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嘘告白(誤解)以来険悪な幼なじみの騎士に褒賞として嫁がされました 1

第一話

 


 父から突然聞かされた衝撃の「朗報」に、ミレイアは絶句した。
「エルドラフ辺境伯騎士団の第一隊長……の褒賞に、私を……?」
「おう、なかなかいい話だろう」
 しかし、父は鷹揚に頷いてみせる。年を取っても全く衰えぬ髪は、エルドラフ辺境伯家に代々伝わる蜜色。同じく年齢以上の力強さを放つ瞳は、青みがかった灰色。顔立ちはミレイアと似ていないが、その二つの色は同じだ。
 隣の母も嬉しそうに微笑んだ。
「先日の宴でお会いしたけれど、とても素敵な青年だったわよ。今時あんなに硬派な方も珍しいし、いいんじゃないかしら?」
 ミレイアの顔立ちは、実は母親譲りだ。ミレイアの性格がどちらかと言わずとも強いほうなので「似ていない」と言われがちだが、はっきりとした目鼻立ちしかり、若い頃の肖像画はミレイアに瓜二つである。
 そんなミレイアは、国内屈指の上位貴族たる辺境伯家の、一人娘だ。
 エルドラフ辺境伯領は国の東端に位置し、なおかつ魔獣の巣窟に隣接する。魔獣というのは、この大陸に溢れる魔力を糧に永遠に生まれ続ける存在で、主に日没後に活動する。国内で最も早く日が沈むこの領地は、闇夜に蠢く魔獣の危機に晒され続けてきた。
 ミレイアは、向かいに座る父と母の向こう側に見える窓の、さらにその奥へ視線を送る。領主館を起点に東へと延びる市街地には、商人の家から露天商、そして平民の家が並んでいる。城壁にぐるりと囲まれたこの都市の東端、城門手前にあるのがエルドラフ辺境伯騎士団。父・エルドラフ辺境伯が抱え、この領地を守護する騎士団だ。
 その騎士団なくしては、辺境伯領の発展どころか安寧すらない。一方で、魔獣は獰猛な獣をさらに凶悪にしたようなもので、討伐には常に死の危険を伴う。それにもかかわらず、騎士団に所属する騎士達は、都市外へと見回りに出、魔獣を退治する。身を賭して戦い、この辺境伯領を守ってくれる彼らに対し、ミレイアは少ないどころでない感謝の念を抱いていた。
 ただ、それとこれとは別だ。
「……褒賞というのは、先日の巨大魔獣の件ですよね」
「おお、そうだ。お前、よく知ってるじゃないか」
 基本的に、魔獣が都市に出現することはない。しかし時折、例えば城壁がもろく崩れてしまった部分から、あるいは魔獣自ら突進して破壊した部分から、侵入されることがある。後者のように知恵のある魔獣は、基本的には体も大きく、危険性が高い。
 ところが、先日、この都市に巨大魔獣が侵入してきた。人を丸呑みできそうなほど巨大な口を持つ、二頭狼型の魔獣だった。その異形が城門の衛兵を食い散らかして飛び込んできて、でも皆何が起こったのか理解できなくて、しかしやがて状況を察した後の、阿鼻叫喚の図といったら。思い出したくもないほど凄惨な光景だった。
 その強敵を見事討伐したのが、騎士団第一隊長だ。彼は自らの三倍はあろうかという体高にも怯まず、自らの脚より太い牙を跳ね除け、自らを押し潰さんとする足を斬り捨て、見事、その心臓に剣を突き立て一撃のもとに葬った。
 領主館にいた父は、その様子を現認してはいない。しかし、まるでその目で見たかのように感心しつつ、一方で悲惨さを胸に刻んだ真剣な面持ちで顎鬚を撫でた。
「城門の衛兵に、近くに住んでいた領民、たまたま外から帰ってきたばかりの者、逆に旅してきた者……真昼間のことだったからな、色んな者がいたもんだ」
 魔獣の活動時間帯は、基本的には夕方から夜明けまでだ。もちろん、時間外に活動する魔獣もいるが、人々の油断という意味では夜間と日中で全く違う。
「しかも、そりゃあとんでもなく巨大な魔獣だった。死骸が、こうしてな、道を丸ごと占領しとった」
 聞くだけでも悍(おぞ)ましさに襲われ、ミレイアは父の手元から視線を背けた。幼い頃、魔獣の群れに襲われて以来、その絵を見るだけでも泣き出してしまいそうなくらい魔獣が怖いのだ。
「あれがこの領地を踏み荒らしたらどうなっとったか。向こう十年か、それ以上立ち直れんかったかもしれん」
 辺境伯領主たる父は、領民を守る義務を負う。それはつまり、領民のために領地を発展させていかねばならないということだ。
 たまに、貴族は領民にばかり働かせて甘い汁を吸うだけだと勘違いしている者もいるが、そうではない。領民が働きやすくなるよう、働いた成果をより多く得られるよう、尽力するのが領主だ。父は頭の固いところもあるが、念頭には常に「領民のために領地を発展させる」という信条がある。
 わからずや、と思うこともあるし、融通が利かないこともあるけれど、例えば魔獣の侵襲を受けて真っ先に領民を案じたところなどを、ミレイアは尊敬していた。
 辺境伯騎士団だってそうだ。そもそも、魔獣が現れるようになったのは、ほんの百数十年前のこと。魔獣討伐のための騎士団が初めて編成されたのは、たった数十年前だ。
 貴族の中には、「有志」などと言って魔獣の侵襲の度に平民を引っ立てて鋤や鍬で戦わせようとする者もいるが、父は騎士団を作った。騎士には食事を提供し、宿舎まで与えた。もちろん、その費用は辺境伯家持ちだ。魔獣の脅威が多い土地とはいえ、その待遇に惹かれて辺境伯騎士団入りを希望する者も多い。雨風と飢えを凌げる生活に救われた者、そして騎士の活躍により救われた者がどれだけいるか。
 そうだとしても……。渋い顔のミレイアなど意にも介さず、父はどこか誇らしげな表情になって顎を撫でた。
「その魔獣を、第一隊長は一突きで葬った。なんと勇敢な偉丈夫か」
 分かる。そこまでは分かる。ミレイアだって、この領地を守ってくれたことに感謝している。
 で、だ。
「その第一隊長と結婚するんだ、結構なことじゃないか」
 なんと父は、気を良くするあまり、その騎士に「我が娘と結婚させてやろう」ととんでもないことを言ってのけたというのだ。
 本人の意志はガン無視、それどころかまるで悪びれることのない父に、ミレイアは再度言葉を失った。
 何が恐ろしいって、この父親は、“悪い”なんて、心底思っていないのだ。父は、自分がいいと判断した男との結婚が“悪い”はずがないと心底信じている。
 ミレイアは、父のことを辺境伯として非常に立派で優秀だと思っている。
 だからって、その“自らの決定こそが正である”主義を、私の婚姻にまで押し付けないでよ!
 ミレイアは頭を抱えた。父の決定には、幼い頃から散々振り回されてきた。その度に文句も言いつつ、父に従えないとは何事かと叱られて、結局は従うしかなかった。最終的には納得したことも多い。しかし今回ばかりは頷けない。
「あのねえ、お父様。結婚なのよ、結婚! 人生の一大事、葬儀の次に大事なイベントと言っても過言ではないわ! それを私の意志確認もせずに決めるって、一体どういうことよ!?」
「そんなことを言って、お前はいつまで経っても結婚できんじゃないか」
 まったく、やれやれ。父はそんな様子で、母と顔を見合わせて頷き合う。
「いくら縁談を持ってきても、あれはだめ、これはだめ、文句ばかりだ。そうこう言っているうちに十八歳も過ぎた、もうよかろう。それに、件の騎士からの条件にぴったりだった」
「なによ条件って」
「見どころがあるのに結婚をしてないと言うからな、どんな娘がいいか聞いてみた」
 少し同情する状況だ。魔獣討伐を果たし、祝いの宴席で雇い主たる辺境伯に好みを訊ねられるなんて。
「すると、魔力量の多い女が好みだということでな」
 ただ、その同情はにわかに吹き飛んだ。
 あの魔力量を手に入れれば、家の格も上がるってもんだ――幼い頃に知った自分の価値が、今再び耳元で囁かれる。
 ミレイアは、国内屈指の上流貴族たる辺境伯家の一人娘だから。結婚すれば、必然家格は上がるというもの。そして魔力量だけは血筋で決まる。魔力量は、貴族にとっては大事な箔づけだ。
 刃物で心臓を抉られるような痛みが走る。しかし、幼いミレイアの傷など知らぬ父は明るい表情だ。
「それならお前がちょうどいいと思ってな。年はお前と同じだ、まあもう少し落ち着いた年齢がよかろうと思うが、贅沢は言うまい。その年で婚約してないとなれば、少なからず事情があるからな」
「……私にだって事情があるわよ」
「なんの事情があるというんだ。それに、ソイツも『謹んでお受けします』と頭を下げたぞ」
「頭を下げるに決まってんでしょ、辺境伯が娘と結婚しろって言ってるんだから!」
 ミレイアはそれ以上説明する気も起きなかった。父は本当にこういうところがある。辺境伯として非常に優秀で、人の言葉の裏を読むのも長けているはず。だが、なぜかどうも娘のことになると思考を支える柱がなくなったかのようだ。なお原因はもちろん、愛娘可愛さゆえである。
 その愛娘の結婚を、「巨大魔獣を討伐した気骨ある若者」というだけでえいやで決めてしまうなんて。そりゃ、父に振り回されることには慣れていた。でもまさか結婚までとは……。
 父は軽く膝を叩き、「何も困ることはなかろう」とまるで決定事項のような口ぶりだ。いや決定事項なのだが。
「昨晩騎士団に出向いたが、悪くない青年だったぞ。愛想が悪いのはいかんな、宮殿で出世するタイプじゃない。しかし騎士だからよかろう」
「……別に出世しない人だったらイヤだとかそういうこと言ってるんじゃなくて。……例えば、ほら、私にこっそり恋人でもいたらどうするつもりだったのよ」
「なんだ、そんなものがいたのか」
「いないけど! いたらどうするのって言ってるの!」
「いないなら何をそう喚くことがある。向こうの家も、そりゃあ是非にという話だった」
 だから、ミレイアの意志をガン無視しているのが問題なのであって。……そしてその第一隊長というのが、問題なのであって。
「……その騎士って」
 ミレイアは絞り出すような声で訊ねた。
「……どんな人?」
「まあ立派な、なかなかいい青年だ。愛想は悪いがな、髪と目の色が少々暗いせいかもしれんな」
「……名前は?」
「カイル・クローヴェルだ。家も悪くない、クローヴェル伯爵家は今は力を持たんが旧家であるし、次男坊で家を継ぐ必要もない。言っとらんかったか」
 頭には、甲高い声で喚く幼い少年の、ミレイアを指さして嘲る顔が浮かんだ。
 ミレイアはぎゅっと拳を握りしめる。
「……言ってないわよ」

***

 ミレイアは、十五歳を過ぎたあたりから、繰り返し同じ夢を見る。夢の風景はその都度違うけれど、登場人物はいつも同じだ。
 宵闇より暗い色の髪に、同じ色の瞳。ミレイアに会うとき、彼はいつも得意げな顔をしていた。
『見てろよ、ミレイア。お前なんかより、俺のほうが強いんだからな』
 夢の中のカイルは最後に会った十二歳の姿のままだ。でも夢の中では違和感を覚えず、カイルを見る度に顔をしかめる自分がいる。
『そんなこと言って、どうせ私のほうが上手にできるに決まってるわ』
 カイルとは、常に魔力の強さを競っている。実際、現実でも、カイルと競い合うことはよくあった。貴族は、十歳で“魔力選定の儀”を終えると、事あるごとに魔力を魔術として披露し合うのだ。
 夢の中では、いつも王都の正教会にいる。古ぼけたレンガ造りの建物と、綺麗に刈られた庭と、等間隔の植樹を見て、ああ、正教会にいるんだ、と思う。カイルは「見てろよ」と呟いて、手のひらを地面に向ける。パンッと空気が弾けるような音がして、転がっていた小枝が跳ね上がる。
『どうだ、ミレイア』
『あら、そんな、まどろっこしい』
 ミレイアも同じように手を広げる。ボンッと弾ける音が響き、小枝も枯葉も燃え盛る炎に包まれる。得意顔で見ると、カイルは不満そうに口を尖らせていた。しかしすぐに挑戦的な笑みを浮かべる。
『おいミレイア、お前、そんなんじゃ嫁の貰い手がないだろ。俺が婚約してやるよ』
 その告白に心臓が高鳴る。でもすぐに思い出す。
 駄目だ。夢の中であるはずなのに、心臓が早鐘を打つ。ここで頷いたら傷つく。裏切られる。だってカイルのこれは――。
『いいわよ、してあげても』
 それなのに、夢の中の自分は何も考えずに口走る。
 途端、カイルの顔が変わる。目は下向きの三日月状に、口はその逆向きの三日月状に。
『バッカみてえ、お前みたいに可愛くない女と結婚なんて、するわけないだろ』
 はっと気付いたときはもう遅い。カイルの笑い声が響き、それがやがて幾重にも重なって反響する。
『辺境伯令嬢って価値しかないくせに』
『でもお前と結婚すればその魔力が手に入るんだもんな。やっぱり結婚してやってもいいぜ』
『本気にして、バッカみてえ』
 耳を塞いで、その場に屈み込む。髪の毛先は地面に触れ、そこには水たまりもあって、泥水に汚れてしまったけれど構わなかった。
 嫌い。大嫌い。
 好きだったのに――。

 は、と目を開けた瞬間、夢だったと気付いた。
 天蓋を見つめながら、まだ夢うつつで昔のことを思い出す。
「……カイルと結婚なんて、いうから」
 衝撃の「朗報」から一日。もうしばらく見ていなかった夢なのに、また思い出してしまった。
 カイルとは、十歳のとき、王都にて、貴族の子女が集う“魔力選定の儀”で出会った。
“魔力選定の儀”は、貴族が持つ魔力量を測定するための儀式だ。魔力というのはこの地を創造した女神により人々に分け与えられた力で生活や産業の基盤の燃料に当たる。人が魔力を持つ場合、水や炎を操る力に転じさせることができる。貴族は労働とは無縁であるが、有事の際に力を持つことは重要であるし、魔力量それ自体が箔とされている。
 ミレイアの魔力量は、同い年の子達の中で群を抜いていた。もともと、ミレイアの祖父・先代辺境伯は、辺境にエルドラフありと言わしめた豪傑だったのだ。
 だから、魔力選定の儀以降、次々と縁談が舞い込んだ。より取り見取りの縁談を前に、父母はいつも最適な相手を考えて頭を悩ませていた。そのときの両親はこう言った。
『いいか、ミレイア。お前は辺境伯家の、大事な大事な一人娘だ。やがてこの辺境伯家の当主となる』
『女当主になる貴女は、他の誰よりもいい人と結婚して、子を産んで、そしていつかはお父様に代わってこの領地を治めていくのよ』
 物心ついたときから、何度も何度も聞かされてきたこと。分かってます、とその度に返事をした。
 でも、こればかりは、分かっていられない。気分を変えるため、まだ早朝ながら、ミレイアは起き上がった。音で気付いた侍女に身形も整えてもらい、最低限の付き人だけ連れて、そっと屋敷を出た。
 澄んだ空気を吸い込んだ後で、眼前に広がる街並みを見つめる。辺境伯家の屋敷からまっすぐに延びたこの大通りの、その果てに城門がある。各領地のうち、領主の屋敷を含み、塀に囲まれた一帯を、一般に都市と呼ぶ。ミレイアが生活するのは、もっぱらこの都市内だ。
 辺境伯領の都市内は、治安も非常に良い。朝から元気よく立ち並ぶ露天商を歩いて眺めていたミレイアは、ふとその中に、見知った姿を見つけた。
「アロシャ?」
 いつもの愛称を口にすると、露天商を熱心に覗き込んでいた若草色の頭が持ち上がる。辺境伯家お抱えの薬師・アロージアだ。髪は肩のあたりでバッサリ切られていて、その長身も相俟って、一見すると男女の区別がつかない。しかし丸眼鏡の向こう側には、睫毛までくるんと上向いた可愛らしい目がある。大きな目は、ミレイアを見るとパッと輝いた。
「ミレイア! 久しぶりね」
 彼女の父親はミレイアにとって叔父であり、つまりアロージアは従姉にあたる。家を継がなかった叔父は、辺境伯家の薬師として働き、そしてアロージアは最近、父親の名代として働くようになった。幼い頃からよく遊んでもらっていたこともあり、ミレイアにとってのアロージアは、従姉というよりはほとんど姉に近い。
「それにしても、朝が早いのねえ」
「こっちの台詞よ。って、材料の調達かしら?」
「ええ、朝の露天商には掘り出し物があるわよ」
 アロージアは眼鏡の奥でうっとりと目を細める。アロージア曰く、本業は薬を作ることであって、売ることではない、とのことだ。失敗もあれど、あれやこれやと新たな材料を見つけては、これまたあれこれと調合するのが好きらしい。
 相変わらずねえ、と浮いた話もない従姉を温かい目で眺めていると、そのアロージアが「そういえば」と別の明るい顔になった。
「ミレイアは結婚が決まったんでしょう? 本当におめでとう」
 げっ――と、途端にミレイアの気分は下がる。しかし、アロージアは気付かないようだ。
「ミレイアってばいつ結婚するのかしらって、ずっとやきもきしてたの。器量が良いのに、縁談は突っぱねてばかりだったでしょう? あ、婚姻の儀で使うお香は、腕によりをかけて調合するから。楽しみにしてて」
 アロージアは、その物理的な力を見せつけるように腕を掲げてみせた。お香は、元は薬としても用いられていたので、薬師が売っていることがよくある。
 その毒気のない、心からの祝いの笑みと言葉を向けられると、苦笑いを浮かべることはできなかった。そうでなくとも、従姉とはいえ、アロージアは一領民。領民の前で、辺境伯令嬢が愚痴や不満を零すことなどできない。
「……ええ、ありがとう。大好きなアロシャのお香でお祝いしてもらえるなんて、私、とても幸せだわ」
「私の香でミレイアを幸せにできるのなら、こんな嬉しいことはないわ。父だって、伯父様には感謝しなさいってよく言ってるのよ」
 貴族で家督を継ぐのは長子のみだ。では長子以外がどうなるかといえば、領地の一部を事実上割譲してもらうか、自ら商売でもするかの二択になる。前者の場合、究極的な領地の管理権は領主に帰属している上に、先細りすることが見えているため、大半は領地を譲り受けた上で商売などを始める道を選ぶ。だから貴族は兄弟間の争いも多い。
 ただ、父と叔父は非常に兄弟仲がいい。だから父は、自分が家督を継ぐ際に、領地の一部を割譲するのみならず、基盤を整えた後の商売を譲った。叔父は酒を飲みに来ると「兄上のお陰で、うちも辺境伯の系譜に恥じない裕福な暮らしができている」とよく話している。
「それに、魔獣の被害も少ないでしょう? 人が多いのに治安も良くて、薬売りもやりやすいわ」
「そう言ってもらえると嬉しいわ。この領地に住む誰もが、私達にとって大事な人だから」
 それは父の口癖で、いつしかミレイアの信条となったものでもあった。
 ミレイアが辺境伯令嬢として生きていけるのは、辺境伯家に生まれたからではない。辺境伯領を支える領民がいる、その辺境伯家に生まれたからだ。
 人の笑い声が聞こえる街路、草の香りがする高台に、少し獣くさい牧場。天高く聳える大聖堂も、その隣で領地を守る騎士団も、すべて幼い頃から当たり前にあった。でもそれを保っているのは、領地にいる人々だ。
 人々の中にはもちろん、アロージアの一家も含まれる。父が割譲したのは領地の租税徴収権――要は経済的な利益だけで、管理や経営は変わらず辺境伯家の責任。
 その愛する領地を守っていくのが、辺境伯家の娘である自分の役目だ。
 ふは、とアロージアは口を大きく開けて笑う。辺境伯家の系譜でありながら、気取らない表情を作るのが、アロージアのいいところだ。
「ミレイアがそういう子だから、みんなもミレイアを大事に思ってくれるのよ。そのミレイアの婚姻の儀、楽しみにしてるわ」
 それからしばらくして、アロージアは「新しい薬を調合するから」と去っていった。その後ろ姿を見送りながら、ミレイアは自分に言い聞かせる。
 そうだ。辺境伯令嬢の自分に、どうしたい、こうしたい、なんて我儘は許されない。辺境伯令嬢の自分はどうするべきか、それを常に考えなければいけない。
 だったら、この結婚だって、受け入れるべきだ。現当主の父が、辺境伯令嬢の夫として認めた相手なのだから。
 
***

 カイルとの婚姻の儀は、ほんの一(ひと)月(つき)後とされた。といっても、ドレスを始めとする装飾品の準備には、本来一年はかかる。一体どうしてそんなに早く事を進められるのかと思えば、半年近く前に、ミレイアが十八歳を迎えた時から、母が準備していたらしい。何をどう転んでも、十八歳のうちに結婚する――その願掛けも兼ねていたのだろう。その上での一月という期間は、騎士団側の都合と吉日を選んだ結果だ。
 時間は瞬く間に過ぎた。なにせ次期辺境伯当主の結婚だ、各地から貴族が祝いに訪れる。しかも婚礼の儀それ自体の準備も必要だ。父が主体となって取り仕切るとはいえ、ミレイアも対応に追われた。というか、父に決められると意に沿わないことも多いので、横から必死に「そうじゃない」と口を出さねばならなかった。
 人生でこんなにも忙しく、そして最悪の一月があっただろうか――婚姻の儀の日、ミレイアは鏡台の前で溜息をついた。
「……夢なら覚めてほしいわ」
 口に出しても、相槌を打ってくれる人はいない。
 貴族の婚儀といえば、十歳を過ぎた頃に婚約を決め、当然ながら両家の顔合わせが済んでおり、婚礼の日まで仲を深め、年齢が下のほうが十八歳になるときに二人の住まう新たな邸宅が指定されると共に大司教の前で婚姻を誓う、というのが通例である。
 それなのにミレイア達の場合、婚約は一月前、顔合わせはほんの三週間前、しかも親同士が相まみえただけでカイル本人は「騎士団遠征のため」不在。最後は一番許せない点だ。結婚が決まったというのに、何を呑気に遠征しているのだ。……いや、婚姻の儀を控えているからこそ万全を期すべく見回りに出たのだろうけれど。
「……顔くらい見せてくれてもいいじゃない」
 呟いてもやはり、返事をする人はいない。
 椅子に凭れ、天井を見上げながらもう一度溜息をついた。
 両親が結婚を急いた理由は分かる。なにせ婚約者がいない十八歳なんて、貴族社会では笑い者もいいところだ。父だって、事あるごとに周囲から「愛娘とはいえ、少々可愛がりがすぎましょう」と嫌味を言われ、その度に「ミレイア自身も恥ずかしいに違いない」と真剣に悩んでくれたことも知っている。……別に恥ずかしいなんて思ったことはないので、斜め上の心配であるのはそうだが、父なりに大事にしてくれているのは分かっている。
 でも、あれよあれよという間に、カイルと結婚……。頭には、幼い頃に会ったままのカイルの顔が浮かぶ。
 不愛想で、華やかさとは無縁の無骨な見た目。話しかけてくるときはいつも自信たっぷりで、でもやることなすこと失敗ばかり。とても貴族令息とは思えないわんぱくぶりだった。今思い返せば、辺境伯令嬢のミレイア相手にぞんざいな口ばかり利いて、不敬もいいところだった。
 そういうところが、好きだった。
 誰に話すでもないから吐露できるその感情は、思い出す度にミレイアの気持ちを曇らせる。いや、曇らせるなんて言葉では足りない、まるで暗くて深い井戸の中に突き落とされたかのような絶望感に襲われる。
 あの頃、いつの間にかカイルを目で追っていた。辺境伯令嬢の自分が結婚する相手は親が決めるけれど、でも結婚するならカイルのような人がいい――カイルがいい。そう思っていた。
 でも、そのカイルの友人達が話しているのを聞いてしまったのだ。
『カイル、ミレイア様に求婚するんだってさ』
 嬉しい、と感じたのは一瞬のことだった。膨らんだ期待は、しかしあっという間に、下世話な目論見に踏み潰された。
『上手くいくだろうなー、だってアイツ、ミレイア様の好感度めちゃくちゃ頑張ってあげてるじゃん』
『いやマジ、アイツは最初から上手くやってるよな。逆張りっていうかさ、ミレイア様の気を引くにはどうしたらいいかってのが分かってるんだ』
『そりゃ必死だよな。だってアイツの家、超貧乏じゃん』
『でも残念だなあ、俺だって、あの魔力量があれば、子々孫々の家格が上がるって、ずっと言われてたのにな』
『まあカイルならいけるだろ。いいなあ、アイツの家の格、めちゃくちゃ上がるんだろうなあ』
『貧乏暮らしからもおさらばだろうしな』
『なあ、賭けようぜ。ミレイア様がカイルに惚れてるかどうか』
 つまりカイルはこれから、ミレイアに、嘘をつくのだ。いや、婚約したいという気持ちに偽りはない。でもカイルは、旧家という取り柄しかない貧乏な実家を再興すべく、ミレイアの魔力量を目当てに、求婚することを企んでいるのだ。
 ミレイアは、純粋にカイルを好きなのに。
 ぐり、と胸の奥を棍棒で抉られるような感覚が走った。
 誰も、ミレイアを見ていない。ミレイアを通じて、その魔力量と辺境伯令嬢という家格、それによってもたらされる自領への豊かさや家への箔しか見ていない。でもカイルは違うと思っていた。辺境伯令嬢のミレイア相手にぞんざいな口ばかり利いて、時には意地悪をしてくるのも、カイルだけは「ミレイア」という存在を認めてくれているからだと思っていた。
 でも違った。カイルだって、皆と同じだったのだ。
 失恋だった。カイルを好きだと思っていた自分を叱りたいくらい、あまりにも滑稽で情けない失恋だった。
 それでも、好きな人と結婚したかった。誇り高き辺境伯令嬢が、そんな子どもみたいな幼稚な夢を捨てられないでいた。
 今回の結婚は、女神がその夢を嗤ったせいだろうか。
「……いい加減、現実を見ろってことかしら」
 鏡の前に視線を戻すと、婚姻の儀のために着飾った自分の姿が映る。蜜色の髪は編み込んで、生花を挿し、小ぶりな真珠の耳飾りもつけた。耳飾りは、花を象った大きなものがよかったのだけれど、両親に「婚姻の儀なのだから、もっと淑やかに見えるものを」と言われてしまったのだ。それを思い出してしまいながら、一人で不貞腐れて呟く。
「……全然好みじゃない」
 カイルだって、カイルの前に出る自分の格好だって。どれもこれも、好みなんかじゃない。