルの頭は知識を求めてめまぐるしく働いている。
 領主名代として過ごす今なら、父が周辺諸国から有望な若者を招いてクラランテ家の食客にしていた理由がわかる。
 社交界は、この国は、アデルの知識欲の前には窮屈なのだ。
(でも、こんなことを考えるようになった原因の大半は、きっと、あの人のせいだわ……)
 アデルは机に置いたままにしていた届いたばかりの絵葉書をちらりと見やった。
 異国の風景。しぶきを上げる大水車。
 回る歯車の軋む音が聞こえてきそうな躍動感のあるイラストだ。
(かっこいい。……そのうち、この長雨があがったら、見に行ってみたいな……)
 アデルの私室の引き出しにはこのほかにも、一面の花畑や、汽車や蒸気船といった最新の乗り物や、フレイル王国では見ることのできないものたちが描かれた絵葉書が何十枚と保管されている。
 そのどれにも差出人の名前はない。
 けれど送り主はきっと『彼』だろうと、アデルだけはわかっているつもりだった。
 
 ***

 

 伯爵家の一人娘とはいえ、蝶よ花よと育てられた自覚はなかった。
 両親は幼少期から世界中を飛び回る忙しい人たちで、その代わり、帰国して屋敷に滞在する短い期間に、アデルにたくさんの『外』の話をしてくれた。だから自分の知的好奇心は、二人の影響が大きいと思っている。
 父は貴族らしくないと称されるほど鷹揚な性格で、かつ未踏の地も船旅も楽しむことのできる健脚家だった。おまけに娘から見ても美丈夫である。
 とくに父が社交界を賑わしていた理由は、そうした見目や性格だけではない。領内に国内外の若い才人を食客として住まわせていることも一因だった。
 父は外交官として異国を訪れた際に、各国から若く訳ありな才人を男女問わず招いた。それは文化を尊ぶフレイル王国の貴族としての慈善事業であり、父個人の趣味でもあったのだとアデルは思っている。
 普通、食客たちはアデルを主人の娘として気を遣い、褒めそやしたり、はたまた恭しく距離を取ったりするものだった。アデルのほうから彼らに近づくと、謙遜しつつもその知識を披露してくれる。アデルにとって食客の彼らは知的好奇心と、ちょっとした寂しさをまぎらわせてくれる良き友人たちだった。
 けれど、彼――フェイロンだけは、違った。
 フェイロンと出会ったのは、アデルが十七歳のころの話だ。
 あの日のことは思い出せる。鮮明に、鮮烈に焼き付いた記憶。
 あれが、自覚のない初恋の始まりの日だった。
「アデル。紹介するよ。新しいお客だ。どうだい、綺麗な衣装だろう? 東大陸の民族衣装だよ」
 父が連れてきた青年に、アデルはすっかり魅入られた。
 東国の色彩はフレイルではめったに見ることができない。美しい衣装はもちろんだが、青年の容姿に惚れ惚れしていた。
 東国の伝統衣装を纏った、長身の青年。
 青年の、まるで女性のように伸ばしたぬばたまの黒髪は見事で、じつは絹糸なのだと言われても納得するほどの艶をたたえていた。前髪を長く伸ばし耳にかけていて、肌の白さが際立って見えた。
 細めの眉、高く細い鼻梁。体温の低そうなすっきり整った容貌は、フレイルでは稀な顔立ちだ。漆黒の長い睫毛に彩られた瞳は、さながら黒曜石のように見える。彼の持つ美しさゆえの気品は、アデルでなくても好ましいと思うだろう。
 けれども彼は、そういった周囲からの好奇の視線をすべて無視しているようだった。目の前のアデルと一切視線を合わせようともしない。
 青年はクラランテの屋敷を案内されているときも、切れ長のまなざしで鋭く、静かに周囲を見回していた。長身のせいか、なにもかもを見下ろしているようにも見える。
 薄墨で描いたような繊細な睫毛が眠たげに何度も瞬きを繰り返すのを、アデルはあきれと感心をこめてじっと見ていた。
 我が家に来てこんな無粋な反応をするなんて妙な人だ。
(こういう人、興味がそそられるわ。仮面をかぶっているのか、それとも素なのかしら)
 当時のアデルは若さゆえに怖いもの知らずで、矜持が高く、自信家でもあった。
 だからこの青年と仲良くなって、その本性を暴いてみたいと思ったのだ。
 フレイルの銀花とか月の真珠姫などと呼ばれた自分であるから、面と向かって話してみれば邪険にはされまい。そう思って、後日わざわざ自分からフェイロンを探し出して、話しかけたのだった。
 見つけるのに苦労した。彼は、中庭の木陰に横たわっていた。
 父から初めて紹介されたときより簡素な、でもフレイルでは見慣れない長袍を着ている。袖の幅が広くて指先まで覆ってしまうほど長い。それを顔に被せて日差しを遮り、昼寝中のようだ。
 アデルの影が青年を覆う。気配を察したのか、彼は袖をどけた。
「ごきげんよう。それとも、おはようございますがふさわしいかしら?」
 にっこり、ふんわり、優しい声音でゆっくり丁寧に言葉を紡ぐ。
「私はアデル・クラランテと申します。遠いところからお越しいただいたのですよね。どうかいろいろと故郷のお話を聞かせてくださいな。私、みなさんからお話を聞くのが大好きなんです」
 今までこうやって微笑み声をかければ、嫌がる者などいなかった。異国の地で心細く思う者たちに、アデルの声はよく届くのだ。きっと彼も態度を軟化させるに違いない。
 そう思ったけれど、身を起こした青年の表情の乏しさや無関心な視線は変わらなかった。
「あなたに聞かせることなど、なにも持ち得ておりません。どうぞ僕のことは空気と思って、金輪際話しかけないでください。『お嬢様』」
「は……?」
 この青年がしゃべったのは完璧なフレイル語だ。けれどなにを言われたのか、アデルは理解することができなかった。
「どういうこと?」
「おや、失礼。伝わりませんでしたか」
 青年はあっさりと言い放った。
「つまり子どもの相手はごめんだ、と申しました。それでは」
 立ち上がったと思えば、すたすたと歩いていく。しばらく青年の後ろ姿を呆然と眺めることしかできなかった。
「ま、ま、待って、お待ちなさいってば!」
 我に返って追いかける。アデルのことをこんなふうに雑に扱う者なんて、今まで一人もいなかった。だから反応が遅れてしまった。
「名乗りもなさらないなんて。なんとお呼びすればいいの? 我が家に居候なさるのですから、家族のようなものでしょう? 挨拶くらい許してほしいわ」
「……家族?」
 足を止めた青年は、言葉の意味を計りかねるといったふうに表情を歪めた。
「そうよ、家族。同じ屋根の下で暮らすんだもの。いえ、ほとんどのみなさんは別邸に暮らしているけれど」
 追いつき、息を整える。本心だ。アデルは国境を越えてやってきたどんな食客たちのことも尊敬し、親しみを持っていた。
 アデルの幼少期から両親は忙しくて、ゆったりとした家族団らんの時間は少なかった。だからアデルは、食客の彼らと過ごす時間に家族らしさを感じていたのだ。いずれ別れるからこそ、ひとときの会話を楽しみたい。家族と同様に、大切にしたい時間だった。
「……空気を家族と思うのですか。変わったお嬢様ですね」
 青年はにやりと口の端を上げた。ほんのわずかな変化だが、笑ったのだとわかる。
 声色からもいくらか棘が消えたように思えた。彼はこうやって笑うのか。
「それはあなたのほうよ。だって……だって」
 皮肉屋っぽい物言いといい、アデルのまわりにはいないタイプの人間だ。
 彼はクラランテ家の客人で、アデルはその家の娘なのに。邪険にしても、得などないのに。
 喉まで出かかった言葉を呑み込む。居候だとか立場とか、彼はまったく関心がないのだろうか。
「――フェイロン、とお呼びいただければ」
 彼は長身を折って、慇懃に頭を下げた。顔には笑みを貼りつけて、じっとアデルを見たまま。期待に応えたのだから、これ以上近づいてくれるな、という線引きに思えた。
(フェイロン。不思議な響きの名前……でもそれ以上に、変わり者ね)
 今まで出会ってきた人となにかが違う。距離を取ろうとしているけれど、ただ傷つけようとしているようには思えない。だって彼は、最後にはちゃんと名乗ってくれた。
 じゃあ、いったいどうしてこんなにアデルを嫌がるのだろう。
 その答えが知りたくなってしまって、フェイロンのことをますます気にするようになった。
 
 ***

 

 一週間、一か月と過ぎても。
 本邸に住んでいるはずのフェイロンとはめったに顔を合わせることはできなかった。
 たまに廊下で後ろ姿を見つける。けれどアデルが話しかけようとすると、ふいっとどこかに消えてしまうのだ。自分の家なのに見つけられないなんて、懐かない猫を探しているみたい。
 避けられているとわかっているのに、気になる。どうやったらフェイロンを懐柔できるのだろう。せめてもう少し彼のことを知れたらいいのに。
 そう考えていたある日、図書室で一人きりで本を読みふけるフェイロンの姿を見つけた。
 夕方、西日の残照で薄暗くなりつつある時刻だった。
(んもう、探した! こんなところにいたのね。フェイロンは本が好きなのかしら?)
 明かりを灯しに来た使用人を「しーっ」と制して、手ずから燭台を受け取る。
 アデルは、読書の邪魔をされるのが大っ嫌いだ。フェイロンもそうかもしれない。今は集中させておいてあげたかった。
 燭台を、彼の机の上にそっと置く。フェイロンは次のページをめくった。
(すごい集中力……、私がそばに寄っても、わからないなんて)
 彼が読んでいるのは、社会学の分厚い本だ。もちろん、フレイル語で書かれている。
 彼の向かいの席をそっと引いた。きぃっと椅子が小さく音をたてる。
 その瞬間、フェイロンははっと顔を上げた。ひどく驚かせてしまったみたいだ。
 とても悪いことをしてしまった気がして、アデルは「ごめんなさい」と小さくつぶやいた。
「邪魔をしないようにと気をつけたんだけど……」
「いえ、べつに」
 フェイロンは彼の隣に詰んである本の山の一番上に、読んでいた本を重ねた。
 今日は、このすべてに目を通したのかもしれない。
「すごいのね、あなたって。速読っていうのかしら。次々にページをめくるんだもの。驚いちゃった」
「まぁ……どれも読み応えがあるものばかりでした」
 味気ない返事をするフェイロンとは違って、アデルは静かに興奮していた。
 ――やっぱり。彼も本が好きなんだ!
 我が家にはたくさんの本があるのに、ずっと本棚に収まっているばかりでもったいないと思っていたのだ。アデルやほかの食客たちも少しは読むけれど、量はたかが知れている。この本たちは新たな利用者に巡り合えて、喜んでいるに違いない。
「私にもそんな特技があったらいいのにな。一章読むと疲れてしまって、しばらく頭を休ませないといけないの。甘いお菓子なんかを食べると、もう少し頑張れるんだけど」
「……甘い物は理にかなっていますよ。糖分は、脳が働くための源ですから」
 フェイロンは自分のこめかみを指でとんと突いた。
 アデルは目をぱちくりとさせて、フェイロンの顔をじっと見た。今、彼が返事をした。「はぁ」とか「どうも」ではなく、会話をした。
 このチャンスを逃したくない! アデルは目を輝かせた。
「そうなのね。じゃあ、今度から机にクッキーでも用意しようかしら」
「良いのでは。フレイルの民は、焼き菓子を好むようですし。酪農の国でもあるからでしょうかねぇ。ここでは良質なバターが安価で手に入る」
 フェイロンの声は静かだ。アデルの父のように快活ではないけれど、耳に優しい響きをしている。こんな夕暮れ時に聞くのに、ちょうど良い落ち着きのある声。
「ですが、軽食は嗜好品だけでなく栄養価の高いもの……果物や乳製品などがよろしいかと。お嬢様は、成長期でもありますから」
「もう十七よ。成長期だなんて」
「おや。それは失礼。もう少し幼いものとばかり」
 アデルはぐっと唇を引き結んだ。家の外では、誰しもがアデルをレディとして扱うのに、彼は子どもだと思っていたようだ。
「フェイロンこそいくつなの? 東国の人って、どうにも見た目じゃ年齢がわからないと感じるの」
「知りたいので?」
「言いたくないなら聞かないけれど」
「……二十二ですが。なにか?」
「いいえ。そうなの」
 ふぅん、とアデルは返事をした。五つも年上だったとは。
 改めて言われると、急にフェイロンが大人っぽく見えるから不思議だった。アデルの目に淡泊な反応に見えていたものが、じつは大人らしい洗練されたものに思えてくる。
 アデルにはきょうだいがいないので、本物の兄がどのようであるかは想像するばかりだ。けれど、少なくともフェイロンに自分の兄役は務まらないだろう。
 だって本当のお兄様ならきっと、もっともっと妹に優しくする。アデルだってフェイロンを兄がわりにしたいとは思っていないし。
 こうして彼と話しているのは、彼自身の経歴や、彼の持つ知識に興味があるから。それ以上の理由なんてない。
「そういえば、その本ね。私もついこのあいだ、やっと読み終わったところなの。難しくて、まだうまく要約できないんだけど……フェイロンも領地経営に興味があるの?」
「いや……そういうわけでは……ただ、なんとなく目についただけで」
「目についたからって、他言語の専門書を読もうとするなんて、やっぱりすごいと思う。東の大陸にはあなたみたいな優秀な人材がたくさんいるのかしら」
 同じ分野を語り合える仲間ができればうれしい。アデルの期待のまなざしを、フェイロンは眉を寄せて躱そうとした。でも、そうはさせない。今日のこの場を逃したくなかった。
 もっと彼と話してみたい。どんなことを隠し持っているんだろう。アデルはわくわくとフェイロンの返答を待った。
 フェイロンは軽くため息をついた。
「……間接税制度について学びたいのですか」
「そう! 税収制度に興味があるの」
 アデルが前のめりになっているあいだに、彼は積みあがった本の山から迷いなく一冊を引き抜いて、アデルの前に差し出した。
「僕もまだ目を通していないのですが、この著者が分野の第一人者であると、大学の講義で聞きました」
「あなた、大学に通っているの? フレイルの大学に? いつのまに」
「お父上の取り計らいですよ。気ままに、気の向くときの外出まで助けられています。クラランテ伯爵には、どれだけ感謝してもしきれません」
「そう。……でもあなた、お父様に感謝はしても、私とは話したくないんでしょう?」
「ああ、空気と思えと言ったことを根に持っていらっしゃるので?」
 たぶん今、笑った。吐息の感じでわかった。フェイロンの表情は大きくは変わらないけれど、アデルが視線をやってもそらされなかった。
「そりゃあ、伯爵への感謝の念と、その娘さんへの対応はまったく別問題ですから。ですが――」
 椅子から立ち上がったフェイロンは、伏せた目でアデルを流し見た。一瞬だけ視線が合う。値踏みされているような気がして、自然と背筋が伸びた。
「――あなたは勉強の邪魔にはならなさそうなので、人目のないところで話すのはかまいませんよ」
「いいの?」
 アデルもぱっと立ち上がった。すすめられた本を胸に抱いて、先に図書室を出た彼の後ろ姿を追う。
 どうしてこんなに気分が高揚するのだろう。どうせ邪険にされるだろうと予想していたから? ちょっとした勝負に、勝った感じがしたから?
 小走りになって、フェイロンに追いついた。彼は少しこちらに身体を傾けた。長い黒髪がさらさらと彼の肩を滑る。
「人の気配があれば、話しませんよ。お嬢様をたぶらかす馬の骨だなどと噂されたくありませんから」
「そんなこと……。でも、わかった。気をつけるわ」
 今は周囲に人はいない。大丈夫だ。周囲を確認するアデルを見て、フェイロンは目を細めて口の端を上げた。
 どきっとする。
 フェイロンの笑みは生徒を褒める教師のようでもあり、企みを思いついた悪い大人のようでもある。底が知れないせいで、もっとその深淵を覗き込みたくなるような……。こういうのを、男の色香というのだろうか。
 アデルの語彙で彼を表現するのは難しい。そう思わされる、稀有な存在だった。
 それからというもの、アデルは日常的にフェイロンを探しては話しかけに行った。
 フェイロンは、アデルが自ら会いに行かないと会えない。大学に行っている時間もあるだろうけれど、彼と会えるのはもっぱら屋敷の図書室か、午後の中庭の木陰が多い。
 そのあたりで分厚い歴史書を読みふけっていたかと思えば、食事どきになっても食堂に来ず、言語学の本を読んでいたりする。数学や科学、占学にも興味があるらしかった。こういう人を本の虫と呼ぶのだろう。
 アデルも本は好きだ。本はアデルを知らない世界へ連れて行ってくれる。
 フェイロンにとっても、そういうものなのかしら、と考える。
 でも、彼は新しい本を手にしても、うれしそうだったり目を輝かせたりすることはほとんどない。文字を追う彼の目は真剣で、なにかに追い立てられているようですらあった。食客で異国から学びに来た身なのだから、当然なのかもしれないけど。
 ――この人が心から楽しそうにするのは、どんなときだろう。
 そんなことを考えるようになった自分に、アデルは気づかないふりをした。自分がもっと難しい本を読めれば。彼と同じ目線で言葉を交わせたなら。そのときフェイロンが、ほんの少しでも面白そうにしてくれたらいいのに。
 そう思うと、アデルはますます熱心に勉強に励んだ。