戻る

とびきり一途な純愛結婚 猟犬伯爵は花の巫女を甘く愛する 1

第一話

 

 今夜は満月。
 昼と思うほどの明るさのため、今行われている夜会での灯りも少ない。
 内装を大いに飾り立てたホールで、ワルツが流れている。
 ピアノの調律が甘いせいで、音階が僅かにズレているように聞こえるが、歓談とダンスに夢中の人々は気づかない様子だった。
 夜会の主役であるマルス・ブロンソンだけが、ホールの隅でそれを耳障りと感じていた。
 彼の前に、初老の男女が歩み寄ってきた。マルスは頭を下げることはなく、代わりに軽く声をかけた。それが雑談を始める合図となる。
「ブロンソン公爵家は、誠に立派な跡継ぎに恵まれましたな」
「一時はご令嬢ばかりで大変と伺っておりましたけど。末にこんなに素晴らしいご子息を授かるなんて、本当にご幸運ですこと」
 ああ、またか。
 十六歳。グリーンベルト王国において成人年齢を迎えたマルスは、ふっと眼を細めた。
「ありがとうございます。不肖の息子でも、皆様に温かく見守っていただけると聞けば、父のオーギュストも喜びます」
「これはこれは、勿体ないお言葉です」
「ええ、なんて名誉なことでしょう」
 目の前で侯爵夫婦が笑った。
 口角を微かにあげて、眉を開いた柔らかな笑みを、マルスは意図的に作る。それが自分に求められる表情だと、しっかり理解していた。
「感謝致します。私のためにこのように素晴らしいパーティーを開いていただいて」
 社交界にデビューした十歳の頃から、マルスは幾度となく、貴族達から多くの賛辞を受けていた。
 いや、ただの世辞だ。それこそ最初に投げかけられた時から、マルスは直感していた。
「ブロンソン家の繁栄は、グリーンベルト王国の繁栄も同然です。我が家がお支えするのは当然のことですよ」
 侯爵が答える。年回りは、今年六十二の父よりも二十は下だが、へつらうばかりで覇気の欠片もない。
「ええ、ええ。ブロンソン家のためなら、何でもさせていただきますわ」
 働き盛りの彼とその妻の間には、最近婿を迎えた二十歳の娘一人だけ。その婿殿に箔をつけさせたいと、必死で根回しをしている。
 父に教わるまでもなく、マルスは侯爵家の実情を把握していた。
 ブロンソン公爵家は、グリーンベルト王国の建国期から、軍事をもって仕え続けた臣下貴族だ。序列は堂々たる第一位。今でこそ軍門から離れて久しいものの、分家を含めても王城内で重要な地位に就いている。
 マルスは成人と同時に、父から名誉爵位として伯爵位を継いだ。今日はそれを記念する夜会だ。
 だが、主催はブロンソン家ではない。付き合いのある侯爵夫妻が、是非にと申し入れてきたのを、父が許諾した。無論、実家でも別の日に宴を開いていた。
 今日のことは、侯爵家にとって投資だ。
(本来なら娘を嫁がせたかったところが、父が断った。だがブロンソン家との縁は絶やしたくない……父も、そうした心理を見抜いていた)
 婚姻こそ叶わなかったが、協力を惜しまない姿勢を見せることで、見返りを欲する。
「父に伝えておきますよ。悪いようにはしないでしょう」
 一瞬だけ間を置いてからマルスが告げると、侯爵夫妻は心底安心した様子だった。
 侯爵夫妻の婿は勤勉な男だ。箔付けの職でも、真面目に取り組んでくれるだろう。だからこそ、父はこの投資を受け入れた──。
 くっくっと、思わずマルスは低く笑った。
 あの父に、こんなにも思考が似てくるなど!
「マルス様? 如何なさいました?」
 侯爵夫人に訊ねられ、マルスは咳払いをした。
「失礼。喉の調子が少々。乾燥したようで……」
「まぁ。すぐに酒を運ばせます! どうぞ、ゆっくりなさってくださいませね」
 マルスは酒を断った。実際、喉は渇いていない。
 会話を切り上げて、マルスはバルコニーに出た。
 主役であるマルスに、自分から声をかけてくる人間はいない。皆、マルスから声をかけられるのを待つのだ。
 こうしている間も、視線はちらちらと向けられるが、一人で夜空を見上げていても誰も文句はいわない。
(俺が生まれた夜も、満月だった)
 記憶になど全くない。成長してから、そうだったと聞いただけだ。
 だがマルスの誕生した夜は、ブロンソン家に関わる人々の運命を大きく変えた。
 前妻との間に男児が生まれなかった父オーギュスト。
 次期公爵として厳しく育てられた異母姉リリー。
 後妻として嫁ぎ、息子のマルスを産んだ母エレノラ。
 自分の存在はブロンソン家の未来を決めてしまった。マルスの意思とは全く関係なく。
 父はマルスを後継者に定め直し、姉は貴族令嬢として嫁いでいった。貧しい貴族の生まれだった母は、今や社交界でその名を知らぬ者のいない立派な公爵夫人だ。
(満月は嫌いだ。男であっただけで全てを与えられ、そして周りから奪った自分の存在を思い知らされるようで……でも)
 幾多の星をかき消すほどに、煌々と輝く美しい月から、マルスは眼を離せなかった。
 月の明かりは、何もかもを浄化してくれる。
 音のズレたワルツも、気づけば耳に入らなくなっていた。


 ◆ ◇ ◆ ◇ ◆


 八年後──薔薇が綻ぶ季節。
 グリーンベルト王国の都アーシュ・ヒル郊外の路地を、ベロニカは息を切らせながら駆け回っていた。
(ああもうっ、しつこいしつこい!)
 塀を越えたり、雑踏に紛れたり、色々と試したにもかかわらず、ベロニカの後を数名の男達がずっと追ってくるのだ。
(あいつら一体なんなの? 王都も落ちたものよね、郊外とはいえあんな輩がうろついているんだから)
 追い剥ぎか、暴漢か。
 だが追われる理由も、ベロニカには心当たりがあった。
 自分自身の容姿だ。
 真っ直ぐな黒髪に黒い眼。今は外套を頭から被って人目につかないようにしているが、グリーンベルト王国では珍しい見た目だ。
 もちろん、同じ見た目だけなら少数ながら存在する。だがベロニカは、王国に住まう大半の人々とは違う、『芙蓉族(ふようぞく)』の血を引いている。
 極東の島国に住まう芙蓉族は、その大半が黒髪黒目だ。
 何よりの特徴は、女性にだけ現れる特異体質。
 それは、興奮した時に全身から花の匂いを発すること。
 約十五年前、当時まだ三歳だった自分を人買いから引き取った男が、そのことを教えてくれた。
 王家をはじめとした人口の約半数が信奉するユースラー教。その第一神殿の長であるダライアス。彼は孤児を引き取って育てる慈善家でもある。
 もっとも、ベロニカは彼を父とは思っていない。義理でも親子ではないからだ。
 神殿において、女児は巫女として育てられる。
 あらゆる教養を身につけ、美しくならねばならない。そのために女だけの共同生活を送る。巫女見習いと接することのできる男は、神殿長とごく一部の神官だけだ。
 とはいえ、子どもが独りで生きていく過酷さを思えば、神殿での生活もそう悪いものではない。屋根もある。食事も出る。教育を施される。
 だから、それなりに感謝はしているつもりだ。
 神殿育ちのベロニカが、こうして王都郊外の路地を走り抜けている理由も、元は神殿長への恩返しであり、同時に大切な人のためだった。
 地図はとっくの昔に頭に叩き込んであった。身の軽さにも自信はある。なのに。
「いたぞ! 女を捕まえろっ」
「っ、もうっ! しつこいったら!」
 細い路地を抜けて大通りに出ようとしたら、先回りをされていた。後ろからもドタドタと足音がする。
 ベロニカは高くジャンプし、左右の土壁を交互に蹴って登ろうとした。立ち塞がる男を飛び越え、逃げるつもりだった。
「っ!」
 だが後ろから来た巨漢に、右足首を掴まれ、ドンッと地面に打ちつけられた。
 何とか上半身は受け身をとったものの、そのせいで右足を捻り、痛みが走った。
「離してっ!」
 ベロニカは叫んだが、下卑た笑いを浮かべる男が、それで解放してくれるはずがない。
 逆光で見えづらいが、大通りの方から助けが来る様子は全くなかった。
(くっ……使うしかないか)
 ちらりと左足の爪先を見た。
 平べったい靴の先には、麻痺薬──『エクターネテルの美酒』を塗った短針を仕込んである。神殿で育てた花から生成したもので、ベロニカの塗ったものは神経毒の効果を強めている。
 右足にも同じものを仕込んでいるが、分量はあくまで気絶する程度。だが、左足側には万が一を考えて強毒を塗っている。できれば使いたくなかった。
 刺すのではなく掠めるだけに留めなければ。
 できるだろうか。身体は今、思い通りに動かない。それにずっと走っていたせいで、体力も消耗している。逃げている間は夢中で気づかなかった。
「捕まえたぜぇ。悪いな、俺達も一応仕事でな」
「おい、さっさと路地の奥へ連れて──ぐあっ!」
 突然、前からじりじりと迫ってきた男が悲鳴をあげた。ベロニカは反射的に顔をそちらに向けた。
 男はがくんと膝をつき、崩れ落ちた。気絶したようだ。
 そしてその背後から、もう一人、違う男が姿を見せた。
(誰……?)
 顔はよく見えないが、すらりとした長身の青年で、やや癖のある長めの金髪を後ろで結んでいるようだった。
 どうやらこの青年が、男を何らかの手で気絶させたようだ。
「な、なんだぁお前っ!」
 ベロニカの足を掴んだまま、巨漢が動揺の声をあげた。そのせいで半ば吊される体勢になってしまい、ベロニカは痛みから「ううっ!」と呻いた。マントがなければ、腕や顔が擦れていただろう。
「その手を離せ。これは警告だ」
 凜とした、よく通る声だった。震えは一切ない。ベロニカは眼を凝らして、青年の顔を見つめた。
 影が落ちて見えづらい。だが、スッとした鼻梁がまず目についた。肌は白い。革製のジレで細身に見えるが、足が長く肩幅は広めで、決して貧相な体格ではない。
 一般人には見えない。貴族だろうか。いや、あり得ない。貴族がこんな郊外の路地にやってくるなど。
「警告ぅ? ハッ、何様だよ」
 青年が自分よりも背が低く細身であると認めて、巨漢が動揺をおさめたようだった。
「その女性を解放し、倒れているこの男を連れて俺に従ってくれるなら、悪いようにはしないよ」
「あー? テメェ、まさか……『王都の猟犬』か!」
(『王都の猟犬』って……っ!)
 ベロニカも名前だけは知っている。
 王都民で構成された警備隊の名称だ。もちろん、王城に出仕している兵士達による警護隊も存在している。
 だが、こうした郊外には滅多に来ることはない。彼らにとって重要なのはあくまで王城であり、その周辺に住まう人々。荒んだ場末の騒動など眼中にない。
 その代わりに結成されたのが『王都の猟犬』だ。多くは民間人で、当初の仕事はせいぜい見回り程度だった。
 だが二年前、リーダーが交替してから、治安維持の目的をしっかりと掲げて統率のとれた動きをするようになった。
 正直あまり出会いたくない存在だった。
 できるだけ路地裏を選んで逃げていたのも、彼らに遭遇しないようにするためだった。
 身元や目的を知られるのは厄介だ。
「っ、ああっ!」
 突然の浮遊感に、ベロニカは眼を閉じて叫んだ。巨漢が思いきり、自分を振り上げようとしたからだ。
 壁にぶつかったり、振り落とされたりでもすればたまったものではない。ベロニカはとっさに頭を庇った。
 だが──直後。一瞬で、全てが終わった。
 素早く何かが動く気配。ドゴッ、と鈍い音がした。小さな呻きが聞こえた直後、右足が解放された。しかしベロニカの身体が、地面に落ちることはなかった。
「──へ……?」
 ベロニカは、固く閉じた眼をゆっくりと開けた。
 視界の中で金色の髪が揺れる。
 そして、碧く澄んだ大きな瞳と、視線が合わさった。
 空の色だ。ベロニカは直感した。
 海も青いとは聞いたことがあるが、同じ色なのだろうか。
「大丈夫?」
 先ほどまで暴漢達と対峙していたとは思えないほど、穏やかさに満ちた声だった。
「……」
 ベロニカは、返事ができなかった。
 こんなに美しい男がいるのか。
 最初は、逆光のせいでよく見えなかった。至近距離だと細やかな造形まで、さすがによくわかる。
「怪我はないかな」
「あ、あ……いえ……ないです。あの、いったい何が……」
「少し気絶してもらっただけだ」
 巨漢の方を見やると、前から来た男と違って仰向けに伸びていた。顎が真っ赤になっている。恐らくこの白皙の青年が的確に急所を攻撃したのだろう。
(『王都の猟犬』……ここまで訓練された人間がいるの……?)
 そこで、ベロニカはやっと状況を呑み込んだ。
『王都の猟犬』の一員に抱き上げられている。
「怖くなかった? 事情を聞きたいんだけど、大丈夫かな」
 しかも保護対象としてだ。これはどうすればいい。
 すると、青年がじっと探るような視線を向けてきて、ベロニカは思わずきゅっと唇を結んだ。
「君、芙蓉族……?」
「……知っているの……ですか?」
「ああ、実際に見たのは、君が初めてだけどね」
 見た目だけで芙蓉族とわかるのは、人身売買に従事する者か、知識人だと聞いている。大半は、単なる黒髪黒目の人と区別がつかないはずだ。
 つまりあの暴漢達は、人身売買に関わる人間と思われる。青年は、実際に見たのは初めてという辺り、知識として知っていたのだろう。
(ここは、保護してもらう方が得策かも)
 ほんの僅かに、ベロニカは口角をあげた。
「怖かった」
 ぽそっと呟いて、ぎゅっと青年に抱きついた。微かに震え、しなをつくるのも忘れずに。しかし高い声は出さない。
 その所作が、男にとって魅惑的だということを、ベロニカは教え込まれている。
 ふわりと──芙蓉族特有の匂いが立つように意識して、青年の肩に顔を埋めた。
 青年の身体が細身ながら鍛え上げられているのは、抱きつくといっそうよくわかった。
 だが女慣れをしているようにも思えない──あまりに綺麗すぎる。顔立ちというよりも、雰囲気が、だ。
 上手く籠絡すれば、目的のために良い情報が得られるかもしれないという打算が、ベロニカの中で働いている。
(……ん?)
 ベロニカの細い指先が、青年の背に這った時、布越しに固い感触があった。ジレの下に何かある。だがナイフではない。これはいったいなんだろう──。
「触るな」
「っ!」
 低く小さい声だったが、はっきりと聞こえた。
「ああ、ごめん。それはね、武器だから。危ないから触っちゃダメだよ」
 だが次の瞬間、また穏やかな声に戻り、再び咎めてきた。
 ベロニカは素直にいうことを聞いた。形状を視認できない以上、触らない方がいい。
 一方、青年には動揺が見られなかった。
(意外と女に慣れているの? それとも、私ではまだ無理?)
 命じられたのだから、教えられたことは何でもできると思っていた。
 いや、男を籠絡するなんて、今まで経験はない。やはり実践は難しい。
 神殿長からは、芙蓉族の体臭を用いれば容易いと教わっていたのに。
(……うぅ……なんだか……一気に痛みがズキズキと)
 走り回って消耗した体力。まともに食にありつけなかったので空腹だ。
 金は最低限を与えられたが、逃げているうちに落としてしまった。
 巨漢に掴まれて足首は捻っているし、受け身をとったとはいえ地面に落とされた衝撃は残っている。
「……怖かった」
 ベロニカの唇から、さっきと同じ言葉が再びこぼれ落ちた。全くの無意識だった。
 ハッとなって、ベロニカは顔をあげた。
「うん、もう大丈夫だから」
 にこりと、青年が微笑んだ。
 一瞬、まるで太陽だと錯覚して──眩くて、ベロニカは目を背けた。
 ふらりと、目眩がした。
「……疲れた」
「え?」
「暖かいところで寝たい……お腹空いた……痛い……助けてよ……何でも、するから……好きにしていいから」
 助かった安心感からだろうか。
 本音が声になってぽろぽろと落ちていく。
 いや、助かったともいいがたい。理想はこの場から何とかして立ち去ることだ。
 だが、どうしても──この腕から、抜け出したくない。
 そんなことを考えてしまった。
「何でもするなんて、軽々しくいってはいけない」
「へ……?」
「人の価値はそんなに軽いものじゃない」
 何をいっているんだろう。
 変な男。
「よっぽどな事情があるんだな」
 青年がベロニカを抱き上げたまま踵を返した。
「ちょ、待って」
「帰る場所がないんだろう?」
「っ……」
「大丈夫。信頼できる人のところへ行くよ。暖かいベッドに、食事を提供する。手当てもしてあげる」
「それで、貴方に何の得があるの」
「得? うーん、少なくとも君が『何でもする、好きにして』なんていわなくなるなら、充分かな」
 ──やっぱり変な人だな。
 迷いのない足取りで進む青年に身を任せたまま、逃げ出すタイミングを逸したベロニカは、ついに馬車に乗せられてしまったのだった。青年も当然のように乗り込む。どうやら彼が待機させていたようだ。
(……靴、処分した方がいいかな)
 そんなことを考えている間に、青年が行き先を告げて馬車が出発した。