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とびきり一途な純愛結婚 猟犬伯爵は花の巫女を甘く愛する 2

第二話

 

 すでに陽が落ちようとしていた。
 郊外を離れて中心に近づいていったのは、窓の外を見なくても、乗っているだけでわかった。だんだんと馬車の揺れが少なくなったからだ。王都で最も丁寧に舗装されているのは、王城を中心とした狭い範囲になる。
 道中、殆ど会話らしい会話はしなかった。そのおかげか、だんだん冷静になっていった。
 乗りかかった船というものだ、『王都の猟犬』でもかなりの実力者なら何か情報を持っているはずだ。
 ──神殿の敵について。
 グリーンベルト王国最大数の信者を持つユースラー教。花と緑の女神ユースラーを崇めており、王家が代々信奉している。
 王国では基本的に、信教の自由が認められている。
 よって、ユースラー教に帰依しなくとも特段不利益があるわけでもない。
 しかし、信者はそれなりに恩恵を受けやすい。王家の後ろ盾があるがゆえに、国のあちこちに影響を及ぼしているからだ。
 ユースラー教の第一神殿で育ったベロニカが、神殿長から命じられたのは、反神殿派の組織の調査だった。
 信教の自由が認められるからこそ、ユースラー教をよく思わない存在が、様々な妨害活動を行っていると聞く。
 妨害の事例は、実に様々だ。ベロニカが把握していることなどごく一部に過ぎないだろう。
 さらに、妨害活動は五年前から目立つようになったと聞いた。
 その頃、大きな出来事があった。
 当時の国王だったランドルフが急死したのだ。まだ四十代前半で、心臓の病だったと発表されている。
 王妃はすでに亡く、一粒種だった王女にも先立たれた。
 ランドルフには存命の異母兄がいるが、彼は臣籍に下っていた。臣が王になる例を作るわけにはいかないとして、末席だが王族であるエイベルに白羽の矢が立った。
 国王崩御に、傍流王子の即位。戦争があった頃よりはマシとはいえ、民も不安を覚えるのは仕方ない。
 そんな不安定な時だからこそ、反神殿組織もいっそう活発に動くはずだと、神殿長はいっていた。
 ならば、今こそ好機だ。
(この男を利用しない手はない。とにかく、今は情報と、拠点が欲しい。目的を果たすまでは、帰れないのだから)
 ぎゅっと、ベロニカは拳を握った。
 神殿の者であることは、しばらく伏せておく。明かした方がスムーズに事が運びそうならいいが、まだ判断はできない。
『王都の猟犬』は主に民間人で構成された警備隊で、逮捕権と尋問権を得るに至っており、王都での認知度も高い。
 彼らの目的が治安維持である以上、神殿に対しては中立の立場にあるはずだ。
 だからこそ慎重を期さねばならない。
「そろそろ着くよ」
 青年に声をかけられて、今後の行動についての思案に集中していたベロニカは、ハッと我に返った。
「平気? 酔った?」
「ち、違う。酔ってない」
「そう。だったら、怪我の方は大丈夫? 動くのがつらいなら、また抱き上げていくけど、どうする?」
「大丈夫! 大丈夫だから!」
 ベロニカはぶんぶんと首を横に振った。
 すると、青年が微かに笑う気配が伝わってきて、ベロニカは横目で彼を睨んだ。
「そういえば、君、名前は?」
 だが睨みは青年に通じなかった。にっこりと微笑まれて、ベロニカは毒気を抜かれてしまった。
 眉間の緊張をすっと緩め、息を吐いた。
「……ベロニカ」
 いつまでも名乗らないのは、相手に無用な警戒心を抱かせる。どのみちベロニカの名前は、まだ神殿内部でしか知られていない。
 それに、どうせこの名前は本当の名前ではない。神殿長につけられた花の名前。
 本当の名前は──最も古く、今も夢に見る記憶の中にある。
「ベロニカ。覚えたよ」
「そっちは? 私は名乗りました。だったら、貴方も名乗るべきではないの?」
 一貫した不躾な態度は承知の上だ。
 下手にすり寄るよりも、こういうお人好しで世話好きな男には有効なはずだ。
 そんな男が、『王都の猟犬』なんて集団でやっていけるのか疑問ではあるが、鍛えられた肉体や一瞬で相手を制圧した体術から、腕を買われてのことなのだろう。
 予想通り、青年は気分を害した様子もなく、微笑んだまま口を開いた。
「俺の名前はマルス・ブロンソン」
「ブロンソンって……あの公爵家の……?」
 如何に神殿内部で育ったとはいえ、ブロンソン家の名は知っている。
 臣下貴族の序列第一位の公爵家。
 グリーンベルト王国で、王家以外には決して頭を下げることのないほどの家格と影響力を持つ。現在の当主であるオーギュストは七十歳と高齢で、四十半ばにしてようやく男児を授かった。
 息子の名前は、マルスといったはず。
(嘘。大物すぎる。でもなんで公爵家の跡継ぎが『王都の猟犬』にいるの?)
 公爵令息ならば、同じ警備の仕事であっても、いくらでも王城の要職に就けるはずだ。ましてや、こんな民間組織に身を置くなんてあり得ない。
 騙りの可能性も考えたが、それならもっと格の低い家名を使うはずだ。それぐらい、ブロンソンの名は重い。
「もしかして、偽名を疑っている?」
 思わず固まってしまったベロニカに、マルスが笑った。
「公爵家を詐称したなら、罪は重いし、『王都の猟犬』でいられないと思いますけど」
「うん。だから本物。でも、猟犬同士では家の名前なんて関係ない。仲間からは単にマルスと呼ばれているし、君もそう呼んでくれていいよ」
 本物だとはっきりといわれ、ベロニカは固唾を呑んだ。
 どう見ても、嘘をいっているようには感じられない。
『王都の猟犬』の中で家名を表に出しているのかどうかは、マルスの言動からは読み取れない。
 わかるのは、ベロニカが思う以上に、この男──マルス・ブロンソンは根っからのお人好しであり、素直を通り越して愚直な性格なのだ、ということ。
 何者かわからない女に、二人きりの場であっさりと素性を明かしてしまうのだから。
「ああ、あそこだよ」
 窓の外を見るように指で示され、ベロニカはそちらに視線をやった。
 荘厳な門構えの向こうに、クリーム色をベースに、違う色のもので模様を施した煉瓦造りの大きな洋館が建っている。外観は左右非対称のデザインで、規模こそ他に並ぶ邸宅と同じであるが、出窓などに施された装飾の細かさが群を抜いている。
 間違いなく貴族、それもかなりの財力を持つ家の邸宅だ。
(ま、まさか、ブロンソン公爵家の屋敷……?)
 さすがに想定していなかった。いきなり公爵家に連れてこられるなど。
 馬車が停止して、御者によってドアが開けられる。
「あ、あの。マルス……様?」
 先に降りたマルスに、ベロニカは困惑し、うっかり『様』もつけて呼んだ。
「信頼できる人の家なんだ。先触れも出したから、何も気にしないでね。あと……さっきもいったけど『様』は不要だよ」
「でも、やっぱりつけないと」
「堅苦しいのは、あまり好きじゃないんだ。敬語も気にしないで」
 そういうなら、従う方がいいだろう。
 すると、スッと手を差し出された。白くて長い指が、まず目を引いた。だが、手そのものは大きく、指は節くれ立っていて“マメ”ができている。うっすらとだが傷痕もある。
 鍛錬をしている者の手だった。
「どうぞ、お手を」
 気取った言い方に、ムッとするような、それでいて胸がきゅっと締めつけられるような感じがしながらも、ベロニカはその手を取った。
 温かな手だった。自分の手が、まるで氷のように思えてしまうほどだった。
 もう片方の手で、裾が乱れないように押さえ、ベロニカはそっと足音を立てずに段差を降りた。
「シルヴェスター家だよ。姉の嫁ぎ先だ」
 その名も、ベロニカは知っている。
 シルヴェスター家の当主は、五年前に崩御したあの前国王の異母兄にあたる人物その人で、今は、王子ではなく臣下貴族だ。
「俺の義理の兄は『戦場の魔術師』と呼ばれた元将軍なんだ。でも、君の年頃だと、知らないかもしれないね」
「知ってる。一矢で千の首を射た、まるで魔術を使うかのような伝説の射手……」
 あまりに荒唐無稽な話だ。ベロニカは、さすがにそれは嘘だと思っている。
「本当にお強い人だよ。義兄上も、姉様も」
 ふと、マルスの表情に陰りが見えた。
 だが何を思っているのか、ベロニカでは知りようがない。ともかく、何とか知識を総動員して、情報をまとめる。
(ブロンソン家の縁戚であることには変わりない。でも待って。シルヴェスター家は、神殿と距離を置いている家だったような)
 どういう経緯があったかはわからないが、当主は仮にも王家出身でありながら、一度もユースラー教の神殿に顔を出していない。その家族もだ。
 筋すら通さないシルヴェスター家の態度に、神殿長が憤っていたのを思い出した。さらに、神殿はブロンソン家自体との仲も良くない。
 だがさすがの神殿長も、彼らを自分からは敵に回せない様子だった。
(つまり、上手くいけば、反神殿組織を調べながら、シルヴェスター家のことも探ることができるってことね)
 なんて運が良いのだろう。
 マルスから逃げなくて正解だった。
 組織の存在を掴み、加えてシルヴェスター家の情報も集めれば、神殿長も満足してくれるはずだ。もしかしたら、シルヴェスター家こそ組織の中核なのかもしれない。
 これで“親友”を、助けられる。
 ほくそ笑みそうになるのを堪えて、ベロニカはマルスにエスコートされて歩を進めた。
(あ。そうだ、靴)
 毒針を仕込んでいたことを思い出した。このまま邸宅に入っては、誰かが触ってしまうかもしれない。
 ベロニカは、爪先を軽く石畳の上で擦って、こっそりと両足につけた針を折った。放置しておけば勝手に毒は消えるだろう。小さい針だから、見つかることもないはずだ。
「どうした?」
 歩調が乱れたのを気づかれたが、針は見られていないようだ。ベロニカは微かに笑って首を横に振った。
「ううん。ちょっと躓きそうになっただけ」
「足を挫いているんだ。やっぱり抱き上げた方が」
「いいっ、それは結構です!」
 今度は、ぶんぶんと力強く振った。
 ドアの前には、老齢の執事らしき男が立っていた。
「お待ちしておりました、マルス様」
「ああ、ダールマン。義兄上と姉様は?」
「旦那様と奥様はお留守でございます。ですがお嬢様が――」
 ダールマンと呼ばれた執事の言葉を遮るように、バンッと、彼の後ろの方でドアが勢い良く開いた。ベロニカは思わず「わっ!」と叫んでしまった。
 ギリギリ当たらない距離だったものの、ダールマンは慌てる様子はなく、後方に顔だけ向けた。マルスも特に動揺した気配はない。
 現れたのは、黒寄りの焦げ茶色で腰まであるウェーブの髪の女性だった。深い青のドレスが映える色白の肌で、キリッと吊り上がった菫色の眼が特徴的だった。
 見るからに気が強そうで、傲慢にも見える貴族令嬢然とした女性だった。何よりも眉根を寄せている表情が、その印象を強めている。年の頃は、ベロニカと同じぐらいだろう。
「ローレッタ。落ち着きなさい」
 マルスが首を横に振り、ため息をついた。
「マルス叔父様が知らせたのではないですか。怪我人を保護したから介抱を頼むと!」
 ローレッタと呼ばれた令嬢は、小脇に木製の箱を携えていた。どうやら治療用具を納めているもののようだ。
「貴女ですね? 泥だらけではありませんか!」
「……泥……? あ……」
 マルスが指摘しないので、あまり気にしないようにしていた。だが、暴漢達から逃れ、捕まってからの乱闘もあって、確かに今の自分はみすぼらしい格好になっている。
「ダールマン、湯の用意はしてあったわね?」
「はい。お嬢様」
 ダールマンが頷く。
「入って! とにかくまずは身体を清めて、それから治療しましょう。これでも多少は医療の心得がありますから」
 とりあえず、このご令嬢もお人好しではあるらしい。だがきつい顔立ちで迫られて、さすがのベロニカも後ずさりそうになった。
「辛かったでしょう。マルス叔父様の先触れで事情は聞いています。大丈夫です。心配なさらないで」
「……えーと、あの」
「それにしても絶対に許せません! この汚れ……腕にも擦り傷が! なんということ! 叔父様! このところの王都アーシュ・ヒルはいったいどうなっていますのっ!」
 矛先がマルスに向かった。横目で彼を見ると視線が合った。
 マルスの眼が『すまない』と、呆れ気味に語っていた。
 恐らく、暴漢に襲われていた女性を保護した、という連絡をしたのだろう。それをローレッタが、恐ろしく深刻に捉えてしまったらしい。
(……ともかく、悪い人ではなさそうね)
 吊り目のせいで性格がきつそうだと、最初に思ってしまったのは反省することにした。
「まあ、ローレッタお姉様。騒々しいこと」
 鈴を転がすような、軽やかで愛らしい声がローレッタの背後からした。
 ローレッタを姉と呼ぶのだから、妹なのだろう。
 だが、姿を現したのは、ふんわりとした金髪をリボンで結わえた、大きな瞳の愛らしい少女だった。だいたい十四、五歳だろう。おっとりとして、育ちの良い雰囲気を漂わせていた。まとっているドレスは、淡いピンク色で、フリルがふんだんに使われており、それがよく似合っている。
 百人中五十人が、彼女を貴族令嬢と疑わず、残り五十人は王女と間違うに違いない。
 楚々とした足取りは、もはや生まれながらに身についている所作だと思わせるほど板についていた。
「あのね、モニカ。叔父様達が治安を守ってくれていると思えばこそ、お母様だって安心して王城で働けるの。なのに郊外といえど王都でか弱い女性が襲われるなど……」
 どうやら妹の方はモニカというようだ。
 とりあえず、シルヴェスター家のだいたいの状況や雰囲気はわかった。領地経営に専念している当主に、王城勤めの夫人。親子仲は悪くない。そしてその娘達とも、マルスはそれなりに良好な関係を築いていること。
 ──家族なんだな、と、ベロニカは思わず視線を伏せた。
 羨ましいなんて、思わないようにしたい。胸が苦しくなる。