とびきり甘い政略結婚 4
第四話
リリーの生活は一変した。
アレクサンダーとの縁談──もとい彼からの求婚を承諾してしまった。両親だけでなく、弟のマルスや従者達の前でだ。
多すぎる証人を前に、今更「あれは勢いに流されただけだ」とは言えなかった。
父は、善は急げと、あっという間にアレクサンダーと話を進めた。一ヶ月後に式を挙げさせると、問答無用で決まった。
だが肝心のアレクサンダーは、多忙な中ブロンソン家を訪れていたらしく、あの後は泊まることもなくすぐ従者とともに馬で帰っていった。
グリーンベルト王国は一年前、長年国境でしのぎを削っていた隣国と永続的休戦協定を結んだ。
現状として、戦で領土を大きく拡大するのは難しく、かといって先んじて軍を持たない政策をとれば、そこを別の国に狙われる。さらに居場所と職をなくし、路頭に迷う人間を多く出してしまう。
戦争は潮時と思いながらも、別の事情で引き際を迷い続けてきたのだ。両国がほぼ同時期に、若い国王が即位したことで、これを機にと重い腰をあげた。
そのため休戦ではあるが、軍事力はあくまで自衛に用いるべく、保有を継続することで落ち着いた。
戦争がなくなった今、アレクサンダーの仕事は大きく変わった。
(そりゃ、公爵家と繋がりを持ちたいのは当然でしょうね)
いくら軍功を重ねた実力者で、元王族の侯爵といえども、これからの貢献が望めないなどと言われればどうなるかわからない。
それならば、自分より高い爵位の家と縁づくのは重要なことだ。
罰という名のプロポーズから、リリーは少しずつ冷静になっていた。
次にアレクサンダーに逢えるのは、婚礼の日だった。
婚礼まであと三週間。準備で忙しい中、リリーはエレノラに招かれて、彼女の部屋でテーブルについて紅茶を飲んでいた。
「公爵家には代々、花嫁衣装にはルールがあるの。もっとも貴女のほうがよく知っているでしょうけど」
エレノラに言われて、リリーは頷く。
招かれた理由はそれだ。母が嫁ぐ娘に、婚家での振る舞いや、花嫁のしきたりを教える。これは婿を迎える場合でも、嫁ぐ場合でも同じだった。
基本的に、王族に嫁ぐでもない限り、ブロンソン家の方が立場が上なのだ。
相手が合わせる。それが普通だった。
「シルヴェスター将軍はお忙しい方だから、こちらが何もかも用意した方がきっとスムーズだと思うの。それで、花嫁衣装なのだけど……」
エレノラがテーブルに五枚のデザイン画を拡げる。
どれも生成り色を基調としており、シックで落ち着きがある。悪く言えば、ベースが同じで似たり寄ったりだ。ハイネックのマーメイドラインドレスで、首元から手先まで、肌を一切出さない。リリーが着ると野暮ったくみえそうだった。
姉達も似たデザインだったし、エレノラ自身も自分で用意することは許されなかった。
「すでに形はできあがっていて、あとは細かいデザインの違いだけなんだけど」
三女ともなれば、場合によっては母親の衣装を使い回すことすらある。だが、さすがに公爵家の令嬢ともなれば、そうもいかない。一方で、決められた意匠を守るのが伝統となっていた。
「どれでもいいわ」
リリーはデザイン画を一瞥しただけで、そう答えた。
何を選んだって、たいした違いはない。
あまり肌を見せたくないリリーは、顔しか露出しない服装はそれなりに歓迎だった。顔もどうせベールで見えない。
「貴女ならそう言うと思った。じゃあ一枚目にしましょうね」
「ええ。それと、婚礼は派手にやらなくていいわよ」
「それはお父様次第ね」
もうすでに姉達は立派な婚礼をしている。それに茨姫の結婚ともなれば、口さがない連中も面白がってやってくるだろう。
あれが、跡継ぎから外された公爵家の三女だ、と。
コンコン、とノックが響いた。
「失礼致します。奥様、リリー様。シルヴェスター将軍からお届け物です」
侍女だった。
「将軍から? いったい何かしら」
中に入るよう告げると、侍女は大きな箱を重そうに抱えて入ってきた。
「どうぞ、リリー様に直接開けていただきたい、とのことです」
「そうなの、ご苦労様」
侍女を労い、リリーはそっと箱を開けた。
「……え……」
それが視界に入った瞬間、言葉を失った。無言でゆっくりと、傷つけないように手に取り、持ち上げる。
「まあ……」
エレノラと侍女が感嘆の声をあげる。
箱から取り出しただけで、ふわりと広がった真っ赤なフリル。背中からは、手触りの良い半透明のレースが垂らされており、まるで長いヴェールのように流れている。肩口は隠れるものの、デコルテを綺麗に見せるデザイン。
金の上質な糸を惜しみなく使った刺繍が施された、ハイウエストなドレスだった。
「これは……?」
よく見ると、随所に施された模様は百合の花だった。
刺繍だけではない。
職人が丁寧に、細やかに縫い上げたものなのは明白だ。これだけで、どれほどの金額になるか。
リリーも、ここまで見事なドレスは見たことがなかった。
「凄いわ、リリー。こんなデザイン、見たことない……素敵ねぇ!」
エレノラが近寄って、じっくりとドレスを観察し始めた。
「でも、これって……ん?」
箱の中に手紙が入っていることに気づいたリリーは、エレノラにドレスを託した。
手紙は、力強くも丁寧な筆跡で綴られていた。
『親愛なる我が婚約者殿へ
なかなか顔を見せられず、任せっきりで申し訳ない。
詫びにもならないが、君のために花嫁衣装を作らせた。
君の麗しい金糸の髪、白磁の肌によく似合うはずだ。
願わくばこれをまとって、隣に立って欲しい。
アレクサンダー・シルヴェスター』
(花嫁衣装!)
真紅の色に、百合の花。
まさにリリーのために作られたような一着だった。
中には指先が見えるフィンガーレスグローブ、丈が短めのベールのほか、髪飾りが納められた小箱も入っていた。
いずれもドレスに合わせたデザインだ。侍女が重そうにしていたのも理解できる。
「まあ、でもどうしましょう。正式な花嫁衣装はもう決まっているから、こちらは身内だけのお祝いで着ることにしましょうか」
将軍は決まり事をご存じではなかったのね、と、エレノラがため息をついた。
(違う。あれほどの人が、知らないで贈るはずがない!)
願わくば、という言葉の意味。
知っていて、贈ってきたに違いない。
「いいえ。婚礼ではこれを着るわ」
「リリー」
「私はシルヴェスター将軍の妻になるんだもの。だったら、夫になる御方のお願いを優先しなくては」
もう自分は、未来の女大公でもなければ、公爵令嬢でもない。
軍人貴族の妻なのだ。
これからは、新しい人生が始まる。
──アレクサンダーを信じてみようと、リリーは自分だけの花嫁衣装を眺めながら、決意した。
***
三週間後。ついに、アレクサンダーと再会が叶わないまま、リリーは婚礼の日を迎えた。
真紅のドレスは、リリーの身体にぴったりだった。
「まぁ、リリー様。なんて美しい」
「サイズも寸分の狂いもありませんわ」
「リリー様は華やかな色がお似合いですわ」
真っ赤なドレスは、リリーの肌をより輝かせていた。さらに、結い上げた金色の髪の美しさを際立たせる。
「本当ね。リリー、とても綺麗よ」
メイクを施してくれたエレノラが、眼を細める。
花嫁衣装といえば、白。公爵家は伝統的に生成りの色で落ち着いた衣装が選ばれる。その真逆ともいえる配色とデザインは、エレノラだけでなく父も家中の者達が面を食らった。
だがリリーは、婿を迎えるならまだしも、これからは婚家に尽くすのだからと、珍しく殊勝なことを父に告げて説得した。
いざ着てみれば、着付けてくれた侍女達は皆、ほぅっとため息をついた。
リリー自身も、姿見に映った自分に目を奪われた。
赤はよく似合うと自認している。
茨姫の異名で呼ばれるのは、赤いドレスで社交界に顔を出すことが多かったのも一因だ。
好きな色だ。だが、どうしても武装めいて見える──オシャレではなく、誰にも心を許さないための鎧。
だが、今は違う。
アレクサンダーが、リリーのために作らせたこのドレスは、武装ではない。
リリー自身を、凜と美しく立たせるためのものだ。
(着ていてわかる。……あの人、私のこと、理解しようとしてくれている)
たった一度しか、まだ逢ったことがない。
だが少なくとも、公爵の娘としか見ていない男達とは違う。
「それにしても、将軍はまだなのですか。もうそろそろ準備をしていただかなければ」
エレノラがそわそわし始める。
アレクサンダーからの報せによると、何とか婚礼までに、仕事を片付けるつもりだが、到着がギリギリになってしまうとのことだった。
花嫁の準備よりも確かに短くて済むが、公爵令嬢の結婚となれば招待客も多く、待たせることはできない。
少なくとも、来られないという報せは来ていない。
(これだけの衣装を用意してくれたのだもの。無断で来ないなんてことは、きっとないわ)
不安ではない、といえば嘘になる。
だが、そんな不実な男とは思えないのだ。
ただの見合いであれば、父が乗り気であった以上、男側が押し切れば成立する。それをリリーの提案に乗った上で成立させ、なおかつ彼から正式にプロポーズをしてくれたのだ。
十七も下の小娘に、だ。
(絆されたといえば、そうかもしれないのだけど。でも、それでも……)
勝敗がついた瞬間の、あの抱き上げる腕の強さ。胸の厚み。──今でもはっきりと思い出せる。
「リリー様、奥様!」
控え室のドアの向こうから、複数の駆ける足音とともに、若い侍女の声が聞こえてきた。
「シルヴェスター将軍が到着しました、ああっ! 将軍、お待ちを」
バァン! と、ドアが勢いよく開かれた。侍女とエレノラが「きゃあっ」と悲鳴をあげたが、リリーは動じなかった。
ゆっくりと、開け放たれたドアの方に向き直る。
一ヶ月ぶりの再会。
手合わせでは崩れなかったアレクサンダーの前髪が乱れている。毛先も少しばかり跳ねていた。
息切れしていないのはさすが軍人だ。しかしどう見ても、馬で風を受けながら急いで駆けつけてきたのが、丸わかりだった。
「…………」
アレクサンダーにじっと見つめられる。
時が止まったかのように、リリーも見つめ返した。
琥珀色の瞳が、真っ直ぐにこちらだけを見ている。
リリーの他には何も、映っていない。
「……何か言って下さい」
沈黙に堪えきれなくなったのは、リリーの方だった。
「あ、ああ。……申し訳ない、遅くなって……いや、ゴホン」
ばつ悪げに、アレクサンダーが咳払いをして居住まいを正した。
「急いで準備して参ります、リリー殿。では後ほど」
アレクサンダーは、踵を返して去っていった。
(……せっかくいただいたドレスを着たんだから、一言ぐらい何か言ってくれても……)
そんな期待をしてしまった自分自身に、リリーは驚きつつも、気が抜けたように椅子に座り込んだ。
式の時間が、迫っていた。