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策士な宰相閣下は笑わない侍女を絶対に手放さない 1

第一話


 その屋敷は、貴族の邸宅が建ち並ぶ一画にあり、一際大きく立派だった。
 養父と一緒に屋敷の主人である侯爵に挨拶をしたあと、九歳のセシリアは広く美しい庭園を一人で散歩していた。
 大人たちには大事な話があるらしく、子供なんて邪魔だったのだ。
 セシリアは孤児で、最近エルムズ子爵家の養女となったばかりだ。子爵家の屋敷も立派で驚いたのだが、侯爵家の豪華さはそれを遥かに超えていた。
 庭園には美しい花々が咲き誇っている。どこかに妖精が暮らしていてもおかしくないと思えるほど華やかだった。
 養父から聞かされていた「この国の宰相を務める侯爵閣下」という人物がどれほど偉いのか、その素晴らしさで察することができた。
 九歳のセシリアは、レンガの敷き詰められた道の上でダンスをするようにくるくると回った。
 流行病で両親を失って約一年。『間者』になるために子爵家に引き取られてから、いいことばかりで浮かれていたのだ。
 空腹に苦しむことはなく、毎日お菓子も食べられる。
 可愛らしいワンピースにピカピカの靴、自慢のプラチナブロンドの髪は大きめのリボンで飾られている。
 養父からは、間者になる前に痩せた身体をどうにかする必要があるのだと聞かされていた。訓練が始まっても、食事もお菓子もずっと今のように食べられるのだという。
 だから、セシリアはこれから始まるはずの訓練を精一杯やろうと思っていた。
 そして今日訪れたのは、お城のような屋敷に鮮やかな花が咲き誇る庭園だ。
(まるで、お姫様になったみたい……!)
 庭園の中央には丸い屋根のガゼボがある。
 白い柱の隙間からそこで身を休めている人影が見えた。その人物は籐の椅子にもたれ、一輪の花を手に取り弄んでいた。
 艶のある黒い髪をしている人だ。瞳の色は横からではよくわからない。すっと通った鼻梁の、王子様のような人物だった。
 その横顔がなぜか寂しそうに思えたセシリアは、大声で呼びかけた。
「こんにちは!」
 セシリアは子供で、自身の身分を正しく理解していなかった。
 その人物は、屋敷の住人――つまり、侯爵家の人間ということになる。まだ貴族としての礼儀作法を教わっていなかったセシリアには、目上の人物の邪魔をしたら無礼だ、という発想がない。
 人に会ったら挨拶をする、それがセシリアの当たり前だった。
「ごきげんよう。客人の子かな?」
 青年が正面を向く。愁いを帯びていた横顔が嘘のように消え去り、一瞬驚いたあとに口もとが緩んだ。彼の瞳は、深く透き通るグリーンだ。
「はい! お義父様と一緒に来ました」
「そうなんだ? おいで、いいものをあげよう」
 青年が手招きをする。セシリアは素直にその言葉に従った。
 彼のいるガゼボの中央には、小さなテーブルがある。
 その上に十本以上のガーベラの花が無造作に置かれていた。
 ハサミや白いレースのリボン、それに切り落とした葉もごちゃごちゃと散らかっている。
 セシリアがテーブルの上の惨状に目を奪われていると、カチャリと音を立てて青年がなにかを差し出した。
 蓋付きのガラスケースに入っていたのは、どれも一口大の大きさの色とりどりのお菓子だった。
「ギモーヴ、キャンディ……それにチョコレートも!」
「好きなだけどうぞ?」
 セシリアはさっそく、好物のチョコレートを手に取った。
「ありがとうございます! いただきます」
 青年はゆったりと椅子に腰をかけたまま、柔らかい笑みを向けた。
 親しみのある表情に安堵して、セシリアはチョコレートを口の中に放り込み、ゆっくりと味わう。
 チョコレートは子爵家の養女になってから初めて食べて、大のお気に入りだった。
 セシリアが美味しそうに食べていると、青年が「もっとどうぞ」と次のお菓子を勧めてくれた。
 素直なセシリアは、空いている椅子に腰を下ろし、ギモーヴとキャンディ、そして再びチョコレートのおかわりをもらう。
「そのお花は、どうするのですか?」
 満足したところで、セシリアは先ほどから気になっていたことを彼にたずねた。
「リボンで束ねようとしたけれど、なかなか上手くいかなくてね。不器用なんだ」
「それなら、私がやってあげる」
 お菓子をもらったことへのお礼になると考えて、はりきる。
 青年は軽く頷いて、許可をくれた。
 まずは花を同じ向きに並べ、ふんわりとドーム状になるように一つ一つの高さを調整する。それから白いリボンでしっかりと束ねた。蝶々結びの余った部分をカットすれば、花束の完成だ。
「器用だね……。君はいくつ?」
「九歳です」
 セシリアは、答えてからその花束を青年に差し出した。
「うん、よくできている。……それは、君にあげるよ」
 彼は完成した花束を受け取ってはくれなかった。
「綺麗だったから切ってしまったんだけど、贈りたい子にはふさわしくない花だった。……花がかわいそうだから君が持って帰ってくれると助かる」
「私に、くださるのですか?」
「そうしてくれると私としてはありがたい。君には……とてもよく似合うよ」
 そのときのセシリアは、まだ子供で、王子様のような青年から花をもらったことを、無邪気に喜んだ。
 ただし、綺麗なグリーンの瞳にはどこか陰がある気がしていた。

 それから数年――。

 セシリアは貴族の養女として、間者として、様々なことを学んでいった。
 難しい本が読めるようになり、国内の有力者の名前を教わる。
 貴族屋敷の場所や家系図も暗記させられた。
 そこでセシリアは、王子様のようなあの青年の名と花言葉の意味を初めて知った。
 彼は宰相を務める侯爵の一人息子、ライナス・リドルフィという人物だ。

 ライナスがくれたガーベラの花言葉は『希望』。

 そんな素敵な意味を持つ花が似合わない人は誰だろうか。しばらく考えて、故人に贈るものだったと思い至る。
 彼と出会ったあの日よりも一年ほど前、流行病で多くの人が亡くなった。
 セシリアの本当の家族も、ライナスの家族も……。
 彼は母と妹を亡くしていて、妹はセシリアと同世代だった。
 ライナスはおそらく、未来のない故人にはふさわしくない花だと気がついて、花束にするのをやめてしまったのだろう。
 亡くなった妹と同世代のセシリアが、無邪気に笑い美味しそうにお菓子を頬張る様子を、どんな心情で眺めていたのだろうか。
 気持ちのいいものではなかったはずだ。
 青年は不要品を処分したかっただけで、セシリアに花を贈ったのは偶然そこにいたからだ。
 それでもセシリアは、時々青年とガーベラの花を思い出す。
 侯爵邸を訪れた直後から始まった一人前の間者になるための訓練は、幼い少女が想像もできないほど過酷なものだった。
 子爵家の令嬢としての教養や戦う術を身につけることも、それまで庶民として暮らしてきたセシリアにとっては苦労が多かった。
 そして、もっとも過酷だったのが、何事にも動じない、強い精神力を養う訓練だった。
 素直なセシリアは、その部分の適性に欠けていたのだ。
 あるときは、残酷な光景を見続けることを強要された。
 またあるときは、一歩間違えば死に至るような、極限状態を経験させられた。
 心に強い刺激を与え、それを繰り返すことで、強制的に耐性をつけさせられたのだ。
 つらくて心を見失いそうになったとき、くたくたになって倒れ込んだとき、セシリアの瞼の裏に鮮やかな花が浮かんだ。
 青年にとっては、いらない花だったのかもしれない。それでもあのガーベラはセシリアの心を励まし、確かに希望をくれた。


    ◆ ◆ ◆


 王宮の図書館。大きな書架の陰で、男たちが密談をしている。
(私はただ、本を探しているだけ。あの人たちが勝手に話を始めた……それだけ)
 十八歳のセシリア・エルムズは衣擦れの音を立てないように注意をしながら、聞こえてくる声に集中した。
「……明後日、伯爵邸で」
「ではそのときにあれをいただけるのか?」
「もちろん、商会にはそう言ってあります」
 一字一句間違えず、完璧に記憶する。
 あとで間者や暗殺者を束ねる〝暗部〟の長である養父に、ありのままを報告するだけがセシリアの仕事だ。「あれ」とはなんなのか、「商会」とはどこの商会か、推測するのは別の者の仕事だった。
 セシリアにできることは少ない。けれどこれは間違いなくソールテア国のためになる重要な仕事だった。
 やがて密談を終えた二人の足音が遠ざかり、バタンと木製の扉が閉まる音を最後に、静寂が訪れた。
「帰らなくては……」
 セシリアは子爵家の養女で、行儀見習いとして王妃付きの侍女をしている。
 今日は王妃から、私室に置くための本をいくつか借りてくるように言われ、この場所にやってきたのだ。
 立ち聞きをしたのはそのついでだった。
 王宮では多くの義兄たちが様々な身分で働いている。
 標的を監視しているのはセシリアだけではなかった。
 だから無理をせず、怪しまれない範囲で、暗部の仕事をしていればいい。
 たまたま訪れた図書室で、彼らに出会えたのは幸運だった。
 けれど、そろそろ戻らなければ、王妃や同僚たちが不審に思うかもしれない。
 セシリアは侍女としての目的である本選びを手早く行い、王妃の私室に戻った。
「セシリア。随分ゆっくりでしたね?」
 本を書架に収めていると、王妃から声をかけられた。
 セシリアは作業の手を止めて、あくまで冷静に振り返る。
「申し訳ございません、王妃陛下。本選びに夢中になってしまったようです」
 セシリアの本来の役割を知っているのは、国王と義父、義兄たちなど限られた者だけだ。
 なにも知らない、心優しい王妃に、遅くなった本当の理由は明かせなかった。
「いいのよ。……あなたの選んでくれた本はとても面白いですから。……戻ってきたばかりで申し訳ないのだけれど、また頼まれてくれるかしら?」
 王妃は封蝋のされた手紙と何枚かの書類を手にしていた。
「かしこまりました。どちらに参りましょうか?」
「宰相ライナス・リドルフィ殿のところまでです。わたくしの今後の予定や主催する茶会について、いろいろと調整しなければならないの」
 彼の名前を聞き、セシリアはほんの少し動揺してしまった。
 けれど顔には出さない。そういうふうに教育されているからだ。
 書類を受け取ろうと手を伸ばすと、「宰相」という言葉に反応した二人の侍女が割って入った。
「王妃陛下! それならぜひわたくしが」
「なにをおっしゃるの? わたくしのほうが適任ですわ」
「いけません。リドルフィ殿は忙しい方なのですから、お騒がせしてはなりませんよ」
 王妃は四十代、セシリアやほかの侍女たちの母親くらいの年齢だ。若い娘たちの小さなわがままを笑顔で受け流した。
「まぁ! 王妃陛下。わたくし、そのようなことはいたしませんわ。宰相閣下にお目にかかれるだけで、その日一日幸せな気持ちで過ごせますのに」
 侍女の一人は、心外だと可愛らしく口を尖らせる。
 若き宰相ライナス・リドルフィは、すらりとした長身、整った顔立ちに爽やかな立ち居振る舞い――と、美点を並べたら尽きることのない、令嬢たちのあこがれだ。
 二年前に前宰相だった父親が急逝したあと、彼がその地位を引き継ぐかたちとなった。
 親の力だけで今の身分を手にしたわけではない。年上の重鎮たちと対等に渡り合い、多くの者が彼の実力を認めている。
 令嬢たちが、彼と会話をする機会をほしがるのは当然だ。
「ほらほら、もうすぐ陛下とのお茶の時間です。二人にはそちらのお手伝いをお願いするわ」
 仲のよい国王夫妻は、お茶の時間を夫婦で楽しむことが日課となっている。
「かしこまりました」
 王妃から仕事を与えられた二人の侍女は、まだ納得できないという様子だが、言葉では主人に従った。
「少し曇っているけれど、温室がいいわ。セシリアもお使いが終わったらそちらにお願いね?」
「はい」
 まずは急いで本を王妃の書架に並べ、それから書類と手紙を抱える。
 王妃が姿を消したところで、侍女の一人がセシリアをにらんだ。
「無愛想もたまには得をするのね? 見習いたいとは思わないけれど」
 きっと彼女は、反論も肯定も求めていない。
 どんな反応をしても彼女の機嫌はそのままだ。
 そう判断したセシリアは、淡々と使いに行く支度を続けた。
「本当に人形みたい! 感情がないのかしら? ちょっと美人だからって調子にのらないで」
 最善の選択をしたはずが、なぜか同僚の怒りを買ってしまう。
 確かにセシリアはプラチナブロンドの髪に青い瞳を持つ、美しい娘だった。
 なにせ、容姿が整っていることが子爵家の養女になった理由なのだから、それも当然だ。
 昔のセシリアは、喜怒哀楽がわかりやすい素直な子供だった。
 他者に感情を読ませないように訓練をしているうちに、いつの間にかこうなってしまったのだ。
 義兄たち――ほかの間者は陽気に笑う者が多い。
 感情を隠す方法としては、無表情よりも、別の感情を表に出すほうが有効だ。
 それに、人の心を掴む技術も本来なら必要となってくる。そういう点で、セシリアはまだまだ半人前の落ちこぼれだった。
 王宮内を歩き、長い回廊を進む。
 目的地に近づくにつれてつい、これから会う予定のライナスについて考えてしまう。
 現在二十九歳の彼は、二年前に宰相の地位に就いた。
 職務が忙しいためか、特定の恋人がいるという噂はない。
 彼は、とにかく女性に優しい。
 無愛想なセシリアにまでドキリとするようなことを言う。
 そして彼は、セシリアやエルムズ子爵家の裏側を知っている数少ない人物だ。
 セシリアが子爵の実子ではない事実も、その役割もきちんと把握している。
 それでもほかの令嬢と変わらない態度で接する変わった人だ。
 誰にでも優しいということと、女たらしであるということはとても似ていた。
 彼は、多くの女性に期待させ、落胆させているのだ。
 セシリアも同じだった。
 九年前、ガーベラの花を贈ってくれた思い出は、今でも心の片隅にある。
 彼にとってはすべての女性に対し、息を吸うように当たり前にする行動の一つなのだろう。実際、彼は花を贈った少女のことなど、とっくに忘れているはずだ。
 自分にとっての大切な思い出が、相手にはすぐに忘れる日常のほんの一瞬というのは、随分と寂しいものだ。
 だからセシリアにとってライナスは、気になるのと同時に苦手な相手だった。
 複雑な想いを抱きながら、決して顔に出さないまま、宰相の執務室にたどり着く。そして許可を得てから静かに扉を開いた。
「失礼いたします」
「これは侍女殿、よく来たね」
 宰相の執務室へ入ると、正面の机の奥にほほえむライナスがいた。
 窓から差し込む優しい光に照らされて、気怠げに黒髪をかき上げる仕草は、上品で色気がある。同僚の侍女が「お目にかかれるだけで、その日一日幸せな気持ち」と言ったのも、頷ける話だ。
 ライナスから少し離れた部屋の隅には、セシリアの養父バージル・エルムズ子爵の姿もあった。
 バージルの王宮内での身分は、高位の文官で、宰相を補佐する次官という立場だ。
 一見温和な紳士という印象の彼は、娘の訪問を笑顔で出迎えた。
 バージルほど見た目と内面が違う人間はいないだろう。次官としての彼は、平凡で人柄のよさだけが取り柄ということになっている。
 しかし実際は、ソールテア国の暗部の長であり、常に冷静で情け容赦のない男だ。
 暗部は国王の直轄組織となっており、その部分に関しては宰相ライナスですら、思いどおりにはならない。
 セシリアはまず、二人に向かって挨拶をする。
「王妃陛下の使いで参りました、セシリア・エルムズでございます。宰相閣下におかれましては、ご機嫌麗しゅう――」
「ちょ、ちょっと! 君は会った人全員に毎回そんな堅苦しい挨拶をするの?」
 教わった作法どおりに挨拶をしていると、すべて言い終わる前に、ライナスが口を挟む。
「はい。職務であればそのようにいたします」
 ここには彼と養父しかいないのだから、かしこまる必要はないのだと、ライナスは言いたいのだろう。
 セシリアとしては、バージルはともかくライナスとは時々顔を合わせる程度で、特別親しい間柄ではないという認識だった。だからこそ、作法どおりの挨拶をすべき相手だ。
 それに、彼の甘い言葉を真に受けて、得をすることはないと考えている。気になるかどうかと、関わりたいかどうかは別だった。
「まぁ、いいや。それは王妃陛下から?」
「はい」
 執務机に近寄り、預かった書類を彼の前に差し出す。
 ライナスはすぐにペラペラと紙の束をめくり、さっそく中身を確認していく。
「……春の茶会、舞踏会……と。忙しないね」
 大きなため息がこぼれる。
 王妃は浪費家ではないのだが、社交に熱心だった。
 招く範囲を広げがちな王妃と、むしろ少なくしたいと考えているライナスは、度々意見の相違でぶつかる。
 歴史の長いソールテア国には、王宮内で催されるいくつかの行事がある。
 多くの貴族が、春の茶会や王宮の舞踏会に招待されることを望んでいるはずだった。
 規模を大きくすれば予算がかかり、財政が苦しくなる。予算を惜しめば貴族たちから不満が出て、王家の権威を損なう結果にも繋がる。
 平穏を好む国王夫妻と若き宰相という現体制は、油断すると臣から侮られやすい。
 王妃の希望を聞き、国の有力者を満足させ、予算を抑える――調整役には苦労が絶えないようだ。
「ありがとう、確かにお預かりした。……どうかな? 侍女殿はもう王宮での仕事には慣れたかい?」
「至らぬ身ですが、日々学ばせていただいております」
 セシリアが淡々と答えると、ライナスは苦笑いを浮かべる。
 さらに、二人のやり取りを黙って聞いていたバージルが口を挟んできた。
「まったくうちの娘ときたら、愛想笑いの一つもできぬのだから、親としては心配でなりません」
 彼の言葉も、表情も、完全に「年頃の娘を心配する親」だった。
「それが魅力なのかもしれないよ。……でも、侍女殿はいつもそうやって数多のお誘いや求婚を冷たく断っているらしいね?」
「覚えがございません」
「ハハッ。セシリアをあまりいじめないでやってください、閣下。愛嬌のない未熟者だからこそ、王妃陛下のお近くで礼儀作法を学ばせているところなのですから」
 また、バージルが娘を庇う発言をする。
 確かに、無愛想でも美しい顔立ちをしているセシリアに、いくつかの縁談がもたらされているという。
 それらを断っているのはセシリアではなくバージルだ。
 もちろん、もったいぶっているわけでもなければ、本当に未熟者の成長を見守っているわけでもない。
 セシリアはおそらく、長期に亘って暗部が監視するべき人物に対する駒として使われるのだろう。
 いずれは王家に敵対する可能性がある者の愛人になるか、子爵家の養女という立場を利用して妻となるか。そんな未来が待っているはずだ。
(きっと宰相閣下もご存じでしょうに……。お人が悪いわ)
 王宮で行儀見習いをしているのも、結婚相手としての価値を高める目的があるのだ。
「そうだ。来週から面白そうな歌劇が始まるらしいから、一緒に観に行かないか?」
「歌劇……なぜでしょうか?」
「一度君の笑った顔を見てみたくてね? 喜劇だからきっと楽しいと思うよ」
「とくに興味がありません」
 ライナスはよくセシリアにかまう。
 けれどセシリアは、彼が異性として自分に関心があるなどと、勘違いするほどおめでたい性格をしていない。
 甘い言葉に流されないセシリアをからかっているのか、それとも間者という存在に興味があるのか、そのどちらかだ。
 前宰相の時代、国王の直轄である暗部は、比較的宰相の意に添う働きをしていた。
 国王が温厚で積極的に意志を示す人物ではないため、ほぼ全権が前宰相にあったと言っても過言ではない。
 間者になるために子爵家の養女となった九年前、セシリアが前宰相に挨拶をしたのもそのためだ。
 現在暗部は、宰相としてのライナスの手腕を認めつつ、独立性を保つ方針でいる。
 宰相の交代を機に「国王直轄組織で、王命のみで動く」という建前を復活させたのだ。
 ライナスからすれば、若輩であることを理由に、ないがしろにされているとしか思えないだろう。
 上司と部下、そしてその娘という表の役割で会話をしつつ、それぞれの真意は別にある。
 セシリアには二人の意図のすべてを察することはできないが、執務室の空気が淀んでいるのは感じていた。
「宰相閣下、親の前でセシリアを口説くのはやめていただけませんか?」
「すまない。今度はエルムズ卿のいないところで誘うことにする」
 もう誘わない、という選択肢はないのだとライナスはおどけてみせた。これ以上ここに留まっても、セシリアが得をすることなどなかった。
「それでは宰相閣下、お義父様、私はこれで失礼をいたします。両陛下のお茶の時間ですから」
「もうそんな時間か? ありがとう侍女殿。今度は用がなくてもここへおいで」
 最後の言葉は無視をして、セシリアは礼をしてから彼らに背を向ける。
「閣下……ですから、おやめくださいと」
 バージルはあくまで、温和な部下のままだ。仕事上、毎日のように顔を合わせる二人は、きっと誰よりも喜劇を演じるのが上手いのだろう。