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とびきり甘い政略結婚 3

第三話

 

 見合いはリリーの想定以上に、和やかでスムーズに進んでしまっていた。
 途中で勉強を終えたマルスが来て、幼い彼にとってさすがに将軍の容貌は怖く映るのではないかと思ったが、そんなことはなかった。
「シルヴェスター将軍! それでそれで、倒した大熊はどうしたんですか!」
「解体して調理し、皆に振る舞った。毛皮は部下にやったよ。都では高く売れるからな」
「すごいなぁ、僕も熊を倒せるかな」
 マルスは眼をらんらんと輝かせて、アレクサンダーが数年前に国境沿いの森に現れた熊を、得意の弓で退治した話に聞き入っている。
 父は、うんうんと不気味なほど笑顔で頷いている。エレノラも「マルスも訓練すれば強くなれるわ」と、熊退治の話が出ても怯むことなくにこやかだ。さすが公爵の後妻として肝の据わった様子だった。
(まずい……このままでは、外堀が埋まって、本当に縁談が成立してしまう)
 リリーはというと、実のところ、アレクサンダーの話には興味がそそられた。
 確かにこれまでの男も、出世や人脈の自慢には熱心だったが、アレクサンダーはそれらとは全く違う。
 マルスに請われて、戦場や狩りの話をするものの、決して驕った言い方はしない。
 そして何より、幼い弟を邪険に扱わないことが、リリーは内心嬉しく思えた。
 いずれ公爵の地位を継ぐマルスにおべっかを使う男、裏であしざまに侮った言い方をする男……見合い相手だけではない。リリーが社交界に顔を出せば、そんな話はいくらでも耳に届いた。
 この人は、他の人と違うのかもしれない。
(……でも、やっぱり)
 父に振り回されるのは、もううんざりだ。
 お前は次期公爵、女大公になるのだから。家を守るのが役目。婿を迎えても、お前が当主であるべきだ。そのための精進を怠るな。決して他人に心を許すな。養子の男児でなく、あえて嫡出の娘を選んだ意味を忘れるな。
 物心ついた頃から、父はリリーに厳命した。
 ──本当は、姉たちのように、歌や絵、裁縫を習いたかった。優雅なドレスだって着てみたかった。
 自分一人だけが、寝る間を惜しんで勉強をして、剣や馬の稽古を強要された。怪我をしても、泣き言は一切許されなかった。男のようになれ、と言われ続けた。
 怪我が残らないように気をつけて、身なりもちゃんと整えていたものの、姉たちや他家の令嬢の傷一つない肌が羨ましいと思った。しかしそれを、幼いながらも自覚し始めた次期公爵の矜持で抑え込んできた。
 それが、息子が生まれたために、全て無駄になった。
 しかしマルスが病弱だったために、リリーの立場は不安定なまま数年が経ってしまった。
 次期公爵としても、公爵令嬢としても、曖昧なままだ。
 そして結局、跡を継ぐのはマルスと決まった。
 今のリリーは、公爵家の三女に過ぎない。
「懐の深い将軍がリリーを貰って下さるとなれば、私も安心です。なにぶん、このように愛想なく我儘に育てましたので」
 父の言葉に、ぴくっと、リリーは眉を震わせた。
 男児が生まれず焦っていた父の気持ちは、今では分からぬでもない。だが、我儘に育てられた覚えは何一つない。愛想を振りまけとも言われていない。
 ──そうだ。もう姉達は立派な家に嫁いでいる。マルスもいる今、父の体面のために結婚する必要はないのだ。
 せめてこの縁談は、将軍の方から断ってもらえるようにしよう。
 そして父が次の話を持ってくる前に、近くの修道院へ飛び込むのだ。
 神に嫁ぐなら、悪い話ではない。むしろそれがいい。
「いえ、閣下。リリー嬢は」
「シルヴェスター将軍」
 アレクサンダーの言葉を、リリーは遮った。父が「これ!」と叱ったが、聞く耳を持たなかった。
「ブロンソン家は、今でこそ事実上軍門を離れておりますが、元は武功によって国に貢献した臣下第一の公爵家でございます。私も幼い頃より、剣と馬を嗜んでおります」
「リリー、黙りなさい」
「将軍。どうか一手、お相手していただけないでしょうか。これまでの縁談でも、等しくお願いして参りましたので」
「リ、リリー……っ」
 父が戦慄いている。
 名を成した軍人相手に、何という不遜な言葉であるか。今にも怒鳴りだそうとしているのを、周りの目もあって必死で堪えているのだろう。
 リリーもわかっている。
 だが実際のところ、いかに元王子であっても、爵位は格下。臣下一位のブロンソン家をどうにかできる立場にはない。
 父が気にしているのは、体面だけだ。
 アレクサンダーは特段驚いた様子もなかった。「ふむ」と、しばし考え込むように顎に手をやった。
 そう。このまま変な女だと思って、断ってくれるのが一番だ。
「いいでしょう、リリー嬢」
 だがアレクサンダーは、あっさりとリリーの提案を呑んだ。
 父は今にも泡を吹きそうで、マルスは眼をキラキラとさせている。エレノラは父の背を撫でていた。
「嬉しゅうございます」
 家族を尻目に、リリーは、目一杯の愛想笑いを向けた。
「ただし」
 アレクサンダーが言葉を続けた。
「一つ条件を呑んでいただきたい」
「は? ……条件、ですか?」
 いったい何だ、彼が条件を出すメリットはなんだと、リリーが困惑していると、アレクサンダーもにっこりと、実に愛想の良い笑みを浮かべてきた。
「一歩でも私を後退させれば、貴女の勝ち。敗者として罰を受けましょう。ですが、貴女が”剣を落としたら”、私の勝ち。貴女に罰を受けていただきましょう……剣の達人と名高い『茨姫』には、いささか甘い条件だと思いますが」
「……宜しいですわ」
 つまり、勝てばこちらから縁談を破棄できる、ということだ。
 いや、こんな回りくどいことを言い出すのだ。相手はもうとっくに、この縁談を断るつもりでいてくれている。渡りに船とはこのこと。
「受けて立ちます!」
 ハンデは癪に障るものの、きっと花を持たせるべく、負けてくれるに違いない。
 これなら公爵家の面目は保たれる──。
 リリーはほくそ笑んだ。

    ***

 裾の長いドレスから、リリーは剣の稽古で用いるズボンに穿き替えた。
 なるべく早く終わらせるため、化粧も髪型もそのままだ。どのみち建前の勝負なのだから、汗をかく前に終わるはずだ。
「リリー姉様! 頑張ってね!」
 マルスがぶんぶんと両手を振っている。リリーはにこっと笑って、無邪気な弟に手を振り返した。
「弟君は、リリー嬢の味方らしい」
 間合いの一歩外で向かい合うアレクサンダーが、マルスに視線を向けながら呟く。
「ええ、とても可愛らしいでしょう。私に憧れて、剣を早く習いたいといつも言うんです」
「ほー、それは……少々気が引けるが、仕方ない」
「え?」
 どういう意味なのだろう。何に気が引けて、何が仕方ないのだろうか。
「いや、独り言ですよ」
 変なことをいう人だな、と、リリーは怪訝に思った。
 お互いに構えるのは、これも稽古用に特別に作らせた木製の両刃剣だ。本物を使おうとしたところ、父に「それだけはやめるんだ!」と必死に止められてしまった。アレクサンダーには、予備を渡した。
 しかし、リリーに合わせて作ってあるため、アレクサンダーの手にはかなり小さい。
 まるでショートソードのようだと、リリーは内心ショックを受けたが、体格差は如何ともしがたい。
「さぁ、いつでも打ち込んできて結構ですよ」
 アレクサンダーが、剣を下ろした状態で告げる。リリーは彼の態度にムッとしながらも、自分は剣を構えた。
「姉様っ! がんばれー!」
 マルスの声援が合図となった。
 リリーは素早く一歩を踏み込み、勢いをつけて間合いを一瞬で詰めた。
 上段から、と見せかけて、下から振り上げる。たとえ一撃に男ほどの力がなくとも、切り返しの速さなら誰にも負けない。
 現にアレクサンダーも反応していない。
 これで、今までの見合い相手を一瞬で追い詰めた──勝負は、いつもここで終わる。
「……フッ」
「!」
 それは幻聴かと思うほど小さいものだった。
 だが、リリーの耳は確かに、男の低い笑いを拾い上げた。
 ギィィッ!
 木製ながら、金属とも間違うほど高い音が周囲に響く。
「っ、えっ」
 リリーの振り上げた剣身は、アレクサンダーが逆手に持ちかえた剣の鍔(ガード)で受け止められていた。
 いつ、彼が剣を持ちかえたのか、リリーは視認できなかった。
「っ、うっ」
 引けばいいと普段なら判断するリリーだが、困惑のまま、さらに押し上げようとした。
 だが、アレクサンダーは微動だにしない。まるで巨大な岩を相手にしているようだった。
 視界の端で、アレクサンダーの左手がゆらりと動いたのを捉えた時、リリーは反射的に剣を引き、真横へ跳んだ。
 リリーは両手、相手は片手で剣を操っている。そのことを失念していた。左手で攻撃されていれば、リリーは即座に負けただろう。
(いえ、違う……それなら、剣を受け止めた時にできたはず!)
 渾身の力でぶつかっても、アレクサンダーを後退させるどころか、踏ん張らせることもできなかった。
 アレクサンダーは、構えを直そうとすらしない。
 誘っている、と直感した。
「……だったらっ!」
 リリーは体勢を直すと、再び間合いを詰めた。今度は上段から振り下ろすも、アレクサンダーは器用に逆手の剣を上に向け、今度は剣身でリリーの攻撃を反らした。
「やあっ!」
 だが、この一撃が弾かれるだろうことは、リリーも読んでいた。
 渾身の一撃が通らないなら、今度は小回りで攻める。当たるまで、何度もリリーは切り込んだ。
 ガキン、キィン、ギィィ!
 木製の剣からさえも火花が散りそうなほど、切り結ぶ──いや、結べてはいない。
 リリーは果敢に攻めるも、アレクサンダーはその場から動かずに、リリーの攻撃を全て防いでいる。
 不動ということは、リリーの方が彼の思う方向に流されていることの証左だった。
「っ、はああっ!」
 回転をつけて真横に切りつける。
 すると、初めてアレクサンダーが片足を一歩前に進めた。
 やっと動いた! だがそれはチャンスでも何でもなかった。
「なるほど、並の男には──高嶺の花だ」
 低く響く声が、リリーの耳へと入り込む。
 視界の動きが、緩慢になった。
 その瞬間、リリーはアレクサンダーと視線が合った。
 獣だ。──そして、自分は獲物。
 そこでリリーは、アレクサンダーの琥珀に光る瞳にヘーゼルが細やかに散っていることに気づいた。
「君を慕うあの子には申し訳ないが──」
 その瞳に射貫かれて、背中に痺れが走っていく。
「“貰う”ぞ」
「え……っ、ああっ!」
 途端に身体を引き寄せられて、リリーは声をあげ、さらに剣を落としてしまった。
 カラン、と乾いた音を立てて、木製の剣が地面に転がる。
「勝負ありましたね」
 頭上からアレクサンダーの声がした。
 リリーは、彼の右腕に抱き留められていた。足がつま先立ちになっているが、軍服越しにもわかる逞しい胸板にあたるよう、しっかりと寄せられている。逃れようとしても、びくともしない。
 シン……と辺りは静まりかえっている。
「約束です。リリー嬢には罰を受けていただきましょう」
 リリーは唇を噛んだ。
 油断した自分が全て悪い。負けてくれるかもしれないなどと勝手に思ったのが間違いだ。
 でも、悔しい。
 剣には自信があった。いくら軍人相手とはいえ、一歩後退させるぐらいならわけないと思った。
 それが、あっさりと剣を落とされて、あまつさえ抱き留められてしまうなんて。
「……わかりました。どんな辱めでも受けます」
 せめて、潔く負けを認めよう。
 観念すると、地面にゆっくりと下ろされた。
 さすがに公爵とその妻の前で、無体なことはしないはずだ。
 リリーは凜と立ち、アレクサンダーを見上げた。
 間近に立つと、鍛えられた軍人で男性であることを差し引いても、本当に背が高い。自分よりも頭二つは上だ。
 ──鋭い琥珀の眼が、ふっ、と柔らかく細まった。
 あ、と思わず言いかけた瞬間、いきなりアレクサンダーが片膝をついた。
 そしてすぐさま、右手を取られてしまった。
 アレクサンダーの手は、皮膚が硬かった。
 しかし予想したより温かく、手つきが優しかった。
「えっ、将軍? えっ」
 敗者はこちらだと告げる間もなく、アレクサンダーがリリーの手の甲にちゅっと軽くキスを落とした。
 長年の剣や馬の稽古で、女性の手にしてはマメが多いこの手に、初めて口づけられた。
「リリー・ブロンソン嬢。罰として、我が妻になっていただきましょう」
「……」
「約束、でしたよね?」
 にこっと、アレクサンダーが笑う。
「どうか、返事をお聞かせください」
「くっ……。……」
 リリーは呻いた。
 だが彼の顔を見ていると、悔しさではない痛みで胸がきゅうっとした。
 愛想笑いに見えていたそれは、存外、無邪気で幼さすら感じるほど──可愛い、と思ってしまった。
「……わかりました……貴方の妻になりましょう……」
 絆されたと言われればそれまで。
 だがリリーは気づけば、この甘やかな罰を素直に受け入れていた。
 どく、どくんと、これまでどんなに剣を振るってきた時よりも、高く胸が鳴って止まらなかった。