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とびきり甘い政略結婚 2

第二話

 

 弟が生まれるよりも前。
 リリーは父に伴って、王城にあがっていた。
 父は当時の国王と話があり、リリーは別室で待たされることになった。
 だが手洗いの帰りに、あろうことか道に迷ってしまった。
 何となく一人になりたくて、付き人にも大丈夫だと言っていた。それが災いした。
(早く戻らないと)
 父の用事はまだ終わらないだろうが、それでももし早めに切り上げてきたら、大人しくしていなかったリリーを叱るだろう。
 いや、リリーではなく、一緒にいなかった付き人に対して罰を与えるかもしれない。
 その可能性を考えて、リリーは焦った。自分一人が耐えるならまだしも、自分のせいで他人が叱られるのは堪える。
(急がなきゃ)
 しかし王城は広い。
 リリーは迷い込んだ挙げ句、渡り廊下から外に出た。廊下で迷ったのなら、別室から見えた庭を目指して戻れるのではないか──と思ったが、とんでもなく軽率な行為だったと後悔した。
(……ここ、どこ……)
 わからない。庭師の一人にでも遭遇できれば戻れるというのに、人っ子一人いない。
 その時だった。
 ヒュ……、トンッ!
 何かが飛び、当たるような音が聞こえた。
(なに?)
 だが、すぐにそれが弓を放ったものだと気づいた。最近だが、リリーは剣だけでなく弓も習い始めたからだ。
(……綺麗な音)
 自分はまだ矢が前に飛ぶだけだ。しかし、今聞こえる音は、リリーの師のものよりもはるかに澄んでいる。
 音が大きくなる。近づいているようだ。
(あ……)
 背の高い植え込みの間から覗き込むと、そこは開けた広場だった。
 そこに、こちらに背を向けて、一人の男が立っていた。
 健康的な肌をした、鍛え上げられた上半身には何もまとっていない。太陽の光を受けて光っているのは、汗をかいているからなのだろう。
 焦げ茶の短い髪。顔は無論、見えない。だが相当長身だ。
 矢を放っていたのは彼だった。弓を構えており、遠くに小さく見える的には何本も矢が刺さっている。
(すごい……全部中心!)
 目を凝らして見ると、矢は全て的の真ん中に集中していた。
 驚いていると、男は番えていた矢を放った。
 ヒュ……、トンッ!
 聞こえていた音と全く同じ音がした。そして矢は再び中心に刺さる。
 リリーは釘付けになった。
 まったくぶれずに、一定の間隔で撃ち続ける彼は、いったい誰なのだろう。
 ──城の中にいるのだから、王家の人間か、それに近しい人物のはず。
 すると、遠くで声がした。
 聞き慣れた、父の声だった。
「リリー、どこだね、リリー!」
(っ! まずい、お父様だわ!)
 自分は迷ってここまで来たのだ。矢の音がしたのを辿ってきたのも、場所を訊ねるためだったのに。
 早く行かなくては叱られる──いや、早く行っても結果は変わらないだろうが、自ら申し出れば付き人に累が及ぶことは避けられる。
 身を翻した時、植え込みの枝に袖が引っかかった。
「あ──」
 ザザッと大きな音が鳴ってしまった。
 リリーがとっさに振り返ったと同時に、男もこちらを向いた。
「君……」
「ご、ごめんなさい! 失礼しました!」
 呼び止められて、リリーは反射的に詫びて、駆けだした。父の声はまだ聞こえている。
 名乗らずに失礼だったと気づいたのは、来た道を引き返して渡り廊下で父の姿を見つけた時だ。
「リリー、大人しく待っていろと言っただろう」
「……申し訳ありませんでした」
「いや、無事でよかったのだが。今後は気をつけるように」
「はい……」
 父は思ったよりは怒っていなかった。むしろほっと胸を撫で下ろしたようだった。叱られずに済んで、リリーも安心した。
「さぁ、帰ろう。ところでお前、向こうから戻ってきたが、奥へは行ってないだろうね」
「あ……」
「奥は許しを得た者しか入れない。たとえ公爵位を継ぐ身のお前でも、許可なく入ってはいけないのだよ」
「許可……」
 では、あそこで練習していた人物は、やはり王家の人間なのだろうか。
「ちょうど、今あそこには──……がおられるはず。邪魔なんてしてはもってのほかだ」
 そうか、やはりそうだったのか。
 あの人の名前は──。
「……んん」
 そこで、リリーの意識は浮上した。
 随分と懐かしい夢を見た。マルスが生まれる前の、次期公爵なのだと自負し始めた幼い頃の情景だ。
 ──異母弟の誕生で、すっかり忘れていた。
 だが思い出せない。あの時に見かけた人を。
 顔も、名前も。
 思い出せるのは、あの弓の音──。

    ***

 どうしてこうなった。
 リリーは、エレノラの手で化粧を施されながらも、気分は沈んでいた。
 理由は明白だ。──父と継母に嵌められたからだ。
 あれ以来、新しい釣り書きは持ち込まれなかった。それはもう、実に平穏な日々だった。だが、自分の知らないところで話は進んでいた。
「リリーは肌が白いから、赤がよく似合うわ」
 エレノラが、にっこりと慈愛に満ちた笑顔で言いながら、紅を引いてくれる。邪気のない笑顔に、そう彼女には一切の悪意はないからこそ、リリーは何も言えなくなってしまう。
 なんとエレノラは、密かに父へ釣り書きを返して「この方に逢わせてさしあげて」と伝えてしまったのだ。リリーの意向は無視してのことだった。
 どうりで父の機嫌がよかったはずだ。父は娘本人への確認はせず、先方と話し合ってさっさと見合いの場を設定してしまった。
 相手は王族──それも、現国王の異母兄に当たる人物だ。
 アレクサンダー・シルヴェスター。
 先代の第二妃が産んだ、二人目の王子だ。彼と同母の第一王子は早世している。後に、正妃が産んだ異母弟が王太子となった際に、彼は王家を離籍した。
 シルヴェスター家は、実母の生家であり、伯爵位を持つ。臣籍に下った際に侯爵位を賜った彼は、母方の祖父から家名と、伯爵としての地盤を継いだ。つまり、爵位を二つ有している。
 だが、世間的には『将軍』という官職の方が通りがいい。
 王子として生まれながら臣に下り、軍人として戦場を駆け回る特異な人物。弓の名手で、千里を飛ぶ矢で千の首を落とす“魔術師”と恐れられている。
 名こそ聞き及んでいたが、会ったことはない。社交界には滅多に顔を出さない人物だったからだ。
 年齢はリリーよりも、十七も年長の三十四歳。おっとりとして優しげな顔の国王と似ても似つかない厳めしい風貌で、屈強な大男だと聞いている。
 長らく妻を迎えなかったのは、戦地を駆け回っていたから、ではなく、その異名と容姿のせいで女性達が恐れていたからという噂だ。
 嫁き遅れが懸念される茨姫なら、と、お鉢が回ってきたのだろう。
 相手が彼だとリリーが知ったのは、なんと三日前だ。
 そして、いつの間にか見合いを承諾したことになっていた。
 さすがに、リリーは愕然とした。
 最初から断るならまだしも、会うことを了承しておいて、今更リリーの方から断ることはできない。相手が元王族なら尚更だ。
『会うだけですからね……っ!』
 何とか声を絞り出して、最大限の譲歩をした。ひとまず会って、未熟な自分には勿体ない方ですと相手を立てて断る分には、失礼に当たらないと考えた。
 そして、今日に至る。
 金色の髪を真新しい真紅のリボンで結い上げられ、同じく赤を基調にしたバッスル・スタイルの新作ドレスをまとって、まさに「茨姫」の異名そのものの装いをしている。
 嫌いな色ではない、むしろ好きだ。
 はっきりとした赤を身にまとうと、凛とした気持ちになる。
 しかし、似合ってしまうがゆえに、どうしても相手に近寄りがたい印象を与えるのは否めない。少なくともリリーはそう自覚している。
(ま、その方が都合がいいけどね)
 鼻持ちならない女だと思われて、向こうから断ってくれるなら有難い。
 ただ、これまで見合いを突っぱねてきたリリーが「会うだけならいい」と考えたのは初めてだった。
 王家を離れたとはいえ元王子。血の上では国王の兄。爵位は侯爵。
 これまで持ち込まれた縁談の中でもっとも高貴な身分かつ実力者で、この上ない縁どころか、ブロンソン家と血縁になるメリットも殆どないのに、何故わざわざ? と思わざるを得ない。
 ──そう、これは好奇心だ。
 こんな女をあえて妻に迎えようと考える男が、果たしてどんな人物なのか。
「リリー、お顔が怖いわよ?」
 エレノラが、ニコニコと笑顔を崩さずに指摘してくる。
 どうやら、勝手に口角があがっていたらしい。鏡を見ると、実に悪い顔をしていた。
「武者震い、いや、武者笑いよ」
「そんなこといって……。リリー、また剣で挑んじゃだめよ」
「約束できないわ!」
 そうだ、奇特な元王兄殿下のご尊顔を拝して、とっとと見合いを終わらせてしまおう。好奇心だけ満たせば終わりだ。どっと疲れるだろうから、後でマルスとお茶をしよう。癒しが必要だ。
 しかし、そのマルスも、前のようにぐずらなかった……跡継ぎとしての自覚が出てきた、ということだろうか。
 ならばよし。
(さぁっ、いざ!)
 準備を整えたリリーは、毅然と胸を張って、シルヴェスター将軍をもてなす応接間へと向かった。

    ***

 公爵邸は広い。
 余談ではあるが、こことはまた別に城館があり、管理している領地にもそれぞれ屋敷がある。
 すでにシルヴェスター将軍は到着しており、家長である父が自ら出迎え、屋敷内で最も広く庭園が見晴らせる応接間でもてなしている。
 これまでの相手では考えられないほど丁寧な応対だった。
 エレノラと侍女を伴って、リリーは裾を摘まみ、意気軒昂と靴を鳴らして廊下を進む。
「リリー、もっとゆっくり歩いて」
「待ちきれないもの」
 戦場の魔術師か何か知らないが、たとえ怪物の類であっても恐れはしない。
 オーク材製の扉に近づくと、父の声が聞こえた。楽しげに笑っている。リリーが滅多に聞くことのない声だった。
 だが、相手の声は聞こえなかった。父が一方的に喋っているのだろうか。
「リリー・ブロンソン。参りました」
 ノックをして声をかけると「来たか、入りなさい」と返事があった。その声からして、父は実に上機嫌な様子だ。
(それほど気に入ったということなのね)
 元より、かつて武勲で臣下第一位となった公爵家だ。生真面目だが豪胆な父は、実際に怪物のような男を目の前にしても平気なのだろう。
 父は何としても縁談をまとめようとするに違いない。ならば、向こうから断ってくれるように仕向けるしかない。
(やっぱり、いけ好かない女で通すしかないかしら)
 侍女の手でドアがゆっくりと開かれる。リリーはドレスの裾をそっと摘まみ、軽く頭を下げた。
「おお、リリー。さぁ、早くおいでなさい」
「失礼致します」
 す、と一呼吸おいて、リリーは顔をあげた。
「……──」
 ドアに近い方に座っている父と、向き合うようにして座っている見知らぬ男。彼がシルヴェスター将軍なのは間違いない。
 そこにいたのは、怪物ではなかった。
 鋭くも涼しげな眼は琥珀色。通った鼻筋に、形の良い唇。眉は凜々しく整い、ダークブラウンの短い髪を後ろになでつけている。
 肌は健康的に焼けているが、浅黒いというほどではない。黒基調のシックな軍服は、装飾は少ないものの生地の質が良いのは明らかだった。一目でわかるほど、軍人らしく鍛え上げられた肉体。着られている印象は一切ない。
 リリーは、口を僅かに開けたまま、瞬きもなく彼を見つめた。
「リリー、どうしたの」
 後ろに立つエレノラが、心配そうにそっと声をかけてきて、リリーは我に返った。
「何でもないわ」
 こほんと咳払いして、何とか笑顔を作る。
「ようこそおいで下さいました、シルヴェスター将軍。ブロンソン家当主の三女・リリーと申します」
 いつもなら、どうぞお見知りおきを、というところだが、あえて言わなかった。
 次がある。それはすなわち、縁談が成立することを意味するからだ。
 だが相手はすぐには名乗らず、座ったまままじまじとこちらを見てきた。
(え、な、なに?)
 実に、失礼極まりない。たとえこちらが格下だとしてもだ。第一、今は王族を離れているのだから爵位でいえばブロンソン家が上だ。
 なのに──。
(……っ、やだ……っ)
 シルヴェスター将軍の、鋭い視線が、頭から足先まで刺さる。
 ドッ、と心臓が鳴る。
 手が震えるのを、リリーはきゅっと裾を握って抑えた。
 これは怒りではない。しかし怒りではないとすれば何なのか──リリーには分からなかった。
 視線だけで縛られているようだった。
「リリー、何をしている。座りなさい」
 父に促されたが、リリーは笑顔を作ったまま、答えた。
「あ、あら、お客様にご挨拶も頂けておりませんのに、私が座るわけにはいきませんわ」
「リリー! この御方は、これまでの相手とは違うのだぞ!」
 父が慌てて叱責するが、リリーは頑として動かなかった。これぐらいの嫌味で怒る度量の狭い男なのだとしたら、最初からお断りだ。
 もっとも、父の慌て具合を見るに、彼の機嫌を損ねるのは相当危険なようだ。適度なところで引いておかねばなるまい。それぐらいは、弁えているつもりだ。
 だが彼は怒ることなく、おろおろする父と対照的に落ち着き払って悠然と立ち上がり、リリーに一礼した。
「アレクサンダー・シルヴェスターだ。なにぶん戦場での生活が長く、こうした場にも不慣れでいけない。どうか無礼をお許しいただきたい」
 低くも通る声だった。距離があるのに、鼓膜がふるっと震える感覚があって、リリーは思わず背が粟立った。
「っ……いえ、私も失礼しました」
 何より、こちらを真っ直ぐ見つめる眼──琥珀に輝く瞳が、思いのほか柔らかかった。
(怪物だなんて、噂はあてにならない)
 どこが恐ろしい風貌なのか。
 確かに軍人として立派な体躯で、弟である国王の柔和な顔立ちとは全く異なる系統の、ともすれば険のある容姿だが、決して醜悪ではない。
 むしろ、美しさでいえば、今まで見てきた貴族の男達など霞んでしまう。
 まるで、気高い狼のような人だ。
(……ううん、顔だけじゃない。この人、今までの男達とは全然違うわ……)
 リリーはきゅっと唇を結んだ。