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とびきり甘い政略結婚 5

第五話

 

 グリーンベルト王国で最も古い歴史を持つ、石造りの教会の鐘が鳴り響く。
 ブロンソン家に連なる者は、ここで式を挙げる。他家に嫁いだリリーの姉達や、亡くなった実母と継母のエレノラも例外ではなかった。
 そのため、古い付き合いのある家からは、代わり映えのしない式と揶揄される。
 しかし今日の参列者達は、重厚な扉が開いた瞬間、一気にざわつき出した。
 リリーは、聖壇へ伸びる緋色のバージンロードを、アレクサンダーとともに歩を進める。
「まぁ……なんて色なの」
「茨姫の意地かしら」
「よくあの公爵様が許したものだ」
 保守的な年配の貴族達が囁く。
 軍人のアレクサンダーは黒色の軍服に装飾を加えた正装だ。これに文句を言う者はいない。
 だが、リリーの花嫁衣装は、公爵家の伝統どころか他でも類を見ない華やかなものだ。
(わかっていたけど露骨ね)
 しかし、クラシックなデザインのドレスよりも、この真紅のドレスの方がずっとアレクサンダーと釣り合う。並んでみてよくわかった。
 ちらりと、リリーはアレクサンダーに目線を向けた。身長差があるので表情が見えず、僅かに顔をあげなくてはいけない。
 すると、アレクサンダーと目が合った。まるでリリーが見上げることをわかっていたかのようなタイミングだった。
「あ……」
 とっさに視線を逸らそうとした。そのせいで足が止まりそうになり、歩幅が狂った。
 だがアレクサンダーは、何でもないようにスッとリリーの腕を引いてくれた。そのおかげで転んだり、止まったりせずに済んだ。
「お気をつけて」
「え、ええ……」
「貴女は今、誰も彼も羨む存在ですよ。どうか自信を持って」
 ふと、保守的な者達の口さがない言葉だけでなく、違う声も聞こえ始めた。
「素敵ね……黒と赤、なんて斬新なデザインなの」
「リリー様は赤が大変お似合いでいらっしゃるわ」
「剣の達人ですもの。すらりとなさって、羨ましい!」
 主に若い女性達が、リリーに羨望の眼差しを向けている。世辞かもしれないが、本人に直接言わないならあまり意味はない。素直な言葉だと受け止めてもよさそうだった。
「それに、我が花嫁殿は世界中の誰よりも美しい」
「っ!」
 思わず声を出しそうになったが、ぐぐっとリリーは堪えた。
 ジトッと睨むようにアレクサンダーを見上げると、彼はそれに反して、にっこりと満足げに微笑んでいた。
 今度こそ、足が止まりそうになる。
「おっと」
 リリーは思わずアレクサンダーの腕に身を寄せる姿勢になった。だが見苦しくないように、彼は歩幅を縮めて合わせてくれた。
 抱き留められた時にも感じた。
 戦場の魔術師と呼ばれるほどの射手の腕は、逞しくて──安心する。
(安心、なんて……)
 男児に恵まれないから、厳しくされた。
 男児が生まれたから、用なし。
 そんな烙印を押されても、優しく接してくれる人や頼ってくれる人はいる。だからこそ、リリーは甘えられなかった。
 これからは将軍の妻、侯爵夫人として生きていく。
 いっそう甘えられるはずがなく、気を張っていなければいけないのに。
(……ずっとこうしていたいなんて)
 気づけば、聖壇の前まで辿り着いていた。
 神父の述べる誓いの言葉に対して「はい」と答え、二人で王に提出する書類にサインをする。あとは後日、書類に王の判が押されれば、婚姻が成立する。
「神と王の名の下に、互いに解けぬ絆を結び、生涯ともにあることを宣言しますか」
「宣言します」
 先に夫となるアレクサンダーが答えた。
「私も宣言致します」
 続いて、リリーも形式通りに答える。
「それでは署名を」
 神父がおもむろに書類を取り出し、聖壇に置く。インク壷と羽ペンはすでに左右に用意されており、新郎が先に書いてから、新婦が続いて書く。
 アレクサンダーは、僅かな引っかかりも感じさせず、太めながら流れるような筆跡でサインを綴った。
「……」
 サインを書こうとする手が、震えた。リリーは深呼吸して落ち着こうとするも、まだペン先が揺れる。
 解けていた緊張が、また甦る。
「落ち着いて」
 そっと囁かれて、リリーは僅かに顔をあげた。
 神父ではない。アレクサンダーの声だった。
「歪んでも引っかかっても大丈夫。そんなことで私達の誓いに影響はありませんよ」
「……はい」
 不思議と、この人の言葉は耳から、身体全体へと染みていくように、優しく入ってくる。
 すっと、柔らかくペン先が紙に触れた。焦らずにゆっくりと書き綴ったサインは、いつもよりも綺麗に整っていた。
 ほう、と、リリーは息をついた。
 今日中に、王の判が押される。それで正式に婚姻は成立だ。
 あとは皆の前で新郎が、新婦の頬に口づけをするだけ。
 眼前を覆うベールが、アレクサンダーの手によって静かに捲りあげられる。
 リリーは、すっと瞼を閉じ、アレクサンダーがキスをしやすいように顔をあげた。
「必ず、俺が幸せにする。……リリー」
(え?)
 初めて聞く口調に驚いた直後、リリーは唇を塞がれた。──アレクサンダーの唇によって。
「っ、ん……っ!」
 ちゅく、とリップ音が響く。
 唇がなかなか離れようとせず、リリーは困惑した。
(──なにこれ……っ)
 口にするなど聞いていない。
 逃れようにも、アレクサンダーに肩を押さえられて動けない。
 いや、それ以上に身体が動こうとしない。
(……温かい)
 次第に何の音も聞こえなくなっていく。
 どれほどの時間そうしていたのか、わからない。
 ゆっくりと唇が離れていく。触れ合っていた場所が外気に触れる冷たさに、リリーは眼を開けた。だが視界は涙で潤んで、少しいびつだった。
 それでも、アレクサンダーの形の整った唇に、ほんのりとリリーの口紅が移っているのが見えた。
『必ず、俺が幸せにする。……リリー』
 キスの直前に囁かれた言葉を反芻する。
 頬が、熱い。頬だけでなく、全身が。
 初めての口づけが、こんな大勢の前でという恥ずかしさなど、消えてしまっていた。

    ***

 リリーはシルヴェスター家に嫁いだため、本来なら婚礼の後は夫の本宅へ移る。
 しかし教会から本宅は距離があるため、二人は教会そばに建つ、ブロンソン家の別邸で初夜を過ごすことになった。
 リリーが夫の家に向かうのは、翌朝だ。
(初めて、男に抱かれる……)
 湯浴みを済ませて、寝間着に着替えたリリーは、一人でベッドに腰掛けていた。
 寝間着は、リリーが普段使うものよりも薄い生地が使われている。だが身体が冷えていく感覚はなかった。丈が膝までのワンピースで、胸元は細いリボンで結い上げてある。
 ふかふかで柔らかな寝台は、独りで寝るにはあまりに広すぎる。
 本来は主のための部屋だが、元々ここに一泊することが決まっていたため、父が特別に用意させた寝台だ。
 入浴と着替えを手伝ってくれたエレノラは、すでに帰った。姉達は再婚前に嫁いでいたし、血が繋がっているのはマルスだけだから、お手伝いができて嬉しいと笑っていた。
『緊張しないでね。将軍に全てを任せればいいわ』
(任せるって……具体的にどうすればいいのよ)
 エレノラは終始上機嫌だった。マルスは残りたがっていたが、婚礼に参加して疲れたのか眠ってしまい、そのままエレノラが連れ帰った。
 この別邸内にいるのは、侍女数名だけ。外には番人がいるものの、有事以外に中へ入ることはない。
 アレクサンダーは、別邸に着いて早々、今後のことを改めて父と話しに行った。湯浴みはリリーの後だ。なかなかやって来ないが、父との話が長引いたのだろう。
 婚礼の時よりも薄めの化粧を施し、部屋には香を焚いて、照明は部屋のランプのほかに、サイドテーブルの燭台に灯る蝋燭が一つ。
 一定の規則をもって、ゆらゆらと揺らめく火を、リリーは見つめていた。
 婚礼は、ふわふわとした気持ちのまま、いつの間にか終わってしまっていた。
 いや、アレクサンダーのことしか見ていなかった、というのが正しい。
 気を取られて歩みがぎこちなくなるのを、さり気なくリードしてくれた。指先が震えるのを落ち着かせてくれて、綺麗にサインを綴れた。
『必ず、俺が幸せにする。……リリー』
 そして、初めてのキス。
 ぼんっと火がついたように、頬が熱くなった。
(う、うぅぅ、思い出すと恥ずかしい)
 リリーは顔を両手で覆った。
 もんどりを打って転がりたくなる。だがせっかく整えられたベッドを乱すわけにはいかない。
 ふわ、と、蝋燭の火がひときわ大きく揺れたのが、指の隙間から見えた。
 リリーは手を離し、顔をあげた。
「おや、さすがに気づきましたか」
「え、ええ……」
 湯浴みを終え、ガウンを羽織ったアレクサンダーが立っていた。
 無造作に開ければ、ドアが軋むはずだ。だが、足音も何も聞こえなかった。風が流れてきて、火が揺れなければリリーも気づかなかった。
 後ろに撫でつけていた髪は、洗われて前髪が下りている。思いのほか癖が強いようだ。
 そして襟元から覗く厚い胸板──男のように学べと言われて育ったリリーだが、成人男性の肉体などまじまじと見たことはない。剣の訓練中でも、だ。
 アレクサンダーが近づいてくる。足音は静かで、ドアを隔てていれば、耳を澄ませないと聞こえない。
「お隣に失礼しても」
「ど、どうぞ……」
 リリーの左隣に、アレクサンダーが腰掛けた。密着はせず、拳二つほどの距離をおいてくれた。だが体重が違うため、リリーの身体が僅かに左へ傾きかける。
 反射的に、リリーはそむけるようにして、右に身体を動かした。
「……初めてお逢いした時と、印象が違いますね」
「え?」
「随分としおらしくなられた。今の貴女も健気で可愛らしいが、あの気丈で挑戦的な貴女も好きですよ」
 アレクサンダーの声は低いが、少し笑みを含んでいて柔らかかった。
「……国王陛下の兄にして、戦場の魔術師と称されるほどの将軍の妻となったのです。ひとたび嫁いだ以上、夫に従います」
「ははは。殊勝過ぎる覚悟ですね、リリー殿」
「……あの。それやめていただけますか」
「ん?」
 リリーはゆっくりと、アレクサンダーの方に向き直った。
「父の前ではいざ知らず、妻と二人きりなのですから、そんな堅苦しい言い方をしなくても結構です。それに……」
「それに?」
「あ、あの時……っ、口調が変わってました」
「いつでしょう?」
 アレクサンダーが考え込むように、顎に手をやった。本気でわかっていない様子の彼に思わずムッとしたリリーは、とっさにぐいっとにじり寄った。
「誓いのキスの時です!」
「……ほう?」
「か、必ず、俺が幸せにする。……リリー、と」
 口にするとまた頬が熱くなる。
 確かに聞いた。確かに、アレクサンダーは言った。記憶違いなんかではない。
 すると、アレクサンダーが、ふっ、と低く笑った。
「な、何がおかしいんですか」
「ああ、いや。そうか。心の声が漏れてしまっていたようで……“俺”もヤキが回ったかもしれない」
「…………?」
「わかった。正直、堅苦しい言い回しは得意じゃない。仮にも公爵や、ご令嬢である“君”の前で、素で振る舞うのは粗野で失礼かと思ってな」
 それが素の口調なのか──だが、悪い印象は受けなかった。むしろ自然で、アレクサンダーらしいとすら思った。
「そんなこと、ない……ですよ。もっとも、猫を被っていらっしゃるとは薄々勘づいてましたけど」
「ははは、これは辛辣だな」
 まだ彼のことを、よく知らないというのに。
「だったら君も、俺のことはアレクサンダーでいい。畏まった言葉は使わなくて構わない」
「え、でも……私は妻ですし、それに爵位が父より下でも、貴方は国王陛下の兄君でいらっしゃるので」
「魔術師の俺に、剣で勝負を挑んできた苛烈な茨姫の言葉と思えないな」
 くっくと喉を鳴らして笑うアレクサンダーに、リリーは「あ、あれはっ」と慌てた。
「……あ、あの時は、父の言いなりに結婚なんてしたくなくて」
「うん」
「……大変失礼なことをしました」
 結果的に、一本どころか、まともに彼を動かすことすらできなかったが。
「どっちの君が本当なんだろうな」
「どういう意味ですか?」
「あの気丈さと、この素直さ。君には二つの面があるようだ。……ま、どっちも君だな」
 アレクサンダーがこちらに向き直って、一気に顔と顔の距離が近づく。リリーは「あっ」と声を出してしまったが、身体は動かなかった。
「俺は、どちらも好きだ」
 ──健康的な肌をしたアレクサンダーの目元には、一筋の短い皺がある。十七歳の差が刻まれているようだった。
 そして、琥珀にヘーゼルの散る瞳に、ゆらりと揺れる火が、少しだけ映り込んでいる。
「十七も上で君からすればもういい歳だが、妻だと気負わずにいてくれ」
「でも」
「せっかく縁あって家族となったんだ。俺はもっと君をよく知りたいし、君にも知って欲しい」
 家族。
 リリーにとって、それは束縛の証だ。
「……リリー、触れてもいいか?」
 だが、どうして──この人の言葉は沁みていくのだろう。
「んっ」
 少しずつ、ゆっくりと、琥珀の瞳が大きくなる。今度は瞼をあげたまま、リリーは近づく唇を受け入れた。
 誰からも感じたことのない温もりに、リリーは静かに身を委ねた。