戻る

この溺愛は演技ですよね!? 利害の一致で愛人契約を結んだはずが、英雄公爵に本気で求婚されました 1

第一話


「ラシュフォール公爵さまの凱旋パレードだって!」
 昼下がり、王都カウペスの雑多な街並みにそんな声が上がり、聞きつけた人々が目抜き通りをめがけて駆け出していく。
 仕事へ向かう途中だったユスティアナも、小耳にはさんだラシュフォール公爵の名に興味を引かれ、彼らの後をゆっくりと追いかけた。
 街の中心部は、王都中から人が集まったのかと思うほど大盛況で身動きすら取れそうになかったが、カウペスなら裏道まで知り尽くしているユスティアナだ。
 人混みを避けて、パレードがよく見えそうな場所を陣取ると、馬車が通るのを今か今かと待ち受けた。
 ラシュフォール公爵は王家の血を汲む、デナスト王国の北部に広大な領地を持つ大貴族だ。
 領地の国境付近では、蛮族の襲来や隣国との争いが絶えず、二代前から常に戦の状態が続いていたが、彼が公爵家を継いで数年、ついに終止符が打たれた。
 現公爵はまだ二十代半ばの若者のはずだが、天賦の才に恵まれた人物なのだろう。
 軍楽隊の奏でるファンファーレが近づいてきて、パレードの先頭が広場に現れた。後ろには王国旗と公爵家の旗を掲げた旗手、歩兵隊、騎馬隊が続く。
 ぼろぼろになった敵の旗が見えたときは、押しかけた人々の歓声が沸いた。
 それに続く、屋根のない開放型の馬車に乗っている人物こそ、辺境平定を果たしたラシュフォール公爵エルシウスその人だ。
 ユスティアナの視線が、公爵の顔を捉えた。
 陽光に輝く混じりけのない金髪に、今日の晴れ渡った空のように澄んだ碧い瞳――そして、端整で凛々しい顔立ち。
 集まった市民たちに向けて力強く手を振る姿は、頼もしい王国の守護神そのものだ。
 遠目ではあるが、あまりにも整いすぎた秀麗な面差しに、老若男女を問わず誰もが釘付けになっていた。
 美しい反面、冷徹な人物であるとの噂も聞くが、だからこそもたらされた勝利だろう。
 公爵はまだ結婚したばかりだったはず。新婚早々、妻を王都に残したまま甘い時間を過ごす間もなく戦に身を投じたのだから、どれほど後ろ髪を引かれる思いだったのか、想像に難くない。
 ――英雄になるためには、いくつもの素質や条件が必要だ。
 ラシュフォール公爵エルシウスは、軍勢を統率する才覚、指揮官としての揺るぎないカリスマ性はもちろん、人々を惹きつけずにはおかない秀麗な容貌――必要な要素をすべて具えた、稀有な人物だった。
(あれが、うちのご先祖さまが助けたという、ラシュフォール公爵さまの子孫ね)
 感慨深くパレードを眺め、ユスティアナは肩をすくめて苦笑いした。
 片や救国の英雄、片や没落貴族の成れの果て。
 でも、自分の祖先の尽力があってこそ、現在の公爵が華々しい凱旋を遂げたのだ。
 そう思えば、今はもう見る影もなくなった『アンバーローズ子爵家』の子孫として、誇らしい気持ちでいっぱいだ。
 
 ……だったはずが、凱旋パレードから一週間。
「俺はもう……男として終わったんだ……! クソッ、何が英雄だ! ああ、あんたも落ちぶれた俺を見て笑うがいいさ!」
 暗い酒場で、薄汚れたフードを目深に被り、瓶のまま酒を呷って管を巻くこの男がかの英雄、エルシウス・ロア・ラシュフォールだなんて、誰が信じるだろう。
 ユスティアナは顔中に疑問符をくっつけて、泥酔する英雄の姿をポカンと見つめていた。


  ◇ ◇ ◇


 ユスティアナ・ロア・アンバーローズの勤務先は、王都カウペスの外れにある場末の娼婦宿だ。
 といっても、ユスティアナの担当は“接客”ではなく、実務である。
 主な担当業務は、来客の受付対応から帳簿管理、衛生管理、一階の酒場でのかんたんな酒の提供、娼婦たちの相談相手などなどの娼婦業以外全般。
 店主はベテランの娼婦が兼務しており、ユスティアナはあくまでもお手伝いの立場である。
 店の場所が路地裏ということもあり、少々治安は悪いが、腕の立つ用心棒が常駐しているし、公娼館ではないものの、衛視が時折見回りに来ることが知られているため、これまでに騒動が起きて困った経験はない。
 ただ、若い娘が娼婦宿の受付などをやっていると、よからぬ客に絡まれて揉め事が起きる。必ず起きる。これは絶対だ。
 なのでフードを深く被り、しわがれ声を作って老婆のふりをしながら仕事をしているのだ。
 四年ほど前、ユスティアナの実家、アンバーローズ子爵家は没落して一家離散となった。
 両親は現在、地方に移って農業に従事しているが、ユスティアナ自身は王都から離れるつもりがなかったため、ひとりカウペスに残った。
 というのも、アンバーローズ子爵家は代々学者の家系で、先祖が集めた膨大な資料や執筆物という財産があり、それらを手放したくなかったからだ。
 田舎に移れば広い家は借りられたかもしれないが、先祖が遺した膨大な資料を活かせるのは、学術の中心である王都しかない。
 そこで、カウペスの外れに邸――掘っ立て小屋よりは少々マシな家――を借り、ひとり暮らしをはじめたのである。
 そんな矢先、王都の片隅で行き倒れになっていた女性を見つけ、介抱した。なんでも、違法な場末の娼婦宿から逃げ出してきたという。
 聞けば、その宿は行き場のない女性を集めて男たちに宛がい、人とも思えぬような扱いをしている犯罪の温床というではないか。
 ユスティアナは義憤に駆られた。
 自分自身は貴族の令嬢として、貧しくともとても大切に、丁寧に育てられた。
 一方、平民といえど同じ人の子でありながら、お金がないという理由で奴隷か家畜のように扱われている人がいるなんて、許せなかったのだ。
 そこで、女性から聞いた惨状を治安判事院に訴え出て、この違法宿を取り締まってもらった。
 家が没落したとはいえ、ユスティアナには貴族としての伝手があり、偉い人に直訴できたことが即解決につながったのである。
 こうして違法娼婦宿を経営していた悪徳人物たちは捕まったものの、女性たちには行き場がない。
 金銭的に余裕があれば、ユスティアナが彼女たちに仕事を与えたり学ばせたりもできるが、なにしろ没落貴族で、自分自身が今日を生きるのに精いっぱいだ。
 だが、まっとうな娼婦宿でなら働いてもいいという娘たちは数名いた。
 そこで、最年長のフィリアを店の主に据え、ユスティアナもその手伝いをする形で営業をはじめたのである。
 ついでに自分も仕事を得ることができるのだから、一挙両得と言うべきだろう。こうして娼婦宿で働きはじめた。

 ユスティアナは人間を観察するのが好きだ。
 美しく整えられた貴族の社会とはまるで異なる、雑多な世界に生きる人々と出会うことにより、さまざまな価値観に触れることができる。
 そして、こんな場末の娼婦宿を訪れる人々の悲喜こもごもを、間近で見たり聞いたりするのはとても楽しい。
 ときどき人生相談に乗ったりするのは、誰かの人生をごく一瞬とはいえ、共有できることに好奇心を刺激されて止まないからだ。
 この日も、いつものように宿を訪れる客をそっと観察し、彼らがどんな気持ちでこの店の戸をくぐったのかを想像して、無表情の裏でひそかに心躍らせていた。
 だが、このときやってきた客は、全身から悲愴感を醸し出しており、正気でない様子が一目で知れた。
 彼はユスティアナのいるカウンターへ酩酊した足取りで近づくなり、バンッと勢いよく手のひらをカウンターテーブルに叩きつける。
 彼の大きな手からもはみ出すほど、大量の金貨がテーブルの上にこぼれた。
 その酔客は薄汚れたマントのフードを深く深くかぶり、鼻の頭より下しか見えていないが、口元に無精髭を生やしていて、酒臭い息を吐き出しながら、今にも突っ伏しそうな勢いで言った。
「この店で……この店でいちばんの美女を出してくれ!」
 まだ客を取っていない女たちは、この酒場で思い思いに過ごしていたが、泥酔男にいっせいに視線を向けた。
 男の風体はあからさまにあやしい。もっとも、そう評価するユスティアナ自身もフードで顔を隠しているから、人のことを言えた義理ではないのだが。
 そして、でかい。身体つきはしっかりしていて、身長もかなり高かった。
 カウンターに置かれた手を見ると、肌に張りがあって若々しいし、マントの下からちらりと見えた袖口は、細かな刺繍が施された立派なものだ。
(貴族の子弟かしら……)
 だとしたら、扱いはどうしても慎重にならざるを得ない。
 もし彼が高慢な貴族だったとして、理不尽な要求をしたあげく、自分の思いどおりにならなかった場合、逆上する確率が高いからだ。
 泥酔客はそもそも揉め事を起こしやすいのでご遠慮願いたいのだが、その一方で、カウンターに置かれた金貨は十枚以上。
 この店では金貨を拝むこと自体ほとんど機会がないから、そういう意味では上客ではある。ぼろいマントを羽織っているが、変な悪臭が漂っているわけでもなく、不潔な感じもしない。
 こうなればあとはもう担当者の判断次第だ。
 ユスティアナが思わずフィリアに目を向けると、彼女は慣れた様子で微笑し、男の傍へと近づいた。
 年長者であり、この店の主人でもあるフィリアは、ケチのつけようもないほどの美女だ。行き倒れていたところをユスティアナが助けたときは、栄養を満足に摂れていなかったこともあって痩せっぽちだったが、現在では今を盛りと咲き誇る薔薇のような女性になった。
 そして見た目だけではなく、気風がよく客のあしらいも手慣れたものだ。
「旦那さま、私でいかがかしら?」
 美しい顔にあでやかな微笑を浮かべるフィリアを、男はフードの下からちらりと一瞥し、大きくうなずく。
「……ああ、あんたほどの美女なら」
 酒焼けでもしているのか、やや掠れた声で彼は言い、フィリアに導かれるまま階上にある部屋に向かった。
 千鳥足なのが気になるが、彼女ならうまくやってくれるだろう。
 彼らが酒場から消えた途端、そこに残っていた女たちが集まると、カウンターに残された黄金の山を見て騒ぎはじめた。
「うわ……すごい!」
「こんな大金を見るの、生まれて初めて!」
「貴族のお大臣さまかしら。悪い客じゃなければ、私が専属になってもいいわ」
「酔いが醒めてから、返せとか言ってこないといいけど……」
 娘たちが盛り上がりはじめたので、ユスティアナは金貨をカウンターの奥にしまった。
「とりあえず、後でイチャモンつけられても困るから、いったんは預かるだけにしておきましょう。そもそも多すぎるし」
「一枚くらいくすねてもわからないわよ」
「だめです。ここはある意味でお上から目をつけられている店なんだから、守ってもらうためにも、公明正大でないと」
 ユスティアナはそう若い娼婦に諭し、朝になってフィリアが戻ってきたら、男の様子を尋ねようと考えた。
 しかし……。
 十分も経たずに、ドスドスと足音を立てながら男が階段を下りてきた。そしてカウンターのスツールに腰をかけるなり突っ伏したのである。
「え、もう終わりですか?」
 うっかり内心を吐露してしまったら、彼がこの世の絶望をすべて集めたかのような悲痛な声でつぶやいた。
「そうさ……俺は……もう、終わりだ……」
 その場にいる女性陣が、いっせいにお互いの目を見合わせる。フィリアも、階段の上から心配そうな顔でその様子を見ていた。
「酒をくれ!」
 男はガバッと身体を起こすと、カウンターの中にいたユスティアナにそう命じた。人に命令し慣れた勢いと迫力がある。
「ですが、もう十分に酔っているようですし」
 老婆のしわがれ声を作るのも忘れて止めたが、男は納得しなかった。
「金ならある! そこにある瓶ごとよこせ!」
 彼は懐に手を突っ込むと、金入れから無造作に金貨をつかみ、カウンターにそれを撒き散らした。
 もはや、金貨に何の価値も見出していないらしい。着ている服から想像できる程度にはお金持ちのようだ。
「ですが」
「俺はもう……男として終わったんだ……! クソッ、何が英雄だ! ああ、あんたも落ちぶれた俺を見て笑うがいいさ! なんだ、まだ金が足りないのか? もう俺には、金を撒くくらいしか価値がないからな!」
 そう言ってどんどん金貨の山を積み上げていく。
 ここまで金の威力を目の当たりにさせられたら、正論など引っ込めてでも服従せざるを得ない。
 ユスティアナは戸惑いつつも、男に言われるがまま、背後の棚に入っていた酒瓶を彼に手渡した。ちなみに、店にある中では最高級の品だ。
「どうぞ」
 男は、ユスティアナが差し出した酒杯を無視して、栓を抜くなり直接口をつけてゴクゴクと水でも飲むみたいに喉に流し込みはじめた。
 口の端から、高価なお酒がどばどばと流れ落ちる。
「それ、すごく強いお酒ですよ!? 死にたいんですか!」
 さすがに見かねて、男の機嫌を損ねる覚悟で瓶を取り上げたが、彼は反応しなかった。それどころか、手に瓶を持った形を維持したまま、呆然と宙を見つめている。
 やがて、ふたたびテーブルに突っ伏すと、今度はさめざめと泣きはじめた。
「あの」
「くそ……あんな美女を前にして、ぴくりともしないなんて……俺はもう……」
 彼はとうとう、うおーんと泣きながらテーブルを手でまさぐり、酒瓶を探す。逆上するタイプではなく泣き上戸らしかった。
「フィリア、この人どうしちゃったの?」
 戻ってきたフィリアにこそっと問いかけたら、彼女は肩をすくめて苦笑いした。
「服を脱いだ瞬間からこの調子。どうやら不能みたいね」
「不能」
 つまり、男性の“お持ち物”が機能していないということだろう。
 ユスティアナは娼婦の仕事には詳しくないが、学者の家系に生まれし者として、人体についてもそれなりの知識を有している。
「ああ、なんであんな魔女と結婚したんだ……! 俺はもう、生きる屍も同然……魔女め……っ」
 その間にも、泣き言がぼろぼろと出てくる。完全に酔っ払いの繰り言だ。
「ユスティアナ、どうする? このまま放っておくの、ちょっと怖いわね……」
「とりあえず、落ち着いてもらった方がよさそうだね。私が話をしてみる」
「気をつけてよ」
 フィリアとひそひそ打ち合わせをすると、ユスティアナは男の腕を引っ張って酒場の隅に移動させたが、意外と素直についてきてくれた。
「お客さん、何かお辛いことでもあったんですね。私でよければ、話を聞きますよ」
 彼の向かいに腰を下ろして声をかけるも、男はまたテーブルに突っ伏している。
 だがよく聞くと、ぶつぶつと低い声で延々と繰り言をつづけていた。
 これまでの愚痴をつなぎ合わせると、彼は既婚者だが結婚したことを後悔していて、妻を魔女と呼んで罵っていることがわかった。
 その上で「男として終わった」と言っているのだから、妻が原因で不能に――?
 もしやとは思うが、物理でやられたのだろうか。だとしたら不憫な話ではある。
「……さっきの娘、すごく美人だったな」
 顔面をテーブルにめりこませたまま、彼がくぐもった声で言う。
「はい、そうですね。この店でいちばんの稼ぎ頭です」
「あんな美人を前にして勃たないなんて、この絶望があんたにわかるか?」
「さ、ぁ。すみません、女なのでそれはちょっと。健康上の問題ですか? お怪我やご病気とか」
 そう問いかけると、男は両手でテーブルを叩いて上体を起こし、憤慨しながらユスティアナに詰め寄った。
「違う! 俺は健康体だッ!」
 その勢いでフードがパサリと外れ、酔漢の顔が露わになる。
 口元や顎にはうっすらと無精髭が伸びているものの、よく見るとまだ若く、艶やかで手触りのよさそうなさらさらの金髪が現れた。
 その顔に既視感を覚えたユスティアナは、次の言葉を聞いて目を丸くする。
「俺は……あの魔女に呪われて、男として機能しなくされたんだ!」
「呪われ、え?」
 ユスティアナの疑問は、彼の台詞と顔の両方にかかった。
 呪われたという不穏な言葉もそうだが、男の顔を見知っていたのだ。
 光り輝く金髪、宝石のごとく透き通った碧い瞳、むさくるしい無精髭でも隠しきれない気品と、精悍さを具えた男ぶりの良さ――。
(ラシュフォール公爵さま!?)
 あやうく叫ぶところだったが、ぐっと声を呑み込んで驚きを喉の奥に押し戻した。
 間違いない。先週、彼の凱旋パレードを見たばかりだ。遠目ではあったが、あまりに美形だったのでよく記憶していた。
「あの、魔女とは?」
 ラシュフォール公爵と魔女。
 両者に浅からぬ因縁があることを、アンバーローズ子爵家の子孫たるユスティアナは知っているのだ。
 好奇心を抑えきれずに問いかけたのだが、ラシュフォール公爵の瞼は半分閉じかかっていて、頭ごとテーブルに落下すると、そのまま眠ってしまった。

  *

 翌朝。
 小鳥のさえずりで目を覚ましたエルシウスは、喪失感を抱えたままじっと天井を見つめていた。
 一年前に結婚してからというもの、胸中に燻りつづけている焦燥とか空虚とか――言葉はなんでもいいが、とにかく大事なものを奪われたという虚しさから解放されることなく、心には常に暗雲が垂れ込めているのだ。
 虚しさから逃れたくて戦の最前線に飛び込んだものの、何十年もの間、終結することのなかった国境地帯の紛争はあっけなく終わってしまい、この爆発しそうな衝動を向ける矛先がなくなった。
 これから先、どう自分の気持ちを紛らわせて生きていけばいいというのか……。
 ふと顔を横に向けると、隣には見知らぬ銀髪の若い娘が眠っていたが、たいそう美しい娘であるにもかかわらずエルシウスの下腹部は無反応。
 それどころか、朝の生理現象すら催すことなく、ぺたりと平らな状態を維持している。
(はぁー、こんな美人が横にいてもなお、俺の息子は寝たまま起きない……)
 朝が巡るたびにこの残酷な事実を突き付けられているので、精神的にそろそろ限界が近いと感じている。
 かといって、魔女(妻)に頭を下げて呪いを解いてもらうなんて、言語道断だ。それはある意味、エルシウスの精神的な死に直結しているのだから。
 できればずっと領地に引きこもっていたかった。魔女のいる王都になど、絶対に戻りたくなかった。
 だが、国境の敵を撃破したら、国王から凱旋するよう命令が出た。国境防衛総監に任じるから、王都で国境防衛の指揮を執れというのだ。
 命令には従わざるを得ないが、凱旋どころか気持ちは牢獄行きも同然だった。

 ――そもそもの発端は、二年前に遡る。
「ラシュフォール公爵、こちらへ」
 王妃の誕生日を祝う夜会に出席した際、デナスト国王に呼ばれたエルシウスは、そこでひとりの若い娘と引き合わされた。
 神秘的な黒髪の、たおやかな娘だった。
 誰なのだろうと、国王の一歩後ろに立つその娘をちらちら見ていたら、国王が満足そうに笑う。
「そなた、今年でいくつになった?」
「は。陛下のおかげをもちまして、二十三になりました」
「あの小さかったエル坊が、立派になったものだ。そなたの父も草葉の陰でさぞ喜んでいることだろう」
 エルシウスの父は、数年前に辺境の戦で負った怪我が元で亡くなっている。遺された若年のエルシウスを、ラシュフォール公爵として任命したのが、父の従兄である現国王だった。
「そなたが公爵家を継承して、もう五年になるか。若すぎる当主に広大なラシュフォール公爵領を治めることができるのかと、貴族の間ではさんざん紛糾したものだが、わしの見立ては間違っていなかったようだな。そこで」
 言葉を切った国王は、黒髪の女性を隣に立たせて言った。
「彼女は、デナスト王家の遠縁にあたるフィゼ伯爵の娘だ。近年、身寄りをなくしたばかりの不憫な身でな。どうだエルシウス、そなたもそろそろ身を固めてもいい年齢だろう」
「御意……」
 唐突な結婚話だったが、国王直々にそんな話を持ちかけてくるからには、当然これは断れない話である、とエルシウスは受け取った。
 国王の言うとおり、以前は若すぎる公爵に対し懐疑的な貴族が多かったが、つつがなく領地経営を回して結果を出しているし、辺境の小競り合いも優勢のまま進めている。
 以降、エルシウスの上に『安定』の二文字を見出した彼らが、その夫人の座を巡って牽制し合っている様子は肌で感じていた。
 この頃のエルシウスは、領地と王都を行ったり来たりしており、戦況があやしくなると援軍を率いて戦場に赴き、落ち着いている間は国王の傍で政務の補佐を担うという超多忙な生活を送っている。
 家を切り盛りする妻がいてくれるのは、決して悪い話ではない。
 それに、高位貴族として、政略結婚は当然のことだと幼い頃から理解していたので、反発することもなかった。
「はじめまして、ラシュフォール公爵閣下。ディライラ・ロア・フィゼでございます。閣下のご勇名はかねてより聞き及んでおります」
 耳にやさしく響く、やわらかな声だった。
 特別な感情を抱いたわけではなかったが、頬を染めて微笑する姿は楚々としていたし、これといってケチをつける部分も見当たらない。
 国王命令の政略結婚なら、外野も口出しできまい。それが承諾した最たる理由だ。
 それから一年の準備期間を経て、昨年、王都の神殿で盛大な結婚式を挙げた。

 事件が起きたのはその晩。つつがなく挙式を終え、夫婦の契りを交わす初夜の出来事だった。
 ぎこちなく微笑し合ってベッドに入り、ディライラがまとっていた透けるようなシュミーズドレスを肩から外し……。
 目の前に現れた、白くふくよかな乳房に目を細めたとき、肩を押されてベッドに押し倒されていたのは――エルシウスの方だった。
 最初に自分が下になるという経験をしたことがなかったので、驚いた。しかも、彼女の手が性急にエルシウスのトラウザーズを下ろし、いきなり男性器を握りしめてきたのだ。
「え……」
 初夜は、男が主導するものだと信じ切っていた。
 それはある種、エルシウスの中で凝り固まっていた固定概念だったのかもしれない。だが、貴族社会ではそれが当たり前のことだったし、なにより、頭の中で思い描いた展開の裏をかかれて動揺した。
 彼女は花も恥じらう清純な乙女のはずでは……?
 まあ、よしんば初めてでなかったとしても、やはり新婚の褥で、新妻からいきなり主導権を握られるのは遺憾である。
 困惑していたら、あろうことかディライラは白い手でぎゅっと握った楔の先端を、口に含もうとしてきた。
 それも、やたらとがっついた様子で。
 さながら、長いあいだ餌にありつけなかった野犬のようではあるまいか。
(娼婦かよ……!)
 いや、娼婦ならむしろ、こちらの望むように動いてくれるだろう。
 ディライラのその行為に拒否感が強く、少なくとも初夜の手順としてエルシウスは許容できなかった。
「やめろっ!」
 食いちぎられそうな恐怖も覚え、思わずディライラの手を払いのけて、ベッドから下りていた。
 しかし、取り残され、座り込んだまま呆然とした彼女は、驚愕するエルシウスにゆっくりと黒い瞳を向けて……。